エピソード0:vague apprehension
お久しぶりの第8幕。始めることが出来て感無量です。よろしければ最後までお付き合いください。
【登場人物紹介】
■透名櫻子
・統治の恋人。普段は宮城の中央部にある富谷市の病院で働いている。
・博識で穏やかな女性。パソコンやスマホが大の苦手。
■富沢彩衣
・櫻子と同じ病院で働く看護師。
・落ち着いた雰囲気の女性。実は周囲をとってもよく見ている。
■山本結果
・主人公。20歳になっても外見年齢は12歳前後。
・九州訛りの言葉を喋る。政宗の部屋に引っ越してきた。食べることが好き。
■佐藤政宗
・主人公の上司であり、10年間片思いをしている一途をこじらせた男性。
・営業能力がずば抜けており、まとめ役になることが多い。お酒大好き。
■名杙統治
・ユカや政宗とは旧知の仲。今回は主に彼のお家騒動のお話。
・料理が得意。喜怒哀楽は薄口。櫻子と付き合うようになって丸くなったとか。
詳細な登場人物紹介は、短編(https://ncode.syosetu.com/n7256ht/)からどうぞ。イラスト付きです。
知らなかった。
物事の全てには、『名前』があることを。
そして、その名前には全て『意味』があることを。
だったら。
名前のない存在には、何の意味もないのだろう。
「……やっぱいない、か」
宮城県仙台市、かつて街があった、そんな沿岸部。
太陽が傾き始める空の下、海岸線が見える位置に漂う彼女は、数えるのをやめたため息をつく。
河岸工事が行われているので、重機の音が少し遠くに聞こえた。覚えている風景とあまりにもかけ離れているため、全く知らない土地にいる気分だ。
けれど……先程見た光景を思い浮かべ、唇を噛みしめる。
2人が何を言っているのか、よく、分からなかったけれど。
――150万円で……空を、見つけてくれるんですか?
この言葉を聞いた瞬間、咄嗟に叫んでしまった。
その瞬間、もう一人の男性が、自分を睨んだような気がして。
その眼差しがあまりにも威圧的だったので、急いでここまで逃げてきてしまったけれど。
「……いや、ありえないっしょ……そもそもアタシ、マジでどこにいんのよ……」
独りごちった声は、誰にも届かず消えていく。
今はもう、海風の冷たさも、潮の香りも、特に何も感じないけれど。
ただ……分かっていることが、1つ。
この手に残る『糸』があるから、彼はいつまでも、ワタシなんかのことを忘れられないんだということ。
消さなきゃ。
早く……この世界から、消えなければ。
「探さなきゃ……あの兄妹、あの2人なら……!!」
彼女は一度頷くと、改めて、秋の空へと舞い上がる。
あの時のように自分を消してくれるに違いない、そんな兄妹を探すために。
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「彩衣さん、今日もありがとうございました」
10月最後の土曜日、時刻は間もなく14時になろうかという頃。
居住まいを正した透名櫻子は、向かい側に座っている富沢彩衣に、軽く頭を下げた。
今日の櫻子は薄紫色のカーディガンとオフホワイトのロングスカート、ベージュのストッキングに濃いブラウンのパンプスという出で立ちだ。一方の彩衣は白いブラウスの上からグレーのジレを羽織っており、黒いワイドパンツに同系色のスニーカー。髪の毛は後頭部で1つにまとめており、カッチリした印象を受ける。
櫻子の言葉を受けた彩衣は、落ち着いた笑みを浮かべて首を横に振った。
「……気にしないでください。家に帰っても暇なだけですから。むしろ、気を遣わせてしまって恐縮です」
「そんなことありません!! 頑張った後は甘いものが欲しくなるんです」
こう言って頷いた櫻子に、彩衣は静かに首肯すると、注文したケーキセットの到着を待った。
ここは、宮城県富谷市にあるカフェ。窓から光が差し込む落ち着いた空間の中に、天井から吊るされた色とりどりのランプが点在し、それらのランプの下に飲食用のテーブルと椅子が配置されている。
その中の一角、4人がけの席に通された2人は、向かい合って腰を下ろし、注文を済ませていた。
人気の店なので土曜日の午後は混み合っており、空席はもうなくなっている。櫻子は運良く待たずに入店出来たことに胸をなでおろしつつ、今日、教えてもらったことを自宅でも反復しようと心に誓う。
午前中は、2人が勤務している市内の病院で、普段どおり働いていた。土曜日は午前中で外来が終わるので、仕事もそこまでなのだが……櫻子が自主的に行っているパソコンの練習に、彩衣が付き合ってくれるようになったのだ。
最初は「勤務時間でもないのに申し訳ない」と萎縮していた櫻子だが、彩衣がいてくれるおかげで着実に、出来ることが増えていく。そして、いつしか、練習を終えたら2人でこうしてお茶をする、というのが、いつもの流れになっていた。
病院がある富谷市は、近年、特に発展が目覚ましい地域だ。住宅地や大型のショッピング施設が次々と整備され、個性的なカフェや飲食店がギュッと集まっている。2人が今日訪れているのは、コーヒーが有名な人気店。ケーキセットを注文したところだが、店内は賑わっているので……平日よりも時間がかかりそうだ。
櫻子と彩衣の付き合いも、ぼちぼち長くなってきた。始まりは、彩衣が櫻子の実家である透名総合病院へ、看護師として勤務をし始めたこと。
その時の櫻子はまだ、制服を着ていた学生だったのに、今はもう、立派に仕事をする社会人だ。そして……自分と同じく、特殊な世界に足を踏み入れようとしている。
年齢が少し離れていることもあり、彩衣にとっては妹のような存在でもあった。だからこそ、彼女には普通の幸せを享受してもらいたかった気持ちがあることは否めない。
真っ直ぐに生きようとする彼女を、あの家は――彼らは、真っ二つに折ってしまうのではないか。
そして、大切な人と、二度と会えなくなってしまうのではないか。
自分たちのように。
脳裏をかすめた暗い記憶を、彩衣は浅い息と共に吐き出した。そして、そんなことにはならないだろうと、自分に言い聞かせる。
少なくとも……彼女の一番近くにいる名杙統治は、櫻子に対して不義理をするような人物ではないと思っている。もうしばらく穏やかな時間が続くことを、静かに願うことしか出来ない。
そんな彩衣の心境など知るわけもない櫻子は、メニューを開いてある写真を指さした。
「彩衣さん、ここのクロワッサンは食べたことありますか? そのままでも美味しいんですけど、この写真みたいにたまごサンドになっているものも美味しいんですよ」
鈴を転がしたような声に、彩衣は穏やかな笑みで頷いた。
「……クロワッサンだけならば、先日、透名先生から差し入れで頂きました。たまごサンドは初耳です」
「そうだったんですね。お話していると食べたくなってきました。テイクアウトしようかな……」
櫻子はそう言って、カウンターの方を見やる。そんな彼女を見ながら、彩衣が水をすすった次の瞬間――机上に置いてあった櫻子のスマートフォンが、振動をし始めた。
「……櫻子さん、電話では?」
「え? あ、本当ですね……ちょ、ちょっと出てきますっ……!!」
刹那、櫻子は表情を引き締めて立ち上がった。そして、いそいそと店の外へ出ていく。
機械関係が全て天敵である櫻子にしてみれば、スマートフォンは最も頻繁に彼女を試す機械だ。着信に出ようとしてうっかり切ってしまったり、メールを返信しようとして文字を打つ前に送信ボタンを押してしまったり……誤変換は日常茶飯事。読書が好きな彼女なので、語彙力は人よりも多いけれど、だからこそ、意味不明な日本語を送る自分が許せないとのこと。
ただ、上記のような細かいミスをする度に落ち込みつつ、頑張ろうと立ち上がっているから、素直に応援したくなる。
櫻子が電話のために席を外して約5分後、2人が注文したケーキセットが届いた。コーヒーの香りが湯気とともに広がり、その芳醇さに思わず目を閉じて味わいたくなってしまう。これは冷めてしまう前に飲みたいところだが……櫻子が戻ってこないので、どうすればいいものやら。
「……」
普段の彼女であれば、誰かと一緒にいる時に着信があった場合、「出先なので折り返す」と言って、すぐに戻ってきていた。しかし、今日はまだ戻ってくる気配がない。何か緊急の用事だろうか?
彩衣が訝しみつつ、とりあえずコーヒーにミルクを入れていると……スマートフォンを握りしめた櫻子が、彩衣の前に戻ってきた。
「……おかえりなさい。急ぎの用事ですか?」
「い、いえ、そういうわけではない、と、思うんですけど……」
櫻子は苦笑いを浮かべながら椅子に腰を下ろし、目の前にあるコーヒーに感嘆の声を上げる。そして、彩衣に「おまたせしてスイマセン」と会釈した後、コーヒーにミルクを入れてかき混ぜ始めた。
どこまで踏み込んで良いのか彩衣が決めかねていると、櫻子がポツリと口を開く。
「実は、統治さんからのお電話だったんですけど……様子が普段と違う、と、いいますか……」
「……普段と違う?」
「はい。私への質問が多くて……内容が、その、統治さんのご実家に関することだったので、どう答えればいいのか悩んでしまったんですけど……ありのままをお伝えしました」
櫻子はそう言ってカップを持ち上げ、コーヒーをすする。
「……そうですか」
彩衣もまた、相槌と共にコーヒーをすすった。香りが口の中に広がり、程よい酸味と苦味が遅れてやってくる。
ありのままを話した。
櫻子は言葉を濁しているが、きっと、彼女がこれまでに受けてきた『歓迎』について、統治に伝えたのだろう。それを伝えた上で、どう行動するのかは統治に委ねる形で。
「……大丈夫ですか?」
どう気遣って良いのか分からず、曖昧な言葉になってしまった。そんな彩衣に櫻子は「はい」と頷くと、カップから手を離す。
「むしろ……大変なのはここからだと思っています」
彼女はそう言いながら、ガトーショコラにフォークを入れた。そして、添えられたクリームと共に口の中へ放り込むと、静かに咀嚼しながら……ついにこのときが来たか、と、心の中で覚悟を決める。
逃げるつもりはないけれど、億劫なことに変わりはない。どうか、あまり大事になりませんように……という願いを、口に残る苦味と一緒に飲み込んだ。
時刻は少し進んだ15時半過ぎ、場所は宮城県仙台市宮城野区。
山本結果は、新居であり、この部屋の現世帯主である佐藤政宗と一緒に、ダイニングテーブルに横並びで座って……。
「うーん……」
悩んでいた。
とっても、悩んでいた。
ユカは長袖のロングTシャツにレギンス、政宗は上下スウェットという、完全にオフモード。今日はもうどこにも出歩かない、という強い意思を感じる出で立ちである。
今日の午前中に、ユカの生活用品や衣服など、転居に伴う荷物の搬入を行っていた。家財道具の移動がないので、ただひたすらにダンボールを運ぶだけの単純作業。
ユカ自身の荷物が少ないので、2往復で事足りたけれど……それなりに疲れたこともまた事実。だから、昼食をファーストフードで済ませた後、隣接するスーパーマーケットでおやつや夕食もあらかた買い込んだ。今日はもう引きこもったり荷物の整理をしたり蕎麦を食べたりゴロゴロするだけ……なのだが、政宗はそうでもないらしく、2時間ほど前からリビングにノートパソコンをセッティングして、細かい仕事を行っている。
そんな政宗の目の前には、パソコン以外にA4サイズの書類が1枚。そこに記載されているのは、2人の勤め先でもある『仙台支局』の組織内人事名簿だ。下半期に突入したことで、名杙から今月中の提出を求められているのである。
支局長には佐藤政宗、副支局長に名杙統治、以下、ユカや事務担当の支倉瑞希など、関係者の名前が並んでいる。そこまではいい。
問題は……監査、相談役だ。4月の一件で相談役だった名杙桂樹のポストが空いてしまい、以降約半年、誰の名前も書けないまま過ぎ去ってしまっている。流石に心象が良くない、と、福岡の事務主幹・徳永瑠璃子からも指摘されたので、ここに書けそうな……頼めば引き受けてくれそうな名杙関係の誰かを上げようと2人で決意して約30分。会議は完全に暗礁に乗り上げていた。
ユカの知り合いはそもそも福岡側――名杙とはあまり仲良しではない名雲側――の人間が多いため、ほぼ戦力外だということは分かっている。けれど、かれこれ半月、この書類で悩んでいる彼を近くで見てきたので……放っておけない気持ちのほうが強くなっていた。
三人寄れば文殊の知恵、ではないけれど、1人より2人の方が、会話のキャッチボールをして気を紛らわせることも出来るから。
「ねぇ政宗、名杙にもうちょっと仲良しな人っておらんと? 同世代の人でなんか……偉そうな人とか」
いたら悩まないだろう、とは思いつつ、それでも彼のことだから隠し玉の人脈があるのではないか。そう思って尋ねるユカに、政宗は口をへの字に曲げて肩をすくめる。
「それがいたらこんなに悩まないんだよなぁ……統治も心当たりがある身内に打診してくれてるみたいだけど、ぶっちゃけ俺、統治とその家族以外の名杙から、割と嫌われてるだろうし」
その口調から、彼の言葉は謙遜でも冗談でもなく、真実であることが伺える。
ユカはそんな彼をまじまじと見つめ、心からの本音を伝えた。
「それなのに、よう支局長になれたもんやね……」
「運とタイミングと思惑が奇跡的に合致してたんだと思う。だから、もうちょっと実績が欲しい」
そう言ってトントンと書類を叩く政宗。ユカは「そうやねぇ」と相槌をうちつつ、もう1つ、ずっと空欄になっているポジションを見やる。
「副支局長もあと一人欲しいところやけど……あたし、まだ実績不足やろ?」
「流石に赴任半年で副支局長だと、お友達人事とか揶揄されそうだからな。まぁ、ここはいいんだ。相談役だ、相談役……」
「やっぱ、里穂ちゃんとこじゃなかと?」
「最終的にはそうなると思う。ただ、勢力的なことを考えると……」
こう言って虚空を見つめ、ため息をついた政宗は、「現実逃避する」と言ってその書類を裏返した。そして、椅子から立ち上がるとキッチンへ移動する。
「俺は疲れたからケーキを食べる。3時のおやつ……には遅くなったけど、とにかく食べる。気分転換だ」
「あ!? こすか!! あたしも食べる!!」
ユカが慌てて椅子から立ち上がり、その背中を追いかけた瞬間――
来客を告げるインターフォンが鳴り響いた。
予想外の音に、ユカは思わず立ち止まり、廊下の方を見やる。
「何だ?」
冷蔵庫からケーキの箱を取り出した政宗は、ひとまずそれをキッチンの作業スペースにおいて、来客を確認するためにモニターフォンの方へ向かった。彼と入れ違いになったユカは、とりあえずアイスコーヒーでも飲もうかと、二人分のコップを取り出す。次の瞬間。
「……統治!? え? ああ、ケッカもいるけど……とりあえず上がってきてくれよ」
政宗はこう言って入り口のオートロックを解除した。そして、ユカに「コップ、3つにしてくれるか?」と頼んだ後、ダイニングテーブルに広げていた仕事道具を大急ぎで片付ける。
2人の大切な友人にして、信頼のおける仕事仲間である名杙統治は、今日1日、実家の用事で忙しく立ち回っているはずだった。引っ越しの用意を手伝えなくて申し訳ないと律儀に頭を下げていたのは、そう遠くない過去のことである。
刹那、もう一度呼び鈴が響いた。政宗が玄関へ向かう背中を、ユカも慌てて追いかける。
そして、政宗の背中越しに、入ってきた統治の表情を確認した瞬間――思わず、息を呑んだ。
彼は、白いワイシャツの上からグレーのカーディガンを羽織り、黒のスラックスを履いていた。特にカバンなどの手荷物はない。普段はスマートフォンや財布などをカバンに入れて持ち運ぶことが多い彼なので、手ぶらというのは新鮮だし……まるで、着の身着のままで飛び出してきたような印象さえ受ける。
顔を伏せ、無言で立ち尽くしている彼を見た政宗は、肩をすくめて息を吐いた。
「とりあえず、立ち話で終わるわけないよな。統治、奥で話を聞かせてくれるか?」
「……ああ」
統治が疲れた声で首肯したことを確認した政宗が、率先して踵を返す。
2人とすれ違ったユカは、玄関の鍵を施錠した後、口元を引き締め、二人の背中を追いかけた。
統治が、今、とても……とてつもなく、怒っている。その事実が、嫌というほど伝わってきたから。
■vague apprehension:胸騒ぎ、というニュアンスでサブタイトルにしました。
櫻子や彩衣がいる富谷市は、仙台のベッドタウンという印象が強かったのですが、近年の発展が目覚ましい印象です。コストコもあります。お世話になってます。
仙台から行こうとすると、電車の駅がないのでちょっと不便な印象は拭えませんが、車があれば何の問題もありません。ただ、幹線道路が混むから苦手です。(全て個人の感想です)
あと、富谷は美味しいスイーツやカフェが多い。これまでは仙台より南の名取を書くことが多かったので、今回は仙台より北です。
そして、ユカが遂に引っ越しをしました。これで政宗と同居です。(not同棲)
この変化が何かを変えるのか、何も変えないのか……ヘタレは変われるのか、そう簡単に変われるわけがないじゃんなのか。メイン2人の人間関係も、生暖かく見守ってください。




