【新馬戦④】靴が脱げた
12時34分、発走時刻直前。一般競走のファンファーレが高らかに鳴り響く。はるか遠く、豆粒のような馬たちがゲートに向かう様子を、馬主席の大きな窓から三つ子と馬主たちがじっと見つめていた。
室内に設置されたモニターには、ゲート前の様子がズームアップで映し出されている。
若駒たちは、ゲート入りにやや手間取っていた。初めてのレース、どの馬もどこか落ち着きがない。嫌がる素振りを見せるものもいれば、固まってしまいその場から一歩も動かないものもいる。
そのなかで——
最も外、8枠13番。黒い馬体のクロノドラクロワだけが、静かに、迷いなくゲートへ歩み入った。
「お……スムーズ」
穣が思わず声を漏らす。
「アイツ、厩舎でもずっと隅っこの馬房だからな。慣れてんだ、端っこに。きっと」
渉はそっと返した。
「何か……すごく、遠いですね。あれですけど、レースってもっと迫力ある感じなのかと思ってました」
岳がやや首をかしげて呟く。
確かに、向こう正面から始まるレースだと馬たちは数キロは離れて見える。もちろんゴール板の近く、スタンド前まで馬が来れば臨場感は抜群だろうが……それはレースの最終直線だけだ。すなわちレースの大半は遠くからただ馬を眺めることになる。そんなスポーツは珍しいだろう。
「そういやそうだな。俺たちは毎週レースを見るから慣れちゃったけど、君たちには変に見えるかもしれない」
渉は軽く笑った。初めて生で競馬を見るこの少年たちの視点はなかなか鋭くて面白い。
「馬主さんや調教師の方たちは、あんな小さな馬たちをちゃんと見分けられるんですか?前にテレビで中継を見たことがありますけど、アナウンサーの人も一瞬で馬の名前を言ってましたし……プロだから?」
律がわくわくした目で聞いてくる。
「肉眼で見ることもあるけど、細かい動きを見たいときは双眼鏡かモニターを使うかな」渉は答えた。
言われて三つ子が辺りを見回すと、高そうな双眼鏡を持っている馬主がちらほらいる。愛馬をズームアップして見るのだろう。
「あと、競馬中継でアナウンサーが馬を間違えないのは、目印があるからだよ。ジョッキーのヘルメットの色と勝負服。カラフルだったろ」
「あ、なるほど……にしても、凄いですね」
「そりゃ、プロだもの」
珍しく得意気な"叔父"の様子に、三人の"甥っ子"たちは思わず頬をゆるめた。穣はスマートに、岳は少し照れた様子で、律は抑えることなくニッコリと。
12時45分。発走時刻から10分遅れ、ようやく全頭がゲートに収まり……
ガコン!!
という金属音とともに、ゲートが一斉に開いた。
と同時に、勢い良く13頭の若駒たちが飛び出す様子がモニターに映し出される。その勢いに押され、三つ子が思わずビクリと肩を揺らした。
◇◇◇
ドラクロワは、何とか上手くゲートを出た。検量室でモニターを睨んでいた誠は、無言で軽く拳を握る。
最初に待ち受けるのは、550m近くある長い直線だ。
柚木慎平は迷いなく1発目の鞭を入れると、時間をかけてじわじわとスピードを上げる。400mの標識を過ぎた辺りで、馬群の外目3~4番手に付けた。馬のリズムを壊さず、焦らず、丁寧に進めている。
悪くない。
直線が長いからか、瞬発力に課題のあるドラクロワでも脚を作る時間がある。また前半が段々と上り坂になるコースなため、無理せずゆっくり前に出る走法とかみ合っている。ここはあの"テン(初速)の遅さ"が、むしろ吉と出た。
折り合いを欠いて先頭をぶっちぎる逃げ馬を3馬身前に見ながら、600mの標識をやや速いペースで通過。まさに理想的な立ち回りだった。後続馬を気にしたのか、先頭を逃げる新人騎手は焦ってさらに差を広げにかかる。完全にハイペースだ。
(よし。これで先頭の逃げ馬はスタミナが持たない。あとは勝手に走らせておけばいい)
これで敵が一人消えた。柚木は眉ひとつ動かさず、手綱を少し強めに握り直す。残りは1000m。
「……すごい。騎手の皆さん、あの速さで馬が走ってるのに、全然体がぶれてないや」
律が小さく声を漏らす。岳もモニターで騎手のフォームを見て、ぼそりと言った。
「馬に"乗ってる"んじゃなくて……"馬の負担にならないようにしてる"感じだな」
騎手たちは腰を浮かせ、鐙に足を掛けただけで馬に乗っている。鞍に尻は付けていない。何という体幹の強さだろう。
「あれはモンキー乗りって言うんだ。乗馬とは違う、競馬独特の乗り方だよ」
渉が小声で3人に説明してやる。
第3コーナーから第4コーナーへ。カーブ地点だ。
新潟競馬場は、直線が長い関係でコーストラックが細長くなっている。
すなわち、急なコーナーと長い直線——ドラクロワの得意な点と不得意な点を併せ持ったコースである。
ドラクロワはコーナーをできるだけロスの無いように曲がりながらも、やはり少し外に膨れてしまった。だがすぐに柚木は手綱をぐっと握り、次の準備に移るよう促す。ギアがじわじわと上がり、ドラクロワの脚はさらに加速する。
このコースは最後の直線が異様に長い、新潟競馬場特有の形状だ。だからこそ、ここでちゃんとエンジンを温めておかないと、いざ直線で追い込まれても、差し返す脚は残っていない。
4コーナーからスタンド前、日本一長い最後の直線659mに入った。
(いいぞ。あとはお前の好きな直線だ、思いっきり走れ!)
柚木は大きく腰を落とし、重心を低くして合図の鞭を一発入れた。ドラクロワはさらに力強いストライドを繰り出し、大きく前へ進む。
そして、残り200m。トップスピードに達し、ぬるりと先頭に出るドラクロワ。そのままぐぐ……と、少しずつ、だが確実に後続を離していく。
が。
「ん……?」
一瞬の違和感。観客にも、モニター越しにもはっきりとはわからない。
でも、いつもよりやや遅い。ギアの入りが、浅い。
さっきまでのスピードが、勢い余ってすっぽ抜けたかのようにカクンと下がったように見えた。
気のせいか?……いや、違う。
遅い。馬の脚が、余裕をなくしている。緩んでいる。
まずい、追いつかれる——
だが。
ドラクロワは、粘った。
柚木の鞭に反応し、粘りに粘り、もうこれ以上はないというほどの底力で、真っ直ぐ、ただひたすら脚と首を前に伸ばした。あがくように、数センチでも相手より前に出ようとした。
ドラクロワは迫ってくる2番手をアタマ一つ分だけ振り切り、辛うじて先頭でゴール板を駆け抜けた。
電光掲示板の1着の場所に、パッと「13」の文字。その後、着差を示す「アタマ」と共に、2着馬の番号が浮かぶ。
クロノドラクロワ、デビュー戦で白星発進。やり遂げた。
◇◇◇
「やっt……」
思わず声を上げかけた律が、はっとして自分の口をぱっと押さえる。
穣も岳も、とてつもなく何か言いたそうだが、何とか押さえている。但し、目だけは興奮で飛び出そうなほど見開かれていた。
大人の空間に見事に溶け込む三つ子の中学生。だが、胸の高鳴りばかりは年相応。まるで「お口ミッフィー」とでも言いたげな表情で、三人そろって口を閉じたまま目だけで大きく喜びを訴える"甥っ子"たち。
だんだん目だけでは済まなくなってきた。満面の笑みを押し殺しながら、口角はどうにも抑えきれずぴくぴく震えている。
そんな三人に、黒木渉——いや、"叔父"も目線を送り、しっかりとうなずく。
よくやった、と言うように。
一方その頃、検量室前。
「お帰り。あと……ナイス!!」
駆け寄ってきた誠が、力強く柚木を抱きしめた。表情は変えないが柚木もがっちりと腕を返す。
だが、誠の興奮をよそに、柚木の第一声は——
「靴、脱げた」
「……は?」
「落鉄。第4コーナー……多分、あれ」
あの一瞬の違和感。ぬるりと上がっていく脚が、わずかに鈍った理由。それは、蹄鉄が外れていた——つまり、落鉄だったのだ。靴がすっぽ抜けて、裸足で走ったようなものだ。
「おいおいおい……それで勝ったのかよ」
誠の呆れ声に柚木は肩をすくめて、ふっと笑った。




