九州はヤマトを征服したか?
九州はヤマトを征服したか?
筆者は先日、必死こいてマスクをし、山を登っていた。
目的は桧原神社。実に長い道のりであった。山登りの際には大汗をかいたほどである。
アップダウンを繰り返し、路面から突き出る石が絶妙に歩きにくい、こけむした古い森林の中を歩いて三十分。
到着した桧原神社は噂に聞く三鳥居であった。
普通鳥居は二本の柱と横に走る柱の間に長方形のスペースがあってくぐれるようになっているが、例の鳥居はスペースが全て格子状になっていた。
まるで祟り神を外に出さないための結界、のような印象を筆者は受けた。
さて、ではここで大事なテーマを発表しよう。今回は、九州はヤマトを征服したか否かである。
結局日本考古学や古代史研究も九州はヤマトを征服したか、ということに焦点が当てられていると言っていい。
ではここで、関西出身の筆者は何としてでも九州はヤマトを征服した、という事を否定せねばなるまい。
あ、九州は嫌いじゃないですよ。修学旅行で長崎、ほか博多へ行ったことがあるが、とても良いところです。暑いけど。
ではまず最初に取りかかるべきは、考古学の成果の整理であろう。
【九州の古代】
・佐賀の吉野ヶ里遺跡は紀元前から存在する古代遺跡であり、当時としては最大級の集落である。
・弥生時代の製鉄跡も九州で続々発見され、量が膨大な上、しかも年代が極めて早い。
・後漢初期、光武帝からの金印が佐賀県で発掘されている。
・日本の歴史上最初の実在人物は、北九州人であるとみてほぼ間違いの無い、升師である。
・以上の理由から九州はかなり早い段階で先進地域となっていたことが伺える。
・奈良の纏向遺跡から北九州系の土器はほとんど出土せず、繋がりは希薄、かつ険悪であったと思われる。なお南九州とならそれなりの繋がりがあった様子。
・なお、邪馬台国に繋がる三世紀ごろの大規模都市遺跡は九州で見つかっておらず、邪馬台国関連の遺跡はおろか、注目に値する巨大建造物などもない。
・大陸との繋がりが非常に早かった割には、古い仏教寺院や文字資料などはない。
・大阪にあるような巨大な古墳はない。
・九州独自の墓制、甕棺制度は他国に広がっている様子はない。
・大宰府は非常に古く、しかも巨大な建造物である。この下に何かが眠っていると筆者は睨んでいる。
というわけで改めて九州の古代を俯瞰してみると、なるほど不思議である。
最初先進国だった割に、どんどん周りに抜かれているのがわかる。
なんかギリシャみたい。ギリシャも火山や地震の多い土地で非常に歴史は古く、痩せた土地で、しかも分裂・拡散傾向が強くて好戦的であった。
まるっきり九州男児ではないだろうか。奴らギリシャ人のようだ。
では次に、畿内の様子を見て見よう。
【畿内・近畿の様子】
・主に銅鐸が出土する。四国や出雲、東国でも銅鐸が出土するようだ。
・九州では銅鐸はめったに出土しないが、一応出土した例はある。
・弥生時代には大阪南部の池上・曽根遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡が既に王権と呼べるレベルで栄えており、相当な力があったようである。
・三世紀後半ごろ作られたと推定されるところの纏向遺跡は中部・東海、関東地方からの土器が多く、北九州以外の土器は万遍なく発掘されている。
・にもかかわらず、纏向には鉄器がほとんどないようである。
・三世紀でさえ畿内には鉄器がほとんどない。鉄器不毛の地と言っていい。
・何故それが日本を統べる程の王朝になったか、全くの謎である。
・言うまでもなく、巨大古墳が沢山ある。それほど土木工事ができる財力が三世紀にはもう身についていたようである。
・最古級の巨大前方後円墳、箸墓古墳があり、前方後円墳発祥の地という説が有力。
・近畿地方に出雲の四隅突出型古墳の痕跡や、九州の影響らしき遺物はない。逆にヤマト発祥と思われる、前方後円墳が全国に広がった。
・逆に周りを、鉄器が非常に多く出土する越の国、製鉄遺跡の多い事で有名な吉備、それから言わずと知れた強国出雲などに囲まれているので、九州がヤマトを制圧するのは考えにくい。
・外交関係は、九州以外とはおおむね三世紀までは友好的。三世紀以後、帝国主義に乗り出したようである。
というわけで、今回のテーマを考える上で有意義な両方の考古学的研究成果を筆者が知ってる範囲でまとめた。
ここから言えることは、一言で言えば、考古学的には畿内が九州に征服されたとは非常に考えにくい、ということである。
では次に、文献資料からも参考にして九州がヤマトを征服した、という証拠を挙げてみよう。
【九州説の強み】
・初代神武天皇は日向というところからきた。はっきり歴史書に書いてあるではないか。
・その他、数々の氏族の祖先が九州と関わりがあるケースも多い。
・ヤマト政権は九州人の入れ墨を忌避しており、入れ墨の風習は魏志にも載っている。
・日本最古の実在人物は九州の升師。九州は歴史が古く、鉄器が豊富で、かつヤマトは鉄器が少なかったので、直接対決すれば一たまりもなかったであろう。
・三世紀ごろ、崇神時代に出雲がヤマトに攻められたおり、出雲の長は「ちょっと行ってくる」とでも言わんばかりに軽い感じで筑紫の国に行っていた。仲は良好だったようだ。
・ということは、ヤマトを攻める際に出雲が協力した線もある。一たまりもなかったであろう。
・崇神時代でなくても、実際もっと遥か紀元前の昔に九州がヤマトを征服した線も、やはり文明度に差があったので十分ありうる。
・中華王朝・隋の歴史書には「元々筑紫が首都であったが倭国は首都を移転した(意訳)」とある。
うーむ。筆者は九州など、いつの間にか中華王朝との交渉権すら奪われている、小国の集まりのようにしか思えない。
しかしこれらを一つ一つ論理的に否定せずには、「ヤマトは九州になど侵略されていない」とは主張出来ないであろう。
ではこれに対し、回答形式で近畿の方の主張をまとめよう。
【近畿地方からの回答】
・神武は非実在説が強い。少なくとも存在した証拠はない。筆者に至っては、神武は丹波か難波の出身と言い切る程である。
・それは事実であるが、同時に九州は差別されていることも歴史書に書かれている。
・九州に入れ墨の風習があり、近畿にはなく、それを忌み嫌っているなら、九州とヤマトは何の関係もないと考えるのが自然である。
・直接対決すればヤマトは九州に敗れたかもしれないが、戦いの痕跡は今のところ発掘されていない。
・文献では、九州と出雲の間に援軍を出して合っている様子はない。九州と出雲の関係はそこまで良くなさそうである。
考古学的にも、出雲は九州の影響も若干あり、銅鐸もそれなりに出土するどっちつかずの地域である。
・ヤマトは、九州と戦争したような痕跡はない。常に攻め込む側である。
・遥か昔に九州がヤマトを征服したというのは、根拠に乏しいため否定も肯定も出来ない。
・隋書の記述を信用するなら、「現在の都は魏志に言う邪馬台である」という記述も信用せねばならない。
つまり、三世紀当時の邪馬台国も、遣隋使を送った飛鳥時代の都と同じ場所と考えねばならない。
筆者は、邪馬台国は九州にあったと考えており、また、ヤマトは邪馬台国とは何の関連もないと考えている。
筑紫に都があったなど大嘘。ヤマト王権はずっと畿内にあったが、筑紫にあった邪馬台国の歴史を奪ったと思われる。
うーむ。簡易的に九州が畿内を征服したかどうかについて検討してみたところ、こうなった。
まとめると、「何故鉄器もない奈良がそこまで繁栄したかは不明だが、ともかく三世紀後半の時点でほぼ無敵の帝国であった」ということでいい。
日本古代史のキモは「ヤマトが無敵の帝国になった」という事実と「ヤマトは南九州出身の王が侵略してきたことにより始まった王朝」という本人による根拠不明な主張をどう組み合わせて解釈するかに尽きる。
筆者などは、邪馬台国とヤマトを記紀では無理矢理結び付けたのではと考えているが、確かな証拠はない。




