嘘です!
「エレノアは、まだ帰らないの?」
公爵夫人イザベラは、夜の間も、朝を迎えても、何度も同じ問いを繰り返した。
エレノア付きの侍女は帰らず、王家からの送迎もなければ、何の使いも来ない。
まだ嫁入り前の娘だというのに、殿下はなんて困ったお方かしら。イザベラはそう自分に言い聞かせ、ここで大騒ぎしては、娘に恥をかかせ家名に傷をつけてしまう。ただひたすらに待ち続けた。
しかし、翌朝になって公爵家に届いたのは、娘が婚約を破棄されたという、あまりにも冷酷で短い紙切れ一枚の知らせだけだった。
――それから三日後、エレノアは見つかった。
水底に沈んでいた遺体はすっかり膨らみ、水生生物に穴だらけにされ、顔の骨は無残に砕け面影はなかった。身につけていた土色に変色したドレスだけが、それがエレノアであることを証明していた。
「奥様……」
報告に上がった侍女が、いたたまれずに目を伏せる。
そのただならぬ様子に、イザベラは椅子から立ち上がった。
「何か知っているのね?」
「それが……今朝、川の下流で……」
侍女はそれ以上、言葉を続けられず言い淀んだ。
イザベラは侍女の肩を強く掴んだ。
「川で、何があったの?」
「お嬢様が……お嬢様のお体が、上がったのです」
やがて、エレノアの遺体が屋敷へと運ばれてきた。
泥に汚れた金髪。ふやけて、見る影もなくめちゃくちゃになった顔。
イザベラは、その凄惨な遺体をじっと見つめた。
長い沈黙の後、彼女は表情をふっと和らげ、狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「違うわ」
周囲の侍女たちが息を呑んだ。
「奥様……?」
「違うと言っているでしょう?」
イザベラは、遺体のぶよぶよとした歪な頬に触れた。指が、皮膚の奥の不気味な感触を捉える。
「この子はエレノアじゃないわ。だって、あの子は三日前、王城へ行ったのよ。帰ってきたら、新しい刺繍を見せてくれると約束したんだから」
彼女の指は、その崩れた肉を突いた。
「ねえ、エレノアはどこに隠れているの? どうしてあなたは、エレノアの服を着ているの?」
誰も答えなかった。ただ、部屋中に侍女のすすり泣く声だけが響く。
「隠れていないで、出ていらっしゃい。お母様は少し帰りが遅いくらいで怒ったりしないわ。ちっとも怒っていないのよ」
イザベラは優しく微笑んだまま、愛娘であることを頑なに否定した遺体を、強く、愛おしそうに抱きしめた。
遺体は腐臭をまき散らしながらボロボロと崩れた。
◇
それから一週間後。
葬儀を終え、深い喪服に身を包んだ公爵夫人は、一人、王城へと向かった。
まだ見ぬ娘を探すために。
「エレノアは、こちらに来ていませんか?」
王城の正門で、イザベラは虚ろな目で衛兵に尋ねた。
「公爵夫人……?」
「娘を探しているのです。エレノア・ヴァレンシュタイン。こちらに来れば、殿下がお会いくださっているはずなの」
衛兵たちは一斉に顔を見合わせた。公爵令嬢が悲惨な死を遂げたことは、すでに王城内にも知れ渡っていた。
だが、目の前で微笑む母親にどう告げればいいのか、誰も分からなかった。
「お嬢様は、その……すでに……」
「ええ、ええ、分かっていますわ。あの子は私に怒っているのでしょうね。 少し習い事を厳しくさせすぎたせいかしら?だから、私に隠れてここへ来ているはずなの。どこかのお部屋に匿われているのではなくて?」
イザベラは嬉しそうに笑った。その笑顔があまりにも痛々しく、狂気に満ちていたため、若い衛兵は恐怖と哀れみで視線を落とした。
「……お通り、ください」
結局、彼らは高貴な公爵夫人を力ずくで追い返すことができなかった。
イザベラは王城に入り込んだ。
長い廊下を宛てもなく歩き、部屋を覗き、すれ違う使用人に文官、貴族を見つけては何度も尋ねた。
「うちの娘を見ませんでしたか?」
「エレノアという子なの。輝く金色の髪で、澄んだ青い目をしていて……本当に綺麗な子なのよ」
「パーティの夜から帰ってこないの。困った子でしょう?」
「見かけたら教えてくださいな。あの子、きっと意地を張って帰るタイミングをなくしただけなの。本当はとても寂しがっている」
誰も答えられなかった。
彼女を見かけるたび、使用人たちは恐怖に顔を青ざめさせ、這うようにして逃げ出した。
噂は瞬く間に城内を駆け巡った。
『公爵夫人が、亡くなった娘を探して王城を彷徨っている』
『娘の死を受け入れられず、完全に頭がおかしくなってしまったのだ』と。
同情する者はいた。だが、王太子レオンハルトの機嫌を損ねることを恐れ、誰も公爵夫人と関わろうとはしない。
そしてひと月後。
水すら満足に喉を通さず、枯れ枝のようにやせ細ったイザベラは、とうとう王太子の執務室の前に現れた。
「殿下にお目通りを願います」
「お待ちください、公爵夫人! 殿下は今、公務でお忙しく――」
「大丈夫ですわ。少し、あの子のことについてお尋ねしたいだけなの」
衛兵が制止するよりも早く、彼女は音もなく扉を開け放った。
「殿下!」
書類に目を通していたレオンハルトが、不快そうに顔を上げた。
「何だ。……チッ、公爵夫人か」
「エレノアを見ませんでしたか?」
その名前を耳にした途端、王太子の眉がピクリと不快げに跳ね上がった。
「まだそんな世迷言を言っているのか。いい加減にしろ」
「ええ、だってあの子、こちらにいるのでしょう? お願いですから、会わせてくださいませ。あの子はとても寂しがり屋ですから、きっと暗い部屋で一人で泣いているはずなんですの」
「衛兵!この狂人を連れ出せ!」
「殿下!」
イザベラは一歩、鋭く前に踏み出した。その目は爛々と輝いている。
「わたくし、何か殿下に失礼なことをいたしましたか? 娘が何か、殿下のお気に障るような非礼を?」
「お前の娘の話など、二度と聞きたくもない!」
レオンハルトは激昂し、机を激しく叩いた。
「婚約破棄は正式に受理された! あの女はもう王家とは何の関係もない! いつまで狂ったふりをして王城に押しかければ気が済むのだ!」
イザベラの唇が、不自然な形に歪む。
「……あの子は、何も悪いことをしていないのです。ただの一度も」
「黙れと言っている!」
「お願いです。せめて一度だけ、元気な顔を見せていただければ、わたくしはすぐに帰りますから……」
「いい加減にしろと言っているんだ!!」
レオンハルトが完全に理性を失い、立ち上がった。
毎日、毎日、城内で繰り広げられる公爵夫人の奇行。誰もが自分を責めるような冷ややかな視線とヒソヒソ声。それらへの苛立ちと、心の奥底にあるほんのわずかな罪悪感が、彼の防衛本能を爆発させた。
「わざとやっているんだろう!?俺への嫌がらせか!? 娘がいないと城内で喚き立てれば、俺が罪悪感で押し潰されるとでも思ったか! 諦めろ、お前の娘は死んだんだよ!!」
イザベラはカチリと目を見開いた。
「……娘が、死んだ?」
「そうだ! とっくに死んで腐ってたんだろうが!」
その一言が、彼女の脳内に張り巡らされていた防衛線を乱暴に引きちぎった。だが、彼女は不気味なほど静かに首を振った。
「嘘ですわ」
「何だと?」
「嘘です。エレノアは生きていますもの。だってあの子は……」
「これ以上、俺をイライラさせるな!」
レオンハルトは狂ったイザベラの態度に底知れぬ恐怖を覚え、それを掻き消すように最悪の事実を怒鳴り散らした。
「もううんざりだ! 教えてやる! お前の娘は、俺が雇ったゴロツキどもに乱暴され、勝手に絶望して自害したんだよ!」
執務室の空気が、凍りついたように静まり返った。
外で聞き耳を立てていた衛兵たちですら、息を呑む音が聞こえるほどに。
「……自害……?」
「そうだ! 川に飛び込んだんだ! 婚約を破棄され、純潔を失った程度で大袈裟に死にやがって! 尼寺にでも籠もって静かに余生を過ごせばいいものを、当てつけのように死にやがって」
イザベラの顔から、完全に生気が消え失せた。
レオンハルトはもう止まらなかった。口を滑らせた恐怖を、傲慢さで塗りつぶそうと叫び続ける。
「それとも何か、俺が悪いとでも言いたいのか!? 俺の人生を、王太子である俺自身が決めて何が悪い! 未来の障害になる女を、申し開きなど出来ないように、二度と人前に出られないように傷物にして排除してやったら、勝手に壊れて死んだ! ただそれだけの話だ!」
「嘘……」
「現実を見ろ!」
「嘘ですッ!!」
イザベラの鼓膜を破らんばかりの悲鳴が、執務室の壁を震わせた。
「エレノアが、いないなんて……そんなこと、あり得ません!!」
「うるさい、連れ出せ!」
「嘘です、嘘です、嘘です、嘘です!!」
公爵夫人は狂ったように自分の耳を両手で塞いだ。
脳裏に、鮮明な娘の笑顔が溢れ出す。
幼い頃、転んでシクシクと泣いた小さな娘。
初めて仕立てたドレスを着て、照れくさそうに頬を染めた娘。
あの夜、出かける前に、優しく振り返って手を振った娘。
『――お母様、帰ったらたくさんお話ししたいことがあるの』
「返してください……」
イザベラは糸が切れたようにその場に崩れ落ち、膝をついた。
「お願いですから……私の、私のエレノアを返してください……」
だが、王太子は冷酷にそれを見下ろすだけだった。その瞳には、一滴の哀れみすら浮かんでいない。
イザベラは、ゆっくりと立ち上がった。
その動きには、もう先ほどまでの取り乱した様子はなかった。魂が抜け落ちたような無表情のまま、ふらふらとテラスの窓へと歩いていく。
「おい、どこへ行く! 止めろ!」
危険を察した衛兵が駆け寄る。
イザベラはテラスの欄干に足をかけた。
「エレノア……そこにいたのね」
歓喜に満ちた呟きと共に、彼女は真っ逆さまに身を投げた。
凄惨な悲鳴が響き渡る。
駆け寄った衛兵たちが慌てて下を覗き込んだ。レオンハルトは、窓辺から一歩も動けず、ただ激しく動悸する胸を押さえていた。
やがて、一人の衛兵が震え上がる声で告げた。
「……公爵夫人が……、即死です……」
レオンハルトは盛大に舌打ちをした。
「何ということだ。……最後まで、反吐が出るほど迷惑な親子め」
その言葉を聞いた者は、誰も口を開こうとはしなかった。
◇
その日の深夜。
深い静寂に包まれた王城の廊下を、一人の女が静かに歩いていた。
薄い喪服。
乱れ髪。
生きている人間とは思えないほど、青白い顔。
ペタ、ペタ、と、足音が不気味に響く。
女は、夜勤で行き交う侍女の一人を見つけると、にこりと微笑みかけた。
「こんばんは」
侍女は怪訝に思いながら振り返った。
「……はい? どちら様でしょうか……」
「少し、お尋ねしたいことがあるのですけれど、うちの娘を見ませんでしたか?」
侍女は一瞬言葉を失い、目を瞬かせた。
「娘……ですか?」
「ええ。エレノアというの。金色の髪で、青い目をしていて、とっても綺麗な、自慢の娘なのよ」
侍女の顔からみるみる血の気が引いていく。
その顔、その声を、彼女はよく知っていた。公爵夫人イザベラ。
つい数時間前、王太子の執務室から身を投げ、頭を砕いて事切れたはずの亡霊。
「おく、さま……?」
「あら、わたくしをご存じなの?」
女は嬉しそうに、口元を耳元まで裂くようにして笑った。
「よかったわ。では、エレノアの居場所もご存じでしょう? あの子、どこへ行ったのかしら。ずっと探しているのだけれど、どうしても見つからなくて」
侍女は恐怖のあまり、悲鳴すら上げられなかった。
女は困ったように、歪んだ眉を下げた。
「王太子殿下が、独り占めしたくてきっと王城に隠してるんですわ。もう少し我慢すれば毎日会えるのに。でもエレノアは可愛すぎますから、あまり殿下を責められませんわね」
その瞬間、廊下に灯っていた燭台の炎が一斉に掻き消え、漆黒の闇の中で、ようやく侍女の凄惨な悲鳴が響き渡った。
◇
翌朝、王城内は一気にパニックへと陥った。
深夜、廊下に公爵夫人の幽霊が現れ、誰彼かまわず娘の行方を尋ね、遭遇した者は心を病んでしまうというのだ。
王太子レオンハルトは執務室で荒れ狂った。
「くだらん!くだらん! あの女は死んだのだ! 亡霊などこの世にいるものか!」
しかし、その夜。
レオンハルトが幾重もの衛兵を私室の前に配備し、厳重に鍵をかけて寝室のベッドに入った時のことだ。
ふと、部屋の中に冷たい風が吹き抜けた。
重いカーテンが揺れる窓辺に、一人の女が、月の光を背に浴びて立っていた。
「こんばんは、殿下」
彼は息を呑み、全身の毛が逆立つのを感じた。
イザベラだった。
二日前の昼間、確かに死体となって片付けられたはずの公爵夫人が、あの時と全く同じ、穏やかで狂気に満ちた笑顔を浮かべて彼を見つめている。
「……ッ、衛兵!! 衛兵を呼べ!!」
レオンハルトが狂ったように叫び、廊下から無数の足音が近づいてくる。
するとイザベラは、首を傾げ囁いた。
「お忙しいようですし、また明日、お伺いしますわね」
彼女の姿は煙のようにふっと消え失せた。
なだれ込んできた衛兵たちが目にしたのは、恐怖にガタガタと震えながらベッドを濡らしている、かつて傲慢だった王太子の姿だけだった。




