三文芝居
「エレノア!お前との婚約を破棄する!」
王城の大広間に、王太子レオンハルトの冷徹な声が響き渡る。
楽団の演奏が止まり、貴族たちの談笑が途切れる。数百もの視線が、一人の令嬢へと一斉に注がれた。
公爵令嬢エレノア・ヴァレンシュタイン。王太子の婚約者となるべく生まれ、未来の王太子妃となるべく育てられた少女は、今、きらびやかな広間の中央で孤立していた。
「……理由を、お聞かせいただけますか、殿下」
かろうじて絞り出した声は、惨めに上擦り、震えていた。
レオンハルトの隣には、可憐な少女が寄り添っている。男爵令嬢ミリアだ。彼女は口角を上げ、余裕の表情でエレノアを見つめていた。しかし、周囲の視線が集まったことを察した瞬間、ミリアはカメレオンのように表情を変えた。涙に濡れた瞳でエレノアを仰ぎ見、か細い悲鳴のような声を上げる。
「エレノア様は、わたくしを何度もいじめられました……。皆様の前ではあんなに優しく振る舞っていらっしゃるのに、二人きりになると、いつもひどいお言葉を……!」
「そのような事実はございません」
エレノアはピシャリと言い放つ。
「この期に及んで、まだ言い逃れをするのか!」
間髪入れずレオンハルトが怒鳴りつける。「彼女がどれほど傷ついたか、お前にはわからないのか!」と。
エレノアは唇を噛み締めた。血の味がした。
反論したいことはいくらでもある。ミリアと二人きりになったことなど一度もない。彼女が泣いて訴えたという出来事にも、何一つ身に覚えがなかった。
そもそも、レオンハルトからは一度たりとも事実確認すらされていないではないか。
エレノアは必死に理性を働かせた。これは最初から結論ありきで用意された三文芝居。脚本を書いたのはレオンハルト。証人も裁判官も陪審員もすべてが最初から敵の手の内にある。ここで勝ち目などあるわけがないのだと。
感情的になってはいけない。父は領地にいる。母は身体が弱く、王都の屋敷で自分の帰りを待っている。家族にまで累が及ぶのだけは、絶対に避けなければならない。
「殿下。どうか、厳正な調査を――」
「黙れ!」
王太子が忌々しげに手を振った。
「お前のような薄汚い女に、これ以上パーティ会場を汚されてたまるか。今すぐつまみ出せ!」
屈強な衛兵が二人、左右からエレノアの細い腕を強引に掴んだ。
「お待ちください! せめて、迎えの馬車を……屋敷に連絡をさせてください!」
「衛兵! 聞こえなかったのか。構わん、放り出せ!」
引きずられるようにして、エレノアは大広間から排除された。
最後に視界に映ったのは、王太子の腰にしがみつき、彼の胸元に顔を埋めてクスクスと笑うミリアの姿だった。
誰も助けてくれなかった。誰も、彼女の言葉を聞こうとはしなかった。
重厚な扉が、冷酷な音を立てて閉じる。
その瞬間、エレノアは自分が本当の意味で世界から見捨てられたのだと悟った。
王城の敷地から追い出されたとき、空はすでに夕暮れに染まっていた。
馬車もなく、付き添いの侍女もいない。王太子にエスコートされて会場に入り、共に帰る予定だったからだ。
何も知らされていない侍女は、今も控室でパーティの終了を待ち続けているだろう。
衛兵たちは、エレノアが敷地から出たことを確認すると、冷淡に鉄門を閉ざした。
公爵家の紋章が誇らしげに刺繍された最高級のドレスは、今やしわくちゃになり、長い裾は泥に汚れ、擦れてボロボロになっていた。
エレノアは一人、冷え切った石畳の道を歩き始めた。
屋敷までは遠い。けれど、夜会のための場違いなドレスとハイヒールで、一歩一歩進むしかなかった。
行き交う平民たちが、奇異の目で彼女を見つめる。
「おい見ろよ、貴族の令嬢がなんてみっともない姿だ」
「家が取り潰しにでもなったのかね」
「デートでわがまま言って、置き去りにされたんだろ」
ドレスの家紋を見られないよう腕で隠し、聞こえないふりをした。聞こえないふりをして体面を保つことには、昔から慣れている。
けれど、胸の奥で大切な何かが、少しずつ音を立てて壊れていくのを止められなかった。
母は、どう思うだろう。
エレノアの長い髪を優しく梳きながら、「あなたの笑顔を好きにならずにいられる殿方なんていないわ。自信を持って、エレノア」と微笑んでくれる、愛する母。
王太子妃になることを、心から望んでいたわけではない。ただ、公爵家の一員としての務めを果たしたかった。両親に誇ってもらいたかった。娘が立派に育ったと、安心してほしかった。
それなのに……。
「……ごめんなさい、お母様」
堪えきれなくなった涙が、頬を伝って落ちた。
その時だった。薄暗い路地裏から男が三人、まるで待ち構えていたかのように立ちはだかった。下卑た笑みを浮かべ。
「お嬢さん。いい格好だね。そんなところで一人かい?」
エレノアは足を止めた。男たちのまとわりつくような視線は、彼女のドレスや、首元で輝く宝石を値踏みするように舐め回した。
「道を、空けてくださいませ」
「おやおや、一人ぼっちのくせにずいぶんとお高くとまってるなぁ!」
次の瞬間、乱暴に腕を掴まれ路地の隙間に引きずり込まれた。
「離して!」
叫び声は、夜の闇に吸い込まれて消えた。
いくら声を上げても、通り過ぎる人達は関わろうとせず、足を止めない。中には「いい気味だ、没落貴族め」と嘲笑う者さえいた。
エレノアは必死に抵抗した。爪を立て、泥を蹴った。しかし、そのたび男たちに何度も激しく殴りつけられ、抵抗する気力は萎んでいった。
やがて男たちは代わる代わる欲望を吐き散らすと、彼女からアクセサリーを力任せに剥ぎ取り、泥にまみれて引き裂かれたドレスを見下ろした。
「お高くとまった貴族の女も、剥いじまえば町娘と何も変わらねえな!」
唾を吐きかけ、笑いながら男たちは去っていった。
残されたエレノアは、放心したまま冷たい地面に座り込んでいた。
何が起きたのか、理解したくなかった。理解してしまえば、自分という人間がもう二度と元には戻れない気がした。
ようやく立ち上がったとき、両膝はガクガクと震え、涙が止まらなかった。誰にも見られたくない。エレノアは声を押し殺して泣いた。
屋敷へ帰れば、父がいる。
母がいる。
優しい使用人たちがいる。
けれど、皆が自分を見るだろう。
そして知るのだ。王太子に捨てられ、純潔を失い帰ってきた、恥知らずな娘のみっともない姿を。
王太子の婚約者が純潔を失えば、それが不可抗力の事故でも婚約を破棄されて当然。王室以外の男の血が混ざってはならないからだ。もはやパーティーでの出来事に抗議することすら叶わない……。
父の宮廷での名誉はどうなる。病弱な母は、どれほど絶望し、悲しむだろう。
自分が生きている限り、ヴァレンシュタイン家はこの消えない不名誉を背負い続け、泥を塗られ続けるのだ。
「……もう、いやだ」
エレノアは歩いた。屋敷とは、全く反対の方向へ。
気がつけば、街外れの古い石橋の上に立っていた。
冷たい月が水面に揺れている。川の流れは速く、底はひたすら暗かった。
彼女は冷え切った欄干に、そっと手を置いた。
「お母様……」
声が微かに震える。
「ごめんなさい」
本当は、会いたかった。母にきつく抱きしめてもらいたかった。「あなたは何も悪くない、大丈夫よ」と言ってほしかった。
明日になれば、きっと何かが変わる――そう信じたかった。けれど、そんな都合よいことが起きないことくらい、もう分かり切っていた。明日なんて、来なければいい。
愛する家族に終わりのない迷惑をかける。そう確信した少女は、最後まで家族に助けを求めることができなかった。
エレノアは欄干を越え、夜の虚空へと身を踊らせ、生に決着をつけた。
水面の月を砕き、小さな水音がして、それきりだった。
その夜、ヴァレンシュタイン公爵家に愛娘が帰ることはなかった。




