デートでドキドキするのは私だけ?
「はい、やめて。用紙回収してね」
椅子に座ったまま文庫本を読んでいた先生が立ち上がって、タイムアップを宣言した。それまで教室中でカリカリと響いていたシャーペンの音がやむ。諦めたようなため息がいくつも上がった。皆おとなしくテスト用紙を前に回していく。
私はちょうど前列にいたから、用紙を待ち受ける先生に直接紙の束を渡す。その時、たまたま先生の読んでいた本が太宰治の短編集であることを知った。いいご趣味ですね。
全員から用紙を回収したことを確かめた先生は、授業終了を告げて席を立つ。同時に学生たちの緊張も完全に途切れ、ぞろぞろと教室を出ていった。
私もゆっくり筆記用具を片付けてから立ち上がる。結果はどうなるかわからないけれども、ベストはつくせたから後悔はない。テスト勉強に時間を費やせたことが私の自信につながっている。なのですぐさま別のことに頭を切り替えられた。
大掃除の買い出しに行かねば。
汚部屋とはもう言わせない(誰も言ってない)。バイトを辞めて二週間ほどは経っている。テストという言い訳ももう通用しない。これ以上、放置しておいたら大変なことになるのだ。
考えてみて。もしも菱川さんが今の私の部屋を見てしまったとしたら?
『梢さん……。掃除はどうしたの?』
無性に泣きたくなるよね。
しかしながら料理や洗濯はいいとしても、どうも掃除は苦手です。多少汚くたって自分ひとりだと「いいじゃん」とか思ってしまう。圭子おばさん辺りには、清潔さのハードルが低すぎるんじゃないの、梢の「まぁいいや」の程度は普通の人にとっては「汚い」レベルなのだからね、とよくよく言い聞かされている。まして今はわりと「まぁいいや」で済ませている私が「やばい」というぐらいだ、常人からすればすさまじいレベルと言っても過言じゃない。
どちらにせよ、一応「生活充実」を最近の目標に掲げている身の上としては、大掃除は避けて通れない問題だ。ゴキ様にお引き取り願わないと。
あらかじめ作成しておいた「足りない掃除道具リスト」を片手にホームセンターに行き、目的のものを購入する。全部そろってよかった。
部屋に戻ってまず一番にしたことは買ってきたばかりのゴミ袋を一枚広げることだった。いらないものはさっさと捨ててしまおう。
かくして、私の大掃除が始まった。
※
結局、夜までかかってしまった。食事を作るのも面倒なほど疲れてしまったので、今日はおとなしく冷凍チャーハンをチンして食べた。あぁ、楽な方に流されているなぁ……。
けれども自分の成果が目に見える形で現れているのは気分がいい。達成感はある。
今期きりで使わないプリントは整理しておいたし、フローリングや絨毯の清掃も行き届いている。もう読まない本はまとめて古本屋に売り飛ばすつもりだ。キッチン、トイレ、風呂もどうにかこうにか一通り掃除できた。ゴキ様にはもちろんおうちを用意した。どんどん移住してきてください。歓迎しますよ。
綺麗になったお風呂で汗を流した後、明日の準備に取り掛かる。と、いっても服を選ぶだけなんだけれど。
クローゼットから一着一着引っ張り出して、ああでもないこうでもないと考える。
菱川さんはどんな服装が好きなんだろう?
見れば今ある服は意外と種類が少なかった。今年、夏物はほとんど買っていなかったからだなぁ。そのうちどうにかしないと。
結局、少ない選択肢の中で、半袖のブラウスとひざ下丈のパステルピンクのスカートという組み合わせにした。歩くとき、ふわふわと裾が動くのがお気に入りだ。羽根飾りのついた小さなネックレスを首にかけるようにして、カバンはブラウンの肩掛けにして、と。久々にイヤリングでもつけてみようかな。するとしばらく放置していた小物入れからイヤーカフを見つけた。鏡の前で久々につけてみる。あ、いい感じ。
せっかくだから髪もアップにしてみようかな。
ベッドの上に服や小物まで全部並べてみて、今まで菱川さんと会った時との服装とはかぶらないコーディネートに安心した。いつもかも同じような恰好をしたくないもの。
私は明日を待ちわびながら眠りについた。
※
家から一番近い大通りに出ると、折よく一台の白い車が車道脇に止まり、出てきた菱川さんが、「おはよう。乗って」と助手席のドアを開きながら爽やかにいうものだから、何の疑いもなく乗り込んだ。梢お嬢様になった気分だった。車はすぐに発進した。
時刻は午前十時。絶好のデート日和だ。
助手席に座った私は、菱川さんがいつにもましてすっきりとした服装であることを確かめると、改めてデートなんだと実感してそわそわしてしまった。
ちなみに菱川さんは胸ポケットのついた濃紺のTシャツに白いズボンという格好。あ、結構たくましそうな身体つきですね……。
精一杯おしゃれをしてきたつもりだけれど、自分がちんちくりんみたいに思えた。き、気にし過ぎだよね。
車内では地方ラジオ局の音楽番組が流されていた。へー、今の流行ってこんな感じなのねと感心していると、車は信号で止まった。
都市部は信号が多いし、車も多いからしょっちゅう止まる。その上、この都市に住む人は運転が荒いときたものだから、一応普通車免許を持つ私自身、こっちでは運転しないと決めている。ペーパードライバーにはハードすぎる訓練場所なのだ。
その点、菱川さんの運転は本人の性格もあいまってか、安心安全を地で行っている。今もなめらかにブレーキがかかったことにほっと一息。すると菱川さんが少しだけこちらを見た。
「昨日はよく眠れた?」
「はい。でも少し暑かったので、扇風機を付けてました」
「昨日の夜は暑かったからね。起きた時はだいぶ汗をかいてしまったから軽くシャワーを浴びてきたぐらいなんだ。今日も暑くなるそうだから、こまめに水分補給しておこうか。今は大丈夫? 軽くだけど、水筒にミネラルウオーターを詰めておいたから何かあったら飲んで」
菱川執事再び。にわかお嬢様であるところの私が平然とできるわけもなく。
「え? えーっと……」
え、そこまでしてもらうなんて、という恐縮が振る舞いに表れたらしく、さらりと、
「気にしないで。僕はね、少しでも梢さんに何かしてあげたいんだ。だから、ありがとうって笑って、僕に構われていてくれると嬉しい。……そうだね、これも慣れようか」
菱川先生からの宿題だそうです。
現に水筒を差し出されたので、軽く水を口に含む。水はしっかり冷えていた。再び動き出した車窓を眺めながら尋ねてみる。
「あの、これからどこへ?」
昼ごはんは約束したけれど、それまで何をするかは聞いていない。菱川さんの中ではどんな予定がたっているのだろう?
「まずは、そうだね、映画にでも行ってみる? ハンバーガーショップは郊外にあるからそのあたりの映画館になってしまうけれど」
「いいですね」
実はちょっと見てみたいなと思った映画がありまして。
「ポップコーンは塩?」
「断然キャラメル派です!」
「飲み物は?」
「コーラで!」
食いつきがよかったためか、菱川さんは軽く笑い声をあげた。
「キャラメル味のポップコーンに、コーラね。了解」
「あ、でもお昼があるのでそんなにたくさん食べられないですし」
この流れだったらさらっとおごってもらえそうな気がするけれど、私がたかっているみたいに見える。たかり女だと思われたくない。
「僕も食べるからあっという間になくなるよ。せっかくだから食べない?」
菱川さんの横顔は変わらず穏やかなまま。
さきほどの菱川さんの宿題って、こういうのに遠慮するなってことだよね……。
世間一般では普通のこと? わからない。
気持ちが知りたくて、そっと菱川さんを見つめ続ける。ふいに目が合ってどきりとした。運転の合間に菱川さんの左手が伸び、膝の上にあった私の手を軽く撫でていく。ほんのすこしの間だったけれど、まるで一秒が一分に伸びたようだった。
「そんなに熱烈に見つめられたから、触りたくなっちゃった」
菱川さんはそう言って軽く笑った。




