狭間の楽園
クロッソンは研究棟の地下深くにいた。最新鋭の実験装置に囲まれながらも、蜘蛛の巣が張った天井、部品が欠けて傾いた椅子、剥げた床のパネル、明滅する照明、どうしようもなく荒廃していた。
クロッソンは中腰になって操作パネルに指を這わせていたが、人の気配に気付くと機敏な動きで振り返った。
ファネルはクロッソンを「デブ」と呼んだが、そんな表現では済まなかった。躰の幅が、メーガンの三倍はある。身長が高く、肢は義足であり、分厚い鉄の骨に支えられている。
申し訳程度に生えた黒髪の奥で細く鋭い眼が、アゼルを捉える。甲高い声の男だった。
「やはり出てきたか、アゼル……。お前なら脱出しかねないと考えていた」
「久しぶりだな、クロッソン。また会えて嬉しいよ。再会を祝して、論理銃弾の詰め合わせはいかがかな」
アゼルは即座に機関銃を出現させ、引き金を引いていた。その唐突な開戦にメーガンとファネルは面食らい、揃って後ろに下がった。
だが数百発の銃弾を受けても、クロッソンは全く平然としていた。黒く波打つ障壁が彼を守っている。
「なるほど、なかなか気の利いたプレゼントだ。私の全能性を確認させてくれたのかな」
クロッソンは余裕の表情だった。だが、メーガンは彼が焦っていることを悟っていた。あの男はアゼルを恐れている。
アゼルは機関銃を床に打ち捨て、首を回して関節を鳴らした。
「クロッソン……。お前は大した男だ。神の誤謬を強弁して拡張し、新たな居場所を作ろうとした。だがな、俺という存在を証明しただけで再び目に見えないほど小さく縮んでしまうような不確かな空間は、創造とは言わない。長い間お前と戦ってきたが、こんな決着はあまりに呆気なく、いささか逡巡があるのだが」
「アゼル。来るな」
アゼルは一歩、前に進んだだけだった。それでもクロッソンは恐怖していた。短い手足をバタバタさせて、後ろの巨大な演算装置に凭れかかる。
「来るな!」
「おいおい、俺を呼んだのはお前だろう。あんな寂しい場所に放擲しちまって、温厚な俺でもさすがに怒るぜ」
「……来るな……」
メーガンはハッとした。クロッソンは手に何かを握っている。掌の中に隠してしまえるような小さなものだ。武器だろうか。アゼルが近づいたところを反撃するつもりか。
「アゼル、そいつ、何かを持ってる。気を付けろ」
メーガンの言葉に、クロッソンは明らかに動揺した。口を大きく開け、小刻みに震える。
いや、彼は、笑っていた。自分を殺そうとしているアゼルを目の前にして、高らかに笑っていた。
「アゼルよ、さっさと私を殺せば良かったのに。そうすれば、あるいは、違う結末が待っていたのかもしれない」
「何だと」
アゼルは真如剣を取り出し、クロッソンの纏う障壁をあっさりと両断した。そのまま肥満体の首に刃を突き刺す。
殺した、と思った。しかし違った。クロッソンの躰は爆散し、肉や骨が飛び散るどころか、白い煙が部屋に立ち込めるのみだった。
それ以上に何かが起こるのではないか。メーガンたちは警戒したが、しばらく待っても異常は見当たらなかった。
「何だ……?」
しかし、やがてアゼルが苦しみ出した。喉を押さえ、よろめき、壁に手をつく。激しく息をし、焦点の定まらない双眸で誰かを探している。
「まずい……、く、メーガン、どこだ、どこにいる、暗い……」
「アゼル!」
メーガンは慌てて駆け寄った。ファネルは端末を取り出して白い煙の分析に入った。
アゼルはメーガンの差し出した手に縋ると、体重を乗せてきた。そのまま躰を預ける。
右腕を不能にしているメーガンは、彼を支えるだけでもかなり辛かったが、
「どうしたんだ、アゼル。何をされた」
「……違う……。漸く分かった……、クロッソンのしようとしていることが……。奴は神の論理の誤謬を証明していた……、しかしあえて不完全なままに……」
「何だと。さっきまでいた空間は、じゃあ」
「あれは俺を油断させる為のギミックだろう……。あるいは単なる時間稼ぎだったのかもしれん……。クロッソンは、俺を公理に据えやがった……」
「何だと」
アゼルは青白い顔を震わせて、今にも倒れそうだった。メーガンは彼の体重を支え切れずに膝をついた。やむなく彼を床に寝かせる。
「メーガン、いいか……、よく聞け」
「ああ、アゼル、何だ?」
「俺を殺せ」
「……ああ?」
アゼルは瞑目した。浅く早い呼吸、今にも死にそうなほど弱々しい脈拍、メーガンは首を横に振る。
「何を言ってるんだ。オレはアンタを殺したいほど憎んでいる、だがな、それと同じくらい、アンタはオレにとって目標であり続けたんだ。殺せ、だなんて」
「殺せ……」
アゼルはもう長い会話ができないようだった。ファネルが横に並び立つ。
「ふうむ、ファネルちゃんからもアドバイスすると、その人を殺したほうがいいかも」
「何だと。てめえ、チビ、ぶっ殺すぞ!」
「神の論理が崩れ始めてる。機械が上手く作動しない」
画面が暗転した端末を指し示したファネルだったが、メーガンは笑った。
「そんなの、故障しただけだろう!」
「そうかな。神の論理の誤謬が、世界を喰い始めてるんだと、天才ファネルちゃんは思うけどな。精密機器は回路が一つオシャカになっちゃうと、色々と『不都合!』が起きるからね。有機体ほどタフじゃないの。もっとデリケートなの」
メーガンは信じなかった。アゼルは昏睡してしまい、もう言葉を発することができない。
「とにかく、今はアゼルの手当てが先だ。おい、毒の成分を特定できないか」
「毒なんかじゃないって。ファネルちゃんは解析官だから断言できるけど、この白い煙が毒だったらとっくに三人とも倒れてるよ」
「だが! じゃあ、どうしてアゼルは倒れたんだ。お前知らないのか。アゼルは最強の論理学者だぞ。政府軍やサプレスが年中追っかけまわしてたのに、ありとあらゆる暗殺者が寝首掻こうと知恵を絞ってたってのに、一二年も生き延びてる偉人レベルの犯罪者だぞ」
「でも、クロッソンの罠には引っ掛かったんでしょうよ。ファネルちゃんと似たようなもんじゃないのよう」
ファネルは軽やかに、淀みなく言ってのける。
「ファネルちゃんだって人を殺したくなんかないよ。でもさ、今そこの犯罪者さんは自分は公理に据えられたとか言ってたでしょうよ」
「ああ。それがどうした」
「何の公理かと言えば、それは誤謬世界の公理しかないでしょうね」
「……何を言ってる」
「神の論理が間違っているのであって、誤謬が正しいという立場を取れば、不老不死しか許容しない世界が現れるよね。ファネルちゃんの考えが正しければ、アゼルっちは誤謬世界と実世界を繋ぎ留める楔の役割を果たしているのだと思うよ」
「どういうことだ。言っている意味が分からん。ファネル、おい」
「いやあ、ファネルちゃんも主任に就任して初日、いや初時に見てびっくり仰天したんだけれどもさあ、不老不死の弁駁獣がたくさん公園に放し飼いにされてるでしょうよ」
「ああ。あれを見たのか。それがどうしたんだよ」
「なぜあんなものが必要だったのか? それは論理世界を否定すると言いながら、その関係性を断ち切れない誤謬世界の不安定さの所為だったんだよ。うん、人生、安定が大事」
「何が言いたい」
「つまりさ、今すぐアゼルを殺さないと、彼、あの薄気味悪いエキセントリックな弁駁獣みたいになっちゃうよってことを言いたいわけだよファネルちゃんは」
メーガンは驚愕し、静かに横たわるアゼルを見た。顔色が悪いこと以外に異常はない。そう信じたい。
「でまかせを言うな……。お前に何が分かる!」
「クロッソンとしてはさ、誤謬世界にいる限り不老不死でいれるわけでしょうよ。でも誤謬世界がある限り論理世界は脅かされ続け、神の論理が完全に否定されれば誤謬も誤謬じゃなくなる。論理記号だけで構築された世界なんだから、結局は誤謬世界も消えちゃう。じゃあ、どうするべきか」
「どうしようもねえだろうが」
「論理世界には活動し続けてもらう。アゼルとか、弁駁獣とか、ああいう手合いを増やして、エネルギーを一点集中させ、たとえばドミノ計画で作った無限の界層を喰らい続けてもらう。均衡は保たれる」
「ファネル、お前は……。何を言いたいんだ、えっ」
「だから最初に言ったでしょうよ。アゼルっちをさっさと仕留め」
メーガンはファネルの喉を左手で絞め上げていた。小柄な女性は手足をじたばたさせて声にならない悲鳴を上げる。
「アゼルを殺すだと? そんなことできるわけがねえ……。そんなこと、オレが許さない!」
ファネルを突き飛ばす。サングラスを掛け直しながらケホケホと咳き込み、
「ファネルちゃんは言ったからね、アゼルも言った! 殺すしかないんだよ、じゃないとこの世界は潰れる! たぶんアゼル以外の人間は死ぬね!」
ファネルは駆け出していた。メーガンは静かなアゼルを見下ろしながら、沈思していた。
アゼルを殺さないと世界が潰れる? そんなことあってたまるか。大体、クロッソンがもしそんなことを可能とするなら、アゼルだけじゃなくて、もっと多くの人間を巻き込んで誤謬世界を確乎としたものにするだろう。なぜアゼルだけを公理に据えた。
しかしメーガンはその答えを自分で見つけてしまった。大きさの問題だ。誤謬世界を大きくし過ぎてしまえば、論理世界を食い破ってしまう。しかしクロッソンがその中で永遠の時を過ごせる程度には空間を広げておきたい。
もし公理を増やしてしまえば、それだけ誤謬世界は確乎としたものになる。証明も反証も曖昧であるがゆえにこの企みは成立する。公理の数は限られている。
それでは、アゼルを殺したところでクロッソンの企みは潰えるのか? そんなはずはない。他にも手を打っているに違いない。
「アゼルはこれから学校を建てるんだよ……。世界の為に働くんだよ……。こんなところで死んでいいはずねえだろうが!」
メーガンは吠えた。何か手立てはないのか。クロッソンの企みを打破し、なおかつアゼルを救う方法は。
リアンはオレに同情していた。こうなることを見越していたのか。あの少年は、未来が見えると言っていた。何を見たんだ。何を。
「誰か教えてくれ。オレはどうしたらいい。アゼルを殺すのか? オレが殺すのか?」
そうしたら世界は喜ぶのか? アゼルは褒めてくれるのか?
オレがこの剣で。真如剣で。アゼルの首を飛ばせば、世界は彼を許してくれるのか?
「駄目に決まってるだろう! 犯罪者のまま死ぬなんて、駄目だ!」
メーガンは手に持っていた真如剣をかなぐり捨てた。
黒い金属片が割れる。破片が飛び散り、甲高い音が鳴り響く。
メーガンはうな垂れていた。長い間、うな垂れていた。アゼルが呻き声を漏らした。彼の肉体の変容が始まっているのか。誤謬を支える呪われた躰に変化しているのか。
室温が下がった気がする。アゼルが熱を吸収し、いよいよ数秒のサイクルで誕生と死を繰り返すアレを実行するのか。醜いあの姿に変貌するというのか。
時間がない。
もはや方法は一つしか残されていなかった。
* *
リアンとマノンはメーガンの事務所で身を潜めていた。膝を抱えたマノンが、窓際で日を浴びているリアンを一瞥する。
「ねえ、リアンくん」
「うん?」
「……リアンくんは未来が見えるんだよね。ののさまはどうなっちゃうの」
「そんな先のことは分からないけどね……。でも、メーガンの未来が、随分先のほうまで見えたから、何だか可哀想に思えてきちゃって」
「可哀想?」
マノンは身を乗り出して、リアンの表情を窺おうとした。しかし少年は顔を背ける。
肩が震え、拳は強く握られ、足元には濡れた跡。
「泣いているの?」
マノンの声にリアンは首を横に振った。
「泣いてなんかないよ。メーガンはアゼルを殺せなかった。そして絶望の内に、自ら命を絶つんだ。首のベルトを外して」
「ベルトを……?」
「僕は事情を知らない。けどベルトを外したメーガンは抜け殻みたいに動けなくなっちゃったんだ。あれは死んだとしか思えない。僕に見えた未来はそこまでだったけど」
マノンはメーガンの言葉を覚えていた。首のベルトを外したら全身が動けなくなる。しかし、死ぬと言っていただろうか?
首から下が動けなくなるというだけで、死ぬわけじゃないだろう。いや、心臓や肺も止まるとしたら、それは紛れもない死だった。そうだ、わざわざ医者にベルトの付け替えをしてもらうと言っていた。ベルトを替えるだけなら友人に頼んでも良さそうなものなのに、医者に頼むということは、命の危険があるということではないか?
マノンは自分を愚かだと思った。どうしてこれまで気付かなかったのか。
「メーガン……」
マノンは呟いた。メーガンは優しい人だった。アゼルを殺せずに自らの命を絶つ。一見あり得そうな話ではあった。
けれど。マノンはあの豪傑が自分の悲しみだけに押し潰されて死を選ぶとは思えない。ただ逃げるだけの死とは。
「大丈夫だよ、きっと」
マノンが言うと、リアンが泣き腫らした目で少女を見た。
マノンはリアンの肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だよ。メーガンも、ののさまも、シンクレア姉さんも、皆大丈夫」
根拠はあった。
信じているということ。
少女にはそれだけで十分だった。
* *
メーガンは目を見開いた。そこは緑豊かな楽園であり、瑞々しい樹木と植物が生い茂り、川のせせらぎが耳に優しく、鳥と獣が歌を歌い、乳白色の空には雲一つない。
全裸の若い女性が輪を作って踊っている。花を摘んでいる、それだけで幸せそうな少女が点在している。魚釣りをする少年と少女の姿も見られる。老いた者や大人の男は一人も見られなかった。
ここにいる者は全て全裸だった。何も纏わない。メーガンは自分もそうだということに、遅れて気付いた。ベルトも何もない。
だが、躰は動いている。長年の不摂生にも関わらず肌に張りがあるし、清潔だ。女の女たる部分も心なしか光沢があるように感じる。さすがに裸は恥ずかしいと思っていると、服が目の前に畳まれて置いてあるのに気付いた。いつからあったのか。
「ここまでついて来たのか」
中性的な、男の声。下着を慌てて着用しながら振り返ると、見知らぬ中肉中背の男が女を二人侍らせて立っていた。
クロッソンだ、と直感した。体型は変わっているし、顔も変容しているが、あの鋭い眼はクロッソンに違いない。
「ついて来たというか、オレも驚いているんだがね。アゼルに代わって神の誤謬を埋めようと思ったのに」
こんなふざけた場所に出ちまって……。メーガンは首を横に振る。上着に袖を通し、やっと人心地がつく。
「誤謬を埋める? 誤謬は既に証明したのだ。神の論理は間違っていた」
クロッソンの断言に、メーガンは頷いた。
「そうだな。アゼルも言っていたよ。誤謬の証明は完了したって。もしそうなら立ち入る隙間は全くない」
「なら、どうしてここに来た? いや、どうやって来たのかのほうが重要か」
クロッソンの顔は不安に歪んでいる。メーガンがここに来た事実に驚愕しているのか。
メーガンは余裕を取り繕った。実際、彼女もどうやってここに来たのか詳細は分からなかったのだが、ハッタリは得意技だった。
そもそもここは何なのか。てっきりクロッソンは不老不死と引き換えに、闇に閉ざされた寂寥の地に引き籠るのかと思っていた。実際は美女と紅顔の美少年に囲まれて幸せそうだ。どういう原理なのか分からない。
ただ、ここが神の論理に最も近しい場所にあることは理解していた。メーガンは首のベルトを外し、肉体の制御を放棄することで、意識を解脱させることができた。一二年前、論理兵器の攻勢を受けて半死半生の憂き目に遭ったとき、アゼルは完全に意識を失ったメーガンに奇抜な治療を施したらしい。
恐らく、メーガンが論理学者として優秀になり得たのは、その影響が大きい。頭の中に論理記号が羅列されており、それを並び替えることで論理式が自然と形成できてしまうのだ。
神の論理のエッセンスが、メーガンの頭の中にある。だからこそ大学時代に神の論理の基礎研究に精を出したわけだ。
「いや、なに、どうやって来たのかと言えば、捨て身になる覚悟ができたってわけでね」
神の論理の誤謬を埋める。その為には神の論理のことだけを考える必要がある。人間が生み出した、神の論理に付随する屁理屈など問題ではない。そういうとき、メーガンの脳内に羅列された論理記号は無類の力を発揮した。
「学生時代以来だ、病院以外で首のベルトを外したのは。あんときはオレも若くてよお、酒に酔って無茶したくなって」
以来禁酒だよ。本当は好きで好きで堪らないのに。
クロッソンは怪訝そうにしていた。神経質に指を動かし、従順な女たちを鬱陶しそうに追い払う。
「何を言っているのか分からんが、タダで済むと思うなよ。この場所は私のモノだ」
「別に、奪おうだなんて思ってねえよ。ただ、一つ聞きたいんだが」
「何だ」
「ここは神の論理の誤謬に依拠した世界なのか」
クロッソンは腕を組み、首を捻る。
「当然だ。そんなことを聞いてどうする? 貴様も不死になりたいのか」
「冗談だろ」
メーガンは笑った。指を立てて「地獄へ行け」と地を指差す。
「不死なんて不可能なんだからな……。今からオレは神の論理の完全性を証明する」
クロッソンは口元を緩めた。一挙に緊張が解けたようだった。
「ふふ……、愚かしい! 私の手によって、サプレスの優秀な頭脳によって、神の論理は完璧に覆された! 完全性の証明など不可能だ!」
「どうなんだかな、そこんところがまだオレには疑問でね、実際に証明を目にしたわけでもないし、アゼルを助けるにはこれしかないみたいだし」
メーガンはふああと欠伸した。クロッソンの勝ち誇った顔が翳る。
「だって、ファネルを雇うような奴が下した証明だぜ。疑わしいにも程があるだろう」
「ファネル……? ああ、あの女か。サプレス内に使える手駒が極端に減ってしまったのだ。研究棟での職員が次々失踪すると、妙な噂が立ってしまってな。極端な人員不足に陥ってしまった」
「噂じゃなくて事実だろう……、やばいことをさせてたみたいだな」
「バカな。貴様は何も見えないのか?」
クロッソンは辺りを見回す。メーガンは彼のその仕草の意味するところを理解し、慄然とした。花園で嬌声を上げる美女たち、平和そのもののノンビリとした動作で散歩している少年、彼らの姿が唐突に強い存在感を伴って視界に飛び込む。
「おいおい……、まさか」
「この世界では自分の望む通りの姿を得られるのだ。皆私に愛されようと必死でね」
「部下の研究員を侍従に仕立てたってのか……。皆、喜んでお前なんかに奉仕しているとは思えないがね」
「矯正は完了している。本当は侍従をもう二、三人増やしておきたかったが贅沢は言うまい」
「アゼルを公理に据えたのは、どういう理由だ? 誰でも良かったはずなのに、わざわざアゼルを選んだのは?」
クロッソンは肩を竦める。
「まさにこの状況だよ、メーガン。分かるだろう? アゼルを生かしておけば、神の論理の誤謬に何らかの干渉を行うことは分かり切っていた。だが奴を殺すのは極めて難しい。罠に嵌めて足止めすることはできても、奴は困難を乗り越えるだろう。長くサプレスにいて分かっているのだ、あの男は強運に守られている」
「どうだろうな、オレはアゼルを不運な男だと思うけど……。まあ、それはどうでもいいが」
「だから公理に据えた。私の生命の礎としたわけだ。リスクはあったが、これができなければどのみち、計画は頓挫していただろう」
随分とアゼルを恐れていたと見える。あの男に睨まれて無事でいた人間は未だかつていないと言われている。無理はないかもしれないが。
それにしても、不老不死を目指していながら、アゼルが本気になったらこの空間を覆されてしまうかもしれないと怯えているなんて、笑ってしまう。アゼル以外に優れた論理学者がいないと本気で信じているのか。
ここにいるぞ。アゼル以上の論理学者が。アゼルが及ばなかった、神の論理の完全性を証明してみせる。
世界がなぜここに在るのか。
世界はいつからここに在るのか。
世界はどこへ行くのか。
全てを解明すれば。演繹によってのみその結論を導き出せば。世界は誤謬を排斥する。
「お前が誤謬の証明を完璧に適用しない限り、まだ可能性はある」
メーガンは言った。クロッソンは笑う。
「そんなことをすれば論理世界も実世界も消滅する! 困るのはお前だろう!」
「だがここも無事ではない! 可能性はいつまでも残り続ける」
「可能性? ふん、そんなものに賭けるのか。アゼルがそこまで大事か?」
「大事だね」
メーガンは天空を見上げる。
「オレはあいつを許してもいねえし、かと言って殺したいわけでもなくなった。オレは確信しているんだ、こんなどうしようもない世界を変えられるとしたら、アゼルしかいないって」
「だが、神の論理は不完全だ。貴様のしようとしていることは無駄だ」
「どうだろう」
メーガンは腕を伸ばす。ベルトがなくとも自由に動けるこの世界、居心地は最高だった。
ここを叩き潰さないといけないなんて。つくづく義務って奴は残酷な行為を人に強制する。
その先にあるのは単なる「そうであるべき世界」だ。「そうあって欲しい世界」じゃない。
「他人の幸せをぶち壊す奴って最低だよな」
メーガンは呟いた。これほど神の論理を身近に感じたことはない。あまりにもはっきりとその完全性を感じることができる。
彼女はクロッソンを目の前にして論理記号を紡いだ。それは誤謬世界を揺るがすものではなかった。
クロッソンは笑っている。しかしメーガンは、自分が正しいことを知っていた。
知っているのは自分だけで十分だ。なぜ原初の論理学者が、世界を支える根幹の力を神の論理と呼んだか。神の理論ではなく、神の論理なのだ。
単なる論理と呼んだとき、それは人間の思考だ。人間の思考と神の思考とでは明確な差異がある。ゆえに神の論理と呼ばれる。メーガンはその差異を知れば、全てを理解できると期待していた。
そしてその差異を知る鍵となるのは、神の論理の誤謬であった。
完全性を仮定したとき、その誤謬はどのように振る舞うのか。
メーガンはその答えを知っていた。だがその証明に機械もなく立ち向かうことは、スコップ一つで星を貫通するトンネルを掘るにも等しい、無謀な行為だった。
「クロッソン、お前のような屑でさえも、リスクのあるアゼルとの戦いを経て、念願の楽園を手に入れた。オレも冒険しないことには、対抗できないってもんだ。フェアじゃない」
クロッソンはかぶりを振った。
「貴様も楽園の住人になりたいのか? 従順を誓えば置いてやらんこともない。どうせ貴様如きに神の論理の誤謬は崩せない」
「アンタ、ロクな死に方しないよ」
「何だと?」
「人は生まれた瞬間、いずれ死ぬことを運命づけられる。なのに、そのことから目を背け、死から遠ざかろうとする。いかに自然の摂理から離れたことか分かるだろ。息を吸ったら吐く。喰ったら出す。生まれたら死ぬ。それに逆らえば苦しいだけだ」
「可能性を限定するのは凡人の発想だな」
「知らないのか? 世の中は凡人が動かしているんだぜ」
メーガンは、それこそが真理だと思った。真理にしなければならないと強く思った。
楽園はあまりにも揺るぎない。それが答えの一部である。クロッソンはそれで全てだと思っている。
違う。ほんの一部だ。神の論理は教えてくれている。完全とは瑕がないことではない。
完全とは、同一のことだ。メーガンは腕を伸ばす。
* *
部下から連絡が入った。回線が不安定で断片的なことしか確認できなかったが、世界的な混乱が生じていることは確かなようだ。
「それで、サプレスの機能は維持できるのか?」
《当面は………かもしれませ………ぐに戻っ………》
「よく聞こえないが、私は中心地に向かう。色々よろしく頼む」
我ながら抽象的で、下手をすると馬鹿にしているかのような指示には笑ってしまう。リスターは施設内移動に使う二輪ビークルに跨り、サプレス本部の縦断を敢行した。通信機を衣嚢に突っ込む。
演繹とは他の推論に一切揺るがされない不動の石塔を打ち立てることである。しかし基礎が崩れてしまえばあまりに脆い。
基礎たる神の論理が崩されつつある。リスターは焦燥に駆られ、どうやら自分が思っていた以上に大きな問題だったらしい、と驚いていた。この事態と自分の今考えている問題が密接に結びついていると、彼は確信していた。
部下の報告では、研究棟の一つに異常な熱反応が確認されたという。半分破損した熱分布データを見ると、確かに異常としか言いようがない。赤外線の放射量の測定では絶対零度にも近しいのに、論理式を解析した真なる熱量を見ると、とてつもない高温だった。
すぐに探査装置は無効化した。演算素子が演算不良を起こし使い物にならなくなったのだ。メーカーは今頃、世界中から殺到する保障請求に悲鳴を上げていることだろう。
原理上、演算に障害が生じたのだ。回路の異常ではない。リスターは論理兵器たる拳銃も無力化されていることを確認し、サプレスの捜査官が標準装備している実弾火器をセットした。
しかし、論理兵器より単純な構造をしているというだけで、実弾火器もいずれは不良を起こすだろう。世界は論理式によって成り立っているのだ。この破綻が拡大すれば、人類は文明を失う。
「大事にならなければいいが」
リスターは研究棟を目指した。ビークルのエンジンが突然止まり、ブレーキが利かず、投げ出されるように降車した。それでも止まることは考えず、かなりの速度で敷地を走り抜ける。
と、戦闘の音が聞こえてきた。誰と誰が戦っているのか、全く予測がつかないリスターは、物陰に隠れて状況の把握に努めた。
戦っているのは女。少年。老人。何とも奇妙な取り合わせだったが、見覚えがあった。論理偶人。サプレスが開発した戦闘人形だ。三体の人形が、血色の悪い痩せた女に攻撃を仕掛けている。銃弾が使い物にならないので、路上で格闘戦を繰り広げている。
三対一なのに、戦いを優勢に進めているのは、痩せた女のほうだった。どういう状況なのか分からないリスターは、研究棟へさっさと進むべきだと判断した。
しかし別のルートを進んだリスターに、老人型の論理偶人が気付き、高層建築群の壁を蹴って接近してきた。警告音を発しながら、
「邪魔は許さない」
「何の邪魔だ? 私はそれを知りたくてな」
リスターは至近距離で実弾を撃ち込んだ。論理偶人は弾かれたように吹っ飛び、路面に叩きつけられた。しかしすぐに立ち上がる。
頭部を破砕された人形は中が空洞だった。片目となった老人は無表情のまま突進してくる。
「論理の塊が、最後に残された手段は、体当たりか」
リスターは冷静に実包を込め直し、狙いを定めて連射した。衝撃をまともに受けるしかない人形は仰け反り、上半身と下半身のジョイントが裂かれた。
上半身が捻じれて回転し、躰が二つ折りになりながらも、人形は近づいてくる。リスターはたった八発しか連射できない実弾兵器の不便さを嘆きながらも、滑らかな動作で再装填した。
三度構えたリスターの手に触れた者がいた。
全く気配を感じ取れなかったリスターは驚愕し、傍らに立つ者を見た。
そこにいたのは青い長髪を風に靡かせ、鎖骨をグロテスクなまでに浮き出させた痩せた女だった。
「お前は――」
「撃つな」
「サプレスの人間ではないな? 誰だ」
「シンクレア」
「何……、アゼルの弟子の」
「撃つな」
「どうしてだ。どういう事情で戦っているのか知らないが、こいつらはサプレスの」
「増える」
「何?」
「撃ったら増える」
意味が分からなかったリスターは、しかし、すぐにその言葉の意味するところを目の当たりにした。老人の論理偶人の空洞から、きめの細かい泡が噴き出てくる。それは黒だったり緑だったり赤だったり、様々な色があったが、泡同士がくっついて固形物となり、組織となって、人間の姿から逸脱した怪物へと変貌した。
「うっ」
リスターは銃を下ろすことができなかった。狙いを定める前に撃つ。銃弾は空に吸い込まれた。
「撃つな」
ぽん、と頭をはたかれた。軽く触られただけなのに、異様に重い一撃だった。
「だが、あれは化け物――」
「引きつける」
「はあ?」
「先に行け」
シンクレアはそのまま背を向けかけたが、何かを言い忘れたかのように振り返り、しかし逡巡した。しばらく待ったが、結局何も言わなかった。
「一つ教えろ。私はサプレスの捜査官の一人だ。お前は私の敵か?」
「敵でも味方でもない」
「なら、何だ?」
「隣人だ」
シンクレアは襲いかかってきた少年の論理偶人を拳一つで撃退した。不思議なのは、人形は外見上ダメージを受けたように思われないのに、しばらく地面に倒れて動けなくなることだ。人形の論理式を瞬時に細工しているのか。高度な演算装置が動かなくなっている現状、そんなことができるのが信じられなかった。
「先に行け、とは研究棟のことか」
そこに何があるのか。アゼルの弟子であるシンクレアも十分興味を惹く対象ではあったが、今はそれどころではなさそうだった。
リスターは走る。アゼルの弟子が関わっていることだ、この先にアゼルはいるのではないか。
「あの男、何をしでかそうとしているんだ」
それとも別の誰かが事を起こそうとしているのか。目的は。何もかもが見えない中で彼は、自らの理性を信じ、研究棟に真実を求めに急行した。
* *
メーガンは眩暈を感じてよろめいた。じっと傍観していたクロッソンが勝ち誇る。
「無駄な試みだ、諦めろ。貴様如きの頭脳では太刀打ちできまい」
「言ってることが変わってるぜ、クロッソン。誰であっても不可能なんじゃないのか」
メーガンは唾を吐いた。クロッソンの顔が歪む。彼女はにやりと笑い、瞑目して精神を集中させた。
クロッソンが近くに歩み寄ってくる。
「分かっていないようだな。貴様は私に生かされているのだぞ。私がその気になれば、一瞬で息の根を止めることができる」
「ふうん。やってみればいいじゃないか」
メーガンはまた笑った。あともう少しで決定的な何かを掴めそうな気がする。途中で諦めるわけにはいかなかった。
「メーガン……、無駄な努力を」
「お前は恐れているんだよ。神の論理がもし完全であったならどうしようママ、ってな」
「何だと」
「誤謬が神の論理の端に瑕をつけているのではない、誤謬さえも神の論理の一部なんだ。オレはそう信じる」
「バカらしい」
「オレたちの知っている論理は完璧じゃない。神の論理とは決定的に何かが違う。オレたちはまだ、全ての道具を揃えたわけじゃないんだ」
「そんなのは邪説だ。論理学において取りこぼしは考えられない。全ての人間の推論を、論理記号は過不足なく表現している」
「それだからこそ人間の論理には限界がある」
メーガンは断言した。
「人間には知覚できない神の推論が、神の論理を補完している。人間はそれを見ることができない。ゆえに神の論理は誤謬を抱えつつも息衝いている。全ての根源を論理式に見るのならばそう考えざるを得ない」
「戯言を!」
「ここはまだ、神の論理の領域だ」
メーガンの言葉には力がある。クロッソンは拳銃を構えていた。いつの間にか出現した論理兵器に、彼女は慌てなかった。
「ゲームは終わりだ。死ね」
クロッソンは引き金を引いた。
無音の銃弾が空間を貫く。
やはり、とメーガンはにやりと笑った。
この世界はまだ神の掌中にあるのだ。




