11 橘の証
楓は、北の山を下りてすぐ出発するつもりだったが、ふもとへ向かう途中で倒れてしまった。邪鬼に追われ続けた十日間、巨大な霊力との一体化、そして神の卵の誕生と鬼との遭遇。これだけのことが立て続けに起こったのだ、いくら元気がとりえの楓でも、もう限界を越えていた。
それでもなお、すぐに町へ戻ろうとする楓を、水蓮とポポが無理矢理止めて休ませた。
その休んだ一日分が、残った距離だった。
「急いで、お願い、急いで!」
沈み始めた太陽を見て、楓は胸が締め付けられた。町はまだ見えない。普通に歩けばあと一日はかかる距離が残っていた。
「千早ぁ……お願い……」
昼夜を問わず駆け続けること六日、さすがの千早も疲労は隠せず、口は半開きとなり、唾液を垂らしていた。
しかし、千早は楓に応えた。
千早は速度を緩めることなく駆け続けた。山を下り、町が近づき道が広く平坦になると、千早はますます速度を上げて町を目指した。
だが、無情にも太陽は沈んだ。楓は全身の血が凍るような思いで日没を見届けた。
「しっかりして!」
脱力して落馬しかけた楓を、水蓮は一喝した。
「まだ間に合うわ! 天下の橘一族が守る町ですもの、そう易々とは落ちないわ!」
「そうだぜ楓!」
ポポは千早の頭の上で、力強く胸を叩いた。
「鬼はオイラと水蓮がやっつけてやるからな! 橘一族の援護があれば楽勝さ!」
◇ ◇ ◇
鬼の手が領主の胸ぐらをつかんだ。
「残念だったな」
鬼は冷たく笑った。
「鬼の心に巣くう闇。それを見て、人の心が耐えられると思ったか」
千年前は小人族が橘姫の心を守った。それゆえに成功した方法だった。しかし小人族がいない今、どれだけ霊力をかき集めても、人が鬼の心をのぞいて無事でいられるわけがなかった。
鬼は、胸ぐらをつかんだ領主を吊り上げ、その体に鬼の力を叩き込んだ。全ての霊力を椿に渡した領主は、鬼の力に対して無防備だった。何の抵抗もできず、領主の心は鬼の力に打ちのめされた。
「ぬ……うう……」
「さて、心を失う前に答えよ。打出の小槌はどこにある?」
打出の小槌。
それは鬼族の秘宝だった。鬼がまだ神であったころに、一人の天才が作ったものだ。打出の小槌には神の卵にも匹敵する巨大な力が込められており、思いを込めて一振りすれば、どんな願いもかなうと言われていた。
鬼は答えよと言ったが、領主が口を開くのを待ったりはしなかった。問いかけると同時に、その力で領主の心を視た。
「知らぬのか?」
領主の心を視て、鬼は眉をひそめた。千年前、人の手に渡った打出の小槌は、いつしか行方がわからなくなっていた。一寸法師を人にしたあと、別の者の手に渡ったという話はない。橘一族以外にその行方を知っている者はいないはずだった。
鬼は、領主の心のさらに奥をのぞきこんだ。領主は体をのけぞらせ、声にならない悲鳴を上げた。
やがて鬼は、領主の心奥深くに強い力の残滓を見つけた。
「これは……記憶?」
鬼はその残滓を拾い集め、丹念に調べた。
「橘の……証?」
それは、領主が夢という形で見た、初代橘姫の記憶のようだった。しかし夢の記憶はあやふやで、どう調べても肝心な部分ははっきりしなかった。しかも「橘の証」として代々受け継がれてきた初代橘姫の記憶は、すでに楓の手に渡っているようだった。
「私としたことが……ぬかった!」
鬼は舌打ちし、怒りにまかせて領主の体をたたきつけた。しかし、取り乱した様子を見せたのはそれだけだった。
「まあよい。どうせ小娘はここに来る」
再び落ち着きを取り戻すと、鬼は残忍な笑顔を浮かべて椿を見た。
椿は、鬼の手に頭をわしづかみにされ、ぶら下げられていた。鬼の心を直接見た椿は、その闇の深さにとらわれ、逆に鬼に心を視られてしまい、身も心も鬼の力に縛られてしまった。
「さて、お前はどうしてくれようか」
椿は必死で抵抗した。しかし鬼は赤子の手をひねるように椿の力を蹴散らした。そして椿の心のさらに奥へと進み、笑いながら椿の心を蹂躙した。
不意に、鬼の腰に鈍い痛みが走った。
鬼は眉をひそめ、静かに振り返った。そこには、短刀を持った三十前後の女がいた。
「いつ来た?」
「お……お姫様を離しなさい!」
「ひ……の……どうし……て……」
椿がかすれた声でつぶやいた。鬼は椿の記憶を視て、自分に短刀を突き立てたのが、日野という椿の世話役だったことを知った。
「忠義よの」
鬼は冷たい笑みを浮かべると、もう一方の手で日野を殴り飛ばした。さらに壁に打ち付けられてうずくまった日野に力を叩きつけ、その場に金縛りにした。
「お……のれ……」
「私の鈴の音から逃れるとはな。だがそのおかげで、苦しみ抜いて死ぬことになる」
鬼はどす黒い笑みを浮かべると、椿の服を切り裂いた。
椿の、雪のように白い肌があらわになった。
鬼は日野の目の前に椿を横たえた。そして金縛りになっている日野の服も、鋭い爪で切り裂いた。
「家族のように思っている者の目の前で鬼に汚されるとは、この女もお前も哀れよの」
「げ……外道が!」
「何とでも言うがいい。千年に及ぶ我らの恨み、この程度で晴れはせぬ。この女にも、お前にも、鬼の怨念をたっぷりと味わわせてやるわ!」
◇ ◇ ◇
夕刻、領主の館を出た鬼は、乱れた着衣を直し、腰紐にぶら下げた鈴を手にした。
リィィーン。
鬼が鈴を振ると、町中に散らばっていた邪鬼が集まった。その数はおよそ五百。
「ほう、さすがは橘一族。二万の邪鬼をここまで減らしたか」
鬼は軽く肩をすくめ、北の空を見上げた。
「来ているな」
北から近づいてくる楓の気配に、鬼は笑った。そして五百の邪鬼を従えて、いずこへかと去っていった。




