破綻論理
女の泣く声が聞こえる。
まさかシンクレアが泣いているのだろうか、と思ったが、そんなはずはなかった。あの女が嗚咽を漏らすなどと。
メーガンは歩いていた。何も見えない。闇というよりも、虚無。色のない世界、色という概念のない世界、見ようとしても知覚できない世界であった。
視覚は全く役に立たなかったが、聴覚は機能している。女の泣き声を遠くに聞くことができる。これが幻聴でないのなら、この奇妙な世界にも住人がいるらしい。
全身をけだるさが襲い、歩き続けているのが嫌になる。だが、歩くのに倦んで立ち止まったとき、二度と歩き始めることができないのではないかという根拠のない恐れが脳裏をよぎる。
根拠のない恐れを克服するには、根拠のない開き直りを敢行するしかない。メーガンは自分が歩いているという事実を有限性と結びつけた。すなわち、この世界には果てがあり、果てがないにしても変化はあり、変化がないにしても価値はあると判断したのだ。
時間の感覚は皆無であり、自分がどれほど歩いたのか分からなかった。とりとめのない思考が圧倒的な力を持ち、ふとすると足が止まっているのではないか、自分は動いていないのではないかという疑念と戦うことになる。
自分は誰だったか――彼女はふと浮かんだ疑問に不安を覚えた。自分はメーガンだ、メーガンという名前のナイスバディだ、と言い聞かせても、歩き続けていると、忘れてしまいそうになる。
それはちょうど、見たばかりの夢を忘れまいと、ベッドの中で夢の内容を反芻する早朝の心地にも似ている。これほど確かな記憶を忘れるはずがないという慢心と、あまりに儚く散ってしまう記憶に気付いたときの口惜しさ。
メーガンは歩き続けながらも、自らの記憶を疑い、疑うことで維持しようと努力し、そしてやがて、自分がどうしてこんなところを歩いているのかを忘れた。
「誰かいるのか」
声が遠くからした。男の声だった。メーガンは瞼を開けたが、何も見えず、何も感じず、本当に自分は瞼を開けたのかと疑問に思った。しかし腕を振り上げようとしても反応はなく、右手の指が僅かに動いただけだった。
自分の姿さえ見えないのだから、状況の把握なんて不可能だ。しかし、この声には反応しなければならないと思った。
「ここにいる。お前は誰だ?」
自分でも驚くほどの大音声で、鼓膜が破れるかと思ったくらいだった。聴覚が異様に冴え渡っているのだろうか。だとするなら、男の声は、よほど遠くから発せられているに違いない。
「俺はアゼルだ。お前は誰だ」
声が返ってきた。メーガンは自分の名前を憶えていることを誇らしく思いながら、
「オレはメーガンだ。アゼルだって? どこかで聞いた名だなあ」
と返した。アゼルの声はすぐに返ってきて、
「メーガン……。おい、気をしっかり持て。俺が誰なのか覚えていないのか」
腹の立つことを言うものだ、とメーガンは思った。自分の記憶力には自信があったし、実際メーガンという名前をちゃんと憶えていたのだ。気をしっかり持て、だと。
「言われなくてもオレは常時覚醒状態だよバカヤロー。どこにいやがるんだチクショウめ、殴り飛ばしてやるよトーヘンボク」
メーガンは軽い暴言を吐き、手足をじたばたさせようとした。しかし躰は全く動かない。
微かな違和感が意識を脅かした。オレは今、歩いているはずなのに、足を動かしている感覚があるというのに、足をじたばたさせることができないなんて、おかしくはないか。おかしいだろう……。
「メーガン、よく聞け。俺もお前と似たような状況だった」
アゼルの声が――どことなく懐かしい声が、鼓膜にビンビンと響く。メーガンは声のした方向を見ようとした。だが目は見えない。
「お前の躰は意識から隔離されている。まずは障壁を破却することが先決だ。空間の特性上、会話はできるが、実際に声が声帯から出ているわけではない。躰の自由を取り戻すんだ」
「何を言ってやがる、この空間は確かにおかしいが――あれ、どうしてオレはこんなところにいるんだっけ」
「これがクロッソンのやり方なんだ。意識は肉体に規定される。意識から肉体を切り離してしまえば、いずれ意識は腐り落ち、やがて生体論理式は瓦解して無意味な記号の羅列となる。そうなる前に肉体を取り戻せ」
そのナイスバディを――とアゼルの声が続いたとき、メーガンは自分の思考までもが周囲に溢れ出ていたことに気付いた。恐らくは赤面した彼女は、そのささやかな衝撃によって意識が明瞭となった。
意識と肉体を分かつ障壁。意識とは脳に宿るが、同時に脳も肉体である。意識と肉体が切り離されてというのは、単純に、脳からの命令を首から下が無視している、というだけなのだろうか。
恐らくは違う。この空間に吸い込まれる瞬間に見たのは、オペランドを持たない論理演算子の海だ。意識を肉体から遠ざけているのは、まさしく過剰な演算子による強烈な干渉だろう。
要するに、論理式で表現され得る意識からの命令を電気信号に変換する過程でジョイント不良が起こり、分厚い障壁が屹立している。銅線の間に湿らせたスポンジでも挟んで電流を流し込もうとしているような状態だ。
「障壁をクリアするにはどうしたらいい」
メーガンが訊ねると、アゼルが言うには、
「強引に手繰り寄せろ。神経を伸ばして繋ぎ合わせろ。外科医になったつもりで」
何の役にも立たない言葉だった。天才は教師には向かないものだ。
悪かったな、というアゼルの声を聞きながら、メーガンは意識を集中させた。そうすると頭痛が激しくなり、頭痛というのは肉体の悲鳴であるからして、この方向に進むのが正しいのだと思うようになった。
メーガンがイメージしたのは、無限に連なる公理系である。この世に真理があるとして、そして真理のみが公理に適しているとして、真理を持たない者が真理を得ようとするのならば、不確定な理論を公理に据えなければならない。その不確かさは論理演算子による強引な演算を妨げ、もっと言えば演算子としての能力を浪費させ、二つの岸を繋ぐ最初の糸となった。
「その調子だ。メーガン、さすがだな」
アンタに褒められる筋合いはない。メーガンは吐き捨てながら意識を集中させ、作業を進めていく。痛みが増し、頭痛のみならず全身の疼痛に繋がったが、中断するわけにはいかなかった。
最初に左腕が動き、次いで腰回り、足と神経が繋がって行く。瞼を開けるとそこにはやはり闇が広がっていたが、目の前に腰掛けている男は、銀髪のアゼル、まさしく彼だった。
アゼルは青白い光に照らされて輪郭をはっきりさせていた。椅子とおぼしき何かに腰掛けているが、椅子自体は見えない。アゼルの姿以外に見えるものはなかったのだ。
「久しぶり、メーガン。こんな近くにいたのか」
「アゼル……。ここはどこだ?」
アゼルは肩を竦める。
「神の論理の外側だ。神の論理の誤謬、と言ってもいい。理論上で語られるところの虚世界だな。実際に目にしたのは俺たちが初めてだろう」
「虚世界だと……。どうしてそんなものが、サプレス本部にありやがるんだ」
アゼルは息を大きく吐いた。少しやつれたようで、眼光が鋭さを増し、峭刻とした容貌になっていた。
「落ち着いて話をしたいが、とりあえずその質問に答えよう。サプレスの論理技術審議官クロッソンが、私欲の為に神の論理の誤謬を暴こうと研究を重ねていた。そしてその研究は成功を収めつつある。そういうことだ」
「そういうことだって、どういうことだよ」
「だから、クロッソンはサプレスの敷地内で研究を続けていたってことだ。俺が空間に叩き落されたときは研究室いっぱいに誤謬が膨らんでいたが、今頃、サプレス本部丸ごと飲み込んでいるかもな……」
アゼルの口調はあまりに軽やかだった。メーガンには彼の言葉の意味が瞬時に理解できなかった。
「膨らむ……? 空間が……」
「じきに世界全てを誤謬の内に取り込む。そうなれば論理世界は崩落し、これまでのような秩序は維持できなくなる。まあ、事実上神の論理は否定されるということだが」
その言葉が持つ意味は極めて重要だった。それは文明の崩壊を直接的に意味し、人類の論理歴への転換を嘲笑うものであり、無数の天才たちの英知を灰塵に帰すものであった。
メーガンが真っ青になっていると、アゼルはこともなげに言ってのける。
「心配するな。俺とお前が手を組めば、どうにかなる」
どうしてそんなことが分かるのか。
「根拠なんてない。論理学者に必要なのは直感だ。煩雑な計算は機械に任せておけばいいんだよ」
試みが成功するかどうかなんて、どのみち、計算なんてできない。メーガンは反駁しようと思ったが、
「分かってるじゃねえか、ナイスバディ。信じるか信じないか、それだけなんだよ」
彼は一二年前とちっとも変わらない笑みを見せてくれた。
アゼルは、どうしてこの空間に閉ざされてしまったのだろうか。メーガンはまずそこを突っ込んで尋ねた。
アゼルは椅子を揺らしながら居心地悪そうに答えた。
「クロッソンに嵌められたんだよ。言ってみれば罠だな」
「もっと言えばヘマやらかしたってことか」
アゼルは苦笑する。
「まあ、本質を追究するとそういうことになる。罠なんてものは、他人のヘマを期待して張り巡らせるものだからな」
「で、見事相手の期待に応えてやった気分は?」
「最悪って言葉じゃ足りないくらい最悪だ。泣きたい」
メーガンはアゼルの言葉に軽く笑いつつも、クロッソンという男の正体について尋ねておくべきだろうと考えた。それがアゼルの追っていた「敵」らしいからだ。
「クロッソンは、さっきも言ったが、サプレスの要職、論理技術審議官だ」
「論理技術何たらってのは、何だ?」
「簡単に言えば技術者連中のボスだ。サプレスの論理兵器の開発や集中演算室の整備、解析なども牛耳っている」
「そんな奴が、神の誤謬を暴く理由ってのは、実のところ、何なんだ?」
メーガンの素朴な疑問に、アゼルは表情を険しくする。
「とんでもなくくだらねえ願望を、あの男は叶えようとしている。ちょっと考えれば、人生には不要なモンなんだが」
「……?」
「奴は不老不死になろうとしている。人間は生まれたその瞬間、いずれ死ぬことが運命づけられているってのに、はた迷惑なことをするものだ」
「不老不死。そんなこと、可能なのか」
「不可能だ」
アゼルはあっさりと答える。
「神の論理の範囲ではな。だが神の論理の誤謬を適用すれば可能だ。だから奴は誤謬を押し広げて、不老不死を実現させる為の素地を整えようとしているってわけだ」
「ちょっと待て、オレたちは今、その神の論理の誤謬の中にいるわけだよな」
「ああ」
「だったら、オレたちは不老不死になっているってのか」
「それを望めば可能だ。だが、見ろ、メーガン」
アゼルは周辺を見回す。何もない闇の空間だ。
「光がないから何も見えないわけじゃない。本質的に無しかない空間なんだ。クロッソンは全ての事物をこの空間に叩き込もうとしている。冗談じゃない。確かに多くの人間は不老不死という言葉に惹かれるかもしれないが、実態はこれだ。俺やお前のような論理学者以外は、まともな思考さえできない、死の世界だぞ」
メーガンは何も言えなかった。死の世界。しかし不老不死を実現するという。全てが停滞した世界。神の論理から逸脱した、新たな神の世界。神の名はクロッソン。
おぞましさに吐き気さえする。メーガンは口に手をあてがった。
「もしかすると既にもっと居心地の良い世界を構築しているのかもしれないが、少なくとも世界の大半はこんな有様にされちまうんだ。奴の思惑は俺たちが潰す。いいな」
アゼルは使命を帯びた目をしていた。だが、もちろんメーガンは彼に無条件に手を貸せるわけではなかった。
「アゼル、教えてくれ」
メーガンは言った。真っ直ぐ彼の瞳を見据える。彼は視線を逸らさなかった。あまりにも強い双眸が彼女を圧してくる。
「何をだ、メーガン?」
「アンタは今、この瞬間も、罪を犯しているのか? アンタが戦争を起こしていたのは、何か深い事情があったからなんだろう?」
アゼルの表情が緩んだ。メーガンはそれがとんでもなく意外だった。
「そんなことか。……俺は今も昔も罪人だ。言っただろう。何度でも同じ過ちを犯すと」
「マノンは言っていた。アンタはただ、クロッソンの企みを挫く為に、戦争を引き起こし、論理界層を崩壊させ、誤謬を補強する準備に入っていた。そうなんだろう?」
半分縋るような声だった。我ながら情けない声だった。アゼルは少し驚いたようだった。
「俺を信じたいという気持ちは嬉しいが。……悪いな、メーガン。俺はそんな立派な人間じゃない。単なる戦争犯罪者だ。クロッソンを倒しても、これまでの活動を変えるつもりはない」
「どうしてだ。アンタは他人の不幸を喜ぶようなゲスじゃないはずだ!」
メーガンの叫びに、アゼルは笑うしかないようだった。
「詳しく説明するとだな、メーガン。どのみち、この論理に支えられた世界は、寿命が残り少ないんだよ。ドミノ計画って知ってるか? 数学的帰納法を用いて無限の論理世界を構築するそうだが、あれが実現したら実世界は沈み始めるだろう。神の論理は認知されている範囲では不完全な論理であり、無限の質量を取り扱うことはできないんだ」
「それって、どういう……」
「俺が戦争を引き起こしているのは、お前が言った理由もあるが、人類に打撃を与える為なんだよ。そうでもしないと、人類の論理学は人類そのものを絶滅させるだろう。ある意味、現代の論理学が突き進んでいる方向は、クロッソンの志向する世界よりも、よほどタチが悪い。全ての生命は消し飛ぶんだからな」
メーガンは絶句した。あまりのことに茫然とした。まだ理解できていない。アゼルは首を横に振る。
「俺が論理兵器を各国にばらまき、戦争の規模を拡大させているのは、戦争以外に論理世界を崩落させる手段がないからだ。このままのペースで論理世界が開拓されていくと、数十年の内に神の論理に皹が入り、全ての論理界層は崩落する。最悪の事態が起きる前に、世界を軽くしておかないとな」
アゼルの飄然とした口調には、憂いや悔しさなど微塵も感じられなかった。ただ、起きるべくして起きる巨大な「人災」への覚悟を感じられた。
「どうして、それを発表しない?」
「うん?」
「それを発表しろよ! 学者でも記者でも活動家でもホームレスでも愛人でも猫でも、誰でもいい! 誰かに教えたのか? そんなことを聞かされたら、論理世界の開拓なんてあっという間にストップするだろう。戦争以外にも方法はあるはずだ!」
「確かにそうだ。だが、論理世界の開拓が終われば、何億という人間が飢え死にするだろう。もしかすると桁が一つ二つ違うかもしれない。新たな論理界層に眠る資源を頼りに、食料品だの燃料だのは賄われてるからな。全ての国民が論理学を学べればかなり融通が利くと思うんだが、そういう教育システムの構築には一〇〇年はかかるだろうな」
「戦争よりもマシだ! 論理世界が構築される以前にも、何とか資源のやりくりは出来ていたんだ」
「本気で言っているのか? まあ、お前が無知なのは置いといて、じゃあ聞くが、兵隊が一億人戦争で死ぬのと、貧困層の人間が一億人飢えて死ぬのと、どっちが悲劇的だ?」
メーガンは一瞬答えに詰まったが、
「どっちも悲劇的だが、人の命に変わりはない。同じだ」
「俺はそうは思わない。貧民が一億人死ぬほうがよほど悲劇的だね」
アゼルは冷然と言い切った。
「兵隊は命を懸けるのが仕事だが、貧困層の人間は、ただ生きたい、それだけを願って日々を過ごしているのに、生きられないんだ。人の命に軽重はない、お前の言い分は分かるがね、どちらの世界がより末期かと聞かれれば、飢えて死ぬほうだろう」
「そんなの……。理屈になってない」
「それに、餓死者を悼む者は、誰を恨めばいい? 戦争を引き起こしたのが俺だと明確になれば、誰も彼も俺を恨めるだろう」
「バカじゃないか」
メーガンはアゼルの言葉に反感を持った。この男は大馬鹿者だ。
「俺は資源を採り尽くした世界が優先的に崩落するよう配慮していたし、民間人が戦争に巻き込まれるのも最小限にしてきたつもりだ。もちろんそんな心がけを免罪符にするつもりは毛頭ないが」
「当たり前だ」
「俺はこれまでも、これからも罪を犯し続ける。世界がぶっ壊れる日をただ遠ざけているだけかもしれないし、一部の人間の寿命を縮めていることになるだろうから、行為の是非は色々とあるだろう。だが、どうすればいいんだろうと頭を抱えるだけの頭でっかちにはなりたくないんだ。かつての俺に戻りたくない」
メーガンはゆっくりと瞬いた。そしてアゼルの思いの断片を汲み取った。
アゼルは苦笑する――メーガンの思考を読み取ったようだった。
「俺は一二年前、論理兵器開発の最前線にいた。戦争の規模を拡大するばかりの論理兵器の存在そのものに嫌気が差し、研究所を逃げ出したが、結果としてお前たち家族を巻き込んでしまった」
アゼルは清々しい表情だった。後ろめたさなど微塵も感じていないのだろう。
「俺は独りで自殺するべきだったのかもしれない。そうすれば人類は緩やかな死を迎えられただろう。あるいはクロッソンの作り出す世界も、案外心地が良いかもしれない」
「何を言ってる」
「俺は結局、死に逝く者と生き延びる者とを選定しているだけに過ぎないのかもしれない。傲慢な行為なのかもしれない。だが、俺は過ち続ける。戦争を起こして論理界層を崩し続ける。生きている限り、この世界が続く限り、俺はやめない。それが贖いであり、罪だ。戦争という現実から目を背け、研究室の奥で悪夢に魘されていただけの頃の俺とは、違う」
アゼルの覚悟を尊重したいという気持ちもある。支持することもできないことはない。だがメーガンは、高邁であるがゆえに愚かしい彼の言葉が、何とも苛立たしかった。
「バカじゃねえのか」
「……メーガン」
「アンタがここまでバカだとは思ってもみなかった。戦争を起こし続ける? そんなのダメに決まってるだろ。救いようのない大馬鹿者だよ」
「……だが、俺はこれ以外に方法を持たない」
「バカっ! 自分で言ってたじゃねえか、全人類が論理学の知識を得れば、何とかなるかもしれないって。教育システムの構築に一〇〇年かかるって。一〇〇年を一〇年にする方法を考えるのが先じゃないのか、人を殺す方法を考える前によお!」
アゼルの顔が引き攣った。そして、
「無茶を言うな、一〇〇年というのは控えめな数字だ、実際は何万年かかっても無理かもしれん。いいか、俺でさえも、この俺でさえもだ、パン一斤を構築するのに数時間かかるんだぞ。平凡な論理学者なら一月や二月かかるかもしれん。論理界層を増やし続けることでしか食料を得る方法はない。人口だって爆発的に増えている」
「今ある論理世界だけでも十分賄えると思うがね、土地は足りてるんだ、作付面積をもっと増やせば良い」
「だが、土地を所有しているのはほとんどが富裕層……」
メーガンは切れた。こんな阿呆な男に憧れて一二年も生きてきたのかと思うと侘しかった。拳を握り締めてウアアアアアアと叫ぶ。
「だったら奪えばいいじゃねえか! 金持ちの味方をしているのか、秩序を重んじてるのか、資本主義の権化かお前は! 世界を壊す? そんな大袈裟なことを言う前に社会を壊せよ! 常識を破壊しろ! 世界中に呼びかけて協力してもらえ! オレだって手伝う! 農家を増やしたり学校建てたり、できることなんて幾らでもあるじゃねえか!」
息切れしながらもメーガンは訴えた。そして自分がどれだけ牧歌的な単語を連発しているのか気付き、少し意外だった。感情はしばらく揺れが収まらないほど乱れているというのに、語っているのはまるで都市計画に口を挟む評論家の如しだ。
アゼルは唖然としていた。メーガンの言葉の陳腐さに呆れているのか、それとも感心しているのか。
彼の動揺が伝わってくる。心の靄が晴れてゆくのを感じる。
「……メーガン、やっぱり俺は、今までのやり方を変えられそうにない」
「アゼル! アンタまだ……」
「実際、世界はまだ重過ぎる。それに、希代の大犯罪者が建てた学校なんかに、誰も入りたがらないだろう。その役目はお前に任せた」
「勝手なことを……」
「お前が言ったことは陳腐な理想論だ。そんなことが可能なら、とっくに人類は人口問題や格差問題を解決している。だが……」
アゼルは膝を打って立ち上がった。この空虚なる世界にあって、彼だけが生命の輝きに満ちていた。
「有史以来、未だかつて個人がこれほどの力を持った時代はなかった。俺は研究者に論理学者、犯罪者に逃亡者などと、色々呼ばれてきた。そろそろ革命家って肩書きを追加しても良い頃合いかもしれないな」
革命家。何を革命するのか。論理界層を積み上げるだけの社会構造を、論理歴以前の有限世界へと後退させる。これはむしろ反動なのか。
メーガンはしかし、彼の進む道を見てみたいと思った。かつての恨みはそこにはなかった。完全に許したわけではない、家族を失った痛みが癒されたわけではない。だが、もし彼が過ち続けるというのなら、自分が正し続けてみせる。その覚悟が真に出来上がった瞬間だった。
「アンタなら教師も務まると思うけどな。三人の弟子を育て上げたわけだし」
「マノンとリアンはともかく、シンクレアには何も教えていない。あの女は最初からムダに強かった」
「シンクレア……。あっ」
メーガンはこの空間に閉じ込めらているはずのシンクレアを思い出した。慌てて伝えると、アゼルも少し焦ったようだった。
「やばいな、かなり時間が経っている。頭が浸蝕されているかも」
「あの女なら大丈夫じゃないか」
「俺に記憶を弄られて、恐らく、脳の生体論理式はかなり乱れているはずだ。浸蝕の速度はかなり速い」
「記憶を弄ったのか」
「ああ。自殺への願望が強過ぎて、過去の記憶を全て抹消するしかなかった。元々は軍人だったんだが、戦争で敵国の捕虜になり、拷問を受けたらしい。奇跡的に命は取り留めたが、俺と会ったときは完全に精神が崩壊していた」
重い話をさらりと言ってのける。メーガンは何も言えなかったが、アゼルは首を横に振り、
「どうにも放っておけなくてね。戦争が原因と聞けばなおさら」
「贖罪のつもりか」
「どうだろうな。もちろん善人ぶるつもりはないし、感謝しろと胸を張るつもりもない」
シンクレアはアゼルを恨むと話していた。もしかすると記憶を失ってなおアゼルを恨んでいるのは、彼なりの償いの一環なのかもしれなかった。自己満足も甚だしい。
「メーガン、シンクレアを探すんだ。この空間を歩き回るのは得策じゃないから、目を凝らして何とか見つけるんだ」
「見つけるって、どうやって。目を凝らすって何だよ」
「声を張り上げても良い。とにかくシンクレアに意識と肉体の連結を完了させる必要がある」
「それは分かってるが」
そう言えば、この空間に足を踏み入れたばかりのとき、女の泣き声を聞いた気がする。メーガンは自分が進んできた方向はどちらかとアゼルに訊ねた。
「突然姿を現したんだ。どうやら、この空間における距離という概念は、いささか奇妙に捻じれているらしいな」
メーガンは耳を澄ませた。あの女性の泣き声を探してみる。すると、これまでアゼルと会話していて気付かなかっただけなのか、すぐにあの泣き声が耳に飛び込んできた。
「ほら、聞こえる、誰かが泣いている!」
「なに? ……何も聞こえないが」
「泣いている。ほら、『このファネルちゃんたるものが』とか言ってる」
「ファネル……? 誰だそりゃ」
メーガンは方向を探ろうとしたが徒労だった。とりあえず声を大にして叫ぶ。
「聞け、ファネル! 今お前は意識と肉体が隔離されている! 障壁を排除しないと脳味噌がグッチョグッチョになってしまう! お前も論理学者なら何とか処置をしろ!」
泣き声が途絶えた。そしてすぐに、
「あなたは誰?」
と声をかけてきた。
「どうやら理性は保っているらしいな」
アゼルがほっとしたように言った。そして続ける。
「――しかし、シンクレアではない」
「分かってる。……オレはメーガンという者だ。ファネルとやら、論理学の知識は?」
返ってきた言葉は、想像以上に活気溢れるものだった。
「はっ! このファネルちゃんに何たる『愚問!』なんでしょう! 論理学界の風雲児、ファネル=コームちゃんと言えば解析学の権威にして最終兵器、プラスマイナスアルファ要員としてそれはもう重宝されていた感じの……」
「分かった。とにかく、意識と肉体を繋ぎ合わせるんだ。できるか? コツは外科医になったつもりで」
「看護婦のコスプレはしたことあるけど外科医はないなあ……」
ふざけたことを抜かしているので怒鳴り返そうと思った矢先、サングラスをかけた小柄な女が目の前に出現した。アゼルが「ほう」と感心する。
「人間の演算速度じゃないな。演算素子を瞳に埋め込んでいるのか」
「あはん。ばれた?」
ファネルはアゼルに愛想笑いした。そしてサングラスを外して周囲を見やる。
「何もないのに何でもあるって感じの空間だね。雇い主さんが『絶対飽きない職場!』とか言ってたけど嘘じゃん。ファネルちゃんはもう既に飽きてますけどー違約金発生ぇー」
メーガンはこの奇妙な人物に興味を持った。重要な事実を掴んでいるような臭いがする。アゼルは「話を聞いておけ」と表情を作った。シンクレアの捜索は彼が続けてくれるだろう。
メーガンは頷いた。
「おい、チビ」
「何よボンレスハムさん。ボンレスハムさんで合ってる?」
「合ってねえよ。メーガンだよ。まあ、それはどうでもいい。お前はどうやってこの空間に取り込まれたんだ?」
「バイトだよ。アルバイトだよ。時給制だよ」
「バイト? 何のバイトだ」
「最高意思機関からまっすぐ降りてきた、極秘任務だよ」
「それバイトなのか」
「バイト式極秘任務だよ」
「……それはどうでもいい。どういうバイトだ」
「某研究棟の主任にと嘆願されてね……。まあ漸くこの逸材にサプレスの『ボンクラ!』どもが気付いたかファネルちゃんの時代が来たかって感じだったんだけど、着任初日、いや初時になーんか奇妙なブラックホール的なものを机の下に見つけて、つついてみたら吸い込まれて、もう絶望って感じでね」
メーガンは眉を顰めた。
「ブラックホール……、神の論理の誤謬のことだよな」
「視覚化できるほど巨大になってるとはさすがのファネルちゃん大先生も予測がつかなかったのでね、与えられた任務は完璧デスクワークで能力の過不足があったと言えばそれは偽らざる真実という生臭いもので鼻摘まみ野郎って感じのあのクロッソンが憎ぅて憎ぅて仕方がないのです」
半分も理解できなかったメーガンは曖昧に頷いておいた。
「ん……、今クロッソンって言ったか?」
「言ったよ。あの人肥満気味で顔色悪くて手足が痺れてるとか喉渇くとか典型的な糖尿病だよねえみたいな権力者の勲章?」
「そんなことどうでもいいんだよ。クロッソンがお前に頼んだのか? 具体的に何をやらされたんだ」
「だからデスクワーク。ワケ分かんない演算の監督だよ。他に研究員が一人もいなくてね。初日、いや初時からやる気半減ですよ。ところであなた。さっきから『どうでもいい!』を多用し過ぎだよ。どーいう了見?」
「どうでもいいことを言うな。とにかくだ、その演算とやらはどんなだったんだ。ここを脱出する手掛かりが得られるかもしれない」
ファネルが監督したとかいう演算は、まず間違いなく神の論理の誤謬に関することだろう。何が起きたのか知らないが、ファネルがここに来てしまったのは事故と見て良い。
ファネルは不満そうだった。
「演算は演算だよ。間違いがあるといけないからって、三種類の方程式で検算しながらとんでもなく素朴な論理記号を転がしていやあれはたったの三分間の出来事だったけど恐ろしく退屈でした」
メーガンは思案した。
「そこまで慎重に演算を進めているってことは、闇雲に誤謬を広げたいわけじゃないってことだろうか。こんないい加減な女を雇ってでも演算の精度を上げたかったのはどういう理由だ。他に誰もいなかったのか」
「リアン脱獄で、誰もそれどころじゃなかったからねえ。ファネルちゃんくらいのものじゃないの、電話相談室を開設して『好評!』を博してた豪傑は」
クロッソンはこの神の論理の誤謬空間を制御しようとしている。で、実際制御できているのか。アゼルを罠に嵌めてこの空間に閉じ込め、ファネルに制御を依頼し、結果空間に巻き込まれ、メーガンとシンクレアも恐らくは事故によって引きずり込まれた。
これはクロッソンにとって予定通りなのか。顔も知らないその男は世界中に誤謬を蔓延させて世界を腐らせるつもりなのか。
「アゼル、シンクレアは見つかったか」
メーガンが言うと、アゼルは渋面を作っていた。
「それなんだがな、全く見つからん。気配を消すのが得意だったからな、アイツ」
「さっさとここを脱出したほうがいいかもしれない」
「そんなことは分かり切ってる。しかし方法はどうする」
「考えがある。オレたちがどうしてこんなところに閉じ込められているか、その原理を考えてみた」
メーガンは興味深げなアゼルとファネルを見回してから説明を始める。
「論理演算子の海、しかしオペランドはない。これが神の論理の誤謬を端的に表現した空間なのだろう。すなわち、ありとあらゆる変換が行われる可能性があるが、肝心の被演算子が圧倒的に不足し、暴風的な荒々しさによって、オペランドを抱え持つ人間や物体を引き留めようとする。その力がオレたちをこんなクソつまらねえ場所に拘束している」
「恐らく当たっている」
「ファネルちゃんも異論はないけど?」
「だが、神の論理を否定して生まれたこの場所に、神の産物である論理記号が溢れているというのは、おかしいじゃないか? だから俺は、神の論理に依拠して生まれた矛盾律世界としてしか、この空間は存在できないと思う」
アゼルは一瞬瞑目し、すぐにメーガンを見据え直した。
「神の論理を完全に否定するまでは至らず、むしろそれに依拠しながら、いわば新造の論理界層のように、誤謬世界を打ち立てたということか?」
「そうだ。そして恐らくこれはクロッソンの理想の世界ではない」
ファネルがぽんと手を打つ。
「そう言えばあのデブ、上手くいかないよママ、とか電話で話してたような」
「ママ?」
メーガンはぎょっとしたが、すぐにファネルの脚色だと悟り、咳払いを挟んで話を続けた。
「不老不死を実現できる神の論理の誤謬――たぶんそれは、絶対死を前提としていると思う。実験台として使っていた弁駁獣は数秒で死に、数秒で蘇る、凶悪な生物だったが、莫大なエネルギーを用いて自殺因子の外部化を図っていた。この空間で応用するとすれば、クロッソンは永遠に死に続けることを選択したんだ」
「永遠の死……」
「生き長らえることには限界がある。だから死を前提として、それを積極的に取り入れて、いわば死を内部化してしまった」
メーガンの発言にアゼルは厳かに頷いた。
「神の論理の誤謬は不老不死が実現する可能性を与えてしまったことから起きる不良部分だ。ただ、それを実際に是としてしまうと、無限のエネルギーの補給が必要となってしまい、事実上世界を破壊せしめる。それが机上での帰結」
「無限のエネルギーは、たとえばドミノ計画で生まれる無限の論理界層を利用すれば良い」
「だが、メーガン、それを確認したところで、この空間からどうやって脱するというんだ」
「公理だ」
「公理?」
「矛盾律世界に矛盾する存在になれば弾き出されるか、空間に押し潰されるか、消滅するか分からない。だが、試してみる価値はあるんじゃないか」
「公理をどうするというんだ」
「互いに人間を公理として定めるのさ。オレはアゼルを、アゼルはファネルを、ファネルはオレを公理として自らの存在を証明する」
「……おい、それは基本原則から逸脱しているぞ。成立しない」
「完璧な神の論理を前提とするならな……、だが神の論理の誤謬は『不老不死を是認する』ことなんだろう?」
アゼルの顔が明るくなった。
「なるほど、誤謬を内に取り入れるわけか。だが、人間の生体論理式は未解明の部分が多くある。証明できるのか」
「やらなきゃ死ぬぜ。何だったらブラックボックスをそのまま内生変数として表記しちまえ」
「ふん。証明可能な命題にだけ取り組んでいても、腕が廃るからな」
「何だかよく分からないけどファネルちゃんも頑張りまーす」
三人は互いの生体論理式に触れた。メーガンはアゼルの腹部に触れ、生命の息吹を感じた。ここに確かに生きているのだと実感できる。この空虚な世界で揺るぎなく生きているのだと断言できる。
証明などせずとも、自分たちは生きている。証明可能かどうかで言えば、証明は可能だ。問題は材料が揃っているかどうかだけ。
三人は互いの肉体に掌を当てていた。輪となって闇の空間を俯瞰している中、突如として眩い光が三人の躰から湧き出てきて、互いを公理として証明が完了したことを報せた。
「できたのか? 本当に?」
「時間の感覚はないが、割とあっさりできたな」
「ファネルちゃんはファネルちゃんが規定する!」
光はやがて闇を払い、彼らは研究室の一角に立つ自分を見下ろして、誤謬世界から脱出したことを悟った。
思わず尻餅をついたメーガンに、アゼルは不敵に言ってみせる。
「やれやれ、早速クロッソンを探しに行くか。シンクレアも、もしかしたら既に脱出しているかもしれんな」
あの女ならあり得る。自分自身を公理と定めて証明する。それくらいのことはやってのけるかもしれない。
メーガンはアゼルの手を取り、立ち上がった。
「クロッソンの次はアンタだからな、アゼル……。決着をつけてやる」
メーガンにとってそれはけじめだった。半生をアゼルに囚われて生きてきた彼女にとって、明確な区切りが必要だった。
「ああ、もちろんだ」
アゼルは頷いた。彼がどのような決着を思い描いているのか、メーガンは理解しているつもりだった。
絶対にアンタは殺さない。リアン、お前がオレに同情したのは、きっと、オレがアゼルを死なせる運命にあるからなんだろう。
絶対にそんなことはしない。この男は生き続け、贖い続ける。苦しみ抜いて罪を償ってもらう。それを誰もが望んでいる。




