EP04. 黒い釜の新入り教育 - #1 皿洗いグランドマスター
#1 皿洗いグランドマスター
二枚目の皿だった。
ジヒョはさっき一枚目の皿を洗った。
正確に言えば、洗ったと信じたかった。
水に浸けて取り出した皿は、まだぬるぬるしていた。
縁にはシチューの跡がぼんやり残っていた。
それでも彼は二枚目の皿を手に取った。
今度は少し力を入れた。
布を皿の表面に当ててこすった。
手首を回し、指に力を込めた。
皿は指先で何度も回った。
布は油の上を滑った。
力を入れると、脇腹が引きつった。
痛みを避けようと力を抜くと、今度は皿が滑った。
ジヒョは歯を食いしばった。
ついさっき、彼は《インスクリプション》スキル100.0を得たばかりだった。
グランドマスター・スクライブ(Grandmaster Scribe)。
言葉だけ聞けば、すごい人間になったようだった。
だが、今手に持っているのは魔法文様ではなかった。
高級インクでもなかった。
ブランク・スクロールでもなかった。
油のついた皿だった。
ジヒョは二枚目の皿をさらに強くこすった。
皿が手から滑り落ちそうになった。
彼は慌てて皿を掴んだ。
水桶の中の水が揺れた。
油が浮いた水が手の甲に跳ねた。
ロレンツォはその様子を黙って見ていた。
最初はただ見守っているだけだった。
ジヒョが頑張っているのはわかった。
適当に済ませようとしているわけでもなかった。
怠けているわけでもなかった。
だが、結果があまりにもひどかった。
二枚目の皿は、一枚目よりましになっているわけでもなかった。
水は跳ね、手は震えていた。
ジヒョは皿一枚を洗うだけで、すでに疲れ切って見えた。
ロレンツォがとうとう言った。
「やめろ」
ジヒョは皿を持ったまま止まった。
「もうクビですか?」
「借金持ちはクビにならない。逃げなければな」
「逃げたら?」
「死ぬ」
「じゃあ、どうしてやめろって言うんですか?」
ロレンツォはジヒョの手にある皿を見た。
まだ洗い切れていない皿だった。
「今日は休め」
ジヒョは少しの間、答えられなかった。
休めという言葉が妙に聞き慣れなかった。
死んで生き返ってから初めて聞く、まともな休息命令だった。
「休んでもいいんですか?」
「今日まではな」
「明日からは?」
「本格的にやると言っただろ」
ジヒョはうなずこうとして、顔をしかめた。
脇腹の痛みのせいだった。
ロレンツォはその表情も見逃さなかった。
「まだ蘇生の後遺症が残ってるみたいだな」
「蘇生の後遺症なんてあるんですか?」
「知らん」
「知らないんですか?」
「俺は死んだことがないからな」
ジヒョは皿を慎重に置いた。
「なのに、どうしてあるみたいに言うんですか?」
「たぶんあるだろ。死んでから生き返るのが簡単なはずない」
ジヒョは反論しようとして、口を閉じた。
それは正しかった。
死んでから生き返ることは簡単ではなかった。
ついさっき、自分で経験した。
ロレンツォはジヒョが洗いかけた皿を見て、短く舌打ちした。
だが、帳簿は出さなかった。
今日はまだ損害として計算しないという意味に見えた。
ジヒョはそれを少し幸いだと思った。
皿一枚をまともに洗えなかったという事実より、
その失敗が借金に書かれなかったという事実が先に浮かんだ。
この世界は、生きているだけでも費用がつく場所のようだった。
死ぬのも高い。
生き返るのはもっと高い。
「上に行って回復ポーションを一本飲んで、ぐっすり寝ろ」
「今ですか?」
「皿を割る前に。明日の朝には脇腹の痛みも消えてるだろ」
ジヒョはすぐにうなずいた。
「それなら僕も反対できません」
彼は階段のほうへ歩いていった。
一歩ごとに脇腹が引きつった。
指先にはまだ油水の感触が残っていた。
部屋まで上がる短い道も遠く感じた。
机の上には中級回復ポーションが一本置かれていた。
ジヒョは瓶を手に取って、少しの間眺めた。
相変わらず色はあまり頼もしくなかった。
飲めば生きるのか、もう一度死ぬのか、微妙な色合いだった。
それでも彼は栓を抜き、一息に飲み干した。
「これも帳簿につけてるんだろうな」
ジヒョは空き瓶を置きながらつぶやいた。
「見た目は飲んだら死にそうなのに、味はいい」
彼はベッドに腰を下ろした。
その瞬間、体が横に崩れた。
目を閉じるつもりはなかった。
ただ少し息を整えようとしただけだった。
だが、意識はすぐに沈んだ。
その夜、ジヒョはほとんど気絶するように眠った。
* * *
翌朝。
ジヒョは扉を叩く音で目を覚ました。
最初は自分がどこにいるのか、すぐには思い出せなかった。
低い天井が見えた。
天井には古い木の梁が横切っていた。
壁の片側には木製のハンガーラックが立っていて、
小さな机の上には空のカップと畳まれた布が置かれていた。
窓の外には低い屋根と路地が見えた。
そこでようやく記憶が戻ってきた。
《インスクリプション》スキル100.0を得た。
一枚目の皿をまともに洗えなかった。
二枚目の皿も良くならなかった。
部屋に上がるなりポーションを飲み、そのまま倒れるように眠った。
扉の外でまた音がした。
「起きろ」
ロレンツォの声だった。
ジヒョは寝たまま答えた。
「僕、まだ患者じゃないんですか?」
扉が開いた。
ロレンツォが部屋に入ってきた。
「話す力があるなら、働く力も少しはある」
「その基準、厳しすぎませんか」
「生きている基準はだいたいそんなものだ」
ジヒョはゆっくり体を起こした。
ベッドから起きるだけでも脇腹が引きつる感覚は、ほとんど消えていた。
前日までは、息の仕方を少し間違えるだけで脇腹が裂けるようだった。
今はこわばる程度だった。
ジヒョは慎重に体をひねってみた。
痛くなかった。
少なくとも、目の前がかすむことはなかった。
「やっぱり中級回復ポーションっていいものなんだな」
彼は小さくつぶやきながらベッドから下りた。
ロレンツォは短く顎をしゃくった。
「下りてこい。飯屋の朝は早い」
ジヒョはベッドから下りた。
足に力が入らなかった。
床に足をつけた瞬間、体が少し揺れた。
ロレンツォはそれを見たが、何も言わなかった。
二人は狭い廊下を抜けて階段へ向かった。
一段下りるごとに、食堂の匂いが濃くなった。
シチューの匂いが先に上がってきた。
その上に焼いたパンの匂いと油の匂いが混ざった。
下の階では、器がぶつかる音と椅子を引く音が続いていた。
ジヒョが下の階に下りた時、食堂はすでに朝の準備で慌ただしかった。
誰かがテーブルを拭いていた。
誰かが水差しを満たしていた。
厨房のほうではおたまが鍋の中をかき混ぜる音がし、
ホールのほうでは杯が順番に置かれていた。
昨夜、ジヒョがまともに見たのは裏手と洗い桶だけだった。
だが、朝のホールは思ったより広かった。
太い木の柱が天井を支えていた。
いくつものテーブルが一定の間隔で置かれていて、一方にはカウンターがあった。
その後ろには厚い帳簿と酒瓶が並んでいた。
ホールの中央には、黒く煤けた大きな鍋が掛かっていた。
その下で朝のシチューがゆっくり煮えていた。
ジヒョはその鍋をしばらく眺めた。
その黒い鍋は妙に目に残った。
長く煮て。
長く耐えて。
簡単には冷めない物。
その時、ホールを片づけていたミユが顔を上げた。
盆を片脇に抱えていた。
「初日から寝坊ですね。GM」
ジヒョは階段の最後の段で止まった。
「はい?」
ミユが笑って頭を下げた。
「おはようございます。GM」
「僕はGMじゃなくてジヒョです」
「はい。わかりました。GM」
ジヒョは少し口を開けてから閉じた。
返す言葉が見つからなかった。
ホールの一角では、客が数人すでに朝食を食べていた。
早く出てきた労働者がパンをシチューに浸して食べていた。
商売を始める前に立ち寄ったらしい商人は、カウンターの横で小さな袋をいじっていた。
古びた革鎧を着た初心者冒険者たちも、片側のテーブルに座っていた。
彼らは口数は少なかったが、剣帯と鞄を何度も確認していた。
ジヒョは彼らを少し見た。
ここはただの飯屋ではないらしかった。
だが、その考えは長く続かなかった。
倉庫のほうからタウロが大きな野菜籠を抱えて出てきた。
タウロはジヒョを見るなり瞬いた。
「早く起きて一緒に運ばないと。遅い、GM」
ジヒョはすぐに言った。
「僕はGMじゃないですって」
タウロはうなずいた。
「知ってる。GM」
ジヒョは心の中で思った。
この人たちは集団で何をやっているんだ。
僕の名前はジヒョだって。
口には出さなかった。
言ってもまたGMに戻ってきそうだった。
その時、厨房の奥から大きな声が響いた。
「おい、GM。さっさと来ないか!」
ジヒョは肩をびくっとさせた。
声だけでまな板が揺れたような気がした。
ブルンだった。
「早く来て野菜の下ごしらえをしないと、今日の商売ができねえだろ!」
ジヒョは厨房のほうへ叫んだ。
「僕はGMじゃありません。ジヒョです。ジヒョ」
しばらく静寂が流れた。
厨房の中からブルンの声がまた聞こえた。
「そうか、GM。わかったから早く来い」
ジヒョは目を閉じた。
わかっていなかった。
まったくわかっていなかった。
その時、後ろでロレンツォが言った。
「GM、もう諦めろ」
ジヒョはゆっくり顔を向けた。
「店主さんまで、どうしてそうなるんですか?」
「みんなジヒョって呼びにくいらしい」
「でも僕の名前があるじゃないですか」
「だから俺がGMって呼べと言った」
ジヒョはロレンツォをじっと見た。
「なぜですか?」
「皿洗い担当がグランドマスターだからだ」
ジヒョは瞬いた。
「僕が?」
「そうだ」
「僕、皿洗いできませんでしたよ」
「お前がやったことは皿洗いだけなのに、グランドマスターなんだろ」
ジヒョは言葉に詰まった。
論理があるような気もした。
ないような気もした。
たぶん、なかった。
「いや、それでもジヒョという名前がちゃんとあるのに、GMって何ですか」
「短いだろ」
「ジヒョも二文字ですけど」
「GMのほうが短い」
「それは文字じゃなくて記号じゃないですか」
ロレンツォはたいしたことではないように肩をすくめた。
「ところで、スキルに皿洗いってあるんですか?」
「いや。ない」
「じゃあ、どうして皿洗い担当がグランドマスターなんですか?」
「俺がそう呼べと言ったからだ」
ジヒョはまた言葉を失った。
ロレンツォはホールの隅に積まれた食器の山を指した。
「昨夜はみんな飲みすぎて、何も終わっていない」
ジヒョはそこでようやく洗い桶のほうを見た。
器があった。
多かった。
本当に多かった。
昨日、自分がいじっていた二枚目の皿など、山脈の前の小石のようなものだった。
「あれを僕が?」
「借金持ちは質問より手が早くなければならない」
「僕の手はまだ遅いんですが」
「だから余計にやるんだ」
厨房からブルンの声が聞こえた。
「皿洗いが終わったらすぐこっちに寄こせ」
ロレンツォがジヒョを見た。
「聞こえたな?」
「聞こえなかったことにできませんか?」
「できない」
ミユが横で空の杯を片づけながら言った。
「頑張ってくださいね。GM」
タウロも野菜籠を抱えたままうなずいた。
「うん。頑張って、GM」
ジヒョは二人を見た。
誰にも悪意があるようには見えなかった。
それが余計に問題だった。
これはいじめではなかった。
すでに決まった呼び名だった。
ジヒョが受け入れられていないだけだった。
ロレンツォが洗い桶のほうへ顎をしゃくった。
「ついてこい。昨日できなかった皿洗いの続きをするぞ」
ジヒョはゆっくり足を動かした。
指先には昨日の油水の感触がまた蘇ってくるようだった。
目の前には食器の山があった。
水はまだ冷たくなかった。
油はすでに浮いていた。
彼はゆっくり皿を一枚取った。
昨日の二枚目の皿に似た皿だった。




