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四、今更、だけど


 むしゃくしゃしていた。

 正は実家に戻り、なけなしの貯金を使って日々を生きていた。

 ボナペティ以外のレストランで働くなんて、みじんも考えたことがなかった。

 求人がないかチェックして、落胆する。

 先の震災から半年が過ぎたが、いまだに正は就職先が見つからない。

「なんっだよ! 俺は調理師に向いてないってか?」

 空に向かってごちる。

 その時、正の隣に車が止まった。助手席の窓が開く。見知った顔に、懐かしさを感じた。

「明子先生?」

「やっぱり。正さんでしたか」

 明子先生が車を降りてくる。こんなことならちゃんとした服を着てくればよかったと思った。

「正さん、もしかして震災で職を失ったとか?」

「いや、まあ……明子先生にはお見通しですか」

「ええ。ボナペティの境コックから連絡があったので気にはしていたんだけど」

 境さんはそんなことまでしてくれたのか。

 境のもとで働いていたコックはみな、境の紹介状によって再就職を果たしていた。ならなぜ正だけが職についていないのかというと、正は境の厚意を受け取らなかったからだ。裏切られた、と今でも思っている。

「正さん。もしよければ、うちの学校の助手をやりませんか?」

「助手、ですか」

「はい。震災でやめた職員も多いので、私の調理実習を手伝ってくれるひとがいたらいいんだけど」

 からからしたしゃべり方は相変わらずで、正は一年半ぶりの再会だというのに、まるで学生のころの様に明子先生に親しみを覚えた。

「でも、ご迷惑じゃ」

「いえ。境さんにも心配かけてるみたいだし、次の仕事が見つかるまででいいので、うちに来なさいな」

 半ば話が強引に決まる。

「じゃあ、明日から朝七時半に学校に通勤して。細かいことはまた明日」

 それだけ話すと、明子先生は車の助手席に乗って、息子である校長の運転で去っていった。

「まあ、仕事しないわけには、行かないもんな」

 ひとりでつぶやいて、納得させた。


 カリキュラムは、意外なことにしっかり組み立てられている。

 翌日、正は一年半ぶりに春田調理師専門学に足を踏み入れた。

 ちっとも変っていない。教室は一部屋しか使われていないし、今年の入学者も正のころより少ない、二十人。

「まずは生徒の名前を憶えて。それから、実習の食材を班ごとに分けておいてほしいです」

「わかりました。ほかには?」

「まずはそれだけお願いしますね」

 調理室に足を向ける。

「あれ、新しい先生?」

「わ、マジだ。若い! イケメン!」

 若い、はわかるが、イケメン、は違うだろ、と思った。

「初めまして。しばらくここで明子先生の助手をすることになった、青野正です」

「青野センセか! よろしく!」

 年齢が二つ違うだけでだいぶジェネレーションギャップを感じてしまう。

 正はそそくさと調理実習室に足を向ける。

 今日の実習は肉団子の甘酢あんかけを作るようだ。

 肉団子は豚バラ肉を牛刀と骨スキナイフでたたいて作る。正も作った記憶があった。

 あの時はハルと正が味付け係で、そのほかの班員は肉を叩いて、丸く形作る係だった。

 正とハルの作る料理は、明子先生からも評判だった。

 あの年の集団調理実習で表彰されたのは、正とハルのペアだった。

 二人に送られた賞状は、今でも実家に飾られている。

「肉とショウガと、にんにくに酢、塩と……」

 五人で一班、それを四つ分。

 食材の分配は案外時間がかかる。

「わ、青野先生こんにちは」

「あ、や。こんにちは」

 どうにも、『先生』と呼ばれるのは慣れそうにない。

 用意した食材を乗せたトレーは、各班の作業台に乗せていく。

「今日はなに作るんですか?」

 女子生徒がなつっこく聞いた。

「今日は肉団子の甘酢あんかけ、です」

「先生、先生なのに敬語使わないでくださいよ」

「あ、ごめん。なれなくて」

 あはは、とから笑いして、正は教師用の一番真ん前の作業台に戻った。

 明子先生が白衣を羽織って調理室に入ってくる。

「では、今日の実習を始めます」

 まず最初に、明子先生が見本を見せる。

 豚肉を細かく切ったら、包丁のあご(包丁の柄に近い、九十度になっている部分だ)を使って叩くようにしてひき肉にする。

 この肉団子の肝は、豚バラ肉から作るひき肉だ。普通のひき肉に比べてあらびきのような食感になり、とにかく美味い。

 ダンダンダン! と庖丁のあごが肉を叩く。まな板に傷ができる。

 ミンチ状になった肉をボウルに入れて、塩、しょうゆ、酒、砂糖、ごま油で味付けてよくこねて粘りを出す。

 揚げ油は各班ごとには用意できない。揚げ油が膨大な量になるからだ。だから揚げ物の時は、教師用の作業台のコンロにある、大きな中華鍋まで材料を持って来て、順番待ちして揚げ物をする。

 明子先生が肉団子を作る。左手に肉団子のタネを握りこんで、左手の人差し指と親指で輪を作り、そこからにゅっと肉を絞り出す。一回、もう一度握りなおして二回。

 二回指の輪で絞ることで、きれいな真ん丸の肉団子になる。

 その真ん丸を、油に落とす。次々、次々。

 じゅうう、と油がなく。いい匂いが立ち込める。これだけでも十分においしそうだ。

 肉団子を揚げたら、次はピーマン・玉ねぎ・人参も素揚げした。

「これを中華鍋に入れて餡の材料を入れて手早く混ぜる」

 中華料理はあんかけも多い。寒さをしのぐための知恵だ。

 片栗粉でとろみをつけた料理は冷めにくい。

 中華鍋をあおる明子先生は、正なんかより随分小柄なのに、豪快なものだなと思った。


 肉団子の甘酢あんかけを作り終えた班から実食に入る。

 すべての班が作り終えて、正は一班ずつ感想を聞いて回る。その中に、とある女の子が目に入った。

「明子先生、あの子」

 あの子、というのは、一番後ろの班に属している女の子である。

 実食の時間だというのに、食べることはおろか、箸すら持つ気配がない。

「ああ、あかりさんね。彼女はちょっと、特別だからいいの」

「特別……?」

 明子先生が正の手を引っ張る。

 調理室の隣にある職員室まで正を連れてきて、それでもなお、明子先生は声量を落として正に言った。

「あの子は拒食症だった子で、今でもお肉が食べられないし。ちょっと心が繊細な子だから、集団でご飯が食べられないの」

 思い出したのはナツのことだった。あの子は今、どうしているだろうか。

「あかりさん、は。家でもご飯食べないんですか?」

「いいえ。家では偏りはあれど食べているそうです。そういえば、正さんはハルさんと仲が良かったよね」

 ここでハルの名前が出たことに驚きを隠せない。

 正は明子先生から目をそらす。しかし、

「ハルさんの妹さん。拒食症で亡くなったんですって」

「……え?」

「やっぱり今も聞いてないか。あれは、ハルさんたちが卒業する間際だったかしら。妹さんが亡くなって、ハルさん、卒業間際だったのに中退するって言い張って」

 聞いてない、そんなこと一言も。明子先生が続ける。

「でも、私が引き留めたんです。卒業だけはしなさいって。たとえ調理師の道に進まなくても、この学校だけは卒業しなさいって」

 それで、ハルは進学でなく就職に変更したのだ。

 水臭い。が、正直、知らされていたら正は戸惑うばかりでなんにも力になれなかっただろう。

「私が話したことは内緒で」

「はい。……そうですね」

 だからといって、今更正がハルに連絡するなんて、そんな虫のいいこと、許されるはずがない。

 正が監察している限り、あかりはいつもひとりでいるし、絶対に実習の料理を食べなかった。

「あかりさん、あかりさん」

 正は明子先生に許可をもらって、実習で作った焼き菓子や煮物など、あかりが食べられそうなものをタッパーに詰めては、手渡していた。

「家では食べられるんだよね?」

「あ、はい。一応」

「うん。じゃあ、家で食べて」

「先生、は。なんで私に優しくしてくれるんです?」

 疑問を投げられ、だけれど正は答えられない。よもや、ハルの妹と重ねているなんて、口が裂けても言えなかった。

「料理って、食べないと学べないから」

「……そう、ですね」

 この子にハルやナツを重ねてしまうのは、この子が『R高校』出身で、しかも『中退』しているからだろうか。


「次の授業、正さんが企画してみませんか」

 だしぬけに明子先生が言った。

「俺が企画……?」

「そう。境さんから聞いてます。下積みしかしてないけれど、正さんならうちの――ボナペティの味を覚えてるはずだから、って」

「まあ、確かに覚えてはいますけど」

 大々的に味見はさせてもらえなかったが、正はソースを煮詰めた鍋に残ったソースを舐めたり、先輩が調理している料理をじっと、じっと観察してきた。

 理論で調理をする、という経験は初めてだった。同時に、ハルはこんなことを日常で繰り返してきたのかとも思う。

「明子先生。じゃあ俺は、あれが作りたいです」

 正が選んだ料理、それは思い出の詰まった、フォンドヴォーと、赤ワインのソースだった。

「なるほど。これは正さんの原点でもありますからね」

「はい。俺はこれしかないんです。ここで働いてみてよくわかりました。俺にはやっぱり、フレンチしか――料理しか能がないんで」


 二年違うと、それだけで生徒たちが果てしなく子供に見えた。まだ成人もしていない生徒たち。中には、社会人からの入学もいるから、全部が全部年下なわけではないのだが、正はもうすっかり講師が板についてきた。

「今日はフォンドヴォーを作ります」

 あかりには酷な調理実習だと思う。しかし、これを作るのは、正が原点回帰するため、いわば生徒のためでなく正のための調理実習だ。

 正が説明しながら仔牛の骨を洗い、焼き、すじ肉を野菜を切り、焼き。煮込む。

「本来は十時間以上煮込むのですが、今日は煮込み前まで終えたらわたしが作っておいたフォンドヴォーで、赤ワインのソースを作ります」

 何度も見た、仔牛のローストと赤ワインソース。野菜を宝石のようにあしらって、盛り付けひとつにも気は抜かない。

「ソースの肝はフォンドヴォーですが、味付けや煮詰め具合、様々な要因がこのソースを完成させます」

 難しそう~と生徒から声が上がる。

「最初は難しいかもしれませんが、料理は基本的に経験です。経験を積めば、皆さんも明子先生の様になれますよ」

「あと何十年かかるんだよ!」

 お調子者の男子生徒の言葉に、クラスがわいた。

「さて、それでは、各々調理を始めてください」

 ざわざわしていた教室が、一気に静かになる。聞こえてくるのは金属音とコンロの火が燃える音。

 正はあかりを見やる。もくもくとソースを作るさまは、どの生徒よりも真剣だった。


 仔牛をローストして、そこに赤ワインソースを盛り付ける。盛り付けは各々の感性に任せたが、みな個性が豊かで面白い。

 そんな中、ひときわ目を引く皿があった。

 あかりの皿だった。

「あかりさん、盛り付けのセンスがあるね」

「あ、りがとう……ございます」

 尻すぼみに声が小さくなった。

 正はスプーンを取り出して、各班のソースの味見をしている。

 あかりの班のソースを味見して、正は目を真ん丸にした。

「これ、作ったのは誰ですか?」

 あかりがそっと手を挙げた。

「これ、味見してないよね?」

「や、はい」

「……俺が作ったのとまったく同じ味なんだけど……どうして?」

 はてなマークが止まらなかった。

 正には絶対味覚がある、だからこそ、あかりが作ったソースが、全く同じであると自信を持って言い切れる。

 あかりが顔を真っ赤にしてうつむいた。

「あかりさん、って。絶対味覚持ってる……? いや、そうだとしても、俺のソースを味見してないし」

 ぶつぶつと分析する。あかりが小さく言葉を添えた。

「においをかぎました」

「におい? それだけ?」

「あ、あとは……煮詰め具合を覚えてて、どのくらい煮詰めて、どのくらい加熱するかは、見たとおりにやりました」

 だからって、ここまで再現されたら、正以上の才能の持ち主かもしれない。

 いうなれば、正の絶対味覚と、ハルの理論で行う料理、それらを掛け合わせた調理方法。

 彼女もまた、調理師になるべくして生まれてきたのだと、正はダイヤモンドの原石を見つけたかのような歓喜に震える。

「あかりさん。あかりさんはもっとこの才能を伸ばすべきです」

「や、えっと」

 だから正は、あかりが食べられそうなものは、タッパーに詰めて持ち帰らせるようにしたのだ。

 料理は経験の上で成り立つ。だったら、このあかりという生徒に、ありったけの経験を積ませたいと思ってしまうのは、正がハルのことを今でも気にかけているからなのだろうか。


 明子先生に釘を刺される。ひとりの生徒に入れ込んではダメだ、と。

 しかし、こうも続けたのだ。

「あかりさんは、この学校を出た後、管理栄養士の大学に進学したいんですって」

「え。それって」

「はい。ハルさんにそっくりなんです。彼女」

 もっと言うと、ハルとナツを足して二で割ったような境遇だった。

「そういえば、ハルさんのお父さまのこと、聞いてますか?」

「秋田の? 離婚したとは聞きましたけど」

「そうですか。私が軽々しく言っていいことかわかりませんが。ハルさんのお父さんは、アルコール依存症で家族に暴力をふるっていたそうです。お母様も世間体を気になさる方で。ハルさんは妹さんだけが頼りだったのに、あんなことになってしまって」

 ハルの妹が亡くなったことから、正は目をそらしていた。今更ハルに連絡したって、どんな顔をして会えばいいのかわからない。

 正は渋い顔をして、明子先生の言葉を否定も肯定もできなかった。


 携帯を開いては閉じる。メールを起動しては消す。

『最近どう?』

『元気?』

『久しぶりに会わないか?』

 どれもしっくりこなくて、正はハルにメールを送れずにいた。

 震災から八ヶ月がたっていた。ハルの生活も元通りとまではいかずとも、ある程度落ち着いたころではないか。

 そう思って、毎晩携帯を手に取るのだが、何分どう声をかけたらいいのかわからない。

 そもそも、今正が春田調理師専門学校で働いていることを、ハルにどう伝えればいいのだろうか。失業して拾ってもらいました?

 それはなんとなく癪だった。

 だが、自分の近況を知らせずに、相手の近況だけたずねるのも違うと思う。

「うー、くそ。俺ってなんでこんなに女々しいんだよ!」

 今日も今日で、メールは送れなかった。二つ折りの携帯をぱたんとたたんで、正は布団を頭からかぶった。


***


 最近、自分の目的が分からなくなる。世界で一番おいしい料理を作るのだと息巻いていた専門時代、正は確かに希望にあふれていた。

 自分なら、世界で一番おいしい料理を作れると、信じて疑わなかった。

 ハルと正は、教室にいるときはいつでも一緒だった。

「ねえ、レモンパイ作ってみたいんだけど、レシピある?」

 なにかを作りたい時、ハルは決まって正にレシピを聞いてきた。

 レモンパイは、昔一度だけ食べたことがある。

「薄力粉百グラム、バター五十グラム、塩一つまみ、冷水四十五ミリリットル」

「待って待って、メモする」

「で、パイ生地を作ってタルト型に入れて空焼き。レモン二個は果汁を絞って、一個分は皮をすりおろす。鍋に卵一個と卵黄二個、砂糖七十を擦り混ぜたら火にかけて、とろみが出たら火からおろして、レモン果汁と皮、バター五十」

「ちょちょちょ、待って早い」

「レモンカードを空焼きしたパイ生地に流し込んだら、冷蔵庫で一、二時間冷やす。最後に卵白二個をメレンゲにして上に乗せて、二百度のオーブンで五分、焼き色を付けたら完成」

「うわー、めっちゃおいしそう。このレシピだとパイ生地に甘さがない分食べやすいね。レモン汁を最後に入れるのもポイントだね。かなりレモン感が強い仕上がりになる」

「わかってるじゃん。レモン汁とバターを最初から入れて火にかけるレシピもあるけど、俺はレモン感強いこのレシピが好き」

 ハルがメモを取りながら、じゅる、とよだれをすすった。

 すらすらと流れるような文字は、正のなんかとは比べものにならないくらいきれいなものだった。

「秋田ってさ、字きれいだよな」

「えー、なに急に」

「別に」

 頭がいい、料理の腕もある、こうしてレシピを伝えただけで、完成形が頭に浮かぶ。

 それだけで、正は楽しかった。ツーカーの仲なのだ。

 こうやって誰かとレシピの話をすることを、ずっと夢見てきた。

 正直に言うと、春田調理師専門学校で、ハルのような有能な人間に出会えたのは奇跡に近い。

 別に、春田調理師専門学校を馬鹿にするわけではないが、この学校は行き場のない若者を受け入れる、優しい学校だと正は思う。

 つじちょーは、本当に、本当に料理の道だけを生きてきた一部のエリート学校だとすれば、春田調理師専門学校は、明子先生が両手を広げて生徒を待っている、そんな学校。

 この学校の生徒は、みんな明子先生が好きだ。時には厳しいことも言うけれど、それが愛情であることは誰もが知っていた。


「正さん、ハルさんとは連絡取れましたか?」

「え?」

 素っ頓狂な声が漏れた。「連絡取れましたか?」まるで、ハルと連絡が取れないかのような言い方だった。

「いや、俺は卒業してから疎遠になって」

「そうでしたか。実は私も、昨日久しぶりに連絡を取ってみたら、携帯の番号を変えてしまったようです」

「……は?」

 どどどどど、心臓がわなないた。

 まさか、妹の後追いなんて。そう考えて、かぶりを振った。

「今夜連絡してみます」

「今夜、では遅い気がします。今、連絡してきていいですよ。必要なら、早退も」

 明子先生の真剣な面持ちに、正の背中に嫌な汗が伝った。

 メールを送っても返送されてくる。電話をかければ、「現在使われておりません」

「くそっ!」

 正は考えを巡らせる。明子先生の話では、ハルは実家から仕事に通っていたらしい。ならば、ハルの実家に押しかける?

 いや、それは少しやりすぎな気がする。

 しかし、嫌な予感が、不安が、正の胸を支配する。

「やらずに後悔するなら、やって後悔しろ、だ!」

 正は仕事を早退して、ハルの家へと車を走らせた。


 一軒家がぽつんとたっている。庭の手入れはされておらず、草が生い茂って、不気味さを醸し出していた。

 チャイムを鳴らす。

 ピンポー……

 チャイムが中途半端に壊れている。もう一度押す。

 ビンビン、ピンポーーーーーー

 がちゃり、家のドアが開いた。

「秋田……?」

「どちら様です……。!」

 ばたん、ドアが閉まる。正はドアを叩きながら、

「秋田! 生きてたんだな!」

 どんどん、とドアを叩くと、今一度ハルが顔を出す。

「近所迷惑」

「いや、連絡しても返事がなかったから」

 ハルの髪の毛はぼさぼさで、あんなにきれいだった黒髪はつやを失っている。

 正の声に、家の奥から声が聞こえた。

「ハルちゃん、誰?」

「なんでもない! じゃあ、生きてるからもういいよね? 帰って」

 奥にハルの母親の姿が目に入った。正はハルの母親に向かって頭を下げる。

「ハルちゃん、誰?」

「あ。専門時代の友達」

「そうなの? ハルちゃん、お母さんのもとから消えたりしない? ねえ、お母さんをひとりにしない?」

「大丈夫だよ。大丈夫。ごめん、青野くん。せっかく来てもらって悪いんだけど、帰ってくれないかな」

 切実な表情に、正は今日のところは引き下がるほかになかった。


 ハルの母親は世間体を気にするような人間だと聞いていた。だからこそ、ナツを病院に連れていくこともせず、最終的に死に追いやった。

 先ほど見たハルの母親は、『普通ではなかった』。

 それもそうだ、娘が死んだとなれば、遺ったハルに執着する理由も頷ける。例え親子仲の悪い娘だったとしても、その死には大きな意味がある。

 しかし、だからこそ、あの場所にハルをいさせていいのか? とも思う。

 あのままではハルは、母親につぶされる。

「正さん。ハルさんには会えましたか?」

「あ、はい。会えたん、ですけど」

 正は、話すべきか迷って、一呼吸置く。しかし、自分ひとりではどうにもできないと悟り、明子先生にすべてを打ち明けることにした。

「秋田のお母さんが、秋田に執着してるみたいで」

「そう。妹さんが亡くなってから、お母様はずっと仕事してないって聞いていたけど」

「はい。それで、秋田も憔悴しきっていて。ボロボロって感じでした」

「うーん、これは大人の出る幕かもしれないですね」

 おとな、と強調されて、明子先生の中では自分はまだまだ子供なんだと思い知らされる。悔しくもあり、なつかしくもある。

 就職してから、正を子ども扱いする人間なんていなかったからだ。

 明子先生がうーん、とうなる。

「地域の病院に、相談してみましょう」

 明子先生はそのあと、市の福祉課に相談して、ハルの母親を心療内科へとつなげてくれた。

 そのまま、ハルのことも考えて、ハルの母親はしばらくの間入院することが決まったのだった。


 あかりは相変わらず調理実習では実食しない。しかし、正の計らいで料理を持ち帰るようになって、さらにめきめきと頭角を現した。

「先生、このレシピなんですけど」

「これね。ちょっと砂糖が多いよね」

「やっぱり! あとこの加熱時間も、あと二分長いほうがいいと思います」

「うん。俺も同じ『味』を感じてる」

 ハルとこういう話をすることも楽しかったが、それ以上にこの子の味覚は鋭い。まるで正の舌を共有しているかのような、そんな錯覚。

 今、自分たちは同じ味を思い描いている。

「あかりさんは、なんで管理栄養士になりたいの?」

「私ですか? そうですね。しいて言うなら、拒食症のことを克服したいからです」

「克服?」

 逆の行為だと思った。食べられないあかりにとって調理師学校や栄養士の大学は、地獄でしかないだろう。

 食べられなければ、友達との話題にもついていけなくなる。なぜあの子だけ特別扱いなんだと揶揄される。

 けれどあかりは、にこやかに言うのだ。

「私、将来は拒食症のひとのための料理を作る人間になりたいんです」

「拒食症のひとのため……」

 そんなもの、商売になるはずがない。拒食症の人間なんて、圧倒的に少数だ。

「そっか、かなうといいね」

「はい。それまでに先生、青野先生のレシピ、たくさん盗みますよ!」

 それは困る、と正が笑った。


***


 学校が冬休みに入り、正は再びハルの家を訪ねていた。前回に比べるとハルの様子は落ち着いて、少しばかり頬の肉が増えたような気がした。ハルの家のリビングに通されて、向かいあわせに座っている。

「久しぶり……あの」

「ずっと連絡しなかったくせに、今更なに」

 とげのある言い方だと思った。しかし、仕方ないとも思う。

 正だって、逆の立場だったら『今更』と嫌みのひとつも言いたくなる。

「今俺、はるちょーで働いてるんだ」

「……明子先生に聞いてる。いつまで居座るつもり?」

「居座るって……そうだな、今の一年生が卒業するのを見守ってから、かな」

 あかりのことがあるからだ。

「へえ、曲がりなりにも先生ってわけ?」

「いや、まあ。そうではないとも言い切れない」

 言うべきか逡巡する。ナツと同じような生徒がいて、その子の行き先が心配なのだと。

 口を開きかけて、しかし言葉にはできなかった。

 ハルが涙をこぼしたからだ。ぼた、ぼたり。

「秋田? え、俺が泣かせた?」

「そうだよ、青野くん。青野くんはずるいよ。私が大変な時には連絡くれないくせに、こうやって何食わぬ顔で現れて」

 あたふたする。正は落ち着きなく手を胸の前で動かして、どう声をかければいいのかわからなかった。

「俺、拒食症の女の子が、生徒の中にいて」

「……! ナツのこと、明子先生から聞いたんだもんね。なに? 罪悪感? それとも優越感に浸りたいのかな? 今更拒食症の子を救いたい、とか思ってるわけ?」

「……っ、思ってない、わけないじゃん」

 だって、救えるところにいるんだから。

「ずるい!」

 ガタタ、とハルが立ち上がった。ぼたり、ぼた、と大粒の涙をこぼしながら、正をにらみ見下ろしている。

「青野くんはずるいよ。なんでナツのこと気にしてあげなかったの。なんで私が進路を変えた理由、聞いてくれなかったの」

「聞いただろ。聞いたよ、俺はあの時! 秋田が栄養士の学校行くのやめたとき! 訊いたよ! なんでって!」

 正も立ち上がる。ふうふうとハルが肩で息をしている。

「あんなの、表面上の嘘だってわかるじゃん! なんでもっと真剣に――」

「俺が聞いたって、教えなかっただろ。あのころのオマエは、絶対に言わないって顔してた!」

 はあはあと、正も息を乱す。

 悔しかった。もっと早く気づきたかった。

 正はハルのことを親友だと思っていた。なのに当のハルは正に迷惑をかけまいと、ナツのことは隠し通した。今更、「聞いてほしかった」なんて自分勝手だ。

 へたへたと、ハルの足から力が抜ける。椅子の上に腰を下ろして、消えいりそうな声で、

「ナツの最後の言葉。なんだったと思う?」

 正は棒立ちのまま「知るわけない!」と答えた。

「『私に遠慮せずに、青野先輩に告白しなよ。お姉ちゃんは幸せになって』」

 なんで。なんで。なんで。

「なんで自分が死ぬって時に、私の心配なんかするの? なんでそんな優しい子が死ななきゃならなかったの? 私は、青野くん、青野くんともう、一緒にいられないって、妹が死んだあの日に、誓ったんだよ」

 だから、だから、ハルは調理師への道をあきらめた。そうすれば、正がハルから離れていくことを知っていたから。

 ハルはただ、妹との絆を、思い出を忘れないために、正を捨てた。切り捨てるほかになかった。

「青野くんには分からないよね。両親がちゃんといて、ちゃんと育ててくれて」

 すべての元凶は、ハルの父親なのだ。毎日毎日酒にあけくれて、ハルが七歳の時には働くことをやめた。代わりに母親が働きに出ても、母親の給料はすべて父親が食いつぶした。

 父親は酔うと母親だけでなくハルにも手をあげる性格で、だけれどハルは、ひたすら耐えた。自分が耐えれば、父親はナツにだけは手を上げない。

 母親と父親が離婚したのは、ハルが中学に上がったころだ。そのころから、母親は少しおかしかった。父親との不仲からか、子供を可愛いと思えなくなったのだ。確かに母親の血を引いているが、それは同時に、父親の血も受け継いでいるということ。

 家族がバラバラになっていく。ハルとナツはふたりきりで過ごすことが増えていった。

 それでも、まだよかった。母親は仕事の合間にふたりに夕食や朝食を作り置きしてくれたから。

 家族が崩壊したのは、ナツが食べ物を拒絶したあの日からだった。ハルが十七、ナツが十五の時のことだ。

「ナツ、またご飯残したの」

 母親が刺々しくナツを責めた。しかし、ナツは黙り込むだけだ。

「ねえ、なんで普通のことができないの」

「……普通ってなに。普通の家族は離婚なんてしないでしょ!」

 バシン、と響いた音に、ハルは息を忘れた。ナツが目から雫をこぼす。母親がナツを叩いたのだ。

 胸の下が凍ったかのようにひやりとして、だけれどハルは、ぎゅっと拳を握り、爪を手にめりこませた痛みで意識を保つ。息すらままならない状況で、ハルは母親でなくナツの味方をした。

 母親とナツの間に割って入る。ぎゅっとナツを抱きしめて、母親を睨み見上げている。

 怒りと絶望、母親の目は、言い表せない色をしていた。

「ハル。そう、アンタたちなんか、私の娘じゃない!」

 ど、どっ、ど。心臓はやけに静かで、ハルはナツの耳を塞いで、「……ナツ、部屋行くよ」

 ふたりはこの日、母親と大きな隔たりを作った。


 ハルの母親は世間体を気にする。だからこそ、叩く、罵る、などの目に見えるそれではなく、ふたりを『無視する』道を選んだ。殴ったのは先の一回きりだ。

 ナツはその一件以来、ご飯を食べられなくなった。同時に、ふたりの食事はハルが作るようになった。

「青野くんに、理解出来る!?」

 ぐっと言葉に詰まった。確かに、正には理解できない世界だ。正だけでなく、普通の家庭に生まれた人間全てが。

「私にとって、ナツが全てだった。だから帰って。もう訪ねてこないで」

「……言われなくてもそうするよ」

 そこまでの覚悟を見せられて、正だって馬鹿じゃない。

 ハルはたったひとりの妹を、今でも思い続けている。

 料理の道をあきらめたのは、どうやったって妹を思い出してしまうから。だからハルは、料理の道をあきらめた。正のことも忘れることにした。

 正だけが、なにも知らなかった。






 冬休みが明けて、あかりは少しだけ肉がついた。

「先生聞いてください。おせち食べ過ぎて体重が増えてしまいました」

「増えたって言っても、まだ全然痩せてるよ」

「そうなんですけど、でも……」

 自分の頬に手を当てて、あかりは不満そうだ。

「私、拒食症、だった、んです」

 あかりはよくこうして正の手伝いに来るのが好きだった。

 午後からの調理実習に向けて、正が食材の準備をしていると、どこからともなく現れて、正の助手をしてくれる。

 なつかれるのは正直悪くないと思う。半面、これはハルとナツの関係を見ているようでもあった。つまるところ、依存関係だ。

「あかりさんのことは明子先生から聞いてた、けど」

「けど?」

「うん。俺に頼るのは別にかまわないよ。でも、寄り掛かりすぎてはだめだ。俺も、あかりさんも」

 思えば、ハルは過剰にナツを心配していたし、ナツもナツで、姉であるハルに依存している節があった。

「私って重いですか?」

 あかりの声がこわばった。まずった。正はなるべく優しい声音で、

「そういう意味じゃなくて」

「わた、私。先生ならなんでも話せる、って……重たかった、ですよね」

 どうやら自分は、女の子を泣かせる才能があるらしい。

 正は頭を抱えながらも、とつとつと、話をする。

「先生の知り合いに、拒食症の子がいたんだけど」

 ひっく、とあかりがしゃくりあげた。

「でもその子は、亡くなってしまって」

「……拒食症、治らなかった、んですね」

「そう。だから、あかりさんのことを気にかけるのは、贖罪の意味もあるのだと、思う」

「でも、先生が私にしてくれたことは、善いことです。少なくとも私は、救われました」

「ありがとう」

 正は食材を振り分ける手を止める。

 あかりが真っ赤な目で正を見上げる。ナツほどではないが、細くて折れそうな体つきだった。

 ナツとこの子、なにが違ったのだろう。なんでナツは、死ななければならなかったのだろう。

「先生?」

「いや。あかりさんとその子を比べるのは失礼だね。でもそうだな、俺はさ、あかりさんにはもっともっと、楽しいことも悲しいことも、おいしいものもおいしくないものも。いろんなことを経験してほしいと思ってて」

「それは、一生徒として見てないですよね」

「そうだね。特別扱いしてる」

 明子先生だってそうだ。

 時たま、明子先生はみんなに隠れてあかりにお饅頭や味噌を手渡していることを知っている。

 弱いものを守るのは大人の役目だから。

 いつだったか、明子先生が言っていた気がする。

「あかりさん。あかりさんが悪いって言ってるわけじゃないよ。でも、俺と仲良くするよりも、クラスメイトとなじめるように努力することも必要じゃないかな」

「……! わかってます、わかってるけど……」

 どうしても無理、とあかりはまた目からしずくをこぼした。

 正は自分が悪いことをしている気分になって、だけれどここで引き下がれば、あかりは一生この人見知りを克服できない。

「あかりさん、今度の金曜日の放課後、空いてる?」

「あいて、ますけど」

「そう。じゃあ、授業が終わったら実習室にきて」

「え、なんでです?」

「なんでも」

 あかりは同級生の友達がいない。緊張して話せないのだ。

 だけど、この先大学に進学するのだとしたら、そんなことではやっていけない。

 正は賭けに出ることにした。あかりの人見知りを治すために。


 翌週の金曜日の放課後、正は気合を入れて懐かしいコック服に身を包んだ。

 ボナペティの時代に着倒した汚れたコック服だ。

 コック帽を頭にかぶり、正は念入りに手を洗った。

 まずは野菜を洗う。地元産の野菜・キュウリ、玉ねぎ、ベビーリーフを洗って、丁寧に水けをきる。野菜を五ミリ角の角切りにして、それらを同じく五ミリ角に切ったタイの刺身と混ぜ合わせる。さらにソースを混ぜ合わせたら、綺麗な円柱に盛り付ける。ソースはオリーブオイルとバルサミコ酢・塩を合わせたものだ。完成したのはタイのタルタルだ。

 次いで、エビのビスク。これは、オマール海老などを殻ごと使ったスープで、エビのうまみが詰まったスープだ。今日はオマール海老は手に入らないため、車海老で代用する。エビを殻ごと炒めたら、セロリと玉ねぎを加えて炒める。トマト缶を加えてよく煮込み、フードプロセッサーで撹拌してから裏ごしする。

 次に、あらかじめ用意していたスズキに塩を振って、合わせるヴェルモットソースを作る。材料は簡単に、ノイリー酒、生クリームにレモン汁と塩だ。

 メインに合わせてパンも作る。フレンチのパンはバゲット・パンが主流だ。バゲットの生地をどんな形にするかで名前が変わる。今日は丸く形作ったブールにする。あかりは放課後に来るため、朝のうちに仕込んで一次発酵、二次発酵を済ませておく。

 デザートにはシフォンケーキ。使う油はヘルシーにオリーブオイルだ。

 あらかた下ごしらえを終えたころ、折よくあかりが調理室に足を踏み入れる。

「いらっしゃいませ」

 いつもの作業台に白い布を敷いて、花瓶に花を活けて飾った。

 雰囲気を出すために夕焼けの調理室の電気はいつもより少なめにつけてある。

「なんです、これ」

「今から先生の作るコース料理を食べてもらおうと思って」

「……! でも私、学校ではご飯が……」

「今は俺とあかりさんしかいない。もしそれでもだめなら、食べてる間は別の部屋に行くけど。それでも無理?」

 むっと口を結んで、あかりが考え込む。誰よりもあかり自身が分かっている。

 家以外の場所で飲食ができないのは、この先の人生でいつかは克服しなければならないことだ。

 それを、正は今、やろうと提案している。

 考えて、考えて……。

「先生がいても、大丈夫です」

「そう来なくちゃ」

 冷蔵庫からタイのタルタルを取り出し、正があかりの左側から皿を出す。

「テーブルマナーって初めてで緊張します」

「大丈夫。失敗したら先生が教えるから」

 まずはナプキン。折り目を自分のほうに向けて膝の上に置く。

「正解」

 次いで、カトラリーは一番外側から。

「やるね」

 あかりが正を見やる。緊張した面持ちで、だけれど意を決したように、フォークを使ってタイのタルタルを口に入れた。ちなみに、フォークの背に食べ物を載せる食べ方は日本人が作り出した食べ方であり、正しくはフォークの腹に食べ物を乗せるのがマナーだ。

 もごもごとあかりの口が動き、ごくりと喉が上下した。

「食べ、られたぁ」

「やればできる! 美味しい?」

「はい、とても」

 そこから先は、あかりも徐々に緊張が解けていった。

 ぎこちない動きでタイのタルタルを口に運び、時間がかかりながらも最後まで平らげる。タイと野菜の食感と、さっぱりとしたレモン汁の味付けが食欲をそそる。タルタルはマヨネーズを和えても簡単に出来るため、あかりは今度、家で作ってみようと思った。

 続くエビのビスク。車海老の甘みがとてもよく生きている。殻ごと炒めるからだ。殻に旨みが詰まっているのだ。これは本来オマール海老で作るとあかりも知っていたが、車海老でも十分においしい。エビと野菜のうまみがあとをひく味だ。スープ料理によく使われるトマトは、旨味であるグルタミン酸が豊富だ。グルタミン酸は昆布の旨味成分と同じだから、トマトをスープに使うといい出汁が出る。

 スズキのグリル。あっさりとした白身魚のスズキに、濃厚なヴェルモットソース。生クリームの濃厚なところにレモン汁でサッパリ感が出ている。なによりノイリー酒の風味が効いている。

 ブール。丸いバゲットは皮がパリパリ、中はふんわりしていておいしい。作りたて、焼きたてならではの小麦の甘みと風味。何個でもお代わりできそうだ。

 デザートのシフォンケーキ。ふわふわの生地は口の中で溶けてなくなった。シフォンケーキは真ん中に空洞がある特別な型で焼く。焼いた後に逆さまにして冷ますことで、生地がしぼむのを防ぐ。ふわふわの食感が食べていて楽しい。

 すべてのコース料理を食べ終えて、あかりは膝の上のナプキンを無造作にテーブルの上に置いた。

「よか、った~」

 気の抜けた正の声。

 ナプキンを無造作に置くのは、『おいしかった』という証だ。ちなみに、きちんと畳んでテーブルに置くのは、『おいしくなかった』という意味になる。

「先生、私」

 涙ぐみ、あかりが正の真ん前まできて、深々と頭を下げた。

「私、こんなにおいしい料理、初めて食べました。世界で一番、おいしかったです。私はきっと、この味を一生忘れません」

 突然、正の視界が開けた気がした。

 せかいでいちばんおいしいりょうり。

 正は今まで、自分が作った料理を食べる人間をたくさん見てきた。つもりだった。

 ボナペティで働いていた時、正は野菜の皮むきと出汁フォンづくりばかりで料理をさせてもらえなかったが、今思えば、フォンを作るのだって立派な料理だ。

 正が作ったフォンで作ったソースを、正がシャトーむきにした人参で作ったグラッセを食べる人々を、目の前で見てきたはずなのに。

 お客様の喜ぶ顔を、何度も見てきたはずなのに。

 それなのに、今、あかりの喜ぶ姿を見て、あかりから向けられた言葉を聞いて。正は生まれて初めて、『誰かのために料理を作る』喜びを知った。知ってしまった。

 ナツは正の作った酢豚が世界で一番おいしいと笑った。あの日の思い出が突如よみがえる。

 あれはお世辞でもなんでもない、正が世界でただひとり、ナツのことだけを思って作った料理だったからだ。拒食症で、肉製品が食べられないナツだけのために作った、肉を使わない豆の酢豚。

「なんだ、はは……」

 こんなに簡単なことだった。境コック長が言いたかったこと、それはこのことだったのだ。

 誰かのために作る、不特定多数のために作る。でも、その先にいるのは個人だ。たったひとりだ。そのひとりのためを思って作れるか否か、それが大事なんだと、正は気づいた。

 正には絶対味覚がある。だからこそ、自分の料理の味に自信があった。

 だけれど、どんなにおいしい料理を作ったって、その先にいる『食べるひと』たちの顔が見えなくては、誰にも受け入れられない。ひとりのためを思って、心を込めて料理する。そのひとがどんな料理を欲しているのかを考えて、真心を込めて作る。料理人にとっては『毎日作っている数ある料理』のひとつでも、食べるひとにとっては『最初で最後』になるかもしれない。特別になるかもしれない料理。その自覚を持って、一皿一皿に思いを込める。

 家庭料理だろうが、レストランだろうが、給食だろうが、炊き出しだろうが、なんだろうが。作るひとがいて、食べるひとがいる。ふたつの間に、隔たりなんかない。ただ、相手を思って料理を作る。シンプルで、だけど基本で根幹で、当たり前のこと。当たり前すぎて、誰もが気づかないこと。

 専門学校のあの日、ハルの手作りの甘酒とジンジャーエールを飲んだことを思い出す。これらがおいしかったのは、単にハルがいちから手作りしたからだけではない。ハルが正のために作ってくれた、世界でひとつだけの料理だったからだ。

 誰と食べるかでも変わる。どこで食べるかでも変わる。食べることは単なる本能ではなない。誰かの大切な思い出になり得るし、誰かを元気にすることだってできる。専門学校時代、中華街でのハルの言葉がまさにそれだった。ハルにとって、正と一緒に食べた中華料理は、大袈裟ではなく世界で一番おいしい料理だったのだ。

 母親の料理だってそうだ。父親の料理だってそうだ。ハルがナツに作っていた料理だってそうだ。友達と何時間も喋りながら食べるファミレスの料理も、憧れのフレンチレストランの料理も、好きなひとと食べに行った中華料理も。お母さんが「失敗しちゃった」と出す焦げた卵焼きも、不器用なお父さんが作ったチャーハンも。

 誰かが自分のために作ってくれる料理は、好きなひとと一緒に食べる料理は、泣きたいほどにおいしかった。

 世界で一番おいしい料理は、ひとつである必要はない。

 こんなこと認めたくはないが、料理の最大の隠し味は愛情。それはあながち間違いではないのではないかと正は思った。

「青野先生? なんで先生が泣くんです」

「いや。いや。俺のほうこそ、ありがとう。今日のこの料理は、まぎれもなく俺の中で、『世界で一番おいしい料理』だ」

 一流の材料を使わなくても、一等級の設備を使わなくても、料理ひとつで誰かの心を動かせる。どんな料理だって、誰かの一番になれる。だけど自分は、強欲だから。だれか『ひとり』だけのために作ることなんて、出来ないのだ。

「俺、用事を思い出したから先に帰るけど、あかりさんも適当な時間に帰るんだよ」

「泣いたり用事があったり、今日の先生は大忙しですね」

 ひらひらと手を振るあかりをおいて、正は車を走らせた。ハルのところへ行くためだった。


 チャイムを鳴らし、半ば強引に家に上がり込む。

 いまだハルの母親は入院しているらしく、ハルは広い家にひとり、ぽつんとたたずんでいた。

「秋田。俺さ、夢を見つけたんだ」

「夢? ああ、世界で一番おいしい料理を作るって、あれ?」

 ハルが紅茶をだしながら、あきれたように言い放った。

 相変わらずハルはぼさぼさの頭で生気もなく、疲れ切った様子だった。

 正は鼻息を荒く、

「さっき、拒食症だった女の子に、俺が今できる最高のもてなしでコース料理を作ったんだ」

「意外。まだその子と関わってたんだ」

「うん。それで俺、気づいたんだ」

 正はたったひとりの少女では満足できない。たくさんのひとを笑顔にしたい。拒食症も、アレルギーも、ヴィーガンも、野菜嫌いも、魚嫌いも。

 すべての人にとっての、『世界で一番』を作りたい。

 はたで聞いて、ハルは鼻で笑った。

「だからなに?」

「だから、秋田。秋田には、俺の店の管理栄養士になってほしい」

「……は?」

 怒りを含んだハルの声に、しかし正はひるまない。

「メインは普通のフレンチ。でも、予約次第ではパーソナルに合わせた料理を提供する。拒食症だったり、なんらかの理由で肉を食べられないひとのための、特別なフレンチメニューだ」

「無理でしょ。聞いたことない」

「でも、やれないことはない。だろ?」

 確かに、メインを普通のフレンチにすれば、採算が取れないわけではない。

 だが、問題は手間だ。一日のうちにそういった特別メニューが何件も重なれば、材料をまとめて仕入れられない分、入荷費用が割高になる。

「原価的に無理でしょ」

「そこは管理栄養士の腕の見せ所だろ?」

「なにそれ、私に丸投げ」

「あ、やる気になった?」

「やるなんて言ってない。原価だって、作る手間だって、ひとを雇うのだって、そのひとを教育するのだって。全部一からやるなんて無理だよ」

「なら、フレンチが軌道に乗ったら、完全予約制で特別フレンチをやればどうだ?」

「食い下がるね」

「譲れないもんでな」

 なぜそのやる気を、ナツに向けてくれなかったのか――いや、そんなのただの責任転嫁だ。

 亡くなったナツはもう二度と戻ってこない。わかっているからこそ、前に進めない。

 ナツは最後までハルのことを思って死んだ。なのに、自分がナツを裏切って、正の手を取ってもいいのだろうか。

 専門学校の卒業間際、あれは正がボナペティに就職が決まった時期とほぼ同じ頃だった。

 去年から布団で寝たきりだったナツが、いよいよ入院を余儀なくされた。

 あまりに体重が減りすぎていたため、経管栄養すらままならない。輸液でエネルギーを補給したが、この時のナツの体重は二十キロを少し上回るくらいだった。

 手遅れだった、なにもかも。

 鼻と腕にたくさんの管を繋がれて、ナツの意識はもうろうとしていた。もっと早く病院に連れてくるべきだった。母親の反対を押し切ってでも。

 ハルは学校を度々早退するようになっていた。幸いにして、期末試験は終わっていた。正には早退の理由ははぐらかした。短大の入学準備だよ、と嘘さえついた。

 入院してからはあっという間だった。輸液を体に流し込んでも、ナツは元気にならなかった。いよいよ危篤になって、母と父も病院に呼ばれた。ナツの最後の言葉を聞いて、ハルは泣くことすらできなかった。傍ら、父親と母親は涙を流していたというのに。

 その時から、ハルは身動きが取れない。ずっとナツの死に囚われて、前を向くことすらままならない。

「ゆくゆくは、フレンチを弁当にして売り出したいって思ってる」

「お弁当に?」

「そう。家でさ、拒食症だと出かけるのもつらいだろ? なら、家でフレンチ食べられたら、しかもカロリー計算されたものだったら、気がねなく食べられると思わねえ?」

 途方もない話だ。カロリー計算したフレンチなんてナンセンスだ。フレンチなんてカロリーが高いのがセオリーだ。

 すくなくとも、昔の正ならそう言っただろうに。

 正は変わった。前を向いて。なら自分には、なにが出来るのだろう。

 カサカサの唇を噛み締めた。

「五年」

 ハルがぼそりとつぶやいた。

「五年?」

「今から受験勉強して、特待生で東京の管理栄養士の大学に合格して、そこから大学生活が四年」

「おう」

「五年、待って。そしたら私、管理栄養士として戻ってくる」

 いつだって正は突拍子もなくて、一緒にいると楽しくて、ふたりでならなんでもできると思わされる。

 誰かのせいに――ナツのせいにして、目を背けてきた。自分はなぜ、調理師の専門学校に行ったのか。本当はなにになりたかったのか。本当に料理が好きだったのか。

 正と再会して、気づいてしまった。あの日々は、言い訳なんかじゃない。ハルは確かに、本気で、料理に向き合っていた。きっかけはナツの拒食症だったかもしれないけれど、いつの間にか、ハルにとって料理とは、自分を表現する手段、自分を肯定する手立て。人生において、生涯をかけて追究したい、大切なものになっていた。

 それに。

「この前、お母さんのお見舞いに、行ったの。青野くんがうちに来たあの日」

 ハルが拳を握っている。

「『ごめんね』って。たった一言だよ。ごめんね、アナタたちを見ていなくて。って。なにそれ、今更じゃない」

 だけど、その一言が欲しかった。ナツが生きている間に。

 わだかまりが今更消えるわけじゃない。ましてや、ナツが生き返る訳でも。それでも、母は母で父親に対して疲弊して、子供たちまで気が回らなかった。なぜあの時、母親がナツを殴ってしまった時、一方的に母親を悪と決めつけて、その心の内を聞いてあげられなかったのだろう。

 小さなすれ違いが重なって、取り返しのつかない溝になって、だけれどもう一度だけ。もう少しだけ。自分の人生を生きてみようと思った。今度はちゃんと、母親のことも、ナツのことも、自分自身のことも、受け入れて。

 浪人は許されない。約束は五年。

「じゃあ俺は、その五年間で、フレンチ、和食、中華。いろんな店で修行して、経営も学んで、それで、それから」

「もう、欲張りすぎだよ」

 ハルが笑う。

「あ、やっと笑った」

「な、なによ」

「ううん。でも、昔に戻ったみたいでなんかうれしい」

 正もつられて笑う。

 この二年、正とハルはろくに連絡も取っていないし、再会してからだって、今日で会うのは三回目だ。

 だけれど不思議と、そんな時間なんてなかったかのように、本音で話せる。

 友達というのは、そういうものなのかもしれない。

「私も食べてみたいな」

「ん? なにを?」

「青野くんが見つけた、世界で一番おいしい料理」

「え。えー、ダメダメ。今日の料理はあかりさんにとっては世界で一番でも、秋田にとってはそうじゃないから」

 どうして? とハルが首をかしげる。

「秋田に食べてもらうときは、秋田のことだけ考えて作るから。それまで我慢」

「なにそれ。もったいぶって」

「いいんだよ。それで」

 ふふ、はは、と笑いあって、ふたりは各々の道に進んでいく。五年後だ。ふたりの出発は。

 正はその日、仏壇のナツに手を合わせて、誓った。ハルを幸せにする。ナツの分も、正の料理でたくさんのひとを幸せにする。自分はきっと、ナツを一生忘れないだろう。忘れるはずがない。共に過ごした思い出も、ナツを救えなかった苦い経験も。

 すべてを飲み込めた訳じゃない。今だって本当は、ナツがどこかで生きているような気さえする。

 正はハルと共に、ナツを思い、たくさんのひとのための料理を作り続ける。めげる暇はない。嘆く暇はない。自分はきっと、死ぬまで料理人で居続けるのだろう。正とハルが料理を作り続ける限り、ナツも一緒に生き続ける。そんな気が、する。ただの正の願望かも知れないが。

 食べることは生きること。その『当たり前』を当たり前にできることの、なんと幸せなことか。正は生涯、忘れない。ナツのことも、震災のことも、ボナペティのことも、あかりのことも、ハルのことも。料理を通じて、この幸せを、他者に伝え続けるだろう。

 ひとは大人になると、感情を殺す術を身につける。悲しくても涙をこらえ、転んでも痛くないふりをする。それが大人になるということなのだ。

 だけど今日だけは、悲しいことを受け入れて、ナツの死を悼んで、正は仏前で涙を流した。

 五年後に向けて、正はあかりの卒業を見届けてから専門学校の講師をやめて、東京の有名フレンチレストランに就職した。

 東京だからか、コック長が若いからか、旧態依然の先輩後輩制度は、その店にはまるでなかった。





エピローグ


 今話題のフレンチレストランに来ています。あ、コック長ですね。意外とお若い方なんですね。

「いえいえ、フレンチ界ではそう若くも珍しくもなくて」

「確かに、若い人のフレンチレストラン、増えましたもんね」

「そうなんですよ。わたしなんてもう三十三で」

「見えない! 二十代かと思ってました!」

「ありがとうございます」

「鼻の下伸びてますよ」

「奥様ですよね? このお店の経営と献立作成を一任なさってるとお聞きしました」

 レポーターが女性にマイクを向けるも、女性は顔をそらして黙り込んでしまう。

「すみません、妻は人見知りで」

「でも、縁の下の力持ちですよね。奥様の作る献立は、どれも若い子を中心に大人気です」

「ありがとうございます」

「よかったな、オマエ」

「アナタは黙っていてください」

「コロナ禍が収束してもお弁当を続けているお店は珍しいですよね?」

「ああ。まあ……フレンチをお弁当にすることは前々から考えていて」

「なるほど。今日はそんなフレンチレストラン『ボナペティ』を徹底解剖します! カロリー計算されたフレンチ、持ち帰り専用コース料理、はたまた糖尿病用のフレンチコースなど、今までにない斬新なアイデアが話題のお店。ご主人、このお店を開くきっかけになった出来事はありますか?」

「ええ。話すと長くなるんですけれどね。わたしはずっと、『世界で一番おいしい料理』を探して、無我夢中で走ってきたんです。その隣には、いつも妻――ハルがいました――」

 あなたにとって、せかいでいちばんおいしいりょうりは、なんですか?


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