プロローグ
俺の人生は、何だったんだろう。
周りはガヤガヤとうるさい。遠くからサイレンがかすかに聞こえる。
「───っ、ぁっ─」
声を絞り出そうとするも声が出ない。全身が痛い。頭も回っていないようだ。
「──さん!─えて──」
頭が痛い…俺は死ぬのか?
俺が死んで…父さんと母さんは泣くだろうか…
つくづく俺は親不孝な人間だった。
小学校でも中学校でも、テストの点数で誰かに負けた記憶はほとんどない。先生には「将来が楽しみだ」と言われ、親戚の集まりでは、決まって話題の中心に座らされた。俺自身も、それを当然のことだと思っていた。
だから、全国でも屈指の進学校に合格した時も驚きはなかった。母は目に涙を浮かべて喜び、普段は口数の少ない父が珍しく感情的に俺を褒めていた。
「──は、自慢の息子だな」
両親に褒められ、親戚に褒められ、同級生に褒められ、完全に天狗になっていた俺の鼻がへし折られるのに、そう時間はかからなかった。
周りにいるのは、俺と同じように中学までは「天才」だった連中ばかりだ。しかもその多くは俺より頭の回転が速く、俺より努力の仕方を知っていた。
授業の進みは、中学までとは比べものにならないほど速かった。一度つまずけばそのまま置いていかれる。質問しようにも、それまで「天才」だった俺のチンケなプライドがそれを許さなかった。
それでも最初は、机にかじりついた。負けず嫌いだった俺は夜遅くまで参考書を開き、睡眠を削り、休日も返上した。それでも中間ではクラス最下位。しだいに努力することも馬鹿らしくなった。
才能でも劣り、努力もしない。そんな俺の成績は見るに絶えないものになっていった。一学期の期末の返却の日、俺は小学校以来皆勤だった学校を初めてズル休みした。
俺は少しずつ、朝起きるのが遅くなっていった。
夏休みが明ける頃には学校を休みがちになっていた。
制服に袖を通すと、胃のあたりが重くなる。玄関の前まで行って、そこから足が動かなくなる。そんな朝が増えて、やがて、玄関まで行くことさえしなくなった。
高校一年の冬、俺は学校を辞めた。
退学届を出しに行った日のことはあまり覚えていない。ただ、両親が俺の隣に並んで、深く頭を下げていたことだけは思い出せる。俺は最後まで担任の顔も両親の顔もまともに見れず、短い面談の間はぼうっと外の木を眺めていた。
帰り道、父は言った。
「焦らなくていい。ゆっくり考えればいいさ」
母は、何も言わずに俺の背中を撫でてくれた。
それからの俺は、自分の部屋からほとんど出なくなった。
カーテンを閉め切り、昼夜の区別もなく、ネットとゲームにしか触れない、クソみたいな日々。俺だけが停滞している現実を見たくなくて、SNSを見るのもやめた。
母は毎日部屋の前に来て、わざわざ俺に話しかける。
「ご飯、ここに置いておくね」
「無理しなくていいからね」
結局、彼女は1度も声を荒げなかった。
母と顔を合わせたくなくて、大抵すっかり冷めている飯を食べながら、いつも思う。
――こんなはずじゃなかった、と
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やけに嫌な雨の日だった。ふと、ケーキでも買いに行こうと思った。カレンダーを見て、母の日を思い出したからだ。何日か過ぎているが…まあいい。
土砂降りの外に出ようとするのを見ると母は心配していたが、すぐ戻るから、と振り切った。
傘は持たなかった。ある種の自傷行為だろうか。ずぶ濡れの雨は運動不足で軋む俺の身体には案外心地よかった。
駅前のケーキ屋は、閉店間際だった。店員は俺を見て少しギョッとしたようだが、俺は構わず小さなショートケーキをひとつ買って、店員に「お誕生日ですか」と尋ねられ、俺はうまく答えられないまま、適当に頷いた。
箱を両手で抱えて、来た道を戻る。
今日が終わったら、少しずつでもいい。もう一度、何かを始めてみようか。そんなことを、ふと考えた。
――そうして、俺は横断歩道の前で、足を止めた。
信号は青だった。
歩き出して、道の半ばまで来たところで、右手から強い光が差した。
クラクションの音。ブレーキの軋む音。
振り向いた時には、もう目の前が真っ白になっていた。
痛みはなかった。
代わりに、ひどく冷たいものが体の芯から広がっていく。アスファルトの濡れた匂いがした。手から離れた白い箱が、少し離れた場所に転がっているのが見えた。
――ケーキ、潰れたな。
他人事のように思った。
母に渡せなかった。父にも何も言えていない。ごめん、と言うことさえできなかった。
視界がゆっくりと暗くなっていく。
最後に浮かんだのは後悔だった。あれだけの時間を、何もせずに腐らせてしまったことへの、どうしようもない後悔。
もし、もう一度やり直せるのなら。
今度こそ、と――そこで、意識は途切れた。




