久々に古代日本史 ㊙大胆考察 その①
筆者は古代日本史の謎を解いた、と思っている。そう思ってこの作品を書いて結構時間がたった。
以来、折に触れて独自研究をやっていたので久しぶりに古代日本史を概観してみる。
以前書いた内容は矛盾するかもしれないが、こちらが最新バージョンなので、こちらの解釈を優先する。
さて古代史を語る前に読者の皆さんには、
偉そうなことを言わせてもらうが予備知識をつけていただこうと思う。
古代史を考察するうえで前提となる知識が必要なのだ。
今からだいたい二十分ぐらい。
アニメ一話見るぐらいの時間をいただければ予備知識を身に着けてもらえると思う。
さて結局、日本の遥か昔の古代史を研究するうえで目指す究極のところは"日本はどうやって作られたのか"である。
どんなバカなアメリカ人だって、自分たちの歴史と成り立ちは知っている。
ヨーロッパ人が北米を植民地化し、その後独立戦争が起こって、ワシントンが初代大統領に。
しかしその後も内輪もめを行い、南北で争って北軍が勝ち、今に至る。
当時の住民の子孫もいれば後にゴールドラッシュやオイルラッシュにつられて移民してきた人の子孫、またはもっと昔に奴隷として連れてこられた人もいただろう。
誰でもさすがにそのくらいは知っているが、驚くべきことに日本人はこの国の成り立ちを知らない人のほうが圧倒的に多いのである。
確かに、日本の歴史は米国とは比べ物にならないほど長い。だがそれにしてもこの認知度の低さは異常である。
さて、日本の成り立ちというのは考古学的発見、そして中国や朝鮮に伝わる文献、またはそのどちらでもないアプローチを用いるなど、さまざまな試みがなされている。
だが結局のところ、目指すところは大雑把に言えば大体同じだと考えられる。
すべては「今の奈良県にあたる大和の国が、どのようにして発生し、日本全土を統べるに至ったか」に集約されると言っても過言ではない。
つまり邪馬台国が果たして奈良の大和と同一なのか、という邪馬台国所在地論争というのも争点はそこである。
邪馬台国が大和のことならこの話はおしまいである。実にあっさりしている。
仮に九州にあった証拠が見つかれば次は、「九州の邪馬台国が奈良の邪馬台国を征服したのではないか?」
となり、戦いの証拠探しが必要となるだろう。その前段階として、場所の特定が争点となっている。
邪馬台国は今は置いておいて、日本はどうやって作られたのか探る前に、"日本"とは何だろうか?
それは難しい問題ではあるが、筆者はこう考える。
日本の始まりは天皇の始まりであり、日本の終わりは天皇の終わりである。
(そして天皇の終わりが日本の終わりである、とすら考えている。天皇が消えてなくなれば、それはヤマト民族がすむ何か別の国であろう)
つまり天皇とは日本そのものだと考えている。では天皇はいつ始まったのか、と言われたらこれがちょっと困る。
一応、少なくとも継体天皇以後の1500年ほどの間、現在の天皇家の先祖にあたる人々が日本の宗教と政治の中枢で、存在感を放っていたことはほぼ間違いない事実である。
今はそのどちらにおいても中枢とは言えないものの、間違いなく今でも天皇が国家の元首として国内外から広く認められている。
(まあ日本の元首が天皇か総理かといったことを気にする人はいないし、どっちでも大差はないが)
だから大昔に何らかの形で始まったとされる天皇の支配をつまびらかにすること、そしてそれが卑弥呼と関係あるのかどうか明らかにすること。
それが日本の、飛鳥時代よりも前の古代史を研究、考察する最大の目的だ!
それでは、卑弥呼は何なのだろうか。常識的だが、まずは振り返っておこう。
中国の歴史書によれば卑弥呼は争いの絶えない日本の諸王国の共立によって3世紀ごろに生まれた女王であるとされる。
これが古代天皇家の直接の始まりを描写したものなのか、天皇家とは関係ないのかは不明である。
それどころか卑弥呼がどこにいたのかさえわからない。
卑弥呼のいた"邪馬台国"なる国がどこにあったのかという議論を邪馬台国論争と言う。
その後の時代に奈良県の大和において天皇家が政治を行っていたのは歴史的事実であることから、もし邪馬台国が奈良だったなら、もうそれが天皇家の始まりと言ってよい。
具体的に言うと、奈良県の"纏向遺跡"が邪馬台国の遺跡であると"邪馬台国近畿地方説"においては考えられている。
纏向遺跡はほぼ確実にその後のヤマト朝廷につながると考えられているため、朝廷、邪馬台国、纏向遺跡という三つの要素がイコールでつながるのだ。
逆に九州などに邪馬台国があった場合、のちの時代に大和が九州を支配するのは歴史的事実である。
だから、その点において何らかの有効な説明が求められるだろう。
いずれにせよ地元愛という非常に感情的な問題も関わってくるため、邪馬台国がどこにあったかというのは、決定されてしまうと困る人も居るのでここでは一旦、あまり議論しないことにする。
というのも、先述したように奈良県には"纏向遺跡"と言って3世紀から4世紀ごろの大きめの遺跡があり、ここにそれなりに大きな文明が発展していたことは間違いないとされている。
そして、その後奈良県では天皇家が全国へとその力を伸ばしていったことも歴史的事実である。
また、ヤマト朝廷と纏向遺跡は考古学的観点から、政治的に直結するとみられている。
以上の点から、奈良・大和は古代の歴史を探るにあたり、邪馬台国や卑弥呼、魏志倭人伝といったワードに頼る必要がない。
つまり、大和に邪馬台国があったなら別にそれで構わない。日本の古代史がスッキリするだけだ。
仮に九州に邪馬台国があったとしても、同時代に大和に大きな王権らしきものがあったようなので、当時の大和と九州の邪馬台国は全く別に考えることが出来る。
このように発掘調査などから得た科学的事実だけで十分に語る内容がある。
これに対し、邪馬台国九州説においては障壁がある。
"諸王国の共立によって生まれた女王が治める連合王国"という魏志の描写にふさわしい、大きな都の遺跡が発見されていない。
よって、邪馬台国が九州にあったとして、それが九州という大きな島のどこであるかも無数の説があって有力な一つの候補地というのがない状態だ。
九州の古代史を、日本の歴史の始まりとして語ろうとするとどうしても中国の歴史書・魏志の倭人伝を持ち出す以外に方法がない。
だが、これでも九州が古代日本の形成において大きな役割を果たしているとする根拠が一つある。
神武東征である。簡単に言えば初代天皇となった神武天皇は九州から大和へ攻め入り、これを落として大和の支配者となったという。
そしてその子孫たちも代々大和に定着し、やがて時代とともに大きくなっていったというのだ。
この神話は何を隠そう天皇家が奈良に宮を構えていた時代に作られた古事記、日本書紀にも記載されている伝説だ。
ここまでのまとめをいったん行おう。
1:邪馬台国がどこにあったか、は古代史において最重要ともいえる大切な問題である。
2:なぜか、奈良のヤマトで始まったヤマト朝廷は自分たちが九州の日向の地からやってきたと公式の文書である日本書紀に記している。
3:初代神武天皇が九州南部からやってきて大和を征服したとされている。これは、九州の邪馬台国が大和を征服した暗示なのだろうか?
4:ロマンのある話だがそれを事実と仮定すると矛盾が多く発生する。次の項で詳しく見ていこう。
ここでは神武東征について話すが、これは事実ではないとする代表的な根拠を三つ上げていこう。
1:九州と大和では地理的、文化的にかなりの隔たりがある。
歴史的に、奈良県のヤマト(以降ヤマト)で発生したヤマト朝廷が九州に遠征し、現地の都市国家や民族を熊襲、隼人、土蜘蛛と呼んで差別し征伐したことは事実である。
明らかに両者は文化的に隔絶されているようである。
両者の文化は出土した物品を見る限り、そこそこ交流してるはずなのにだ。
それもそのはず、両者の間には"出雲"、"吉備"、"阿波"、"淡路"その他強力な勢力が横たわっている。
これらの地域からは鉄器や大陸由来の埋葬品などが出土しており、意外に高度な文化を有していたことがわかっている。
だからヤマトと九州は、地理的には決してご近所さんではない。
神話で語られる神武東征、そして「神武東征神話は、九州にあった邪馬台国のヤマトへの征服事業を下敷きとして描かれているのだ」とする説には大きな疑問点がある。
先ほどから言っている通り、強力な勢力が跋扈する古代日本において、九州の勢力が大和という飛び地を征服するというのは、これらの勢力の存在を意図的に無視した説得力のない言説であると言わざるを得ない。
ただし、纏向遺跡は(ヤマト朝廷最初期の遺跡だ)どうも吉備だったり淡路だったりいろんな影響を受けた文化を持つらしい。
つまりこれは文化的に外来勢力であり、大和の地で突然降って湧いたわけじゃないようだ。
2:なぜ、初代天皇が神武なのか?
仮に神武東征が事実とした場合、何故、東征を成功させた神武が最初の天皇なのか意味不明である。
先祖のニ二ギとかが初代天皇ではいけなかったのだろうか。何故ヤマトがそれほど大事なのだろうか?
九州が本国のはずではないのか。意味不明である。このように、神話と歴史が混在するこの時代の九州に対する歴史書での扱いは極めてあいまいで、一貫性がない。
3:九州がなかなか出てこない
記紀の記録では神武以降、九州の話が全然出てこない。故地、というか本国のはずなのにだ。
神武以降の2から9代目は事績がほとんどないが名前や結婚、子女の系譜は伝わっており、九州系の人物と結婚しているらしき記述が、ない。
やっと九州の話が出てきたかと思ったらいきなり景行天皇が九州征伐する話が出てくるなど、九州が故地であるにしては朝廷の動きは不自然である。
ただし、私個人としては神武東征のようなものがあった可能性は否定しない。
具体的に言うと、卑弥呼や三国志の時代となった3世紀は世界的に気候が寒冷化したと言われており、早くに農耕を開始して人口過密であった九州では食糧不足で難民が発生。
これがヤマトへ入り、そこで土着。子孫がうまいことやって有力者に上り詰め、それが現在の天皇家につながっている……?
そういった可能性であれば十分にありうると考えている。
もしくは、それよりも前の紀元前の時代までさかのぼればヤマトは渡来人も多くいたわけだし、どこかから人口が流入していても全く不思議ではない。
いずれにせよ古代ヤマトにおける大規模な戦争の痕跡は考古学的には見つかっていないので、神武東征を事実と主張するには、まずその証拠を見つける必要があるだろう。
これだけ言葉を尽くして神武東征の神話は嘘っぱちだと言っておいてなんだが、次のような事実もある。
それは、少なくとも天皇家の公式見解は「自分たちは九州から来た」ということである。これが混乱の元となっている。
そして邪馬台国九州論者の中にはこれをもとに「九州の邪馬台国は大和を攻めてこれを支配した、これが天皇家の元である。神武東征はこれを如実に示唆した伝説である」と主張する者もある。
一見、天皇家本人もそう言っていることだし一定の信ぴょう性は感じる。これを邪馬台国東遷説というが、これは不合理な主張である、ということは既に述べたとおりである。
言うまでもない事だが、まず邪馬台国は九州にあったかも定かではなく、それが九州から大和を攻め、首都を変えただなんていう説はそれこそ全く証拠がない。
そのうえ、神武東征は紀元前660年ごろのこととされているが、邪馬台国があった時代は紀元後3世紀なので、神話を非常に都合よく曲解しなければ邪馬台国東遷論の根拠にはならない。
つまり三重の仮説を立証せねばなりたたない主張なので、ここでは"こういう主張もあるよ"と紹介する程度にしておこう。
以上で古代日本に関する予備知識のおさらいは終了。
ここまで見てきたように、すべては九州VS近畿という構図に集約されている。
神武は東征したのか、していないのか。
卑弥呼は九州から大和へ攻め入ったのか、それとも?
私個人の意見を言わせてもらえば、邪馬台国は北九州辺りにあったのだと思う。
もともと中国側はこちらの邪馬台しか認識していなかった。
大陸や半島と地理的に近いこのあたりに邪馬台国があったと考えるのは極めて自然なことだし、魏志倭人伝に出てくる地名がほとんど九州のものらしい、という点にも異論はない。
近畿のヤマトは、これとは別に大陸と繋がるルートを持つ出雲を勢力圏に入れ、東西へと拡大。
どうやら継体天皇以前にはもう九州も傘下に入れていたようである。
不思議なことにヤマトは他の勢力を取り込む力に長けており、熊襲や隼人、出雲、吉備、むろん大陸や半島からの渡来人までヤマトの力としている。
邪馬台国も"女王"という象徴を使うことで諸国家の連合をまとめていたようであるが、おそらく年月の果て、これはふたたび分裂したものと思われる。
だから卑弥呼から百年以上経過した時代には、朝廷によって各個撃破をされてしまったのだろう。
昔のように連合できていればもしかしたら負けておらず、歴史は大きく違ったのかもしれない。




