エピソード1:deep hatred①
登場人物紹介
■名杙心愛
・統治の妹。中学2年生。
・一人前の『縁故』になるため修行中。幽霊のたぐいが大の苦手。
・強気な態度は自信のなさの裏返しだったが、最近は実力も伴ってきているのびしろガール。
10月最後の土曜日、時刻は15時半を過ぎた頃。
統治を招き入れたユカと政宗は、4人がけのダイニングテーブルに彼を座らせた後、3人分のアイスコーヒーを用意した。ケーキはそっと冷蔵庫へお帰りいただく。数も足りないし、統治の話を聞きながら何かを食べることが憚られたのだ。
統治と向かい合う位置に政宗が腰を下ろし、政宗の隣にユカが座る。そして、政宗が口火を切った。
「それで、統治、どうしたんだ? っていうか今日、名杙本家の会合だろ?」
彼の問いかけに、統治はゆっくりと頷いた。
「……そうだ。まだ続いていると思う」
「続いていると思う、って……何があった? ここに来たってことは、俺とケッカは聞いていいことなんだよな?」
矢継ぎ早になってしまうのは申し訳ないが、統治がこんな状態で唐突に訪ねてくるのは初めてのことだった。普段であれば来る前に必ず連絡を入れる、そんな当たり前ができなくなってしまうほど、思考が停止した出来事に遭遇したのだろう。
そう予測して統治を見据えると、彼は少し顔を伏せて……ここへ来た理由を語り始めた。
「今日の、午前中……親族が本家に集まり始めていた頃だ。俺は自分の車を移動させるために駐車場へ向かい、そこで聞いてしまった……いや、思い知ったんだ」
時刻は午前10時前、宮城県塩竈市にある名杙本家の敷地内にて。
白いワイシャツに黒のスラックス、防寒具としてグレーのカーディガンを羽織り、身支度を整えた統治は、車の鍵を持って靴を履いていた。表の駐車場に停めている自分の車を、敷地の裏へ移動させるためである。
名杙本家では定期的に、本家筋の重鎮を招いた会合が開かれる。そこで各地域の現状報告と、今後の方針をすり合わせるのだ。ちなみに政宗も要請があれば6月の時のように出席することもあるが、今回は特になかったため出席していない。
名杙――もとい、『東日本良縁協会』は、5つのブロックで構成されている。
北海道、東北、東京、首都圏――東京を除いた関東地方――、中部だ。各ブロックを本家筋の人間が長として治め、その全てを統括するのが、名杙当主の役割である。
当主が世襲制の今は、このブロック長になることが、名杙内での発言・決定権を強めることに直結していると言っても過言ではない。そして、勢力を強めることができれば、当主も無碍には扱えなくなる。
今回の会合では全てのブロック長が集まるため、本家内は朝から人がせわしなく動いていた。統治の母親である愛美は全てのセッティングの陣頭指揮を取っているため、昨日の夜から顔を見ていない。統治が駐車場へ向かおうとした時、洗面所から妹の名杙心愛が、ツインテールを揺らしながら顔を出した。
「お兄様、どこ行くの?」
「駐車場の車を動かしてくる。その後は本家に向かうから、家を出る時は施錠してくれ」
「分かった。気をつけてね」
心愛はそう言って再び洗面所へ引っ込んだ。会合はブロック長の親族や、それに準ずる人間も多く出入りする。当主の娘として恥ずかしい姿を晒すわけにはいかないので、身支度に時間がかかるのは致し方ないことだろう。
玄関を出た統治は、駐車場へ続く砂利道を歩きながら、不意に、空を見上げた。
乾いた秋空は澄み切った青だが……雲の流れが早いように感じた。もしかしたら午後や夜に天気が変わるかもしれない。
彼らの引っ越しは、無事に終わっただろうか。
ユカと政宗のことが脳裏をかすめた。2人は今日、ユカの荷物を完全に政宗の部屋へ移動させると聞いている。手伝えないのが心苦しいが、邪魔をしないでよかったと思うことにした。落ち着いたら手土産でも持って新生活を祝いたいと思う。
周囲はこうやって、変わろうと動き続けているのに。この家の中の空気は、ちっとも、変わらない。
統治は頭を振って足を早めた。この後は、当主である父親の手伝いを頼まれている。円滑に会合を進めるために立ち止まってなどいられない。
程なくして駐車場へたどり着いた統治は、自分の車を敷地内の裏手へ移動させた。表はこれからタクシーや自家用車の出入りが多くなるため、邪魔にならないよう、毎回移動させているのである。
滞りなく移動を終えた統治は、普段使わない裏口から敷地内へ戻った。そして、そこから本家へ向かう細道を移動していると……近くで、誰かが立ち話をしている声が聞こえてくる。
統治が歩いている道は、右に敷地を囲む外壁、左が2メートルほどの生け垣になってるため、向こう側に誰がいるのか、お互いにうかがい知ることは出来ない。声を聴く限りでは女性が2人、それなりに年を老いている気配を感じた。普段であれば足早に通り過ぎるところなのだが……彼女たちの口から聞き捨てならない単語が飛び出してきたため、反射的に足を止める。
「……それにしても、あの透名家の娘、本当に無神経ね。今日も顔を出していないのよ?」
「まだ婚約すら終わっていないなら、そんなもんよ。要するに、統治さんにとってもその程度の存在なんじゃないの?」
「でも私、この間、透名の娘が大きな荷物を持って出ていくところで会ったのよ。婚前旅行ですかー、なんて聞いたら、曖昧に笑ってたけど……あれ、統治さんの荷物だったらしいわね。信じられない」
「あぁ、統治さんにも困ったものよね。まだ仙台で遊んでいるんでしょう? しかも、福岡に行って名雲と関わりを持ったって」
「それも透名の娘が手引したらしいわよ。彼女、初対面でも統治さんに随分な口の聞き方をしたそうじゃない。おかげで、おしとやかにしていた自分が馬鹿みたいだってフミコが荒れて大変だったんだから」
「身上書や誓約書を旦那から見せてもらったけど、若いだけのお嬢様って感じだったわよ。やっぱり財産目当ての女は、したたかで嫌よねぇ……『縁故』でもないくせに。この間もそう言ってやったのに、全然懲りる様子がないんだもの。図太いわぁ」
「私もそれを見て同じことを思ったわよ。統治さん、あんな小娘のどこがいいんだか……うちの子の方がよっぽどお役に立てるのにってね。世代交代が今から不安で仕方ないわ」
彼女たちはその後もブツブツと不満を漏らしながら、建物の方へ歩いて行く。
統治はその場で立ち止まったまま……気付くと、両手を強く握りしめていた。
彼女たちの話を総合すれば、櫻子は自分の知らぬ場所で、名杙の人間から、一方的に嫌味を言われていることになる。
そして、あろうことか……お見合いという特殊な条件下で交換した身上書が、自分の知らない、恐らく直接は関係のない人物にまで閲覧されているというのだ。それだけではなく、櫻子が名杙に請われて提出した他の書類も、恐らく。
身上書には彼女の身体情報や収入など、表立って他人に知られたくない情報も含まれている。それは統治も同じだが、交換をするのは必要以上に出回ることがないという信頼関係があるからだ。統治だって自分の個人情報が、透名総合病院の医師全員に回し読みされていたら……流石に良い気分ではない。
知らなかった。
彼女が名杙の中で、これだけぞんざいな扱われ方をしていたことを。
「――君? 統治君?」
後ろから声をかけられた統治は、全身をビクリと反応させて振り向いた。そこに立っていたのは、スーツ姿の男性が一人。身長は統治と同じ170センチを超えた程度で、外見年齢は30代前半。清潔感のある短髪に、グレーのスーツ、ノンフレームの眼鏡がよく似合う人物だ。
刹那、少し離れた場所で彼の声を聞いた女性2名が、声にならないうめき声を漏らした後、その場から立ち去っていく足音が聞こえた。統治は一瞬、誰が喋っていたのか確認するために追いかけようかとも思ったが……自分が追いかけたところでシラを切られたら意味がない。録音をしなかったことを後悔しつつ、今は、声をかけてくれた彼に向き直った。
「敏輝さん、ご無沙汰しています」
統治から敏輝と呼ばれた彼は、「久しぶり」と会釈した後、怪訝そうな表情で統治を見つめた。
「驚かせてごめんね。何か取り込み中だった?」
「いえ……何でもありません。失礼しました」
統治は自分の中に芽生えた強烈な不信感を強制的に胸の奥へと押し留め、彼へ頭を下げる。
彼――名杙敏輝は、首都圏のブロック長を任されている名杙浩史の長男だ。年齢は31歳、見た目と立ち居振る舞いには年相応の落ち着きがある。
各ブロック長は名杙直系である当主と同じ血筋から選出されて、その一族と分家でエリアを担当することになる。ただ、唯一、彼だけは、前当主の母親――統治や心愛の祖母の家系から選出されていた。
要するに親族だか直系筋ではないため、一部では『恩恵人事』等と揶揄されることもあるが、現当主は彼らが優秀だから首都圏という重要なブロックを任せていると断言しているので、表立って文句を言う外野はいない。もっとも、統治が知らないだけなのかもしれないけれど。
敏輝自身も首都圏の重要な支局で副支局長を任されており、『縁故』としての実力は折り紙付き。今日は父親の付き添いとフォロー要員として出張してきたところだった。
統治もまた、自身が『縁故』として上の資格に挑戦する際、また、『仙台支局』開設の際に助言を仰いだことがある。政宗やユカには、まだ会わせたことがないけれど……名杙の中でも比較的話しやすい人物だと思っている。
「敏輝さんこそ、ここは裏口ですよ。どうしたんですか?」
「塩釜駅からタクシーで来たんだけど、裏口で降ろされちゃってね。親父は先に着いてるはずなんだけど……会ってないよね?」
「すいません。俺もまだ今日はお会いしていないです」
「まぁ、どうせ広間で会うだろうけど……あ、そうだ統治君、この間頼まれた、『仙台支局』の監査役の件なんだけどね」
「う、受けてもらえたのか!?」
刹那、話の腰を盛大に折った政宗へ、ユカが無言でジト目を向ける。
統治はそんな政宗へ向けて、首を縦に動かした。
「敏輝さんに受けてもらえることになった。詳細な手続きは後日になるが、書類に名前を書いて提出するのは構わないそうだ」
今月最大の懸念事項が解決した瞬間、政宗は表情を緩めて大きく息を吐く。
「マジか……良かった……今度関東に挨拶へ行かないとな」
そんな彼に、ユカがジト目を向けた。
「政宗、気持ちはわかるけど安心しとる場合じゃなかろうもん。櫻子さんへの扱いがひどすぎると思わんと?」
「そりゃあ勿論思ってるよ。ただ……透名さん、そういうの全部、分かってたと思うぞ」
政宗はどこか確信めいた声でそう言うと、アイスコーヒーを一口すすった。そして、統治をチラリと見やる。ユカもまたつられて統治を見ると……統治は目を伏せたまま「ああ」と呟いた。
「午後になって時間を見つけて、櫻子さんへ電話で確認したんだ」
「櫻子さん……何て言ったと?」
ユカの問いかけに、統治はコーヒーを一口飲んだ後……表情に後悔を滲ませたまま、続きを語る。
親族の立ち話を聞いてしまってから、約5時間後。統治はその間、何とか平静を装ってすべての行事をこなしていた。
ただ、どうしても疑心暗鬼になってしまう。廊下から妙齢女性の声が聞こえれば、先程の人物かと身構えてしまうし、誰かから話しかけられた場合は、相手が思わず顔をしかめるほど身構えてしまうこともあった。
そして……同じ空間の上座に腰を下ろし、淡々と議事を進行する父親・名杙領司に対する苛立ちも、募ってしまう。
そもそも彼は、このことを知っているのだろうか。
己の身内がどれだけ他所様に礼儀を欠く振る舞いをしているのか、当主管理の重要書類はどこから流出してしまったのか。
どれだけ……彼女に、不必要な我慢を強いているのか。
無意識のうちに、膝の上で両手を握りしめる。そして、昼食が終わり、午後の部が開始された13時前、統治は本家を抜け出して、離れである自室へと向かっていた。
午後からの1時間は、当主とブロック長のみの会合だ。その間は部外者の立ち入りが許されないので、統治自身もつかの間の自由を手に入れることが出来る。道すがら、談笑している心愛と里穂がいたが、2人に話しかける余裕はなかった。
確かめたい。
櫻子が一体、どこまで知っているのか。
統治自身が……何に、気付けなかったのか。
今まで『東日本良縁協会』という組織そのものを解説したことがなかったので、これを機に考えました。
一番上に偉い人(統治父)、その下に各地区の偉い人とその次に偉い人、その下に各支局長とか分家の偉い人、みたいな感じです。西も似たようなイメージです。
要するに政宗は、立場でいうと割と上の方になります。22歳(就任当時)で名杙と一切関係のない若造が何の下積みもなくこの立場になったら(作中に出てきた敏輝も実力者ですが、31歳で副支局長です)、そりゃあ……目の敵にされてもおかしくないよ、と、改めて思いました。そして、彼はよく……嫌味な大人から潰されなかったなぁ、とも。
だから彼は統治の話を聞きながら、終始、達観したような態度です。だって自分が通っている道ですからね。