ギブ・ミー・ハグ!
時系列としては本編後ぐらいです
昼間は雨で、夜は晴れ。
早めに夕飯とお風呂を済ませ、明日の予定を確認すれば、珍しく平日なのに講義もバイトもどちらもなかった。切羽詰まっている課題や演習発表もない。完全なるオフ、完全なる休日というやつだ。
せっかくの休みをどうしようかな。
私はテディベアのボブくんを抱えてベッドに寝転がった。ふわふわのお腹の辺りをもみゅもみゅと揉んでみる。ふむふむ。
一分少々過ぎたころ。ボブくんを球に見立てて投球態勢を取った。目指せ、高校球児。あ、もちろん投げませんよ、振りだけです。
「足りないかも」
独り言にしてみたら、このもやもやした気持ちの正体がわかった気がした。
ボブくんを触っていても抑えきれないこの衝動……どうしてくれよう。
……無性に抱き着きたくなってきた。
我が愛犬のモモがいたらまっさきに後ろから襲いかかって毛並みをひたすら無言で撫でまわすという悪行に出ていたかもしれない。ちょっと可哀想だけれど、もしいたら少しは気が済むのに。
それからは眠るときも落ち着かない。普通の枕を抱き枕代わりにしてもダメだった。枕を軸にして何度も寝返りを打つ。退屈しのぎにスマホに触れると、公人さんからおやすみメッセージが届いていた。私も「おやすみなさい」と返しつつ、この衝動に襲われてからずっとちらついていた解決策の魅力に抗えなくなってきた。
それこそどうしたら……。だって、特に理由もないわけで。
いやしかし、私には伝家の宝刀のごときそれはもうありがたい指輪があるのだ。しかも二つ。
フ、フフフフフ……。
大鍋を混ぜる魔女のように顔がにやけてしまった。
指輪を見ると、なんだか前向き思考になる私。
ひとまず明日公人さんに会いにいくことに決め、「おやすみなさい」メッセージに続きを付けてみた。
『明日、お菓子を作って店に遊びに行きます。美味しかったら、ご褒美ください』
公人さんから返信が来た。
『何か欲しいものでもあるの? 教えて』
う……。も、物ではないわけでしてー。
『まだ内緒です。明日言います!』
そこまで文章を送信してから、ふとこのメッセージのやり取りを振り返ってみた。
……。恥ずかしいね。
※
次の日の昼下がり。私は紙袋一つ持って『菱川産興』の店へ。
レジ近くで山田と話している公人さんの背中にそっと近づいていけば、「おっ」と山田がいち早く気づいて声を上げてしまった。ちっ山田め、せっかく公人さんを驚かせてみたかったのに。
振り返った公人さんはいつものように聖母様の微笑みを浮かべて、「こんにちは」と言う。そこに微塵の動揺もない。
「あ、こんにちは……えーと」
私はそっと公人さんを手招きする。すぐに来てくれた。
「どうしたの?」
「あの、これなんですけど。昨日言っていたお菓子です」
公人さんに紙袋を渡す。
「嬉しいな。ありがとう。少し中を見てもいい?」
「あ、はい。どうぞ。一応柏原さんと山田……さんの分の用意しました」
いけない。うっかり「さん」付けを抜かすところだった。ごほんごほん。
「二人の分も? そこまで気を使わなくてもよかったのに」
そんなことはないです。
何事も心証はいいに越したことはありません。私は、気の使える女になるのです。そうすれば公人さんの好感度もアップし、私はうはうはです。
……そんな妄想はさておき。現実の私は「大事なことですから!」といかめしい顔つきで頷く。これも嘘じゃない。
「あぁ、そうじゃなくて。というよりも……違うな。梢さん。……男心としては他の男にも手作りのお菓子をあげるのは少し複雑なんだよ」
私は公人さんの立場になって考えてみた。
……気合を入れすぎてやらかしてしまったかもしれない。ど、どうする!
公人さんはくすりと笑って私の頭を軽く撫でてから、
「でもせっかくだからこれは渡しておこうか。僕のためにというのは間違ってないし……幸せのお裾分けぐらいできないほどの男とも思われたくない」
そして公人さんは山田!と呼ぶ。
「なんだなんだ?」
「梢さんが僕にお菓子を作ってきてくれたんだよ。お前と柏原にもお裾分けだって。はい」
「お、おう……」
山田の目が私に向かってビームを放つ。ゲジゲジ眉下からのビームだ。これにはいまだに苦手だ。だって顔と身体つきがいかついから。
「山田。そうじゃなくて、お礼は?」
「そ、そうだな。ありがとう、ありがたく食べるよ」
「……どういたしまして」
私もぺこりと頭を下げた。上げたところで山田と目が合う。山田は私と同じくらい気まずそうな顔をして、ごそごそとポケットを探った。
「今、これだけしか食べるもの持ってなくてな。すまん!」
……山田には私が食べ物をたかりにきた子どもに見えているのだろうか。
しかし、チョイスは微妙。なぜカルパス。コンビニの駄菓子コーナーで売っている十円ぐらいのお手頃価格のやつを一つだけ手のひらに乗せられて、私は「わあい」と子どものように大喜びするべきなのだろうか。
これ、たぶん普通にお酒のおつまみにするつもりのやつだったんだろうね。
「ありがとうございます……?」
当然、お礼の言葉も疑問符付き。ひとまずポケットに入れておく。
そのまま公人さんと休憩室まで上がれば、オレンジピールの練り込んだふんわりブッセと紅茶をいただくことになった。満面の笑みでかぶりつく向かい側で、公人さんは紙袋の中身を取り出して、ひと口。
「パウンドケーキだね。ココアが入ってる。美味しいね」
手放しで褒めてくれたものだから思わず「よかったです」とはにかんだような顔になってしまう。口の中のブッセの甘さを一瞬忘れてしまった。
「それでご褒美は何が欲しい? 昨日の時点だと今日話してくれるということだったけれど」
「そ、それはですね……ちょっと立ってもらえませんか?」
「いいよ」
公人さんはその場で立ち上がった。
「それで、少し身体を横向きにして、目を瞑ってください」
「うん」
公人さんはその通りにしてくれた。
私としてもやりやすい。ほら、見られていると思うと、ね。
私も椅子から立ち上がり、そうっとテーブルから回り込み、公人さんに真正面から抱き着いた。両手まで使って、べったりと。さらさらのワイシャツに顔を少し押し付けて、息を吸う。
公人さんの匂いがする。癒される。足りなかったものが補充されていく気がするよー。
背中に公人さんの腕が回る。上から声が降って来た。
「これがご褒美?」
「そうです」
「梢さんがこんなに甘えてくれるなんて珍しい気がするな」
「……そんな時もあります。なんというか」
おしゃべりな口がどうでもいいことをまくしたてていく。私が今思っていたこと。それは――。
「私、クリムトのあの絵が好きなんですけれど……」
「どんな絵?」
「クリムトと言えば、装飾的な黄金の世界で、世紀末の退廃的なイメージがあって……あの、『抱擁』という作品を知っていますか?」
二人の男女が抱き合う。まるでそれだけで世界が完結しているような絵画だ。
「ああ、あれかな。知ってるよ」
「私、大学入ってすぐに図版で見た時からずっといいなと思っていました。それでこうしている時、どうしてあんなに好きだったのかようやく最近わかるようになりました」
「……それは?」
公人さんの顔を見る自信はなかったから、そのままの姿勢で伝える。
「私、ずっと好きな人にこうしたかったんです」
うわ、何て重い発言なんだろう。直後に後悔したけれども、ほとんど同時に強く抱きしめられた。
「梢さんは、かわいい」
平日の午後のわずかな休憩時間。公人さんの職場でのちょびっとだけ背徳的な逢瀬でした。
後日。三木梢、めちゃくちゃカルパスにはまる。山田に少しだけ寛容な気持ちになりました。




