序章 第1話 引きこもり高校生、死ぬ
神谷悠斗が学校へ行けなくなったきっかけは、ニュースになるような大事件ではなかった。
最初は、名字をもじったあだ名だった。
そこへ悪口が加わり、机に落書きをされるようになった。教室へ入れば誰かが顔を見合わせて笑う。廊下で後ろから声が聞こえれば、自分のことを言われているような気がした。
いじめに加わっていない生徒の方が多かった。
けれど、止めてくれる人もいなかった。
そんな日々が続くうち、悠斗は教室そのものが怖くなった。
ある朝、制服に着替えようとして、身体が動かなくなった。
熱はない。それでも学校へ行くところを想像するだけで胃の奥が締めつけられ、吐き気がした。
一日休めば戻れると思った。
翌日も休んだ。
その次の日も。
一週間が過ぎ、一か月が過ぎる頃には、時間割を見ることすらなくなった。
高校二年生、十七歳。
神谷悠斗の世界は、ほとんど自宅の中だけになった。
家族との仲が悪いわけではない。
両親が心配していることも分かっていた。
だからこそ、本当のことを話せなかった。
助けてほしいと言って、それでも何も変わらなかったら。
学校へ戻らなければならなくなったら。
そんなことを考えているうちに、何も言わない方が楽になっていた。
昼間でもカーテンを閉めた自室には、ベッドと机、パソコン、それに二枚のモニターがある。
知らない番号から電話がかかってくれば、切れるまで画面を見ていた。
美容院の予約程度でも何度も番号を開いては閉じる。
コンビニへ行くのは人の少ない深夜。
知らない相手へ自分から話しかけるなど、考えただけで緊張した。
人が嫌いなのかもしれない。
そう思ったこともある。
けれど、友達同士が笑っている動画を見ると羨ましかった。
オンラインゲームでいつもの仲間と遊んでいる人たちを見ると、自分にもそんな相手がいたらと思った。
誰かから、
『今日、暇?』
そんな短い連絡が一通届くだけで、きっと嬉しい。
悠斗には、その一通を送ってくれる相手すらいなかった。
◇ ◇ ◇
そんな生活の中で偶然見つけたのが、多くの配信者が一つの犯罪都市で暮らすストリーマー企画だった。
最初に開いたのは、おすすめに表示された短いまとめ動画だ。
夜の大通りを一台のスポーツカーが猛スピードで走り、その後ろを何台ものパトカーが追いかけている。
『次の交差点、右!』
『無理だって! パトカー三台いる!』
『一台こっちで引っ張る! 先行け!』
『お前それ捕まるだろ!』
『いいから行け!』
無線越しに声が飛び交い、タイヤが鳴る。
悠斗は気づけば最後まで見ていた。
「……面白い」
そこからは早かった。
銀行強盗。
警察。
救急隊。
整備士。
飲食店。
レーサー。
一般市民。
同じ街に暮らしていながら、それぞれが別の生活を送っていた。
警察官が犯罪者を追っている一方で、別の場所では整備士が客の車を直している。
飲食店では新商品を考え、山道ではレーサーたちが競い合う。
一つの事件が別の誰かの仕事へ繋がり、そこからまた新しい出来事が生まれる。
誰か一人だけが主人公ではない。
街にいる人間全員が、それぞれ自分の一日を生きているように見えた。
悠斗はその世界に夢中になった。
生配信を追い、見逃したところをまとめ動画で見る。気になる人物がいれば過去の配信まで遡った。
中でも一番好きだったのが、ギャングだった。
銀行へ押し入り、人質を取る。
警察と交渉する。
高級車で逃げる。
敵対組織と撃ち合う。
派手な場面も好きだった。
けれど、悠斗が一番羨ましいと思ったのは、犯罪をしていない時間だった。
拠点のソファで何人もくだらない話をしている。
誰かが新しい車を買えば、みんなで見に行く。
失恋した仲間がいれば飯へ連れ出す。
強盗に失敗しても、次はどうするか笑いながら相談する。
仲間が警察に捕まれば、
『迎え誰行く?』
『俺、近いから行くわ』
『じゃあ俺も』
『一人でいいだろ』
『暇なんだよ』
そんな会話が当たり前のように交わされる。
悠斗には、それがひどく眩しかった。
ある夜、同じ色の車が何台も連なって高速道路を走っていた。
先頭の車がふざけて蛇行する。
『危ねえって!』
『ちゃんとついてこいよ!』
『お前が真っ直ぐ走れ!』
無線が笑い声で埋まった。
悠斗も思わず笑った。
「……いいな」
暗い部屋に、自分の声だけが小さく響く。
自分もあんなふうに誰かと車を走らせてみたかった。
何でもない日に飯へ行ってみたかった。
困った時に名前を呼んでもらえる相手が欲しかった。
悠斗が憧れていたのは、犯罪そのものではない。
その中にある仲間との関係だった。
「もし俺も、あんな街で暮らせたら……」
誰も聞いていないからこそ、口にできた。
「ギャング、やってみたいな」
もちろん、本当にそんな世界へ行けるとは思っていなかった。
部屋の中から眺めているだけの自分には、一生縁のない話だった。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして、大型ストリーマー企画の開催が発表された。
何十人もの配信者が同じ犯罪都市で生活する期間限定企画。
悠斗は開催日をスマートフォンのカレンダーへ登録し、始まる日を待った。
初日は夕方から朝まで見続けた。
二日目も、少し寝るつもりだった。
だが、気になっていたギャングが強盗を始めた。
それが終われば警察側が気になる。
警察を見れば、今度は負傷者を運ぶ救急隊の動きも見たくなる。
あと少しだけ。
この事件が終わるまで。
そう繰り返しているうちに、二日目もほとんど眠らなかった。
机の脇には空になったエナジードリンクの缶が増えていく。
食事もまともに取らず、用意されたものを適当に口へ運ぶ程度だった。
三日目には、明らかに身体がおかしくなっていた。
目の奥が痛い。
首も肩も重い。
立ち上がると眩暈がする。
口の中も妙に乾いていた。
眠った方がいい。
自分でも分かっていた。
それでも、パソコンを閉じられなかった。
扉の向こうから母親の声がした。
「悠斗、ご飯ここに置いておくからね」
「あ……うん」
「ちゃんと寝てる?」
少しだけ間が空いた。
「寝てるよ」
嘘だった。
「無理しないでね」
足音が遠ざかる。
悠斗は食事を部屋へ運んだが、半分ほどで箸が止まった。
水を飲み、またモニターへ目を向ける。
画面の中では、追い続けていたギャングが大きな仕事を終えたところだった。
一人だけ逃げ切れず、警察に捕まったらしい。
『せっかくだし全員で迎え行くか』
『何人で行くんだよ』
『全員』
『一人迎えるだけだぞ?』
『車列組もうぜ』
『馬鹿だろ』
拠点から次々と車が出ていく。
五台。
同じ仲間を迎えるためだけに、五台もの車が夜の街へ走り出した。
悠斗は口元を緩めた。
「ほんと馬鹿だな……」
赤信号で先頭車両が止まり、後ろの車が軽く追突する。
『おい!』
『誰だ今ぶつけたの!』
『知らねえ!』
『絶対お前だろ!』
無線から笑い声が上がった。
悠斗もつられて笑った。
その直後だった。
胸の奥を、強く握り潰されたような痛みが走った。
「……っ!」
息が詰まる。
反射的に胸を押さえた。
心臓が異様な速さで脈打っていた。
深く息を吸おうとしても、うまく空気が入らない。
「なに……これ……」
耳鳴りがする。
視界の端が暗くなった。
まずい。
そう思った時には、もう身体がまともに動かなかった。
母親を呼ぼうとしても声が出ない。
机の端にあるスマートフォンへ手を伸ばす。
ほんの少し先にあるだけなのに、指が届かない。
腕から力が抜け、身体が椅子から崩れ落ちた。
肩を床へぶつけた。
けれど痛みより、息苦しさの方がずっと強かった。
死ぬ。
頭の中に、その言葉が浮かんだ。
悠斗は死にたかったわけではない。
学校へ行けなくなった。
友達もいなかった。
毎日ほとんど部屋から出なかった。
それでも、まだ十七歳だった。
このまま終わるなんて考えたこともなかった。
モニターが、倒れた悠斗の視界の端で光っている。
『出てきた!』
『お勤めご苦労様でーす!』
『うるせえ! なんで全員来てんだよ!』
『寂しいかと思って』
『一人でいいだろ!』
『もう来たんだから乗れって!』
笑い声が聞こえる。
仲間を迎えに来た仲間たち。
自分がずっと欲しかった景色だった。
友達と飯を食べてみたかった。
誰かと車で出かけてみたかった。
くだらないことで笑ってみたかった。
自分を迎えに来てくれる誰かが欲しかった。
「……いいなあ」
掠れた声は、誰にも届かなかった。
視界がゆっくりと暗くなっていく。
もし、もう一度だけ人生をやり直せるなら。
今度は、見ているだけでは終わりたくない。
怖くても、自分から誰かへ話しかけてみたい。
仲間を作ってみたい。
帰る場所を作ってみたい。
そして、もし本当にあんな街で生きられるなら――。
「俺も……ギャングに……」
言葉は最後まで続かなかった。
モニターの向こうでは、悠斗のことなど知るはずもない人たちが、仲間の帰還を喜びながら笑っていた。
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