後編
昨日、聴罪室でのやりとりは本当に最小限だった。
声で即座にこちらの正体がバレるとは考えにくい。
タイミングがタイミングだけに、神殿の神官の来訪とあらば疑われる程度のことはありそうだが、そこはお互いに暗黙の了解でやり過ごせないだろうか。
店から客が引き揚げ、臨時休業の看板で確保した静けさの中。
アルベルトが何か話しながら女性を引きはがして店の奥に入っていった。ファナに目配せを残して。
頷いたファナは、ぼんやりと客席の一つに腰かけた黒髪の青年の正面に座る。
「顔色が優れないようですが。何か心配事でもおありでしょうか」
「ああ。ええ……。あなたは? 神殿の……?」
まなざしに探るものを感じつつ、ファナは「はい」と低音を意識した声で言った。
「そうですか……。いえ……、まあ。誰に言っていいのかわからなくて。こういうの、神に告白すべきなのかなって思うことがあって……」
自嘲気味に青年は笑う。その様子を注意深く見ながら、ファナは口を開く。
「お店の経営は順調そうに見えるのですが? 開店からそんなにたっていないと思いますけど、お客さんがしっかりとついていますね」
「それはありがたいことに……。僕は中央で修業してきて、ここに戻ってきたばかりで。幸運が重なって、ガレリアに店を構えることができました。従業員も……よく気が利いて、真面目で熱心なひとが来てくれたから……」
この声。
ファナは間違いない、と確信する。昨日の青年だ
「何か問題でも?」
注意深く先を促すと、青年は沈んだまなざしをさまよわせ、重い息を吐いた。
「過ちを……」
そして、がくりと俯いてしまう。
「過ちですか……?」
何をどうしたとは聞かずに、緩く問いかける。
青年はしばしの沈黙の後、無念そうに呟いた。
「指輪が……。知ってはいましたが、思いを止められなかった。だめだとわかっていたのに。どうしても、彼女のことが」
そう言って、両手で顔を覆ってしまう。指の間から、苦し気な声が漏れだす。
「こんなくだらない悩み……。取るに足らない悩みなのですが、僕にはもう苦しくてどうにもできない……。こんなことで……」
「こんなこととか、思う必要はないと、思うんですよね」
はずみで、ファナは口走っていた。
これはおそらく聴罪室では許されない発言ではないかと思いつつも、今は自由だと開き直ることにした。
「ものすごく苦しんでいるのは、本当なんですよね。誰に言えばいいのかわからないけど、今はそのことで頭がいっぱいで……。少しずつでもいいので、言ってみましょうか」
「あなたに……?」
ぼんやりとした目で見返されて、ファナは真面目な顔で頷いてみせた。
「秘密厳守します。仕事柄、こういうことには抵抗がありませんし」
(慣れているとはとても言えませんが)
戸惑いを浮かべていた青年であったが、やがて諦めたような吐息とともに言った。
「彼女を愛してしまいました。彼女には、伴侶がいると知りながら」
「悩みはそこですか」
冷静な声を装って聞くと、青年はうっすらと笑った。
「くだらないでしょう」
「そうは言ってません。彼女とは話していますか?」
「話そうとは思っていたのですが。その……。先日、閉店後、二人になったときに。衝動で、唇を」
躊躇って言葉を切った青年に、聞いていると頷いてみせると、ゆっくりと話を再開した。
「それ以降、彼女とその件については話してません。変わらずに出勤もしてくれている。だから、なおさら、どう考えているかわからなくて……」
(それは、まず彼女と話すべきなのでは)
ちらりとカウンターに目を向けると、アルベルトが女性を伴って、静かに戻って来たところだった。偶然か狙ったかわかりにくいタイミングであったが、ファナが頷くと、アルベルトも頷き返してきた。
「リーゼさんですよね……?」
ファナが問いかける。
声に出すことなく、女性が頷いた。それを確認して、ファナは一息に続いた。
「三年前になりますか。神殿で、旦那様のお葬式をされていました……。こんな明るい冬の日でしたね。あれ以来、まだ結婚指輪は外せないんですね……」
準備から終わりまで一通り手伝っていたので、よく覚えている。
死んだのは若い夫で、残されたのも若い妻だった。それもまた、印象に残った理由の一つだ。
「どうしても……、まだ……。本当は、何時外してもいいと思っていたのだけど……」
独り言のように呟きながら、女性はゆっくりと左手の薬指に右手をかけて、そこにあった指輪を外した。
「ご自身の意思で外すのが今だというのなら、その選択を、きっと旦那様は理解し、この先のあなたに大きな幸せがあること、祝福して送り出してくれると思います……」
少し感傷的に言い過ぎただろうか。
そう思ったファナに対し、まっすぐに視線を向けてきたアルベルトは、唇に上品な笑みを浮かべつつ、片目を瞑ってみせた。
* * *
「リーゼさんの中でも、店主さんを受け入れる準備は整っていた。ということで、いいんですよね。今回の件は」
「私にもそのように見えましたが。二人の間の意思疎通に問題があっただけで、誰かが死ぬような問題ではないと思います」
「そうですよね……。そして、余計なことをしなくても、解決したかもしれないですよね」
むしろ昨日、きちんと聴罪室で向き合っていれば、彼には彼女と話す勇気が湧いて、自分で結論を出せていたのかもしれないのだ。
そうすると、今日の一件はただただ、未熟なファナの後始末のような……。
あまりにも早く解決してしまったせいで、ふわりとあいてしまった時間。
ガレリアを後にして、少し遠回りをして神殿に帰る途中。
人通りがない道にさしかかってきたところで、不意にアルベルトが寄りかかって来た。
「どうしました?」
肩で支えながら問いかけると、ぎゅっと力一杯抱き寄せられてしまった。
「ん!?」
「いえ。こうしてあなたと、のんびり外でデートする口実ができて、私は幸せだったんですけど。ファナは?」
「デートですか?」
「間違いなくデートですね」
言いながら、指に指を絡められてしまう。手袋越しなので、感触は鈍いが。
「まあ……楽しかったですけど。それよりも、ああ、自分、だめだなあって思って。あそこで店主さんが倒れてくれなかったら、話すきっかけも掴めなかったですし」
口に出して言ってから、ファナは不自然に沈黙した。
ややして、おそるおそるアルベルトを見た。
「まさか……、何かしました?」
「そうですね。誤魔化してもファナは絶対食い下がるので言っておきます。しました。昨日帰り際の彼に、神殿で作っている焼菓子を渡しました。必ず朝に食べるようにと言って」
「お菓子で倒れませんよね?」
「はい。一服盛りました」
いかにもしれっと答えられてしまう。
「~~~~~なんでそういう危ない橋を渡るんですか!? アルベルト様のそういうところどうかと思うんですけど!? 一服ってなんですか一服って。なんでそんな物騒なものもっているんですか、身体に害はないんですよね!?」
噛みつくファナを軽くいなして、アルベルトはくすくすと笑った。
「弱い睡眠薬ですよ。多少足にきたみたいですけど。副作用もない安全なものです。なんだったら自分の身体で試してみます?」
悪びれない笑みを前に、ファナはぶんぶんと首を振ると、アルベルトを突き飛ばして歩き出した。
ざくざくと、足元の雪を踏みしめて。
「ファナ……? おいていかないください。というか、そっちは道が違いますよ。森に行ってしまいます」
背後から追いかけてきた声に(しまった)と思って立ち止まったものの、振り返るに振り返れない。
その間に、足音が近づいてきて、背中から抱きしめられてしまった。
「もしかしてもう少し遠回りして帰りたいんですか。いいですよ、どこまでも付き合います」
「結構です!」
振り払って歩き出そうとしたのに、今度はがっちりと腕がはまっていて、放してくれない。
「アルベルト様……」
いまいましい思いを込めて呟くと、やわらかな声で耳元でささやかれた。
「今日の私は結構あなたの役に立ったと思うんですよね。なにかご褒美頂けますか?」
首をねじって見上げると、清楚な美貌に晴れやかな笑みを浮かべたアルベルトに見下ろされていた。
これはもう、何かしない限りこのひとは納得しないに違いない。
腹をくくったファナは、「目を閉じてください」と願い出る。
おとなしくアルベルトが従ったのを見て――
手をとると、手袋越しに口づけを落とした。
「ぬくもりがたりない」
気づいたアルベルトに未練がましく言われたが、してやったとばかりに微笑んでから、手をつなぐ。
小さく咳払いをしてから告げた。
「デートと言えばデートかもしれないので、もう少しだけこうしていてもいいですよ」
今少し、遠回りをしながら、と。




