第2話 知恵の女神と発明家
神界の庭園には、穏やかな水音が響いていた。
白亜の神殿に囲まれた小道で、花々が柔らかな風に揺れている。噴水から立ち上る水は陽の光を受け、細かな輝きを散らしていた。
知恵の女神アテナは、執務を終え、ゆっくりとその小道を歩いていた。
考えるべきことは、まだ幾つも残っている。
机の上に置いてきた書類の一節が、ふと頭をよぎる。けれど、水音に耳を澄ませているうちに、張り詰めていた思考も少しずつほどけていった。
机に向かっているときには解けなかった問題が、こうして歩いているうちに、ふと形を変えることもある。
歩調を緩めると、水音の中にも違いがあることが分かった。
高い場所から落ちる水の音。その下で幾重にも重なり、細かく砕ける音。風が吹くと、近くの葉の擦れる音が、そこへ柔らかく混じった。
アテナは、静かに息をついた。
急いで考えをまとめなくてもよい時間が、今は少しだけある。
もうしばらく歩いたら、机へ戻ろう。そのときには、先ほどまでとは違う見方ができるかもしれない。
「……今日は、少し静かですね」
いつもなら誰かとすれ違う小道にも、人影はなかった。
アテナが噴水のそばへ差しかかった、そのときだった。
「ふむふむ……これは興味深いですねぇ♪」
聞き覚えのない声に、足を止める。
声の主は、花壇の向こう側にいた。
小さな白いドラゴン。
その背には、白い身体と対照的な黒い翼がある。噴水を見上げ、流れ落ちる水を熱心に観察していた。
水の動きに合わせて、顔の向きがわずかに変わる。しばらく一か所を見つめたかと思えば、今度は水が落ちる先へ視線を移していた。
アテナは、その姿を知らなかった。
彼から感じる力の気配に意識を向ける。
神々の力に似ている。
けれど、同じものとして捉えようとすると、どこかで理解が噛み合わなくなる。
足音に気づいているのかいないのか、白いドラゴンは噴水を眺めたままだった。
アテナは、すぐには近づかなかった。
まず、周囲へ目を向ける。花壇にも、小道にも、変わった様子はない。水はいつものように流れ、白いドラゴンも、その流れを追っているだけだった。
力の気配から分かることは、まだ少ない。
分からないままに結論を出すことは避けたかった。何者なのかを確かめるためにも、言葉を交わす必要がある。
アテナは慎重に距離を保ち、声をかけた。
「……あなたは、どなたですか?」
「おや?」
白いドラゴンが振り返る。
彼女を見つけると、にこりと笑った。
「こんにちは♪ 自分はヘルカイザーと申します♪」
小さな身体で姿勢を正し、丁寧に頭を下げる。
その仕草は、どこか執事を思わせるほど上品だった。
先ほどまで噴水に向いていた注意が、今はきちんと彼女へ向けられている。
頭を下げる角度も、顔を上げるまでの間も、丁寧だった。
アテナは、少しだけ意外に思った。見知らぬ場所で声をかけられた相手は、こちらを探るように身構えることもある。けれど彼は、挨拶を返すことに迷わなかった。
穏やかな声が、水音の中へ自然に溶けていった。
「どうぞよろしくお願いいたします♪」
「……ヘルカイザーさん、ですか」
「ええ♪」
返事は明るく、ためらいがなかった。
アテナは相手の表情と、黒い翼の動きを静かに確かめた。翼は畳まれている。こちらを威圧する様子も、声をかけられて困った様子もなかった。
彼女は、まず自分も名乗ることにした。
「私はアテナと申します」
「おやおや♪ アテナさんですね♪」
「失礼ですが、どちらの神殿の方でしょうか?」
「神殿、ですかぁ?」
ヘルカイザーは首を傾げ、少し考えた。
「特に所属しておりませんねぇ♪」
「……では、こちらへは何のご用で?」
「面白いものがないか、見て回っておりました♪」
あまりに自然な答えだった。
アテナが次の言葉を選んでいる間にも、彼の視線は、ちらりと噴水へ向かう。
すぐに彼女へ向き直ったものの、流れ落ちる水音を聞くと、また少し顔が動いた。
先ほどの観察が、よほど気になっているらしい。
それでも、ヘルカイザーは勝手に話を切り上げようとはしなかった。
彼女が何か言おうとすれば、すぐに顔を向ける。そのたびに、背後で水が跳ね、彼の目がほんの一瞬だけそちらへ動いた。
アテナは、次に尋ねる言葉を変えた。
まず、彼が何を見ているのかを知ってみようと思った。
「……こちらの噴水に、何か?」
「ええ♪ 実に見事な水の動きでしてねぇ♪」
待っていた話題だったのだろう。ヘルカイザーは、嬉しそうに噴水を指し示した。
「よろしければ、一つお尋ねしても?」
「……何でしょう」
「こちらは、どのような仕組みで水の高さを揃えているのでしょうかねぇ♪」
「水の高さ、ですか?」
「はい♪ 流れが変わっても、全体の形が大きく崩れませんので♪ どう制御しているのか、気になりましてねぇ♪」
アテナは、改めて噴水を見た。
幾筋もの水が持ち上がり、それぞれの弧を描いて落ちていく。いつも見ている景色だったが、彼の言葉を聞いてから眺めると、水の高さや流れの重なる位置へ、自然と目が向いた。
「あちらの流れは少し細く、こちらは太いでしょう?♪」
ヘルカイザーは、二つの水の流れを順に示した。
「ええ」
「それでも、並んだときの形が、とても綺麗に整うんですよ♪ それぞれ、どのように合わせているのかと思いましてねぇ♪」
アテナは、彼が示した箇所を見比べた。
流れを一本ずつ見る。今度は、全体を見る。
なるほど、そこを見ていたのか。
彼の疑問が分かると、説明すべきことも少しずつ見えてきた。
「……こうしたものに、関心がおありなのですね」
「ええ♪ 自分は発明家ですので♪」
「発明家……」
「仕組みが分かると、いろいろ考えたくなるんですよ♪」
そう話す瞳には、隠しきれない好奇心があった。
「どこか、直したいところがあるのですか?」
アテナが尋ねると、ヘルカイザーは少し首を傾げた。
「いえいえ♪ まずは、どう動いているのか知りたいのですよ♪」
「まずは、ですか」
「ええ♪ 分かれば、ほかにもできることが見つかるかもしれませんからねぇ♪」
その返事に、アテナはもう一度噴水を見た。
いつもどおりに動いているものにも、まだ考えられることがある。そう思いながら眺めると、彼がこの場所で足を止めた気持ちも分かる気がした。
アテナは少し考え、噴水の構造について説明した。
水を送る流路。
水量を調整する仕組み。
幾つもの流れを揃え、一定の形を保つための工夫。
アテナは、目の前の水の動きと結びつけながら話した。
「こちらの水量だけが増えると、周りとの釣り合いが変わります。そのため、一か所を調整するときにも、ほかの流れを確かめる必要があるのです」
「ふむふむ♪ では、こちらを変えれば、あちらにも影響が出るのですねぇ♪」
「はい。そこも一緒に見なければなりません」
ヘルカイザーの視線が、彼女の示した場所を辿った。
彼がどこまで理解したのか、その動きからも伝わってくる。アテナは一度言葉を切り、彼が全体を見終えるのを待った。
初めは、簡単な説明だけで終えるつもりだった。
ところが、ヘルカイザーは、一つひとつの言葉に熱心に耳を傾けた。
「ふむふむ……」
説明された箇所へ目を向け、確かめるように頷く。アテナが次の仕組みへ話を進めると、また顔を上げて聞いた。
その様子を見ているうちに、彼女の説明にも、少しずつ言葉が増えていった。
ここで水量を変えると、どこへ影響が出るのか。
流れを揃えるために、なぜこの調整が必要なのか。
「……なるほど。一定に保つためにも、調整は続いているわけですねぇ♪」
「ええ。見えている形が同じでも、そのために必要な働きがあります」
「いやはや、面白いですねぇ♪」
ヘルカイザーは、説明を聞いた場所へ視線を戻した。
アテナは、その横顔を見た。
彼は、分かったところで観察を終えないらしい。説明をもとに実際の動きを見直し、確かめている。
どこかで引っかかったのか、首が少し傾く。
「……こちらの流れも、同じように考えてよろしいのでしょうか?」
「基本は同じです。ただ、位置によって影響を受ける場所が変わります」
「おや、そうなのですか♪」
そこで、アテナはもう少し詳しく説明した。
ヘルカイザーは、最後まで聞き終えると、感心したように声を上げた。
「なるほどですねぇ! いやはや、素晴らしい♪」
その反応に、アテナの肩から、わずかに力が抜けた。
「ご理解いただけましたか?」
「ええ♪ でしたら、こちらの流れを変えることで、別の動きも作れそうですねぇ♪」
「……別の動き?」
「はい♪ 例えば――」
ヘルカイザーは噴水を見上げ、少し考えた。
「今は、全体が揃って動いておりますよねぇ♪ これを、一部ずつ動かせたらどうでしょうか♪」
「順番に水量を変える、ということですか?」
「ええ♪ 見る位置によって、流れが追いかけっこをしているように見えるかもしれませんねぇ♪」
アテナは、その動きを思い浮かべた。
同じ場所にある水の流れが、少しずつ形を変える。隣へ、またその隣へと変化が移っていけば、確かに違った見え方になるだろう。
「……実際には、どのように?」
彼女が尋ねると、ヘルカイザーは地面へ目を落とした。
ヘルカイザーは、地面に簡単な図を描き始めた。
今ある噴水の流れを示し、そこへ別の流路を書き足していく。
最初は、幾本かの短い線だけだった。
水の行き先を説明するときには、その線を繋ぎ、流れを分けるところには小さく印をつける。描きながら、時折、本物の噴水へ顔を向けた。
「少々、簡単な図で失礼いたしますねぇ♪」
「大丈夫です。今のお話なら、こちらの線が――」
「はい♪ そちらへ繋がるつもりですよ♪」
確かめると、彼は頷いた。
アテナは、その場から一歩近づいた。
アテナは、その図を目で追った。
先ほど説明した仕組みが、線の配置から読み取れた。そのうえで、彼なりの変更が加えられている。
新しく引かれた線の先を、彼女は少し考えながら辿った。
「……その位置で流れを分けるのですか?」
「ええ♪ そうすれば、こちらの水量を変えられますので♪」
「ですが、これでは一方の流路に負担がかかりすぎませんか?」
アテナは、分かれ道になっている箇所を示した。
「ここで水量を増やそうとすると、こちら側には、今までよりも多くの水が通ります」
彼が描いた流路を、もう一度辿る。
「先ほどお話しした釣り合いにも、影響が出ると思います」
図の先を見つめたまま、返事を待った。
思いついたことをすぐに試すよりも、まず、この案がどう動くのかを確かめたい。アテナには、そう思わせるだけの面白さが、その図にあった。
「ふむ……」
ヘルカイザーは、図と噴水を交互に見た。
一度引いた線の上で、前脚が止まる。
「確かに、そのとおりですねぇ♪」
顔を上げた彼は、嬉しそうだった。
アテナは、その表情に少し目を瞬かせた。
彼はもう、指摘された流路へ向き直っている。問題になった箇所を確かめ、新しい線を引く場所を考えていた。
「……気になるところをお伝えしても、よろしいのですか?」
思わず尋ねると、彼は顔を上げた。
「もちろんですよ♪ 今、教えていただけて助かりました♪」
「助かった、のですか?」
「ええ♪ このままで良いと思っていたら、そこを考え直せませんからねぇ♪」
彼は問題の箇所を示し、また噴水を見た。
「どうすればうまくいくか、考えるところが増えましたねぇ♪」
その言い方に、アテナの口元が少し緩んだ。
「……では、私も一緒に考えてよろしいでしょうか」
「ええ♪ ぜひ、お願いいたします♪」
「でしたら、こちらを変えてみましょうかねぇ♪」
図の一部を消し、新しい線を引く。
「これなら、どうでしょう?」
ヘルカイザーは、描き直した箇所を示した。
すぐに説明を続けることはせず、アテナが線を辿るのを待っている。
彼女は、先ほどの案と見比べながら、その変化を確かめた。
水が一か所へ集まらないように、行き先が変わっていた。それなら、問題にしていた負担は減るはずだった。
けれど、その先の動きを考えると、また気になるところがある。
アテナは、少し身をかがめた。
「……ええ。それなら負担は減りますね。ただ、水量を切り替える際には――」
「おや? そちらにも課題がありそうですねぇ♪」
「動きを揃えるなら、こちらの調整も必要になると思います」
アテナは、指先を少し動かした。
「一方を変えた直後に、もう一方を変えるとしても、水が届くまでには間があります。その間に、形が乱れるかもしれません」
「ふむふむ♪ では、同じときに切り替えれば良い、というわけでもないのですねぇ♪」
「はい。実際の流れに合わせて考える必要があります」
ヘルカイザーは図を見つめ、しばらく黙った。
アテナも、その沈黙の中で、流路の長さを見比べた。
どちらかが言葉を足さなくても、今、同じ問題を考えていることが分かる。それが、少し不思議で、心地よかった。
「なるほど♪」
彼は、また図を書き直した。
アテナも、自然とその隣に線を加えていた。
説明しようとした場所へ指先を伸ばし、水の行き先を示す。ヘルカイザーが頷くと、彼女はその先まで線を引いた。
気づけば、二人は同じ図を囲んでいた。
声をかけたときには離れていた距離も、図の細部を覗き込めるほどになっている。
噴水の水音を聞きながら、案を出し、疑問を投げかけ、考え直す。
話は一度でまとまらなかった。
ある問題を解くと、別の問題が見えてくる。それを検討しているうちに、さらに新しい案が浮かんだ。
「それでしたら、こちらを先に動かすのはどうでしょう」
アテナが図を示すと、ヘルカイザーは、ぱっと顔を上げた。
「おや、それは良さそうですねぇ♪」
ところが、線の先を辿るうちに、彼の前脚が止まった。
「……ふむ。ですが、その間、こちらはどうなるのでしょうかねぇ?」
「こちら……?」
アテナも、その箇所へ目を向ける。
切り替える側のことを考えていたため、少し離れた場所へ向かう流れを見落としていた。
「……そうですね。こちらへの影響も、確かめなければなりません」
彼女は指先を戻した。
ヘルカイザーは、その隣へ別の線を引いた。
「今のお話に、こちらを加えてみてはどうでしょう?♪」
アテナは新しい線を辿り、顔を上げた。
「……なるほど。それなら、私の考えた切り替え方も使えそうですね」
「ええ♪ おかげで、こちらから考えられましたよ♪」
自分の見落としを確かめた場所が、次の案の出発点になっていた。
アテナは、先ほど彼が嬉しそうに頷いた理由を、少し理解した気がした。
「ありがとうございます。私も、そこは気づきませんでした」
「いえいえ♪ では、次はここを考えませんとねぇ♪」
「ふふっ……本当に、次々と出てきますね」
ヘルカイザーも楽しそうに笑った。
アテナは、図と実際の噴水を見比べた。
先ほどまで聞き慣れた響きだった水音が、今は、考えている仕組みの動きを伝えてくるようだった。
流れが持ち上がる。
弧を描き、水面へ戻る。
その繰り返しの中に、試してみたいことが幾つも見つかった。
水の形は、図面の線よりもずっと複雑だった。
流れが重なる場所では、小さなしぶきが生まれる。落ちた水が水面を揺らし、その揺れの上へ、また次の水が落ちていく。
アテナは、描いた線の端へ指を置いた。
「こちらは、まだ確かめていないことが多いですね」
「ええ♪ 今、分かっていることだけでは決められませんねぇ♪」
「……実際に、どのように見えるのかも」
「そこも楽しみなところですよ♪ 思ったとおりに見えるかどうか、まだ分かりませんからねぇ♪」
ヘルカイザーは、満足そうに噴水を見上げた。
アテナも、彼と同じ方向を見た。
いつもどおりの流れの上へ、二人で考えた動きが重なる。まだ形になっていないのに、その続きを確かめたい気持ちは、もう生まれていた。
「動きが変われば、水音も変わるのでしょうか」
アテナが呟くと、ヘルカイザーは、少し耳を澄ませるように顔を動かした。
「……おや。そちらも考えてみたいですねぇ♪」
「今は、この音も庭園によく合っていますから」
「ええ♪ せっかく眺めていても、お話が聞こえなくなっては困りますしねぇ♪」
アテナは、思わず笑った。
「私たちも、もう少し離れて話さなければならなくなりますね」
「それでは、図が遠くなってしまいますよ♪」
二人は地面の図を見下ろした。
新しい動きを考えるときには、それを眺める場所のことも気になり始める。水の形だけを見ていたときには、出てこなかった疑問だった。
「……考えることが、また増えました」
「ええ♪ いやはや、一緒に見ていただくと、いろいろ気づけますねぇ♪」
アテナは頷いた。
水音を聞きながら、図を囲んで話している。この心地よさも、残せたらよいと思った。
ヘルカイザーは、彼女の説明を理解すると、すぐに別の可能性を示してくる。そして、分からないところがあれば、ためらわずに尋ねた。
答えを考えている間に、アテナ自身も、まだ確かめていなかったことに気づく。
「……こちらは、今、答えを出せそうにありません」
アテナは、一つの箇所を示した。
「もう少し調べてから、お答えしたいと思います」
「おやおや♪ でしたら、そこは残しておきましょう♪」
ヘルカイザーは、そこへ小さな印をつけた。
分からない場所が、そのまま図の上へ残る。
「……気になりませんか?」
「もちろん気になりますよ♪ ですから、次に調べるのが楽しみですねぇ♪」
アテナは、印を見つめた。
まだ答えがないと告げても、話は途切れなかった。何を確かめるかが決まり、その先を二人で楽しみにできる。
「ええ。私も、確かめてみたくなりました」
そう答えた声は、自分で思っていたよりも弾んでいた。
彼女は、もう一度図を見つめた。
「……面白い発想ですね」
アテナがそう言うと、彼は嬉しそうに顔を上げた。
「おやおや♪ 分かっていただけますか?」
「ええ。まだ検討は必要ですが、試してみたくなる考え方です」
「それは嬉しいですねぇ♪」
彼の黒い翼が、小さく揺れた。
その素直な喜びが伝わってきて、アテナも思わず微笑んだ。
「最初にご覧になっていたときから、こうした案を考えていたのですか?」
「いえいえ♪ アテナさんにお話を聞いてからですよ♪」
ヘルカイザーは、最初に描いた辺りを示した。
「どう動いているのか分からないままでは、こちらも思いつきませんでしたからねぇ♪」
「では、私の説明も、お役に立てたのですね」
「もちろんです♪ それに、今の図は、一人で考えたものとは随分違っていますよ♪」
アテナは、その図を見た。
自分が示した箇所を彼が直し、彼が見つけた課題に、自分が別の案を加えた。誰の考えがどこまでか、簡単には分けられなくなっている。
それを眺めていると、また小さな笑みが浮かんだ。
どこから来たのか。
どのような力を持っているのか。
確かめたいことは、まだ残っている。
けれど、今、彼の返事を待っているのは、先ほどとは違う理由からだった。
次は、どんなことを考えるのだろう。
その続きを、聞いてみたかった。
アテナは、図の端に残った印を示した。
「こちらは、今の案だけでは難しそうですね」
「ふむふむ……では、別の形も考えてみましょうかねぇ♪」
「別の形?」
「はい♪ 先ほどのやり方だけで、全て動かそうとしなくても良いかもしれませんので♪」
アテナは、少し考えた。
たしかに、一つの案を直し続けているうちに、その形を残すことばかり考えていた。
「……そうですね。そこから考え直すこともできます」
「ええ♪ せっかくですから、比べてみたいところですねぇ♪」
ヘルカイザーが、まだ線のない場所へ前脚を向ける。
アテナも、そちらへ視線を移した。
ここへもう一つ案を描けば、今の図と比べられる。どこが違い、その違いが何を変えるのか、確かめてみたかった。
◇
庭園へ差し込む光が、少しずつ傾いていた。
地面に描いた図のそばへ、長い影が伸びる。
次の線を加えようとしていたアテナは、そこでようやく顔を上げた。
「……私たち、随分と長く話していましたね」
「おや?」
ヘルカイザーも周囲を見回す。
「本当ですねぇ♪ いやはや、つい夢中になってしまいました♪」
「ふふっ……私もです」
言いながら、アテナはもう一度空を見た。
庭園へ来たときよりも、光の色が柔らかくなっている。花壇の影が、小道の上へ伸びていた。
ほんの少し説明をしたつもりだった。
今は地面に、何度も考え直した図が広がっている。
「簡単にお話しするだけのつもりだったのですが」
「おやおや♪ 自分も、一つお尋ねするつもりだったのですよ♪」
二人は図へ目を向けた。
増えた線を眺め、ほとんど同時に笑った。
アテナは立ち上がり、もう一度、地面の図を眺めた。
何度も消して、引き直した跡が残っている。
最初の案は、もうそのままの形では見つからない。二人が言葉を交わすたびに、少しずつ形を変えていた。
線を辿ると、それぞれの場所で交わしたやり取りが思い出された。
まだ答えの出ていない箇所で、彼女の視線が止まる。
ここを確かめるためには、戻って資料を見直したい。
こちらの案なら、もう少し考えれば別のやり方も見つかるかもしれない。
頭の中で続きを辿りかけて、アテナは、図の向こうにいる相手へ目を向けた。
自分が答えを見つけても、彼に伝える機会がなければ、このやり取りは今日で終わってしまう。
それを、少し惜しいと思った。
今日の話を、ここだけの出来事にしたくなかった。
「ヘルカイザーさん」
「はい?」
「……また、お話しできますか?」
問いかけると、彼はすぐに頷いた。
「もちろんですよ♪」
返事は、名乗ったときと同じように明るかった。
アテナの頬が、自然と緩む。
「では、今度は今日のお話の続きを」
「ええ♪ 自分も、少々考えてきましょうかねぇ♪」
「私も、こちらの仕組みをもう少し確認しておきます」
「おやおや♪ それは楽しみですねぇ♪」
「今日、印をつけたところも、確かめておきたいですね」
アテナが言うと、ヘルカイザーは頷いた。
「ええ♪ 自分も、もう一つの案を考えておきますよ♪」
「そのときには、また意見をお伝えしても?」
「もちろんですよ♪ むしろ、ぜひ聞かせていただきたいところです♪」
アテナは、ほっとしたように微笑んだ。
初めて声をかけたときには、相手が誰なのかを確かめようとしていた。今は、自分の考えを伝える次の機会を、確かめている。
ヘルカイザーも、また話すことを楽しみにしてくれている。そのことが、嬉しかった。
今日の話には、決まった結論が出ていない。
それでも、別れの挨拶を前にした彼の顔は、満足そうだった。
アテナも、同じ気持ちだった。
分かったことも、まだ分からないことも、持ち帰るものがある。次に会ったときには、それを広げて、また二人で考えればよい。
その時間を想像すると、今日の続きが、もう少しだけ先へ伸びたように感じられた。
ヘルカイザーは、最初と同じように姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「本日は、ありがとうございました♪」
「こちらこそ。楽しい時間を、ありがとうございました」
二人は微笑みを交わした。
アテナは、最後にもう一度、地面の図を見た。
最初の疑問も、そこから生まれた案も、まだ覚えている。
けれど、机へ戻ったら、忘れないうちに書き留めておこうと思った。彼が引いた線も、自分が気になったところも、できるだけ残しておきたかった。
「では、また」
「ええ♪ また、お会いいたしましょう♪」
短い挨拶を交わして、アテナは小道へ向かった。
神殿へ向かう小道を歩きながら、アテナは一度だけ振り返った。
白いドラゴンは、まだ噴水のそばにいた。
地面の図を見つめ、何かを思いついたように頷いている。それから、確かめるように噴水を見上げた。
アテナは足を止め、その姿を少しの間、眺めていた。
今度会ったときには、あの続きを聞かせてくれるのだろう。
自分も、今日の疑問を調べておこう。
頭の中には、あの小さな図の続きがあった。
説明したときの、熱心な相槌。指摘を受けて、嬉しそうに図を直す姿。分からない箇所に印をつけ、次の楽しみのように話していた声。
思い返すうちに、自分が口にした言葉も蘇る。
試してみたくなる考え方です。
あれは、その場だけの賛辞ではなかった。今も、どの資料を調べれば確かめられるかを考えている。
次に顔を合わせたとき、分かったことを話したい。
その話を聞いた彼が、どんな案を加えてくれるのかも楽しみだった。
そう思うと、机へ戻るのが少し楽しみになった。
アテナは、小さな笑みを浮かべて再び歩き出した。
背後では、変わらず噴水の水音が響いていた。
それが、知恵の女神アテナと、発明家ヘルカイザーの最初の出会いだった。




