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転生した主人公が次元神になる外伝  作者: ヘルカイザー
知恵の女神と偽りの次元神

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第2話 知恵の女神と発明家

神界の庭園には、穏やかな水音が響いていた。


 白亜の神殿に囲まれた小道で、花々が柔らかな風に揺れている。噴水から立ち上る水は陽の光を受け、細かな輝きを散らしていた。


 知恵の女神アテナは、執務を終え、ゆっくりとその小道を歩いていた。


 考えるべきことは、まだ幾つも残っている。


 机の上に置いてきた書類の一節が、ふと頭をよぎる。けれど、水音に耳を澄ませているうちに、張り詰めていた思考も少しずつほどけていった。


 机に向かっているときには解けなかった問題が、こうして歩いているうちに、ふと形を変えることもある。


 歩調を緩めると、水音の中にも違いがあることが分かった。


 高い場所から落ちる水の音。その下で幾重にも重なり、細かく砕ける音。風が吹くと、近くの葉の擦れる音が、そこへ柔らかく混じった。


 アテナは、静かに息をついた。


 急いで考えをまとめなくてもよい時間が、今は少しだけある。


 もうしばらく歩いたら、机へ戻ろう。そのときには、先ほどまでとは違う見方ができるかもしれない。


「……今日は、少し静かですね」


 いつもなら誰かとすれ違う小道にも、人影はなかった。


 アテナが噴水のそばへ差しかかった、そのときだった。


「ふむふむ……これは興味深いですねぇ♪」


 聞き覚えのない声に、足を止める。


 声の主は、花壇の向こう側にいた。


 小さな白いドラゴン。


 その背には、白い身体と対照的な黒い翼がある。噴水を見上げ、流れ落ちる水を熱心に観察していた。


 水の動きに合わせて、顔の向きがわずかに変わる。しばらく一か所を見つめたかと思えば、今度は水が落ちる先へ視線を移していた。


 アテナは、その姿を知らなかった。


 彼から感じる力の気配に意識を向ける。


 神々の力に似ている。


 けれど、同じものとして捉えようとすると、どこかで理解が噛み合わなくなる。


 足音に気づいているのかいないのか、白いドラゴンは噴水を眺めたままだった。


 アテナは、すぐには近づかなかった。


 まず、周囲へ目を向ける。花壇にも、小道にも、変わった様子はない。水はいつものように流れ、白いドラゴンも、その流れを追っているだけだった。


 力の気配から分かることは、まだ少ない。


 分からないままに結論を出すことは避けたかった。何者なのかを確かめるためにも、言葉を交わす必要がある。


 アテナは慎重に距離を保ち、声をかけた。


「……あなたは、どなたですか?」


「おや?」


 白いドラゴンが振り返る。


 彼女を見つけると、にこりと笑った。


「こんにちは♪ 自分はヘルカイザーと申します♪」


 小さな身体で姿勢を正し、丁寧に頭を下げる。


 その仕草は、どこか執事を思わせるほど上品だった。


 先ほどまで噴水に向いていた注意が、今はきちんと彼女へ向けられている。


 頭を下げる角度も、顔を上げるまでの間も、丁寧だった。


 アテナは、少しだけ意外に思った。見知らぬ場所で声をかけられた相手は、こちらを探るように身構えることもある。けれど彼は、挨拶を返すことに迷わなかった。


 穏やかな声が、水音の中へ自然に溶けていった。


「どうぞよろしくお願いいたします♪」


「……ヘルカイザーさん、ですか」


「ええ♪」


 返事は明るく、ためらいがなかった。


 アテナは相手の表情と、黒い翼の動きを静かに確かめた。翼は畳まれている。こちらを威圧する様子も、声をかけられて困った様子もなかった。


 彼女は、まず自分も名乗ることにした。


「私はアテナと申します」


「おやおや♪ アテナさんですね♪」


「失礼ですが、どちらの神殿の方でしょうか?」


「神殿、ですかぁ?」


 ヘルカイザーは首を傾げ、少し考えた。


「特に所属しておりませんねぇ♪」


「……では、こちらへは何のご用で?」


「面白いものがないか、見て回っておりました♪」


 あまりに自然な答えだった。


 アテナが次の言葉を選んでいる間にも、彼の視線は、ちらりと噴水へ向かう。


 すぐに彼女へ向き直ったものの、流れ落ちる水音を聞くと、また少し顔が動いた。


 先ほどの観察が、よほど気になっているらしい。


 それでも、ヘルカイザーは勝手に話を切り上げようとはしなかった。


 彼女が何か言おうとすれば、すぐに顔を向ける。そのたびに、背後で水が跳ね、彼の目がほんの一瞬だけそちらへ動いた。


 アテナは、次に尋ねる言葉を変えた。


 まず、彼が何を見ているのかを知ってみようと思った。


「……こちらの噴水に、何か?」


「ええ♪ 実に見事な水の動きでしてねぇ♪」


 待っていた話題だったのだろう。ヘルカイザーは、嬉しそうに噴水を指し示した。


「よろしければ、一つお尋ねしても?」


「……何でしょう」


「こちらは、どのような仕組みで水の高さを揃えているのでしょうかねぇ♪」


「水の高さ、ですか?」


「はい♪ 流れが変わっても、全体の形が大きく崩れませんので♪ どう制御しているのか、気になりましてねぇ♪」


 アテナは、改めて噴水を見た。


 幾筋もの水が持ち上がり、それぞれの弧を描いて落ちていく。いつも見ている景色だったが、彼の言葉を聞いてから眺めると、水の高さや流れの重なる位置へ、自然と目が向いた。


「あちらの流れは少し細く、こちらは太いでしょう?♪」


 ヘルカイザーは、二つの水の流れを順に示した。


「ええ」


「それでも、並んだときの形が、とても綺麗に整うんですよ♪ それぞれ、どのように合わせているのかと思いましてねぇ♪」


 アテナは、彼が示した箇所を見比べた。


 流れを一本ずつ見る。今度は、全体を見る。


 なるほど、そこを見ていたのか。


 彼の疑問が分かると、説明すべきことも少しずつ見えてきた。


「……こうしたものに、関心がおありなのですね」


「ええ♪ 自分は発明家ですので♪」


「発明家……」


「仕組みが分かると、いろいろ考えたくなるんですよ♪」


 そう話す瞳には、隠しきれない好奇心があった。


「どこか、直したいところがあるのですか?」


 アテナが尋ねると、ヘルカイザーは少し首を傾げた。


「いえいえ♪ まずは、どう動いているのか知りたいのですよ♪」


「まずは、ですか」


「ええ♪ 分かれば、ほかにもできることが見つかるかもしれませんからねぇ♪」


 その返事に、アテナはもう一度噴水を見た。


 いつもどおりに動いているものにも、まだ考えられることがある。そう思いながら眺めると、彼がこの場所で足を止めた気持ちも分かる気がした。


 アテナは少し考え、噴水の構造について説明した。


 水を送る流路。


 水量を調整する仕組み。


 幾つもの流れを揃え、一定の形を保つための工夫。


 アテナは、目の前の水の動きと結びつけながら話した。


「こちらの水量だけが増えると、周りとの釣り合いが変わります。そのため、一か所を調整するときにも、ほかの流れを確かめる必要があるのです」


「ふむふむ♪ では、こちらを変えれば、あちらにも影響が出るのですねぇ♪」


「はい。そこも一緒に見なければなりません」


 ヘルカイザーの視線が、彼女の示した場所を辿った。


 彼がどこまで理解したのか、その動きからも伝わってくる。アテナは一度言葉を切り、彼が全体を見終えるのを待った。


 初めは、簡単な説明だけで終えるつもりだった。


 ところが、ヘルカイザーは、一つひとつの言葉に熱心に耳を傾けた。


「ふむふむ……」


 説明された箇所へ目を向け、確かめるように頷く。アテナが次の仕組みへ話を進めると、また顔を上げて聞いた。


 その様子を見ているうちに、彼女の説明にも、少しずつ言葉が増えていった。


 ここで水量を変えると、どこへ影響が出るのか。


 流れを揃えるために、なぜこの調整が必要なのか。


「……なるほど。一定に保つためにも、調整は続いているわけですねぇ♪」


「ええ。見えている形が同じでも、そのために必要な働きがあります」


「いやはや、面白いですねぇ♪」


 ヘルカイザーは、説明を聞いた場所へ視線を戻した。


 アテナは、その横顔を見た。


 彼は、分かったところで観察を終えないらしい。説明をもとに実際の動きを見直し、確かめている。


 どこかで引っかかったのか、首が少し傾く。


「……こちらの流れも、同じように考えてよろしいのでしょうか?」


「基本は同じです。ただ、位置によって影響を受ける場所が変わります」


「おや、そうなのですか♪」


 そこで、アテナはもう少し詳しく説明した。


 ヘルカイザーは、最後まで聞き終えると、感心したように声を上げた。


「なるほどですねぇ! いやはや、素晴らしい♪」


 その反応に、アテナの肩から、わずかに力が抜けた。


「ご理解いただけましたか?」


「ええ♪ でしたら、こちらの流れを変えることで、別の動きも作れそうですねぇ♪」


「……別の動き?」


「はい♪ 例えば――」


 ヘルカイザーは噴水を見上げ、少し考えた。


「今は、全体が揃って動いておりますよねぇ♪ これを、一部ずつ動かせたらどうでしょうか♪」


「順番に水量を変える、ということですか?」


「ええ♪ 見る位置によって、流れが追いかけっこをしているように見えるかもしれませんねぇ♪」


 アテナは、その動きを思い浮かべた。


 同じ場所にある水の流れが、少しずつ形を変える。隣へ、またその隣へと変化が移っていけば、確かに違った見え方になるだろう。


「……実際には、どのように?」


 彼女が尋ねると、ヘルカイザーは地面へ目を落とした。


 ヘルカイザーは、地面に簡単な図を描き始めた。


 今ある噴水の流れを示し、そこへ別の流路を書き足していく。


 最初は、幾本かの短い線だけだった。


 水の行き先を説明するときには、その線を繋ぎ、流れを分けるところには小さく印をつける。描きながら、時折、本物の噴水へ顔を向けた。


「少々、簡単な図で失礼いたしますねぇ♪」


「大丈夫です。今のお話なら、こちらの線が――」


「はい♪ そちらへ繋がるつもりですよ♪」


 確かめると、彼は頷いた。


 アテナは、その場から一歩近づいた。


 アテナは、その図を目で追った。


 先ほど説明した仕組みが、線の配置から読み取れた。そのうえで、彼なりの変更が加えられている。


 新しく引かれた線の先を、彼女は少し考えながら辿った。


「……その位置で流れを分けるのですか?」


「ええ♪ そうすれば、こちらの水量を変えられますので♪」


「ですが、これでは一方の流路に負担がかかりすぎませんか?」


 アテナは、分かれ道になっている箇所を示した。


「ここで水量を増やそうとすると、こちら側には、今までよりも多くの水が通ります」


 彼が描いた流路を、もう一度辿る。


「先ほどお話しした釣り合いにも、影響が出ると思います」


 図の先を見つめたまま、返事を待った。


 思いついたことをすぐに試すよりも、まず、この案がどう動くのかを確かめたい。アテナには、そう思わせるだけの面白さが、その図にあった。


「ふむ……」


 ヘルカイザーは、図と噴水を交互に見た。


 一度引いた線の上で、前脚が止まる。


「確かに、そのとおりですねぇ♪」


 顔を上げた彼は、嬉しそうだった。


 アテナは、その表情に少し目を瞬かせた。


 彼はもう、指摘された流路へ向き直っている。問題になった箇所を確かめ、新しい線を引く場所を考えていた。


「……気になるところをお伝えしても、よろしいのですか?」


 思わず尋ねると、彼は顔を上げた。


「もちろんですよ♪ 今、教えていただけて助かりました♪」


「助かった、のですか?」


「ええ♪ このままで良いと思っていたら、そこを考え直せませんからねぇ♪」


 彼は問題の箇所を示し、また噴水を見た。


「どうすればうまくいくか、考えるところが増えましたねぇ♪」


 その言い方に、アテナの口元が少し緩んだ。


「……では、私も一緒に考えてよろしいでしょうか」


「ええ♪ ぜひ、お願いいたします♪」


「でしたら、こちらを変えてみましょうかねぇ♪」


 図の一部を消し、新しい線を引く。


「これなら、どうでしょう?」


 ヘルカイザーは、描き直した箇所を示した。


 すぐに説明を続けることはせず、アテナが線を辿るのを待っている。


 彼女は、先ほどの案と見比べながら、その変化を確かめた。


 水が一か所へ集まらないように、行き先が変わっていた。それなら、問題にしていた負担は減るはずだった。


 けれど、その先の動きを考えると、また気になるところがある。


 アテナは、少し身をかがめた。


「……ええ。それなら負担は減りますね。ただ、水量を切り替える際には――」


「おや? そちらにも課題がありそうですねぇ♪」


「動きを揃えるなら、こちらの調整も必要になると思います」


 アテナは、指先を少し動かした。


「一方を変えた直後に、もう一方を変えるとしても、水が届くまでには間があります。その間に、形が乱れるかもしれません」


「ふむふむ♪ では、同じときに切り替えれば良い、というわけでもないのですねぇ♪」


「はい。実際の流れに合わせて考える必要があります」


 ヘルカイザーは図を見つめ、しばらく黙った。


 アテナも、その沈黙の中で、流路の長さを見比べた。


 どちらかが言葉を足さなくても、今、同じ問題を考えていることが分かる。それが、少し不思議で、心地よかった。


「なるほど♪」


 彼は、また図を書き直した。


 アテナも、自然とその隣に線を加えていた。


 説明しようとした場所へ指先を伸ばし、水の行き先を示す。ヘルカイザーが頷くと、彼女はその先まで線を引いた。


 気づけば、二人は同じ図を囲んでいた。


 声をかけたときには離れていた距離も、図の細部を覗き込めるほどになっている。


 噴水の水音を聞きながら、案を出し、疑問を投げかけ、考え直す。


 話は一度でまとまらなかった。


 ある問題を解くと、別の問題が見えてくる。それを検討しているうちに、さらに新しい案が浮かんだ。


「それでしたら、こちらを先に動かすのはどうでしょう」


 アテナが図を示すと、ヘルカイザーは、ぱっと顔を上げた。


「おや、それは良さそうですねぇ♪」


 ところが、線の先を辿るうちに、彼の前脚が止まった。


「……ふむ。ですが、その間、こちらはどうなるのでしょうかねぇ?」


「こちら……?」


 アテナも、その箇所へ目を向ける。


 切り替える側のことを考えていたため、少し離れた場所へ向かう流れを見落としていた。


「……そうですね。こちらへの影響も、確かめなければなりません」


 彼女は指先を戻した。


 ヘルカイザーは、その隣へ別の線を引いた。


「今のお話に、こちらを加えてみてはどうでしょう?♪」


 アテナは新しい線を辿り、顔を上げた。


「……なるほど。それなら、私の考えた切り替え方も使えそうですね」


「ええ♪ おかげで、こちらから考えられましたよ♪」


 自分の見落としを確かめた場所が、次の案の出発点になっていた。


 アテナは、先ほど彼が嬉しそうに頷いた理由を、少し理解した気がした。


「ありがとうございます。私も、そこは気づきませんでした」


「いえいえ♪ では、次はここを考えませんとねぇ♪」


「ふふっ……本当に、次々と出てきますね」


 ヘルカイザーも楽しそうに笑った。


 アテナは、図と実際の噴水を見比べた。


 先ほどまで聞き慣れた響きだった水音が、今は、考えている仕組みの動きを伝えてくるようだった。


 流れが持ち上がる。


 弧を描き、水面へ戻る。


 その繰り返しの中に、試してみたいことが幾つも見つかった。


 水の形は、図面の線よりもずっと複雑だった。


 流れが重なる場所では、小さなしぶきが生まれる。落ちた水が水面を揺らし、その揺れの上へ、また次の水が落ちていく。


 アテナは、描いた線の端へ指を置いた。


「こちらは、まだ確かめていないことが多いですね」


「ええ♪ 今、分かっていることだけでは決められませんねぇ♪」


「……実際に、どのように見えるのかも」


「そこも楽しみなところですよ♪ 思ったとおりに見えるかどうか、まだ分かりませんからねぇ♪」


 ヘルカイザーは、満足そうに噴水を見上げた。


 アテナも、彼と同じ方向を見た。


 いつもどおりの流れの上へ、二人で考えた動きが重なる。まだ形になっていないのに、その続きを確かめたい気持ちは、もう生まれていた。


「動きが変われば、水音も変わるのでしょうか」


 アテナが呟くと、ヘルカイザーは、少し耳を澄ませるように顔を動かした。


「……おや。そちらも考えてみたいですねぇ♪」


「今は、この音も庭園によく合っていますから」


「ええ♪ せっかく眺めていても、お話が聞こえなくなっては困りますしねぇ♪」


 アテナは、思わず笑った。


「私たちも、もう少し離れて話さなければならなくなりますね」


「それでは、図が遠くなってしまいますよ♪」


 二人は地面の図を見下ろした。


 新しい動きを考えるときには、それを眺める場所のことも気になり始める。水の形だけを見ていたときには、出てこなかった疑問だった。


「……考えることが、また増えました」


「ええ♪ いやはや、一緒に見ていただくと、いろいろ気づけますねぇ♪」


 アテナは頷いた。


 水音を聞きながら、図を囲んで話している。この心地よさも、残せたらよいと思った。


 ヘルカイザーは、彼女の説明を理解すると、すぐに別の可能性を示してくる。そして、分からないところがあれば、ためらわずに尋ねた。


 答えを考えている間に、アテナ自身も、まだ確かめていなかったことに気づく。


「……こちらは、今、答えを出せそうにありません」


 アテナは、一つの箇所を示した。


「もう少し調べてから、お答えしたいと思います」


「おやおや♪ でしたら、そこは残しておきましょう♪」


 ヘルカイザーは、そこへ小さな印をつけた。


 分からない場所が、そのまま図の上へ残る。


「……気になりませんか?」


「もちろん気になりますよ♪ ですから、次に調べるのが楽しみですねぇ♪」


 アテナは、印を見つめた。


 まだ答えがないと告げても、話は途切れなかった。何を確かめるかが決まり、その先を二人で楽しみにできる。


「ええ。私も、確かめてみたくなりました」


 そう答えた声は、自分で思っていたよりも弾んでいた。


 彼女は、もう一度図を見つめた。


「……面白い発想ですね」


 アテナがそう言うと、彼は嬉しそうに顔を上げた。


「おやおや♪ 分かっていただけますか?」


「ええ。まだ検討は必要ですが、試してみたくなる考え方です」


「それは嬉しいですねぇ♪」


 彼の黒い翼が、小さく揺れた。


 その素直な喜びが伝わってきて、アテナも思わず微笑んだ。


「最初にご覧になっていたときから、こうした案を考えていたのですか?」


「いえいえ♪ アテナさんにお話を聞いてからですよ♪」


 ヘルカイザーは、最初に描いた辺りを示した。


「どう動いているのか分からないままでは、こちらも思いつきませんでしたからねぇ♪」


「では、私の説明も、お役に立てたのですね」


「もちろんです♪ それに、今の図は、一人で考えたものとは随分違っていますよ♪」


 アテナは、その図を見た。


 自分が示した箇所を彼が直し、彼が見つけた課題に、自分が別の案を加えた。誰の考えがどこまでか、簡単には分けられなくなっている。


 それを眺めていると、また小さな笑みが浮かんだ。


 どこから来たのか。


 どのような力を持っているのか。


 確かめたいことは、まだ残っている。


 けれど、今、彼の返事を待っているのは、先ほどとは違う理由からだった。


 次は、どんなことを考えるのだろう。


 その続きを、聞いてみたかった。


 アテナは、図の端に残った印を示した。


「こちらは、今の案だけでは難しそうですね」


「ふむふむ……では、別の形も考えてみましょうかねぇ♪」


「別の形?」


「はい♪ 先ほどのやり方だけで、全て動かそうとしなくても良いかもしれませんので♪」


 アテナは、少し考えた。


 たしかに、一つの案を直し続けているうちに、その形を残すことばかり考えていた。


「……そうですね。そこから考え直すこともできます」


「ええ♪ せっかくですから、比べてみたいところですねぇ♪」


 ヘルカイザーが、まだ線のない場所へ前脚を向ける。


 アテナも、そちらへ視線を移した。


 ここへもう一つ案を描けば、今の図と比べられる。どこが違い、その違いが何を変えるのか、確かめてみたかった。


     ◇


 庭園へ差し込む光が、少しずつ傾いていた。


 地面に描いた図のそばへ、長い影が伸びる。


 次の線を加えようとしていたアテナは、そこでようやく顔を上げた。


「……私たち、随分と長く話していましたね」


「おや?」


 ヘルカイザーも周囲を見回す。


「本当ですねぇ♪ いやはや、つい夢中になってしまいました♪」


「ふふっ……私もです」


 言いながら、アテナはもう一度空を見た。


 庭園へ来たときよりも、光の色が柔らかくなっている。花壇の影が、小道の上へ伸びていた。


 ほんの少し説明をしたつもりだった。


 今は地面に、何度も考え直した図が広がっている。


「簡単にお話しするだけのつもりだったのですが」


「おやおや♪ 自分も、一つお尋ねするつもりだったのですよ♪」


 二人は図へ目を向けた。


 増えた線を眺め、ほとんど同時に笑った。


 アテナは立ち上がり、もう一度、地面の図を眺めた。


 何度も消して、引き直した跡が残っている。


 最初の案は、もうそのままの形では見つからない。二人が言葉を交わすたびに、少しずつ形を変えていた。


 線を辿ると、それぞれの場所で交わしたやり取りが思い出された。


 まだ答えの出ていない箇所で、彼女の視線が止まる。


 ここを確かめるためには、戻って資料を見直したい。


 こちらの案なら、もう少し考えれば別のやり方も見つかるかもしれない。


 頭の中で続きを辿りかけて、アテナは、図の向こうにいる相手へ目を向けた。


 自分が答えを見つけても、彼に伝える機会がなければ、このやり取りは今日で終わってしまう。


 それを、少し惜しいと思った。


 今日の話を、ここだけの出来事にしたくなかった。


「ヘルカイザーさん」


「はい?」


「……また、お話しできますか?」


 問いかけると、彼はすぐに頷いた。


「もちろんですよ♪」


 返事は、名乗ったときと同じように明るかった。


 アテナの頬が、自然と緩む。


「では、今度は今日のお話の続きを」


「ええ♪ 自分も、少々考えてきましょうかねぇ♪」


「私も、こちらの仕組みをもう少し確認しておきます」


「おやおや♪ それは楽しみですねぇ♪」


「今日、印をつけたところも、確かめておきたいですね」


 アテナが言うと、ヘルカイザーは頷いた。


「ええ♪ 自分も、もう一つの案を考えておきますよ♪」


「そのときには、また意見をお伝えしても?」


「もちろんですよ♪ むしろ、ぜひ聞かせていただきたいところです♪」


 アテナは、ほっとしたように微笑んだ。


 初めて声をかけたときには、相手が誰なのかを確かめようとしていた。今は、自分の考えを伝える次の機会を、確かめている。


 ヘルカイザーも、また話すことを楽しみにしてくれている。そのことが、嬉しかった。


 今日の話には、決まった結論が出ていない。


 それでも、別れの挨拶を前にした彼の顔は、満足そうだった。


 アテナも、同じ気持ちだった。


 分かったことも、まだ分からないことも、持ち帰るものがある。次に会ったときには、それを広げて、また二人で考えればよい。


 その時間を想像すると、今日の続きが、もう少しだけ先へ伸びたように感じられた。


 ヘルカイザーは、最初と同じように姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。


「本日は、ありがとうございました♪」


「こちらこそ。楽しい時間を、ありがとうございました」


 二人は微笑みを交わした。


 アテナは、最後にもう一度、地面の図を見た。


 最初の疑問も、そこから生まれた案も、まだ覚えている。


 けれど、机へ戻ったら、忘れないうちに書き留めておこうと思った。彼が引いた線も、自分が気になったところも、できるだけ残しておきたかった。


「では、また」


「ええ♪ また、お会いいたしましょう♪」


 短い挨拶を交わして、アテナは小道へ向かった。


 神殿へ向かう小道を歩きながら、アテナは一度だけ振り返った。


 白いドラゴンは、まだ噴水のそばにいた。


 地面の図を見つめ、何かを思いついたように頷いている。それから、確かめるように噴水を見上げた。


 アテナは足を止め、その姿を少しの間、眺めていた。


 今度会ったときには、あの続きを聞かせてくれるのだろう。


 自分も、今日の疑問を調べておこう。


 頭の中には、あの小さな図の続きがあった。


 説明したときの、熱心な相槌。指摘を受けて、嬉しそうに図を直す姿。分からない箇所に印をつけ、次の楽しみのように話していた声。


 思い返すうちに、自分が口にした言葉も蘇る。


 試してみたくなる考え方です。


 あれは、その場だけの賛辞ではなかった。今も、どの資料を調べれば確かめられるかを考えている。


 次に顔を合わせたとき、分かったことを話したい。


 その話を聞いた彼が、どんな案を加えてくれるのかも楽しみだった。


 そう思うと、机へ戻るのが少し楽しみになった。


 アテナは、小さな笑みを浮かべて再び歩き出した。


 背後では、変わらず噴水の水音が響いていた。


 それが、知恵の女神アテナと、発明家ヘルカイザーの最初の出会いだった。

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