五、結論
五
冬休みが明けて、あかりは少しだけ肉がついた。
「先生聞いてください。おせち食べ過ぎて体重が増えてしまいました」
「増えたって言っても、まだ全然痩せてるよ」
「そうなんですけど、でも……」
自分の頬に手を当てて、あかりは不満そうだ。
「私、拒食症、だった、んです」
あかりはよくこうして正の手伝いに来るのが好きだった。
午後からの調理実習に向けて、正が食材の準備をしていると、どこからともなく現れて、正の助手をしてくれる。
なつかれるのは正直悪くないと思う。半面、これはハルとナツの関係を見ているようでもあった。つまるところ、依存関係だ。
「あかりさんのことは明子先生から聞いてた、けど」
「けど?」
「うん。俺に頼るのは別にかまわないよ。でも、寄り掛かりすぎてはだめだ。俺も、あかりさんも」
思えば、ハルは過剰にナツを心配していたし、ナツもナツで、姉であるハルに依存している節があった。
「私って重いですか?」
あかりの声がこわばった。まずった。正はなるべく優しい声音で、
「そういう意味じゃなくて」
「わた、私。先生ならなんでも話せる、って……重たかった、ですよね」
どうやら自分は、女の子を泣かせる才能があるらしい。
正は頭を抱えながらも、とつとつと、話をする。
「先生の知り合いに、拒食症の子がいたんだけど」
ひっく、とあかりがしゃくりあげた。
「でもその子は、亡くなってしまって」
「……拒食症、治らなかった、んですね」
「そう。だから、あかりさんのことを気にかけるのは、贖罪の意味もあるのだと、思う」
「でも、先生が私にしてくれたことは、善いことです。少なくとも私は、救われました」
「ありがとう」
正は食材を振り分ける手を止める。
あかりが真っ赤な目で正を見上げる。ナツほどではないが、細くて折れそうな体つきだった。
ナツとこの子、なにが違ったのだろう。なんでナツは、死ななければならなかったのだろう。
「先生?」
「いや。あかりさんとその子を比べるのは失礼だね。でもそうだな、俺はさ、あかりさんにはもっともっと、楽しいことも悲しいことも、おいしいものもおいしくないものも。いろんなことを経験してほしいと思ってて」
「それは、一生徒として見てないですよね」
「そうだね。特別扱いしてる」
明子先生だってそうだ。
時たま、明子先生はみんなに隠れてあかりにお饅頭や味噌を手渡していることを知っている。
弱いものを守るのは大人の役目だから。
いつだったか、明子先生が言っていた気がする。
「あかりさん。あかりさんが悪いって言ってるわけじゃないよ。でも、俺と仲良くするよりも、クラスメイトとなじめるように努力することも必要じゃないかな」
「……! わかってます、わかってるけど……」
どうしても無理、とあかりはまた目からしずくをこぼした。
正は自分が悪いことをしている気分になって、だけれどここで引き下がれば、あかりは一生この人見知りを克服できない。
「あかりさん、今度の金曜日の放課後、空いてる?」
「あいて、ますけど」
「そう。じゃあ、授業が終わったら実習室にきて」
「え、なんでです?」
「なんでも」
あかりは同級生の友達がいない。緊張して話せないのだ。
だけど、この先大学に進学するのだとしたら、そんなことではやっていけない。
正は賭けに出ることにした。あかりの人見知りを治すために。
翌週の金曜日の放課後、正は気合を入れて懐かしいコック服に身を包んだ。
ボナペティの時代に着倒した汚れたコック服だ。
コック帽を頭にかぶり、正は念入りに手を洗った。
まずは野菜を洗う。地元産の野菜・キュウリ、玉ねぎ、ベビーリーフを洗って、丁寧に水けをきる。野菜を五ミリ角の角切りにして、それらを同じく五ミリ角に切ったタイの刺身と混ぜ合わせる。さらにソースを混ぜ合わせたら、綺麗な円柱に盛り付ける。ソースはオリーブオイルとバルサミコ酢・塩を合わせたものだ。完成したのはタイのタルタルだ。
次いで、エビのビスク。これは、オマール海老などを殻ごと使ったスープで、エビのうまみが詰まったスープだ。今日はオマール海老は手に入らないため、車海老で代用する。エビを殻ごと炒めたら、セロリと玉ねぎを加えて炒める。トマト缶を加えてよく煮込み、フードプロセッサーで撹拌してから裏ごしする。
次に、あらかじめ用意していたスズキに塩を振って、合わせるヴェルモットソースを作る。材料は簡単に、ノイリー酒、生クリームにレモン汁と塩だ。
メインに合わせてパンも作る。フレンチのパンはバゲット・パンが主流だ。バゲットの生地をどんな形にするかで名前が変わる。今日は丸く形作ったブールにする。あかりは放課後に来るため、朝のうちに仕込んで一次発酵、二次発酵を済ませておく。
デザートにはシフォンケーキ。使う油はヘルシーにオリーブオイルだ。
あらかた下ごしらえを終えたころ、折よくあかりが調理室に足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
いつもの作業台に白い布を敷いて、花瓶に花を活けて飾った。
雰囲気を出すために夕焼けの調理室の電気はいつもより少なめにつけてある。
「なんです、これ」
「今から先生の作るコース料理を食べてもらおうと思って」
「……! でも私、学校ではご飯が……」
「今は俺とあかりさんしかいない。もしそれでもだめなら、食べてる間は別の部屋に行くけど。それでも無理?」
むっと口を結んで、あかりが考え込む。誰よりもあかり自身が分かっている。
家以外の場所で飲食ができないのは、この先の人生でいつかは克服しなければならないことだ。
それを、正は今、やろうと提案している。
考えて、考えて……。
「先生がいても、大丈夫です」
「そう来なくちゃ」
冷蔵庫からタイのタルタルを取り出し、正があかりの左側から皿を出す。
「テーブルマナーって初めてで緊張します」
「大丈夫。失敗したら先生が教えるから」
まずはナプキン。折り目を自分のほうに向けて膝の上に置く。
「正解」
次いで、カトラリーは一番外側から。
「やるね」
あかりが正を見やる。緊張した面持ちで、だけれど意を決したように、フォークを使ってタイのタルタルを口に入れた。ちなみに、フォークの背に食べ物を載せる食べ方は日本人が作り出した食べ方であり、正しくはフォークの腹に食べ物を乗せるのがマナーだ。
もごもごとあかりの口が動き、ごくりと喉が上下した。
「食べ、られたぁ」
「やればできる! 美味しい?」
「はい、とても」
そこから先は、あかりも徐々に緊張が解けていった。
ぎこちない動きでタイのタルタルを口に運び、時間がかかりながらも最後まで平らげる。タイと野菜の食感と、さっぱりとしたレモン汁の味付けが食欲をそそる。タルタルはマヨネーズを和えても簡単に出来るため、あかりは今度、家で作ってみようと思った。
続くエビのビスク。車海老の甘みがとてもよく生きている。殻ごと炒めるからだ。殻に旨みが詰まっているのだ。これは本来オマール海老で作るとあかりも知っていたが、車海老でも十分においしい。エビと野菜のうまみがあとをひく味だ。スープ料理によく使われるトマトは、旨味であるグルタミン酸が豊富だ。グルタミン酸は昆布の旨味成分と同じだから、トマトをスープに使うといい出汁が出る。
スズキのグリル。あっさりとした白身魚のスズキに、濃厚なヴェルモットソース。生クリームの濃厚なところにレモン汁でサッパリ感が出ている。なによりノイリー酒の風味が効いている。
ブール。丸いバゲットは皮がパリパリ、中はふんわりしていておいしい。作りたて、焼きたてならではの小麦の甘みと風味。何個でもお代わりできそうだ。
デザートのシフォンケーキ。ふわふわの生地は口の中で溶けてなくなった。シフォンケーキは真ん中に空洞がある特別な型で焼く。焼いた後に逆さまにして冷ますことで、生地がしぼむのを防ぐ。ふわふわの食感が食べていて楽しい。
すべてのコース料理を食べ終えて、あかりは膝の上のナプキンを無造作にテーブルの上に置いた。
「よか、った~」
気の抜けた正の声。
ナプキンを無造作に置くのは、『おいしかった』という証だ。ちなみに、きちんと畳んでテーブルに置くのは、『おいしくなかった』という意味になる。
「先生、私」
涙ぐみ、あかりが正の真ん前まできて、深々と頭を下げた。
「私、こんなにおいしい料理、初めて食べました。世界で一番、おいしかったです。私はきっと、この味を一生忘れません」
突然、正の視界が開けた気がした。
せかいでいちばんおいしいりょうり。
正は今まで、自分が作った料理を食べる人間をたくさん見てきた。つもりだった。
ボナペティで働いていた時、正は野菜の皮むきと出汁づくりばかりで料理をさせてもらえなかったが、今思えば、フォンを作るのだって立派な料理だ。
正が作ったフォンで作ったソースを、正がシャトーむきにした人参で作ったグラッセを食べる人々を、目の前で見てきたはずなのに。
お客様の喜ぶ顔を、何度も見てきたはずなのに。
それなのに、今、あかりの喜ぶ姿を見て、あかりから向けられた言葉を聞いて。正は生まれて初めて、『誰かのために料理を作る』喜びを知った。知ってしまった。
ナツは正の作った酢豚が世界で一番おいしいと笑った。あの日の思い出が突如よみがえる。
あれはお世辞でもなんでもない、正が世界でただひとり、ナツのことだけを思って作った料理だったからだ。拒食症で、肉製品が食べられないナツだけのために作った、肉を使わない豆の酢豚。
「なんだ、はは……」
こんなに簡単なことだった。境コック長が言いたかったこと、それはこのことだったのだ。
誰かのために作る、不特定多数のために作る。でも、その先にいるのは個人だ。たったひとりだ。そのひとりのためを思って作れるか否か、それが大事なんだと、正は気づいた。
正には絶対味覚がある。だからこそ、自分の料理の味に自信があった。
だけれど、どんなにおいしい料理を作ったって、その先にいる『食べるひと』たちの顔が見えなくては、誰にも受け入れられない。ひとりのためを思って、心を込めて料理する。そのひとがどんな料理を欲しているのかを考えて、真心を込めて作る。料理人にとっては『毎日作っている数ある料理』のひとつでも、食べるひとにとっては『最初で最後』になるかもしれない。特別になるかもしれない料理。その自覚を持って、一皿一皿に思いを込める。
家庭料理だろうが、レストランだろうが、給食だろうが、炊き出しだろうが、なんだろうが。作るひとがいて、食べるひとがいる。ふたつの間に、隔たりなんかない。ただ、相手を思って料理を作る。シンプルで、だけど基本で根幹で、当たり前のこと。当たり前すぎて、誰もが気づかないこと。
専門学校のあの日、ハルの手作りの筑前煮やタラの焼き物を食べたことを思い出す。これらがおいしかったのは、単にハルがいちから手作りしたからだけではない。ハルが正のために作ってくれた、世界でひとつだけの料理だったからだ。
誰と食べるかでも変わる。どこで食べるかでも変わる。食べることは単なる本能ではなない。誰かの大切な思い出になり得るし、誰かを元気にすることだってできる。専門学校時代、中華街でのハルの言葉がまさにそれだった。ハルにとって、正と一緒に食べた中華料理は、大袈裟ではなく世界で一番おいしい料理だったのだ。
母親の料理だってそうだ。父親の料理だってそうだ。ハルがナツに作っていた料理だってそうだ。友達と何時間も喋りながら食べるファミレスの料理も、憧れのフレンチレストランの料理も、好きなひとと食べに行った中華料理も。お母さんが「失敗しちゃった」と出す焦げた卵焼きも、不器用なお父さんが作ったチャーハンも。
誰かが自分のために作ってくれる料理は、好きなひとと一緒に食べる料理は、泣きたいほどにおいしかった。
世界で一番おいしい料理は、ひとつである必要はない。
こんなこと認めたくはないが、料理の最大の隠し味は愛情。それはあながち間違いではないのではないかと正は思った。
「青野先生? なんで先生が泣くんです」
「いや。いや。俺のほうこそ、ありがとう。今日のこの料理は、まぎれもなく俺の中で、『世界で一番おいしい料理』だ」
一流の材料を使わなくても、一等級の設備を使わなくても、料理ひとつで誰かの心を動かせる。どんな料理だって、誰かの一番になれる。だけど自分は、強欲だから。だれか『ひとり』だけのために作ることなんて、出来ないのだ。
「俺、用事を思い出したから先に帰るけど、あかりさんも適当な時間に帰るんだよ」
「泣いたり用事があったり、今日の先生は大忙しですね」
ひらひらと手を振るあかりをおいて、正は車を走らせた。ハルのところへ行くためだった。
チャイムを鳴らし、半ば強引に家に上がり込む。
いまだハルの母親は入院しているらしく、ハルは広い家にひとり、ぽつんとたたずんでいた。
「秋田。俺さ、夢を見つけたんだ」
「夢? ああ、世界で一番おいしい料理を作るって、あれ?」
ハルが紅茶をだしながら、あきれたように言い放った。
相変わらずハルはぼさぼさの頭で生気もなく、疲れ切った様子だった。
正は鼻息を荒く、
「さっき、拒食症だった女の子に、俺が今できる最高のもてなしでコース料理を作ったんだ」
「意外。まだその子と関わってたんだ」
「うん。それで俺、気づいたんだ」
正はたったひとりの少女では満足できない。たくさんのひとを笑顔にしたい。拒食症も、アレルギーも、ヴィーガンも、野菜嫌いも、魚嫌いも。
すべての人にとっての、『世界で一番』を作りたい。
はたで聞いて、ハルは鼻で笑った。
「だからなに?」
「だから、秋田。秋田には、俺の店の管理栄養士になってほしい」
「……は?」
怒りを含んだハルの声に、しかし正はひるまない。
「メインは普通のフレンチ。でも、予約次第ではパーソナルに合わせた料理を提供する。拒食症だったり、なんらかの理由で肉を食べられないひとのための、特別なフレンチメニューだ」
「無理でしょ。聞いたことない」
「でも、やれないことはない。だろ?」
確かに、メインを普通のフレンチにすれば、採算が取れないわけではない。
だが、問題は手間だ。一日のうちにそういった特別メニューが何件も重なれば、材料をまとめて仕入れられない分、入荷費用が割高になる。
「原価的に無理でしょ」
「そこは管理栄養士の腕の見せ所だろ?」
「なにそれ、私に丸投げ」
「あ、やる気になった?」
「やるなんて言ってない。原価だって、作る手間だって、ひとを雇うのだって、そのひとを教育するのだって。全部一からやるなんて無理だよ」
「なら、フレンチが軌道に乗ったら、完全予約制で特別フレンチをやればどうだ?」
「食い下がるね」
「譲れないもんでな」
なぜそのやる気を、ナツに向けてくれなかったのか――いや、そんなのただの責任転嫁だ。
亡くなったナツはもう二度と戻ってこない。わかっているからこそ、前に進めない。
ナツは最後までハルのことを思って死んだ。なのに、自分がナツを裏切って、正の手を取ってもいいのだろうか。
専門学校の卒業間際、あれは正がボナペティに就職が決まった時期とほぼ同じ頃だった。
去年から布団で寝たきりだったナツが、いよいよ入院を余儀なくされた。
あまりに体重が減りすぎていたため、経管栄養すらままならない。輸液でエネルギーを補給したが、この時のナツの体重は二十キロを少し上回るくらいだった。
手遅れだった、なにもかも。
鼻と腕にたくさんの管を繋がれて、ナツの意識はもうろうとしていた。もっと早く病院に連れてくるべきだった。母親の反対を押し切ってでも。
ハルは学校を度々早退するようになっていた。幸いにして、期末試験は終わっていた。正には早退の理由ははぐらかした。短大の入学準備だよ、と嘘さえついた。
入院してからはあっという間だった。輸液を体に流し込んでも、ナツは元気にならなかった。いよいよ危篤になって、母と父も病院に呼ばれた。ナツの最後の言葉を聞いて、ハルは泣くことすらできなかった。傍ら、父親と母親は涙を流していたというのに。
その時から、ハルは身動きが取れない。ずっとナツの死に囚われて、前を向くことすらままならない。
「ゆくゆくは、フレンチを弁当にして売り出したいって思ってる」
「お弁当に?」
「そう。家でさ、拒食症だと出かけるのもつらいだろ? なら、家でフレンチ食べられたら、しかもカロリー計算されたものだったら、気がねなく食べられると思わねえ?」
途方もない話だ。カロリー計算したフレンチなんてナンセンスだ。フレンチなんてカロリーが高いのがセオリーだ。
すくなくとも、昔の正ならそう言っただろうに。
正は変わった。前を向いて。なら自分には、なにが出来るのだろう。
カサカサの唇を噛み締めた。
「五年」
ハルがぼそりとつぶやいた。
「五年?」
「今から受験勉強して、特待生で管理栄養士の大学に合格して、そこから大学生活が四年」
「おう」
「五年、待って。そしたら私、管理栄養士として戻ってくる」
いつだって正は突拍子もなくて、一緒にいると楽しくて、ふたりでならなんでもできると思わされる。
誰かのせいに――ナツのせいにして、目を背けてきた。自分はなぜ、調理師の専門学校に行ったのか。本当はなにになりたかったのか。本当に料理が好きだったのか。
正と再会して、気づいてしまった。あの日々は、言い訳なんかじゃない。ハルは確かに、本気で、料理に向き合っていた。きっかけはナツの拒食症だったかもしれないけれど、いつの間にか、ハルにとって料理とは、自分を表現する手段、自分を肯定する手立て。人生において、生涯をかけて追究したい、大切なものになっていた。
それに。
「この前、お母さんのお見舞いに、行ったの。青野くんがうちに来たあの日」
ハルが拳を握っている。
「『ごめんね』って。たった一言だよ。ごめんね、アナタたちを見ていなくて。って。なにそれ、今更じゃない」
だけど、その一言が欲しかった。ナツが生きている間に。
わだかまりが今更消えるわけじゃない。ましてや、ナツが生き返る訳でも。それでも、母は母で父親に対して疲弊して、子供たちまで気が回らなかった。なぜあの時、母親がナツを殴ってしまった時、一方的に母親を悪と決めつけて、その心の内を聞いてあげられなかったのだろう。
小さなすれ違いが重なって、取り返しのつかない溝になって、だけれどもう一度だけ。もう少しだけ。自分の人生を生きてみようと思った。今度はちゃんと、母親のことも、ナツのことも、自分自身のことも、受け入れて。
浪人は許されない。約束は五年。
「じゃあ俺は、その五年間で、フレンチ、和食、中華。いろんな店で修行して、経営も学んで、それで、それから」
「もう、欲張りすぎだよ」
ハルが笑う。
「あ、やっと笑った」
「な、なによ」
「ううん。でも、昔に戻ったみたいでなんかうれしい」
正もつられて笑う。
この二年、正とハルはろくに連絡も取っていないし、再会してからだって、今日で会うのは三回目だ。
だけれど不思議と、そんな時間なんてなかったかのように、本音で話せる。
友達というのは、そういうものなのかもしれない。
「私も食べてみたいな」
「ん? なにを?」
「青野くんが見つけた、世界で一番おいしい料理」
「え。えー、ダメダメ。今日の料理はあかりさんにとっては世界で一番でも、秋田にとってはそうじゃないから」
どうして? とハルが首をかしげる。
「秋田に食べてもらうときは、秋田のことだけ考えて作るから。それまで我慢」
「なにそれ。もったいぶって」
「いいんだよ。それで」
ふふ、はは、と笑いあって、ふたりは各々の道に進んでいく。五年後だ。ふたりの出発は。
正はその日、仏壇のナツに手を合わせて、誓った。ハルを幸せにする。ナツの分も、正の料理でたくさんのひとを幸せにする。自分はきっと、ナツを一生忘れないだろう。忘れるはずがない。共に過ごした思い出も、ナツを救えなかった苦い経験も。
すべてを飲み込めた訳じゃない。今だって本当は、ナツがどこかで生きているような気さえする。
正はハルと共に、ナツを思い、たくさんのひとのための料理を作り続ける。めげる暇はない。嘆く暇はない。自分はきっと、死ぬまで料理人で居続けるのだろう。正とハルが料理を作り続ける限り、ナツも一緒に生き続ける。そんな気が、する。ただの正の願望かも知れないが。
食べることは生きること。その『当たり前』を当たり前にできることの、なんと幸せなことか。正は生涯、忘れない。ナツのことも、震災のことも、ボナペティのことも、あかりのことも、ハルのことも。料理を通じて、この幸せを、他者に伝え続けるだろう。
ひとは大人になると、感情を殺す術を身につける。悲しくても涙をこらえ、転んでも痛くないふりをする。それが大人になるということなのだ。
だけど今日だけは、悲しいことを受け入れて、ナツの死を悼んで、正は仏前で涙を流した。
五年後に向けて、正はあかりの卒業を見届けてから専門学校の講師をやめて、東京の有名フレンチレストランに就職した。
東京だからか、コック長が若いからか、旧態依然の先輩後輩制度は、その店にはまるでなかった。
エピローグ
今話題のフレンチレストランに来ています。あ、コック長ですね。意外とお若い方なんですね。
「いえいえ、フレンチ界ではそう若くも珍しくもなくて」
「確かに、若い人のフレンチレストラン、増えましたもんね」
「そうなんですよ。わたしなんてもう三十五で」
「見えない! 二十代かと思ってました!」
「ありがとうございます」
「鼻の下伸びてますよ」
「奥様ですよね? このお店の経営と献立作成を一任なさってるとお聞きしました」
レポーターが女性にマイクを向けるも、女性は顔をそらして黙り込んでしまう。
「すみません、妻は人見知りで」
「でも、縁の下の力持ちですよね。奥様の作る献立は、どれも若い子を中心に大人気です」
「ありがとうございます」
「よかったな、オマエ」
「アナタは黙っていてください」
「コロナ禍が収束してもお弁当を続けているお店は珍しいですよね?」
「ああ。まあ……フレンチをお弁当にすることは前々から考えていて」
「なるほど。今日はそんなフレンチレストラン『ボナペティ』を徹底解剖します! カロリー計算されたフレンチ、持ち帰り専用コース料理、はたまた糖尿病用のフレンチコースなど、今までにない斬新なアイデアが話題のお店。ご主人、このお店を開くきっかけになった出来事はありますか?」
「ええ。話すと長くなるんですけれどね。わたしはずっと、『世界で一番おいしい料理』を探して、無我夢中で走ってきたんです。その隣には、いつも妻のハルと――妻の妹のナツちゃんがいました――」
あなたにとって、せかいでいちばんおいしいりょうりは、なんですか?
了




