潜入
病棟から連絡があり、シェリルが目を覚ましたという。それを聞いたリスターは機転を利かせることにした。副室長にちょっと出てくると言い残し、自ら彼女の病室へと足を運んだ。
部下が守りを固める病棟はひっそりとしていた。自分の足音が反響して心地が悪い。自分の所在を高らかに知らしめているかのようで、丸裸にされた気分だった。
「ご苦労」
シェリルの病室は個室であり、ドア前で一人の部下が警備していた。命を狙われる危険性がある為、フルタイムでの警備体制を確立させた。リスターの考えでは、彼女は安全だが、絶対とは言い切れない。人員を割く価値はあると判断した。上からの命令でもある。
ドアをノックすると、中から女性捜査官が顔を覗かせた。
「面会したい。入っても構わないな?」
「ちょっとお待ちを。着替えている最中ですので」
着替え。何気ない言葉だったが、リスターは不穏なものを感じ取った。
「何かあったのか」
「いえ。ちょっと、暴れましてね」
女性捜査官の表情は苦り切っている。よく見ると、制服の襟元が汚れていた。
「食事をぶちまけまして、熱々のスープだったので火傷をしてしまいまして」
「大丈夫か」
「あ、いえ、私ではなく、シェリルがです。あ、もちろん、彼女も私も大事ありません」
女性捜査官は寝不足なのか、目の下に隈が浮かんでいた。リスターはドアの隙間から室内の様子を一瞬だけ見たが、下着姿のシェリルがペンを振りかぶっているところだった。
「――危ない!」
リスターは女性捜査官の腕を引き、通路に出した。ペンが鉄製のドアに突き刺さり、ビィンと音を立てる。演繹補強された筆記具は生半可な銃弾よりもよほど威力があり、飛び散った破片で頬を切った。
明確な殺意を感じ取ったリスターは、床にへたり込んだ女性捜査官を近くに立っていた部下に任せ、室内に入った。
後ろ手にドアを閉めながら、リスターは、無愛想な顔で上着に袖を通す彼女を睨みつける。
シェリルもリスターを睨んだ。彼女は血色がすこぶる悪く、肉が削ぎ落ちた影響か、眼鏡がずり落ちていた。
「着替え中です。出て行ってください」
「監視役が必要だからな。そのまま続けろ」
「出て行って」
「お前のような凶暴な女にペンを持たせたのは、部下の手落ちだった。だから今のは不問にしてやる。大人しくしていろ」
「出て行ってと言っているんです。言葉が通じないんですか?」
「言葉は通じているがお前の言葉に従う理由に乏しい。もしかすると私は明日にでも被疑者に対する性的虐待で告発されるかもしれないが、それは期待しても無駄だ」
「……どうして?」
「前例がないからだ。前例がないことをやろうとするような変人は、私の周りにはいない」
シェリルの目つきが炯々として、ますます敵意が増幅されていく。リスターは嘆息を押し殺し、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、壁際を歩いた。
窓はない。調度品も最低限のものが揃えてあるだけ。個室だが無闇に広く、小さな寝台がただでさえ殺伐とした部屋を寂しいものにしている。
「どうしてペンを投げた?」
リスターの質問に、シェリルは低い声で、
「投げたかったから」
「……どうして彼女を殺そうとした?」
「殺したかったから」
「ペンを投げたのは彼女を威嚇したかったのではなく、殺したかったのだな。間違いなく?」
「そうだと言ったら私を処罰する? 拘束衣の出番はまだでしょうか」
「そんな上等なものはない。そんなものを使う前に、お前を釈放する」
リスターの言葉に、シェリルは目を丸くした。分かり易い反応はそこまでで、すぐに能面に戻る。
「何を企んでいるのです」
「さすが元サプレスだな。我々の流儀というものを知っている。流儀に逸脱する措置には国際警察の存在意義に逸脱した目的が隠されている」
「殺す気ですか」
シェリルの口元に笑みが浮かぶ。諦念という単語が相応しい、見ていて気分が悪くなる笑みだった。
「自惚れるなよ。上はお前になど興味を持っていない」
「……私にはそうでも、メーガンや、マティアスさんは違うのでしょう」
リスターは監視カメラとマイクによってあらゆる行為が記録されていることを知っていた。だがあえて、まともに答える。
「メーガンもマティアスも釈放された。マティアスは殺されるだろう」
シェリルの顔から表情が消えた。それまでも表情に乏しかったが、怒りと悲しみと悔しさが渦を巻いて顔面から感情を磨滅させてしまったかのようだった。
「――そんなことさせない」
「私もお前が身を挺してマティアスを庇った『美談』は小耳に挟んでいる。今回もそうしたければそうするがいい」
「言われなくても」
シェリルは猛然と着替えを済ませた。そのまま退室しようとした彼女の二の腕を掴む。
彼女は猛犬のような鼻息をリスターの顔に浴びせた。
「何ですか? 触らないで」
「今すぐ釈放するとは言っていない。煩雑な手続きというものがあってな、分かるだろう」
「そんなの……!」
シェリルはもがいたが、病み上がりの躰とあっては、リスターの膂力に敵うはずもない。やがて力尽き、大人しく寝台に腰掛けた。
リスターは近くに置いてあった丸椅子に腰掛け、脚を組んだ。シェリルの眼差しはどうあっても厳しい。
「そう焦るな。論理銃弾を撃ち込まれて、本当は立っているのも辛いだろう。体力を回復させてからここを出るといい」
「そんな猶予など……!」
「ここを出たら、お前は命を狙われるかもしれない。自分で自分の身を守れ。ガキじゃないんだから」
「言われなくても、そうするつもりです」
「できもしないのにできると言い張るのは新人の特権なんだがな。要するに、失敗しても先輩が尻拭いをしてくれる。ところでお前が昏睡している間、誰が尻を拭ってくれていたと思うんだ?」
「何を……?」
シェリルが怪訝そうに眼鏡を持ち上げると、リスターは首を横に振った。
「看護官が信用できないから、身の回りの世話も私の部下が行っていたはずだ。恐らく排泄物の処理も部下がやっていた。女の部下は、一人しかいない。さっきの彼女だ」
シェリルは何も言わない。リスターは続ける。
「お前が命を狙われていると知って一時も気を抜かず、部屋に常駐していたのも彼女だ。真面目さだけが取り柄の無能な女でね、そろそろ元いた国に帰そうかと思っているんだが」
「……何が言いたいんです?」
「お前が必死になって守ろうとしているマティアスに、私の部下を傷つけてまで助ける価値があると、どうして断言できる? お前はマティアスのことをよく知っているかもしれないが、私の部下のことをよく知らないだろう。どうしてペンを投げた?」
「説教ですか。回りくどい言い方をして」
「本当は私もこんなことは言いたくない。本心を言えば、お前を殴り飛ばして彼女に謝罪させたい」
「そうすればいいじゃないですか。私は謝りませんけど」
「そう、だからやらないんだ。分かっているじゃないか」
リスターは声が高くならないように注意を払う。恫喝は趣味じゃない。
「つまりは、そういうことだ。お前のように無意味に人を傷つけようとする人間を、私は軽蔑する。どんな事情があろうともだ」
「それがどうしたんですか。私はあなたの流儀に興味なんてない」
「マティアスには私の全てを叩き込んだ。奴もきっと同じことを考える」
シェリルは口を噤んだ。驚いた素振りは見せないが、筋肉が硬直する。そしてリスターを凝視する。眼光によって光圧が増幅するものなのか、彼女の迫力に押される感覚があった。
「――マティアスさんの上司だったんですか」
「重論理犯罪対策室々長リスターだ。新人の頃のアイツを預かった」
「そうですか」
むしろシェリルの声が厳しくなったように思われた。しばしの沈黙の後、
「一度マティアスさんを見捨て、そして今回も彼を見捨てるのですね」
自分の怒りに戸惑いながらも吐き出さずにはいられなかった。そんな印象の、不安定な声音だった。
やはりそう来たか。リスターは頷きも否定もしなかった。
「奴は一人でも生きていける。組織なんて必要としない。アゼルに惚れてからはやや無茶をするようになったが、基本的にはバランス感覚に優れている男だ。私がどうこうせずとも、自分の信じた方向に着実に進むだけの器用さを持ち合わせていると思う」
シェリルは反駁しなかった。話題を変えて、
「なぜ、サプレスはマティアスさんを狙ったのです。何か分かったことはないのですか」
眼に縋るような、それでいて威嚇するような光があり、二つの感情が鬩ぎ合い、苛立ちを膨らませている。
リスターは漸く理解した。シェリルは女性捜査官に何度も今の質問をぶつけていたのだ。マティアスは無事か、どういう状況なのか、何か言っていないのか。
シェリルがマティアスの釈放を知らなかったことを考えれば、女性捜査官は何も言わず、口を噤んだまま、黙々と世話を続けていたに違いない。当然の対応だが、生真面目過ぎる、と思わなくもない。
「分かったことはある。個人の見解だが」
リスターの言葉にシェリルは目を見開いた。
「でも、話してくれはしないのでしょう」
「怪我人のお前に話しても、無駄だからな」
「もし私が健常なら、話してくれたのですか」
「どうだろうな。健常というのは精神も含むのか?」
皮肉めいた口調にシェリルは頬肉を噛んだ。
「敵の正体が分かっているのに、あなたは動かないのですか」
「敵か。随分私も期待されているのだな。マティアスを狙った人間が、私にとっての敵であると、どうして分かる」
「違うのですか」
シェリルは試すようだった。余裕を取り繕おうとして、結果的に声が震えている。
「どうだろうな。お前は自分自身こそが最大の敵だと思ったことはないか?」
シェリルが失望したように溜め息をついた。
「哲学ですか」
「いや、極めて現実的で、切迫した問題だ。自分自身を、自分自身から乖離させることができるのか。自分自身の額に銃口を向けることはできるのか。果たして銃弾を自分自身に埋め込んで無事でいられるのか」
しばらく白けた表情をしていたシェリルも、次第に目を輝かせ始めた。リスターの言葉の意味を了解したらしい。
「――私はこう思います」
「ほう?」
「自分で自分を撃ってもへっちゃらです。自らの信念に基づく銃弾なら」
「なるほどな」
リスターは立ち上がった。
「体力が回復する頃には、釈放の手続きも終わっているだろう。ただ、お前の出番はないと思う」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
シェリルは訝るように、
「あなたがマティアスさんの味方になってくれるのですか」
「少なくとも、敵に回る理由はないな」
「……一つ、教えてください。誰がマティアスさんの命を狙っているのですか」
「私が教えると思っているのか」
リスターは怜悧なる瞳を一心に向けてくるシェリルを一瞥し、首を横に振った。本当は話したくないし、話さないほうが良いだろうと思うのだが、理性は困難を克服せよと訴えている。
「脳味噌だ」
「脳……?」
「サプレスのここだ」
リスターは額に指を当てた。
病室を出ると、部下二人が緊張した面持ちで待っていた。
「盗み聞きとは感心しないな」
「申し訳ございません。しかし室長、今の発言は」
「説明を求めます。納得のいく説明を」
「ファネル=コーム解析官を呼べ。彼女が的確で納得のいく説明をしてくれる」
リスターはこの世で最もいい加減な台詞を吐き、部下のなお縋り付くような視線を振り切った。
そして長い通路を早足で進みながら考える。かつての部下の命を狙う存在。それに立ち向かうことが、自分自身がこれまで築いてきたものを崩しかねないとしたら。
恐らく静観が正しい選択なのだろう。だが、正しさなど容易く逆転してしまう世の中に、正しいことに胡坐を掻いて思考を止めるのは、あまりに危険だ。
正義を標榜するサプレスが、正義を行い続けるのか。悪を正し続けるのか。
組織に反逆して、なお組織に留まり続けるのは難しい。リスターは芸術的とも形容される世渡り術で、自らの理性に反する命令に逆らい、正義の人であろうと努力してきた。激しやすい自らの気性を御して、一見冷静に振る舞ってきた。
重要なのは正義であり続けることであって、サプレスが正義の存続を許さない、そんな組織になったのなら、もはやここにいる意味はない。故郷にでも帰って、前職の外勤警官として精を出そうか。それも無理ならマティアスのように興信所にでも雇ってもらおうか。警備会社も悪くない。
「逃げ道を確保しておくのは正解だ。しかし、逃げた後のことを考えるのは愚かしい」
リスターは呟いた。今から私は逃げるのではなく立ち向かうのだ。躰が前を向いている内は理性の導きを信じてみたいと思う。
* *
人類は満たされている。
たった一つの星では養い切れないほど多くの人間が、趣向を凝らした食事を愉しみ、安全で安楽な寝床を確保し、高度に文化的な生活に慣れ切っている。
論理学が確立し、論理世界が構築されるまで、資源は有限であるという考えが一般的であった。だがドミノ計画を始めとする多くの試みによって、人類が手にすることができる資源は無限であり、全ての人間は満たされ得ることが立証された。
しかし、無限に増え続ける論理世界、そこに現れる有益な資源と空間。それらが増えることに弊害はないのか?
神の定めたプロトコルに従って記述された論理が実際に発現する――だが論理とは精緻な演繹の上に積み重ねられるものであり、前提が間違っていれば全体が間違っている。
神の論理の完全性は、人類の住まう世界の完全性のみならず、存在証明という根本事象にも関わる重大事であった。誤謬があるだのないだの、議論があること自体、世界の不安定さを象徴している。
神の論理に「見かけ上」誤謬はある。
それゆえに、無限の資源と無限の繁栄など、幻想であることを知っている。
だがアゼルは、誤謬を正そうとしている。なぜそれをしなければならないか。
人類が論理学を発展させてしまったからだ。神の論理の誤謬に気付き、その禁忌に触れてしまうからだ。触れられた誤謬は理論全てを懐疑し、自らを殺し、世界を破滅せしめる。
この思考が論理の飛躍であるのなら、それに越したことはない。果たして人類が、神さえも正せなかった誤謬に何らかの進展を与えることができるのか。そんな日が本当に訪れるのか。
メーガンは自分の脈動を強く感じていた。ビークルが界層飛躍を果たしたとき、そこはサプレス本部の駐機場であり、ビークルは錆びついた悲鳴を上げながら地面に激突した。
衝撃が尻を打つが、死を覚悟していたメーガンにとってこの着地は奇跡的な成功であった。シンクレアが素早く車外に出る。メーガンも端末片手に続いた。
快晴だった。実世界よりも青い空、実世界よりも白い雲、実世界よりも眩い太陽。昼間だというのに月の輪郭がはっきり視認できる。論理式と地瀝青の化学式と酷似したオペランドによって舗装された駐機場には様々な形のビークル、リーパーが停められており、今もすぐ隣の車線から一台の小型航空機が他の界層に出立するところであった。
「今日も良い天気だな」
メーガンが声をかけると、操縦席の中年の男は不機嫌そうに口を歪め、
「――部外者か? あんまり窓口を困らせるんじゃないぞ」
航空機はそのまま浮き上がり、界層飛躍した。何か厄介な相談を持ち込みに来た一般市民にでも見られたらしい。一般に使用されている駐機場に着地したおかげで、警戒は全くされていないようだ。
メーガンは、代わり映えしない高層建築群を見渡し、端末の表示と比べながら、例の弁駁獣を飼っていた低層公園に信号を送っていた所在地を探ろうとした。だがサプレス本部は走査に制限がかかっており、特に解析だの探査だの、そういった種類のプログラムは干渉さえできない状況だった。
「まあ、当然だが、この広大な敷地全体をカバーするとなると、それだけで国家予算に匹敵するほどの高価な演算装置が必要だろうな」
メーガンがぼやきながら途方に暮れ、だから計画を練ってからにしようと言ったんだ、と恨みがましい眼でシンクレアを見ると、彼女はスタスタと歩み始めるところだった。
メーガンは一瞬唖然とし、そしてシンクレアが立ち入り禁止区域に指定されている金網の向こうを目指していることを理解すると、奇声を上げた。
「こらてめえこれ以上オレをヒヤヒヤさせて楽しいのか!」
返事はなかった。シンクレアは金網に触れ、それをいとも容易く破ると(どうやったのかメーガンにも分からなかった)、そこを平然と潜る。
警報が鳴ったらしく、近くの建物に設置されていた監視カメラがシンクレアの姿を追う。メーガンは金網を潜るべきかどうか迷った。シンクレアは急ぐこともなく、淡々と歩を進めるのみ。
「おい、発信源が分かったのか?」
「そう」
「その場所をオレに教えろ! お前と一緒に行ったら、命が幾つあっても足りねえ!」
シンクレアは僅かに視線をこちらに向けた。すると端末にメールが届き、まさかと思って見ると、サプレス本部の見取図が克明に記された手書きの地図が添付されていた。
「う、これは……」
建物の一つに赤丸がついている。おまけに「現在位置」とわざわざ丁寧に書き添えられた青丸が地図の端につけられていた。
自分が驚いてばかりなので、滑稽な気さえしながら、メーガンは尋ねた。
「これ、どうやって調べたんだ」
「拷問」
聞かなきゃ良かった、とメーガンはうな垂れた。
そして改めて地図を見る。赤丸がつけられているのは「研究棟」。それ以外に何も書かれていない。
だが怪しさに関しては百点満点だ。ここを目指す価値はある。
メーガンが金網の前で一人頷いていると、目の前の宿舎から四人ほどの男がぞろぞろと出てきた。
「何やってんだお前ら!」
「あーあ、金網破っちゃって。張り直すのにいくらかかると思ってんの?」
「そうそう、すぐに上は減俸処分とかで経費を捻出するんだか」
ら、と言いかけた男の顎が砕けた。メーガンは目を見張る。シンクレアの掌底が空気を唸らせ、他の三人のサプレスが唖然としている。手に持ったチャチな拳銃を構える暇もない。
抵抗されたのだと気付いたときにはもう、勝負は決着していた。シンクレアの凶悪なローキックが一人の太腿を折り、拾った小石が残る二人の額に直撃して失神させた。
あまりの早業にメーガンは口をパクパクさせるしかない。ここはサプレスの支配下にある空間だ。論理武装も完璧な相手に対し、体術だけで撃破するなんて。
いや、体術だけのはずはない。相手は演繹補強で肉体を強化しているはずだ。シンクレアは相手の論理武装を瞬間的に論駁、破壊しているのか。
目で追えない速度の論駁技術。そんなもの、メーガンは知らなかった。アゼルでもできないのではないか。
「何者だよ」
シンクレアは呻き苦しむ四人の男を放置し、そのままスタスタと歩み始めた。あの女なら軍隊ともまともに渡り合える。サプレスが本格的に事態に気付く前に、さっさと目的地へ向かってしまおう。
「オレも一緒に行く!」
当然だ、というような顔をシンクレアはした。メーガンは苦笑しながら、
「ところで、走らないのか? 余裕ぶって歩くなんて、何か事情でもあるのか?」
「走れる」
「どうして走らないんだ?」
「死なない」
「はっ?」
「死ねるけど死なない」
「はあっ?」
「走りたくない」
「……それでオマエ、説明したつもりなわけ? 全く分からないわけでもないけど、ほら、走って行くぞ」
二人は走り始めた。シンクレアは地図が完璧に頭に入っているらしく、曲がり角に直面する度に端末の画面に目を走らせるメーガンと違って、一切迷いなく突き進んだ。
途中、こちらを不審に思ったサプレスが現れても、二秒以内にシンクレアが排除した。彼女は二秒以内に仕留められないと判断すると相手を無視してそのまま逃げるという方法を採り、それは結果から見れば正解だった。
メーガンとシンクレアは高層建築群の隙間を縫うように進み、シンクレアの論理学者らしからぬ直感的なルート選択により、大した問題もなく目的地に到着した。目的の研究棟は平屋建てで、白い外装と瀟洒な佇まいが、まるで景勝地の別荘だった。入口は木製のドアだ。
「ここか。研究棟というより、保養施設?」
それにしても、ここまで本部の奥深くまで踏み込めるなんて、杜撰な警備体制だな。リアンが脱獄して捜査員が総出の所為もあるのかもしれないが。まさか犯罪を取り締まるサプレスの本部に潜入するような物好きがいるとは想定していなかったのかもしれない。
シンクレアは躊躇することなく、ドアに手をかける。そして、彼女にしては珍しいことに、ふと視線を持ち上げて物憂げな表情になる。
「どうした?」
メーガンが訊ねても彼女は答えない。
シンクレアの視線を追っても、白雲が蒼穹にたなびくのみで、何の異常も見られなかった。
「どうした、何か異常でも見つかったのか」
「違う」
「じゃあ、どうしたんだ」
また、シンクレアは答えない。短く答えられるような質問じゃないと答えてくれないのだろうか。面倒な女だ。
「それじゃあ、ええと、つまり、オレが聞きたいのは……」
「重い」
「あん?」
「扉の向こうが重い」
また意味不明なことを。メーガンは困惑し、シンクレアがいつまで経っても中に入らないので焦れてきた。
「せっかくここまで来たんだから、あとは突っ込むしかねえだろうが。この中に何があるのか知らねえけどよ、もしかしたらアゼルがいるかもしれねえし」
「アゼルはいない」
「お前、分かるのかよ、アゼルがいるかどうか」
「いるかもしれない」
「……あのな、シンクレア、お前って口下手な上に意味不明だ。いい加減にしろよ」
シンクレアは無表情のまま、ドアを奥に押した。鍵がかかっていなかったドアはあっさりと開き――もしかするとシンクレアが瞬間的に開錠したのかもしれないが――中の真なる闇を見た。
いや、そこにあったのは闇ではなかった。論理演算子の海だった。被演算子を求めて泳ぎ回る不安定な素粒子たちであった。
メーガンは後ろへ下がろうと思った。しかし足を動かした瞬間、抗えない圧力が働いて、自分では全く不本意なことに、下がろうと思った分だけ前に進み出ていた。
シンクレアがメーガンの肩を掴む。指先に力がこもっていて、凄まじく痛い。
「下がって」
「いや、オレもそうしたいんだけどよお……、てゆーか痛いから離して」
「下がって」
「下がりたいんだけど」
後ずさりしようと思った。だが足を持ち上げたら、見えない手に押されているかのように前に進んでしまう。
ドア下部の横木に足をかけた。その途端、足先が凍りついたように感覚がなくなった。
目の前に広がる不可視の領域――光さえも貪欲に吸収される、不可解な空間に、人間の肉体は不適なのだと理解した。
「シンクレア、オレを後ろに引っ張ってくれ、引きずり込まれそうだ」
「無理」
「どうして!」
「無理」
シンクレアがメーガンの横に入り込んできた。狭い戸口で二人はひしめき合う。
「お前まででしゃばってどうするんだ、オレを後ろに」
だが、メーガンはシンクレアの額に汗が浮き出ていることに気付いた。血管が浮き出て、いつも涼しげだった口元が、今は引き攣っている。
シンクレアも研究棟の中に引きずり込まれそうになっているのか。
「……なあ、シンクレア、妙案がある。ドアを閉めるってのはどうだ?」
シンクレアは返事をしない。メーガンは構わずに続ける。
「何が何だか分からんが、研究棟の中に入ったらやばいことになりそうな感じがする。お前もそうなんだろ? 蓋をするしかない。ドアを開ける前には何も異常はなかったんだからな。ドアを閉めよう。そっちからドアが見えないか? オレの角度からだと死角になってて見えないんだ」
メーガンはしかし、シンクレアの返事を聞くことはなかった。青い髪の寡黙女は、とうとう力尽きて暗い空間に引きずり込まれたからだ。
しかもシンクレアはメーガンの肘のあたりをしっかりと掴み、巻き添えにしようとした。
メーガンはもう叫ぶしかない。
「ちょっと、離せ! お前な、自分勝手過ぎるんだよ、ああ、もう、そこ掴むなよ、ベルトを掴んだら――ああ!」
ベルトが吸着論理式ごと剥がれ落ちる。激烈な痛みが関節部に走る。
シンクレアはメーガンの右腕のベルトと共に演算子の海に消えた。
それと同時にメーガンは右腕の肘から先の感覚を失った。ベルトで論理式を補ってあげないとメーガンの躰は動いてくれない。一二年前、論理兵器の一撃に見舞われてからというもの、彼女の躰は不調だらけだ。
メーガンはしばらく踏ん張っていたが、やがて力が尽きた。足を滑らせ、後方に倒れ込みながら異空間に引きずり込まれる。
「何の研究してるってんだよ、こんな不味そうなスープでよお!」
メーガンは死んだと思った。この奥には論理の脈動を全く感じられないのだ。メーガンが知る限り、論理のないところでは何も存在できない。命のような精緻な有機体のみならず、一滴の水、分子一個、もっと細かな粒子さえも、存在できない。
サプレス本部の敷地内に、なぜこんな場所が存在しているのか。この空間はいったい何なのか。これからどうなるのか。疑問は尽きないが、メーガンはとりあえず叫んだ。
「アゼル! オレはお前に導かれたんだよなあ!」
だったら責任取ってオレを助けろ!
メーガンは闇よりも暗い論理の墓場に溶け込んだ。




