第112話 蝉穴
後翼軍は国境を越えようとしていた──。
汐径軍は執拗に追撃を仕掛けて来たが、彼らにも夜通し戦った疲れがあるのか、決め手になるところまではゆかず、国境に近付いた段階で足を止めた。
それにあわせて後翼軍も歩速を落とし、移動しながらだが、全軍の状況を把握するに至った。
後翼軍が恂門で失った数は七、八百といったところ。上手く逃げた兵が百は戻ってくるとして、実損は全体の二割程度と目された。
対する汐径も、三、四百のダメージは負ったと見られる。
──惜しかった・・
悔恨の念に、雁去病は苛まれていた。
騎馬の妨害が入らなければ、新手の存在がなければ、もう一歩早く動き出していたら、敵の中枢と三百を屠って戦況を有利にすることも出来たはずだ。
──詮無いな。
自覚があっても、それでも「たられば」を考えてしまう。
元より、此度の遠征に否定的だった雁去病だが、そうかといって負け戦をすんなりと受け入れられもしなかった。
国境を越えた所で後翼軍は休止した。
それは文字通りの休憩のために止まったに過ぎず、幕舎などは張られなかった。一休みしたら、また動き出す。そういう類いのものだ。
──そろそろ出発か。
雁去病や、彼の麾下たちもそんな風に感じていたとき。
「大佐。准将が呼ばれています」
言われて、雁去病は裴植の元へと向かった。
行くと、他の主立った指揮者たちも集まっていた。雁去病はそれを認めると。
──何か、掛け合ったな。
准将に対して、思いついた作戦の実行を談判したのだろうと推断した。
非積極的な雁去病でさえ悔しさが募るのだ。この遠征に能動的だった者ともなれば、さもありなんに思えた。そしてそれは──。
「准将も同じか・・」
雁去病は小さくつぶやいた。
「雁去病大佐。新たな作戦の提案があった。貴君の意見を聞きたい」
裴植はそういうと提案者たちの方に目をやった。もう一度、説明しろという意味であろう。
「えー、まず千軍二つに再編成します・・」
提案者たちは気まずさを以て話し始めた。彼らもまた、次なる准将の椅子を狙う者たちである。おそらくは、雁去病を出し抜こうとしたか?
結果は振るわなかったが、恂門では敵を分断し、あわやすわや司令塔の一つを討たんとしていた雁去病の活躍に、焦りを持ったのかも知れない。
提案された作戦の概略は、二軍を東西に動かし、夜陰に紛れて再び越境する。戦捷で緩んだ汐径軍を挟み込む形で奇襲を敢行するというものだった。
「ふむ──。要は金蝉脱殻の計ということか──」
雁去病は言った。
蝉が幼虫の抜け殻を綺麗に残して飛び去るように、あたかも其処に存在すると誤認させて、軍を密かに動かしてしまう計略のことである。
今回の場合、汐径に後翼が帰ったと誤解させて、再び攻撃を仕掛ける話になる。
「悪くはない。しかし、殻が弱いと感じる。果たして相手が油断するかどうか。敵も斥候を放ち、此方の位置を把握しているだろう」
雁去病は懸念を呈する。これに対して──。
「貴君なら、殻をどう残す?」
裴植が問うた。
雁去病は少し考えると。
「ここより幾らか北上し陣を張り、夜は明明と篝を焚く。再侵攻の準備か、敗残兵の帰還場所としてとどまっているか、そのように思わせる。敵は此方の監視を続けるだろう。そこに私は、虚が生まれると考える。詰まるところ、油断ではなく警戒を以て敵を出し抜く」
淀みなく言った。
「なるほど──。敵の注視が、そのまま蝉の抜け殻となるわけか・・」
裴植は頷くように言葉にした。
──これはまたぞろ反発を招くか?
雁去病は少し気にした。
感じとしては、提案された作戦を雁去病がブラッシュアップしたような形だ。裴植が納得を見せたことで、発案者としては面白くないかと想像した。
しかるに──。
「流石は雁去病大佐。臨機応変の素晴らしい発想です」
説明した者が言い、仲間の者が続けて。
「では、大佐が陣にて敵の注意を引き付けて下さるか」
そのように聞いた。深読みせずとも、これ以上の活躍はするなという意味だろう。
「ああ──、構わん。私の隊は負傷した者が多いからな、助かる」
思うところがない訳ではないが、雁去病は鷹揚に返した。
暫し黙考していた裴植は。
「よし──。その策でいく」
言って、後翼軍の次なる行動は決定した。
「准将。ひとつ、お願いがあります」
「聞こう──」
「今、私の下にいる身体強化を使う魔法使いを、攻撃軍に同行させて下さい」
「わかった──」
「ありがとうございます」
「ときに──。貴君が言い出したのだ。陣を構える場所は、雁去病大佐が指示しろ」
「はっ」
淡々とした二人の会話は終わった。
「全軍に通達。移動を再開する」
裴植の言葉で後翼軍は動きだし、雁去病が止めた場所で、彼らは幕舎を張った。




