第36話 狩猟の魔女
別働隊、五百の軍は、岐路の手前で休息をとっていた。
山を北回りに迂回する道と、南回りに行く道、地図上ではどちらも同じ距離で、結局は同じ所へ到達する。予定された進行ルートでは北側を通ることになっていて、実際、道も幾分か広く、五百が歩むのにも支障はなさそうであった。
休むついでに食事となったが。
「鮑謖大尉に中佐より、付近に辛軍の斥候がいないか、偵察を頼みたいとのことです」
伝令の者が来て言った。
普通はそのまま命令伝達であるが、鮑謖隊は大佐の直属なので、あくまで要請だ。
──このタイミングで?
と、鮑謖は思ったが、同時に。
──まぁ、兵糧も味気ないしな~。
と、余計な事を考え。
──私には、糧食の独自調達権もあるし。
と、変に知恵を回し。
「了解しました」
と、返した。
「大尉。僭越ながら、自分たちだけ食事が遅れることになります。皆が不満を抱くのではないでしょうか」
先越が先を見越して言う。
「まぁ、そうなんだけど。中佐殿は必要だと判断されたわけだし、誰かがやらなきゃね」
鮑謖はそう応えた。
鮑謖は兵糧に飽きていた。
なんか責任感ある風に、それっぽい台詞を吐いたが、その胸裏にあるのは。
──キノコか野草でも採ろう。
などという、どうでもいい野心である。
完全に、偵察という任務に託けて、食い物を探しに行く気まんまんであった。
ちなみに、鮑謖の考える糧食の調達権は、そもそも遠征を想定していないので、この場合、適用が正しいのかは不明である。
鮑謖隊五十名は、崔弱と五名を残し、九班に分かれて探索を行うことにした。
班分けの際。
「おっ。その弓、小さいね」
鮑謖は一人の兵の持つ弓に注目し。
「それは、曲がるのかな?」
「はい。右にも左にも曲がります。よくご存じで──」
「うん。勘だけどね。上下に傾けて放つのかなって」
言って鮑謖は矢摺を指さした。そこには斜めに矢が擦れた跡があった。
──いいね。鳥を仕留めてくれるかも。
「じゃ、彼女を私の班で──。あと、袁望も入れて」
鮑謖は差配にリクエストした。
思いがけず、楊休は、鮑謖大尉の班に組み込まれた。
それ自体は、別段、問題ない。ないが──、班員を含め、元の守備隊の兵たちから、不思議な視線を楊休は感じた。
最初、値踏みや嫉視のそれかと思ったが。
──違うか。
楊休がそれまで経験したことない、理解不能なものであるのはわかった。
九班は方々へ散ったが、進行ルートである道には行かないようだ。
──変な話だ。
これから進む道に何かないかを気にするならわかる。だが、中佐の指示は周囲の偵察ということだった。
──背後を突かれるのを気にしているのか?
そう考えれば、ある程度の納得は持てたが、楊休には言語化できない違和感があった。
鮑謖班は森の中に入った。
同班の袁望は。
「何か見つけたら言ってね。鳥とかでもいいよ」
鮑謖にそう言われていた。
鳥を見つけることに何の意味があるのかわからなかったが、袁望が視力に自信があることは、なんとなく察した。
楊休を含め、班員が遠く周りに目を向ける中、鮑謖は何故か下の方をキョロキョロとしながら森を歩いていた。
しばらくして──。
「大尉。向こうに人と、野獣がいるようです」
袁望が言う。
「襲われてるってこと?」
「いえ、戦って、いや、対峙してるのか──、あれ? 鹿も見えます。ちょっと状況はわからないですね」
袁望も困惑の音で語る。
楊休は思う。
──軍ではない。
さりとて。この地にいる人間は、普通に考えて辛国人のはず。民間人といえども、不用意な接触は避けるべきだろう。
──仇討ちの国だ。
仮に家族を汐径軍に殺された人間だったら、あまり好ましい展開にはなるまい。
その認識は、班員が一様に感じるとこだったが。
「うん。とりあえず行ってみよう」
鮑謖は、さして気にした風もなく歩き出した。
──どういうこと?
──こういう事があるのよね。
鮑謖は、独りご満悦だ。自然とその歩武も速まる。
鮑謖も馬鹿ではない。リスクは重々承知である。それでも為さねばならない事情がある。
──鹿肉食べたい!
もう鹿なのだ。馬に乗れない皮肉ではない。頭の中が、口の中が、鹿肉のドコサヘキサエン酸を求めてしまっている。最早、こうなった鮑謖は前に進むのみ。敵意渦巻く軍営にさえ乗り込んでしまう。誰が言ったんだったか──、奇人の頭。理解は混乱への道である。
──なるほど。
鮑謖は一目で完全に理解した。
まず鹿が罠に掛かり身動きが出来なくなった。で、それを豹が狙ったが、その豹も鹿用の罠に掛かってしまった。そこに罠を仕掛けたであろう猟師がやって来て、豹を何とかしようとしている。といった状況だ。
突如あらわれた軍人たちに、猟師の男は戸惑っていたが。
「お父さん。よかったら私がやろうか?」
鮑謖は知ったことない感じで話しかけた。彼女は反応を待たず、相手のすぐ側に立って豹を見ながら。
「あれは高値が付くと思うよ。あまり傷付けずに仕留めるからさ。どうだろう、その手間賃として鹿を譲ってはもらえないかな?」
そのように提案した。
猟師としても悪くない話だった。
自分一人で豹に対処するのは難しいし、誰かを呼びに行っている間に、豹は罠を壊して逃げてしまう虞があった。そしてそれは即ち、鹿をも取り逃すことになる。そう考えると、豹の方は諦めざるを得なかったからだ。
「ああ──、好きにしてくれ」
猟師はひとまず従うことにした。相手は軍人だ。それもたぶん、余所の軍人だ。変に揉めて危ない事になっても困る。
「よし。安心したまえ、私はこーゆーことは得意なんだ」
ひときわ出でたち立派な女は言うと。
「あーキミ。私の真後ろから射れるかい?」
「はい。出来ますが──、たぶん豹には当たらないかと思います」
「うん。それは大丈夫」
立派な女は、一切の逡巡なく威嚇する豹の眼前に行き、子供用みたいな弓をもった女を自身の後ろに立たせた。
──どうする気だ?
てっきり軍人五人で仕留めるのだと思っていた猟師は、この構図に固唾を呑んだ。
「じゃあ、右回りでお願い」
「はい──、いきます!」
言って、射手は斜めにつがえた矢を放った。
矢は右に回り込むように飛び、豹に迫る。豹は身動きが制限されているものの、後ろ足以外は自由で、身を引くようにして矢を躱した。
その認識を猟師が持った瞬間だった──。
──あっ!
いつの間にか立派な女が豹との間合いを詰め、間、髪を入れず杖で豹の頭を振り打った。
それはドゥンという存外に重い音で、豹は腰砕け、そこに追い打ちとばかりダンっと杖が叩きつけられ、獣は絶命した。
「お父さんは、頭はいる?」
立派な女が聞いた。
軍人たちは彼女の指示のもと、鹿を血抜きして、今、腸を取り出したところだった。
「よく知ってるな。くれるなら貰っとくぞ」
猟師は答えた。
軍人が獣を狩ってもおかしくはないが、まだ若い女が的確に指示し、剰え、鹿の角が薬になることも知ってそうであるから。
──猟師の娘か?
と、見立てて。
「猟師の知り合いがいるのか?」
聞くと。
「うん。何人かいるね」
と、返ってきた。
──当たらずとも、遠からずといったとこか。
おそらく、猟師が何人かいる村出身とかであろうと結論付けた。
「ところで、向こうの二股になってる道なんだけど、特に問題ない?」
女が聞いた。
「軍が通るのか?」
確認に、女は頷く。
彼女たちは異国の軍だろう。それに情報を教えるのは、流石にどうかと猟師は思った。
さはさりながら──。
思いがけず関係を持ってしまったのも確かだ。猟師の男の中で葛藤が起こったが。
──どうせ大したことでもない。
一種の諦観を持ち。
「北の道はやめとけ、あれは先細りだ。軍が通るなら色々面倒なんじゃないか? 隊列とか何か知らんが──」
「ああ──。そういうのあるね」
女は何故か他人事みたいに応じた。
──!?
楊休は驚いた。
なんか世間話のような雰囲気で話してると思っていたら、鮑謖大尉は、いとも容易く重要な地理情報を聞き出していた。
──何で鹿の捌き方知ってんだ?
楊休が、そんな疑問を抱いている間の出来事であった。
鹿を木の枝にくくって担ぎ、一行は帰路に就いた。
道中、楊休は鮑謖の動きを振り返っていた。
──走り出しがわからなかった・・
真後ろにいた楊休だったが、気付いたときには既に、鮑謖は豹に肉薄していた。
──近接もできる魔女か。
このあたりが鮑謖が大尉たる所以なのだろうかと、想像した。
「流石ですね──」
班員に話しかけられた。
「ええ──、すごいですね」
「いえ、楊休さんが、ということです。矢ってあんなに曲がるもんなんですね」
言われて、どう返していいか、わからなかった。
「あれ、豹じゃなかったら当たってましたよ」
他の者も同調する。
「ま、まぁ。唯一の特技みたいなものだから──」
楊休は、褒められ慣れてない己を自認しながら、なんとか言葉を返していた。
──えっ?
鮑謖は困惑した。いや──、彼女だけではない。鮑謖隊の探索に行っていた者たちは勿論、待機していた崔弱たちもまた、深い困却の中にいた。
「大尉。実は──」
鮑謖を認めた崔弱が駆け寄って来て言う。
「えーと。つまり。一言でいうと、置いてけぼりにされた?」
「はい──」
鮑謖の確認に、崔弱が応える。
「すぐに追えば、野営の準備の前には間に合うかと思われますが──」
成嬰も言葉を濁す。鮑謖隊はまだ食事を取っていないのだ。ここから更に動けば、隊の士気は大いに下がるだろう。
機転の利く先越も黙ったままだ。
皆が難しく表情を歪める中、しばし考えた鮑謖は──。
「ちょうどイイ──」
それだけ言うと、すぐに食事の準備を始めるように指示した。
皆は、鮑謖の意にも介せずな感じにも当惑したが、同時に。
──大尉には、深い考えがあるのだろう。
と感じて、それ以上、状況を気に懸けることをやめた。
鮑謖隊の兵たちは、孤立した部隊の現状に不安を禁じ得なかったが、隊長鮑謖の泰然とした姿を見て心を落ち着かせた。
そして、肉のたっぷり入った食事を堪能したことで、彼らはその心胆を取り戻した。




