久々に古代日本史 ㊙大胆考察 その②
さて、前回では日本古代史の一番大事と言ってもいい部分を重点的に紹介した。
軽くおさらいすると、次のような感じだ。
日本の歴史の始まりが奈良のヤマトか、あるいは九州のヤマトなのか?
天皇家の公式見解では九州から始まったとされているが、今のところその証拠はない。
初代天皇・神武天皇が九州の地からやってきたのはどう解釈すればよいのだろうか……?といった具合だ。
ここからは、神武……ではなく、少し回り道をして別の時代に焦点を当てようと思う。
まず、神武天皇には「ハツクニシラススメラミコト」という別名があり、これはかなり後世になってから贈られた称号であると考えられる。
最初の「ハツ」というのが「初めて」の漢字の音読みであることは明白であり、ヤマトコトバではない。
漢字が日本に入ってくるのはかなり後のことであるし、そもそも紀元前の中国語の「初」や「始」もハツとは発音しなかっただろう。
私も別に音韻史に詳しいわけではないが、ハツという読み方は日本で漢字が本格的に使われだした時代に中国からもたらされた「古中国語」の読みでそれ以降は変わってないはずだから、当時の呼び名ではないとみて間違いない。
さて、この「ハツクニシラス」の名がついた人がもう一人おり、10代目崇神天皇がそれにあたる。
崇神は神武以来初めてまともな事績が記録された天皇であり、その間の2から9代目は碌な事績がないことから「欠史八代」と呼ばれている。
以上のことから、「崇神が初代でそれ以前はすべて歴史を長く見せるための捏造である」とする意見が昔から支配的だ。
私は欠史八代や神武の実在可能性はそれなりにあると思っているが、上のように考えたほうが現実的なのに関して異論はない。
この崇神の時代には二人の要注意人物が姿を現す。「ヤマトトトヒモモソヒメ」と、「オオタタネコ」だ。
以前これについては詳細に語ったがおさらいということで。
順を追って説明していこう。三人が出てくるある神話が記録されている。
「『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条のことである。
国中に災いが満ちているため、祟りだと考えた崇神天皇は占いをしたのだという。
"マツリゴト"を仕事とする『モモソヒメ』に神がとりつき、崇神らにこう告げた。
いわく、自分は三輪山の大物主の神であり、同地に社を祭ってほしいという。
(実際、私は三輪山に行ったことがあるが三輪山の大神神社には、オオタタネコや大物主を祭る小さい社が複数あった。)
この一件からしばらくしても、崇神は対策を講じなかったのだろうか。
同年夏、今度はヤマトの有力者たちの夢に大物主が現れ、"オオタタネコ"と"市磯長尾市"なる人物にヤマトの祭祀を任せよ、とのお告げが下った。
崇神らは言われた通りにした。以後ヤマトを襲った祟りは収まったとされる」
要するに、神様がたたったので、その子孫によって祟り神を祭ったら平和になってめでたしめでたし、という話だ。
が、本当にそれですませていいのだろうか?
まず中国の宗教観においては、"天子"つまり皇帝は徳があるので、天に選ばれているのである。
したがって汚職や重税といった人災はもちろんのこと、蝗害、飢饉、干ばつ、疫病、あらゆる自然災害すらも天子の責任となる。
天子に徳がないから天がお怒りになっている、という風にとらえられるのだ。
太古から中国ではちょっとでも国が傾くと反乱がおきて皇帝が乱立するのもこういった理由からというのが大きい。
誰でも皇帝になれるから、ちょっとでも反乱の口実があれば反乱、僭称というのが起きる。
これは中華皇帝に限らずローマ皇帝も同じだ。ローマ法王のような宗教的バックグラウンドによる封建制度も確立されていなかった古代。
血筋や家柄に関係なく誰でも皇帝になれる資格があり、皇帝は任期もなく辞任させる方法もないので、闘って勝ち取るほかないのだ。
中国でも一応は"帝位の禅譲"という儀式を行っていたが、事実上これは力で滅ぼすのと同じだ。
中国においては"天"のご機嫌つまりは予測不能な気候やウィルスなどが民衆にとっての宗教的権威だったので、こればかりは中華皇帝にもどうすることも出来なかっただろう。
日本は権力者である天皇の"血筋"が宗教的権威も兼ねていたので、歴史上誰一人として成り代われた者はいなかった。
なぜこんな話をしたかというと、そもそも日本書紀は中国に見せるためのプロパガンダが含まれた公式文書であるという面がある。
だから中国文化に配慮し、その影響を強く受けていると考えるのが妥当である。なにしろ日本書紀が書かれているのも漢字だ。
だから、崇神の時代に祟りが起きたことは「崇神の徳が足りなかったから」という中華式の考え方をするのが妥当であると考えられる。
しかも政治のことをマツリゴトというように、祭祀と政治は当時、不可分のものであった。
その祭祀をお告げがあったからといってよそ者に任せてもいいものなのだろうか、と筆者は非常に疑問である。
そもそも、崇神時代初期は天照大神を祭っていたようだが、彼の時代以降、大和ではなく主に伊勢神宮で天照大神が信仰されるようになるのもおかしい。
まるでアマテラスが追い出されて、信仰と文化に大きな異変があったかのようだ。
要はこのお話を中国文化を念頭に置いて解釈するとこうなるのだ。
「ヤマトの王、崇神はもはや徳がなく、天は人々に災いをもたらした。
そもそも信仰している神自体が時代にそぐわない。
新たに天に選ばれたオオタタネコ、市磯長尾市らがヤマトに入ってきてマツリゴトを始めた。」
ぶっちゃけ、「オオタタネコたちはヤマトに入ってきたよそ者で、これは神武東征神話とかぶるのではないか?」と私は思っている。
つまり、神武東征神話は侵略者側の記録であり、崇神やモモソヒメ、オオタタネコが出てくる神話は防衛側の目線。
二つは同じ時系列の同じ事件のことを両者の視点から描写したものではないのか、というのが私の考えである。
んん?その理論で行くと、彼らは同一人物になるということだろうか……?
元ヤマトの支配者だったニギハヤヒと崇神、そしてヤマトに入ってきたオオタタネコらと神武。
これはとんでもないことになってきた。前代未聞のトンデモ珍説だろう。
しかしここにきているということは、人の考えた珍説を見るのが好きな変わり者ということだろう。
だから読者を置いてきぼりにして突っ走っていこう。
さてオオタタネコに関してはこの話のほかに登場シーンはないので今は置いておくとして、市磯長尾市にふれていこう。
この人物は磯城の人物とされ、今の奈良県の桜井市あたりがその磯城なる地域だったといわれる。
ちなみに3代目の安寧天皇の名は「シキツヒコタマテミ」であり、磯城のヒコ=シキの偉大なお方 (?)といった意味であろう。(タマテミは意味不明。お手上げ)
古事記によるとこの天皇の后は師木県主波延の娘・阿久斗比売であるという。
師木県主波延とは、ニギハヤヒと全く関係がないのだろうか?
とにかく、シキ系の母の元、シキで生まれ育ったからシキツヒコなのだろう。多分。
この時代からかなりあととなる10代目崇神天皇は宮を磯城瑞籬宮に置いたとされている。ここでもシキが出てくる。
そもそも箸墓古墳などの超重要遺跡があるのもこの磯城の範囲だったという。
どうやらシキという場所が初期天皇家にとって重要な場所だったようだが、ここで少しオオタタネコの話に戻ろう。
彼は(意外と女の子かもしれないが)は、祖父に鴨王というただものではない人物を持つ謎の人物だ。
日本史には加茂や鴨という人名が出てくるが、そもそも神のことを古代は「カモイ」と発音したようだ。
察しの通りアイヌ語の「カムイ」と語源は同じだというのが定説だ。「鴨」とは「神」そのものなのである。
筆者は以前「下をしもと言うなら上のことはかもと言っていたはず」
と主張していたが、上と書いて「かみ」と読むのと「神」をかみと読むことは関連性は言語学的には認められないらしい。
鴨王の娘はさっき言った安寧天皇の皇后であり、四代目を生んでいる。
このことから鴨王の血筋の娘が良血統であるとみなされている、と読み取ることができるはずだ。
ちなみに日本書紀だと、何故かオオタタネコは大物主の子であり、神武世代の人間がなぜか崇神の時代に平気で出てきている。
しかも、彼の母は「スエツミミ」の娘「玉依姫」である。
驚くなかれ、なんと神武天皇の后で二代目を生んだまさに皇后の中の皇后、イスズヒメもスエツミミの娘なのだっ。
しかも神武の母親の名前も驚くなかれタマヨリヒメなのだ。
筆者が神武と崇神の神話が同じ時代なのではないかと考える理由の一つがこの意図的とも感じられる日本書紀の奇妙な描写だ。
普通に考えると、神武と崇神の時代の時系列が同じであると考えられないだろうか?
これらの奇妙な一致を踏まえると、神武天皇とオオタタネコがまるで同一人物であるかのように感じられるのが、筆者の本音だ。
余談だが、弟磯城という人は神武東征に際して現地民でありながら神武に帰順し、それをもって、神武の天皇就任後は磯城県主に任命されたとされる。
これは不思議なことにニギハヤヒと全く同じ事績である。
上で言っていたニギハヤヒ=崇神であるとし、ニギハヤヒ=師木県主波延なら、崇神と師木県主波延もイコールで結べるという理屈になる。
ちなみに弟磯城の名前は黒速であるという。怪しい、怪しすぎるぞ。
知ってる人は知ってるかもしれないが、日本列島にはそれ自体にいくつか呼び名がある。
トンボが交尾してるような曲がりくねった形をしているので、アキツシマ (トンボのような島)と名付けたというエピソードは有名である。(意味不明である)
上代においては日本のことを「シキシマ」と呼ぶ時代もあったようだが果たして……?
何を言いたいのかいまいちわからなかったかもなので、少しまとめてみよう。
1.崇神天皇と初代神武の時代には妙に符合する人物やエピソードが多い。
2.中でも大田田根子と"磯城"が大変重要であると考えられる。
3.磯城は大和の超重要な土地。初期天皇家は磯城から何人も妃をもらっている。
4.神武天皇の臣・椎根津彦の子孫で大倭直の祖である市磯長尾市を祭主として、新たに神地が定められ、崇神の時代に大和神社が創建されたとされる。聞き捨てならない情報だ。
5.ぶっちゃけ、椎根津彦=大倭直=市磯長尾市なのでは。神武時代と崇神時代の多くの人物が、複製された同一人物の対応があるのでは?
6.崇神の時代以降、なぜか大和から天照大神が追い出され、最終的に伊勢神宮へとたどり着く神話が語られる。
何故かその後、天皇家が伊勢へ斎宮を出すようになるには非常に長いブランクがある。
崇神時代、④のように大和神社や大神神社が祭祀の中心へ。急激な文化と信仰の変化を物語る。
7.崇神とは、外部からやってきた侵略者と大和在来の有力者という正反対の顔を合成したキャラクターなのでは?
というのがおおまかな筆者の主張だ。では当然こう思っただろう。
それならば天皇家の本当の姿とはどのようなものであったのか?
筆者は崇神天皇=神武天皇は、卑弥呼とも箸墓古墳とも直接的には関係ないと考えている。
そして崇神の孫、景行天皇の時代にはとうとう九州を制覇。これはおそらくある程度歴史的事実だと考えられている。
筆者の説通り、崇神が天皇家にとって分岐点になったとすれば天皇家の復権は元の通り、天照が復権するときである。
なら天照大神を崇拝しだした時期がそれである。その具体的な時期はわからないが、中国の歴史書に「アマタリシヒコ」なる人物が出てくる。
煬帝に謁見した人物なので聖徳太子と同時代だ。恐らく天皇家のものだ。確実にこの時までにアマテラスの復権はなされている。
筆者は「アマ」こそが日本古代史最重要の謎だと思っている。では次は「アマ」について。
「アマ」とは?
アマテラス、に代表されるように一部の神の名前の必ず最初につく美称である。
また、人名についたり、はたまた高天原のように地名につくケースも。
すべてに共通するのは弥生や古墳まで遡るほどには古くない、ということだろう。
そして恐らくは「アマ」こそが苗字がないとされている「天皇家の本当の苗字」であると考えている。中国人にも記録されてるし。
日本書紀などの編纂にも携わった、歴史上もっとも重要で、優秀でもあった天皇、天武天皇の名は大海人皇子である。
彼が「アマ」テラスを崇拝しだしたのは偶然ではあるまい。
天と書いて「アマ」と読むが、これは天武天皇の名前ゆえのことだと考えている。
本来は海で「アマ」だったはずだ。「元伊勢」籠神社の宮司は海部氏だ。
ちなみに大阪や兵庫には「余部」または、あまるべなる地名がある。恐れ多くて「海」や「天」の文字を使うのを避けたのかも?
しかも面白いのが、日本語では元々海は「ワタ」だったはずなのだ。
「渡る」という言葉は海が語源という説があり、神武の先祖には海神がいる。
韓国語では海を「パダ」というらしく、これを「ワタ」と結びつける言語学者もいる。
有名な渡来人・秦氏もこの朝鮮語「パダ」と関係がある可能性がある。
いずれにせよ、海と書いてアマと読むのはなぜかほぼ人名か地名に限られてくる。それか漁をする海女さんか。
日常語として「天」や「海」に関して「あま」とつく単語が全然ない。
天皇家が崇敬する由緒正しい言葉なのにだ。
何より奇妙なのは、そのどちらでもなく、海を指すのは古い時代から今も「うみ」が支配的だという事実。
遠江や近江、湖という言葉があるように、非常に古くからある言葉だ。
このように、なぜか同じ意味で違う発音の言葉がダブっている現象はどこの言語にも見られ、その原因は外国語からの借用や方言の吸収が主だ。
たいていの場合は時間の流れの末に標準語に採用されているもの以外は消滅してしまう。
実際、現在では「うみ」以外はほぼ消滅している。
例えば犬は「イヌ」「カヒ」「ウソ」なる三種の発音があったらしいのだが、現在ではイヌ以外は消滅。
ウソは「カワウソ」という言葉などにわずかに残るのみだという。
大昔、九州や西日本全域では主に「ワタ」が使われていたのだが、ひょっとすると北陸東海では「アマ」だったのかも?
そして比較的に新しい時期。飛鳥時代ごろにようやく「うみ」が全国的にポピュラー化したのではないか。
なんであれ、現在の天皇家はもともと海を指すのに「アマ」を使用する文化。便宜上「アマ族」だ。
だからアマテラスを最高神としてあるはずだ。
万葉集や言語学に明るい人ならば、「アマ」「ワタ」「うみ」が、どこの方言なのか、使われた年代はどうか、といったことが特定できるかもしれない。
そうすれば、「アマテラス」を信仰する「アマ族」がどこ出身か。いつ彼らが覇権を築いたのかもわかる。
そして、なぜ――日本書紀などを信じるならだが――「アマ族」から支配的民族の交代が起こっていないはずなのに、「うみ」が支配的であるのかという謎も解明できるはずだ。
筆者はトンデモとはわかっているが、「アメノ」「アマノ」という名の神様はわりと実在した人物が多く含まれるのではないかと思っている。
つまり彼らはここで言う「アマ族」なのだと。
「アマ族」が支配的なはずのヤマト朝廷で、海を指す言葉が「アマ」ではなく「うみ」のほうがポピュラーなのは何故か、という疑問。
それが「"大多数のウミ族"をアマ系異民族が支配した」と考えれば説明はつく。
ではもう少しとりとめのない話を続けていこう。
古代日本の話はあまりに判然とせず動かぬ証拠もだぜないので、はっきりした結論を出せないままにせざるをえないからだ。
次回は以前探ろうとして何も出なかった「タジヒ」について。




