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二、青春の


 夏休みが終わり、また勉強漬けの毎日が始まる。

 変わったことと言えば、調理実習の時間に外部から調理人が招かれるようになったことくらいだった。

「ボナペティのコックの境です」

 どっどっどっど、正の心臓が早鐘を打った。

 ボナペティ。地元じゃちょっと名の知れた高級フレンチのレストランだ。予約は三か月先まで埋まっていて、その料理はひとつとして無駄がない。

 正が卒業後に就職したいと思っている、本命のレストランだ。

 そこのコック長と、右腕と思われる中年のコックの二人組が、今日の調理実習の講師だった。

 コック長の年齢は六十少しだろうか。貫禄がある。確か本場フランスで修行を積んで、三ツ星レストランでの経験もあるのだとか。

「今日はフォンドヴォーを作ります」

 コック長の境がコック帽をかぶりなおす。

 フォンドヴォーはフレンチの基本だ。フォンはフランス語で『出汁』ヴォーは『仔牛』を意味する。さらに、フォンドヴォーには、「褐色系(フォン・ブラン: fond brun)」と「白色系(フォン・ブラン: fond blanc)」が存在する。今日は褐色系のフォンドヴォーを作るらしい。

 よく洗った仔牛の骨を、オーブンで一時間から二時間焼き、鍋に入れる。この時、焼いた天板についた仔牛のうまみ(スュック)もよくデグラッセする。デグラッセとは、うまみを水に溶かして残さず使う手法のことだ。

 鍋に牛骨とデグラッセしたうまみ、大きめにカットした人参、セロリ、玉ねぎもオーブンで一時間ほど焼いてから鍋に入れる。そのほかに、牛筋も同じくオーブンで焼いてデグラッセし、大きめの鍋に牛骨、野菜、牛筋、タイム・ローリエ、ブーケガルニ(今回はパセリの茎などの香味野菜)と水を加え、十時間煮込む。

 それを濾したら、さらに量が三分の二になるまで煮込んで完成だ。

「一から作りたいところですが、煮込み時間を考えて、今日は煮込む前までの仕込みまでをやってもらいます。そのあとは、うちで使ってるフォンドヴォーを使って、基本の赤ワインソースを作ります。合わせるのは仔牛で」

 てきぱきと、助手のコックが材料を用意している。

 正は、境の持ってきた店用のフォンドヴォ―に興味津々である。

「作り方を書いた紙を配ります」

「フォンドヴォーってなに?」

「しらない」

「え、十時間煮込むってよ?」

「マジか」

 毎度のことながら、春田調理師専門学校の生徒はほとんどが料理初心者だ。興味すらないのもいる。

 噂によれば、つじちょーはそれなりに料理に自信がある人間が入学してくるらしいから、こんな程度の低い授業は行われないんだろうなと思う。が、正はつじちょーが好きにはなれなかった。

 もともと正は春田調理師専門学校一筋だった。つじちょーなんて、自分の頭では無理だとはなから諦めていたからだ。

 だが今は、もうひとつ理由がある。明確に、嫌う理由だ。

「秋田を蹴った学校なんて、別にうらやましがる必要もないし」

 ハルはつじちょーの入学試験を受けて、おそらく面接で落とされている。その理由が、ハルが高校を中退したからだ。

 思い出しただけで腹が立つ。

 正は腹立たしさを紛らわせるように、仔牛の骨をじゃぶじゃぶと洗った。


 仔牛の骨と野菜、牛筋を焼いて、ブーケガルニと一緒に鍋に突っ込んで、煮込む段階に入ったところで午前の授業は終わった。

「はい。このフォンドヴォーは明日みんなで味見しましょう。午後からはボナペティさんのフォンドヴォーで赤ワインのソースを作りますよ。いったんお昼休憩にします」

 明子先生の朗らかな声。

 クラスメイトはすぐさま散り散りになる。しかし、正はそうではなかった。

 ボナペティのコック長である境のもとへ歩き、

「あの」

「わたしかい?」

「あ、はい。あの。ボナペティさんのフォンドヴォーって、味見させてもらえませんか?」

 ダメもとだった。正はあこがれのコック長を前に、どうしても好奇心にはあらがえなかった。

「君、名前は?」

「あ。青野正と言います。あの、俺。ボナペティに就職したいんです!」

 言わなくてもいいことが口からつらつらと出た。初めて家族でボナペティに行った時のこと。重厚なソースに魅入られたこと。

 盛り付けの一つとっても繊細で美しく、いつか自分もこんなフレンチを作りたいと思っていること。

 絶対味覚のことは、言わなかった。

「野心があるのはいいことだ。ほかの生徒には内緒だからな?」

 境がスプーンを正に差し出す。

 そのまま、ボナペティから持ってきた大きな寸胴鍋のふたを開けた。

 煮凝りになっている。色は済んだ茶色。ここまで煮詰めるまでに、丁寧に油をとった証拠だ。

 一口だけすくって、正は味わうようにフォンドヴォーを舌の上に乗せた。

 今まで味わったことのない味だった。牛の骨のうまみ、野菜のうまみ、それらが臭みなく溶け合っている。香味野菜が臭みを消して、うまみを引き出している。

 一口では到底、分析できない味だった。

 正には絶対味覚がある。大抵のものは一度食べれば材料がわかるし再現できる。だがそれも、経験に裏付けされたものなのだ。

 フレンチなんて早々口にする機会はない。こと、こういった出汁の類は味が繊細だ。少しでも作り方を違えれば、全く違う仕上がりになる。

 確かに今日の実習で作ったフォンドヴォーと同じ材料に違いない。違いないのだが、おそらくボナペティで使っている材料は実習用の食材なんか比べ物にならないほど質のいいものを使っているし、オーブンだってコンロだって、専門学校のものよりもはるかにグレードの高いものを使っているに違いない。

「どうだ?」

「……おいしいです。ただ」

「ただ?」

「今日の実習で作ったフォンドヴォーだと、多分味の深みが出ないと思います。材料が違うし、学校の予算だと思うんですげど、材料自体が少ない気がしました」

 ふむ、と境がうなる。

「実はね。生徒に渡したフォンドヴォーのレシピは、実習用であって、うちのレシピではない」

 当たり前のことだった。フレンチの有名店が、そうやすやすと自店のレシピを公開するはずがない。

「君は特別な舌があるみたいだね」

「や、あの」

「わたしと同じなんじゃないかな?」

 べ、と舌を出して、境が笑った。

 あ、笑うんだ。正はふっと肩の力を抜く。

「絶対味覚とか絶対舌感と呼ばれるものだよ。わたしはそれで、だいぶ苦労した」

「苦労……?」

 正が首をかしげる。しかし境はその先は言わず、「さ、昼休みにしっかり休むのも学生の仕事だ」まるで、あとは自分で考えなさい、とでもいうかのように、追い出されてしまった。


「青野くん、用事終わったの?」

 一足遅れて教室に戻ると、ハルが弁当を屠りながら正に声をかけた。のんきな。

「や。……やっぱ俺、あの人に師事したい」

「え。え! もしかして、青野くんが憧れてるシェフって、ボナペティの先生なの?」

 身を乗り出して、ハルが食い入るように正に詰め寄った。「いや、まあそんなとこ」気恥ずかしくて、正は言葉を濁した。

「でも、そうだよねえ。一年コースの青野くんたちは、もう就職先決めなきゃならないもんね」

 季節はすっかり秋になっていた。朝晩は冷え込むようになり、ナツからは遊園地を請求されている。

 ハルが他人事のような言い草なのは、ハルは専門学校を卒業後に、栄養士の短大に行く予定だからである。

「てかさ、境先生って絶対味覚あるらしい」

「え。なにそれ。え、じゃあさ、青野くんと一緒じゃん!」

「そうなんだよ。でも、だから苦労したって言ってたなあ。どういう意味だろ」

「苦労、苦労……? 味が分かりすぎるから、理想の味にとりつかれてるとか?」

「なんだよそれ。理想の味なんて。だってそんなの、ボナペティの料理以外にあるか?」

「まあ、そうだよねえ」

 しかし、境の言わんとしていることは正にはなんとなくわかる。正もまた、世界で一番おいしい料理を求めている。

 正が知る限り、この世界で一番おいしい料理は、ボナペティのフレンチフルコースだ。

 昔家族で食べに行ったそれが、正の脳に、舌に鮮明に焼き付いて、そうだ、あの時に正は決めたのだ。自分もこんな料理が作りたいと。

 少なくとも、正にとって世界で一番おいしい料理は、幼いあの日、八歳のあの日、家族で食べた、ボナペティの料理なのだ。

「そっか、俺。なんか初心にかえった」

 もともと絶対味覚なんてものがあったから、だから自分は料理人を目指したのだと思っていた。だが、実際は違う。正はボナペティの料理という、正の中で『世界で一番おいしい料理』に向かって、料理の道を歩んできたのだ。

「午後からの実習、楽しみだよな」

「うん、楽しみ」

 すべてが順調だと思っていた。正もハルも、充実した学生生活を送っている。

 秋には一大イベントが待ち受けている。二週間の校外実習だ。

「楽しみと言えば、校外実習も楽しみだよな」

「青野くんはどこにするの?」

「俺まだ迷ってて」

 実習先は、自分では決められない。あらかじめピックアップされた病院や施設、自衛隊などに振り分けられる。

「秋田は? 決まったの?」

「私は決まってるよ。県立K病院」

 K病院? 正は首をかしげて記憶をたどる。K病院、K病院。

「あっ!」

 思い出した。精神科、と呼ばれる病院だ。なんとなく、怖いイメージがある。

 けれど、ハルがそこに行こうと決めた理由が、正にはなんとなくわかってしまう。

「俺も同じとこにしようかな」

「適当に決めるべきじゃないよ」

「や。でもさ、秋田だって知ってるヤツいたほうが気が楽じゃね?」

「それはそうだけど」

 むっと口を結んで、ハルが黙り込んだ。

「じゃあ決まり。俺も希望出してくる!」

 意気揚々と実習先を決めた正だったが、すぐさまそれを後悔することとなった。


 午後の授業が始まる。

 境が教師用の作業台で、ペティナイフを使ってエシャロットをみじん切りにする。

「バターでエシャロットを炒める。そこに赤ワイン。赤ワインはフルボディの重厚なものを」

 じゅっと赤ワインを加えたら、弱火でくつくつと赤ワインを煮詰めていく。どろりとするくらい煮詰めたら、そこにフォンドヴォーを加えてさらに煮詰める。

「最後にエシャロットをこしたら完成。仔牛のローストはわたしがまとめて作ります。皆さんは赤ワインのソースを作ってください」

 境が仔牛のローストを作るのは、恐らく赤ワインのソース以外の条件を統一するためだ。

 赤ワインのソースの違いで、どれだけ完成した料理の味に差が出るか。

「あと、希望する生徒は私の赤ワインのソースの味見をして構わない」

 ざわ、と生徒が動揺する。

「オマエ行けよ」「や。味なんて分からないし」

 正はなんの迷いもなく、境の赤ワインのソースを味見に歩いた。次いでハルも。

「んまい……!」

「へえ、こういう感じなんだ」

 ハルがブツブツとレシピに味の感想を書き込んでいる。

 バターの香りと煮詰めた赤ワインの甘み、エシャロットのうまみとフォンドヴォーの深み。

 正は早速自分の作業台に向かう。

 正とハルに続いて、クラスメイトの半数がフォンドヴォーの味見をしていた。

「秋田、うまくいきそう?」

「うーん、理論的にはわかったけど」

 問題は赤ワインの煮詰め具合と、フォンドヴォーを入れてからの加熱時間だ。火加減も大事だ。

「途中途中で味見させて欲しかったよな」

「確かに。だったら再現も楽なんだけどね」

 話しながら、きれいに切れ揃えられたエシャロット。

 正とハルは並んでそれらを炒めていく。焦げないように、細心の注意を払って。

 そのまま、計量した赤ワインを加える。正がボウルに残った赤ワインを舐めた。

「しぶ!」

「え、青野くん、お酒はダメでしょ」

「固いなぁ。これ味見しないと今後に活かせないだろ」

「だからって、未成年が……」

 くつくつと赤ワインが煮詰まって行く。正は少し火を弱めて、がみがみお小言を言うハルを右から左に流した。「秋田も味見すればいいのに」

「私は未成年だもん。それに、赤ワインのラベル覚えたから」

「じゃあ、成人したら飲むの?」

「……分かんない。お酒は嫌いだから」

 むっと黙り込むハルに、正はそれ以上深入りするのをやめた。ハルは不機嫌な時は、正がなにを言っても答えてくれない。

「っと、ここで味見しとこ」

「あ、私も」

 スプーンでソースをすくって、舐める。

「んー、これでも十分にうまいな」

「確かに。でも、フォンドヴォー入れたら完成される、ってのもわかる」

 ふたりの頭の中には、先程味見したソースと、今作っているソースの完成形の味が鮮明に浮かんでいる。

「そういえば」

 フォンドヴォーを加えながら、正が、

「今日俺たちが作ったフォンドヴォーと、境先生のフォンドヴォー、レシピ違うらしい」

「えー! 私たちのフォンドヴォーは、明子先生があとは煮込んでくれるって言ってたから……私味見させてもらっても気づかなかった」

「え、いつの間に味見したの」

「青野くんが境先生と話してる間に」

 つまり、ハルは煮込む前と煮込んだあとで、どれくらい味が変わるのか、経験しておきたいのだ。その考えはなかった。正は自分もあとで、今日の実習のフォンドヴォーを味見させてもらおうと思った。


 生徒たちが赤ワインソースを作り終わるころに合わせて、境が仔牛のローストを焼き終える。

「では、わたしは皆さんが実食している間に、皆さんの作ったソースを味見して回ります」

「マジか」「自信ない!」

 クラスメイトは楽しそうに実食を始める。正は気が気じゃなかった。あの憧れの、ボナペティのコック長の境直々に、自分が作ったソースを味見してもらえる。

 天にも登る気持ちだった。

「うん、赤ワインの煮詰め方が甘い」

「……全体的に煮込み不足」

「バターが多い」

「エシャロットが不揃い」

 ぐるりと回って、いよいよ正の番だ。

「……うーん。うちの味、だね」

 一緒に連れてきた右腕のコックが、境の言葉に正のソースを味見した。

「うわ、本当ですね」

「うん、あとこっち」

 こっち、というのは、ハルのソースのことだった。

「完璧ではないけど、ほぼ理想の味だよ」

 境が苦笑する。

「青野くん、はさっき話したね。君は?」

「あ。私は秋田ハルです」

「秋田さんか。君も、青野くんと同じなの?」

 絶対味覚のことだ。

「あ、いや。私に絶対味覚はなくて……」

 仔牛のローストを食べる手を止めて、ハルは境のほうを見た。

「見ただけで分かるタイプかな?」

「や。あの」

 こういうところで、ハルは人見知りを発揮する。

 正はやきもきしてしまい、

「秋田は、理論で料理するタイプです。自分の中でレシピの味を組み立てるタイプで」

「ああ、稀にいるね。秋田さんみたいに、勘の鋭い料理人」

 才能を伸ばしてね、と境がハルに笑いかけた。正はハルをうらやましく思う。自分のほうが味の再現度は高かったのに。

「青野くんは」

「はぃ!」

 急に名前を呼ばれて、声が裏返った。

 境はにこやかに笑っているが、どこか憂えるようでもあった。

「その味覚を大事にしなさい。でも、味覚以外の感覚も、磨くように」

「味覚以外?」

 境はなにを言いたいのだろうか。味覚以外に、料理人に必要なことなどあるのだろうか。

 重厚な赤ワインソースをたっぷりかけた仔牛のローストを口に入れる。

 幼いころに食べたボナペティのフレンチほどの美味しさは、ないかもしれないと思った。


***


 秋が深まる。クラスメイトは校外実習先を決め、十月の第二週から二週間の実習に赴いた。

 正とハルは、K病院への実習に来ている。

 実習一日目。

 ひまわり病棟と呼ばれる病棟に、正とハルは配属された。ほかにはクラスメイトが合計五人同じ校外実習に赴いていた。

「今日は最初に、病院内の中を案内しますね」

 看護師長の、優しそうな中年の女性がにこやかに言った。

『出せー! 出して! お願いしますー!』

 遠くから声が響く。ドアを叩く音も。

 それに、病棟の中を徘徊する患者の一部は、大きな独り言をしているようだった。

「大丈夫。みんな少し疲れてるだけで、害はありませんよ」

『出せ! 出せ! 閉じ込めやがって!』

「あの」

 正が耐えきれずに口を開いた。

「なんでしょう、青野くん」

「遠くから『出せ』って声が聞こえるんですけど、出さなくていいんですか?」

 一瞬、看護師の顔が曇った。

 ハルは声の主がなんなのかわかっているらしく、「青野くん」と正の腕を引っ張った。

「では、病棟内を案内しますね」

 また、張り付けたような優しい笑み。

 ひとつのドアをくぐるのに、重い鉄の扉の鍵をまわして、そのドアの先にもまた重厚なドアがあって、ドアが閉まると鍵が自動で閉まるのだった。


 昼休憩になって、正はハルから事情を聞いた。

「叫び声が聞こえたのは、多分『保護室』にいる人たちだよ」

「保護室?」

「……うん。聞こえはいいけど、まあ、独房みたいな部屋に入れてるの。自傷他害の危険性がある人たちを」

 食べたものが胃から出そうになった。

 保護室なんて名前だけで、実際は体のいい監獄なのだ。床に固定されたベッド、その隣に五十センチ四方の間仕切りがあって、隣にむき出しの便座。トイレットペーパーは備え付けられていないため、使いたい時は看護師を呼ばねばならない。安全確保のため、用を足す時でさえ、外から見えるようになっている。ドアはもちろん鍵が閉まっていて、内側にドアノブはない。ドアの隣には隠し窓があって、格子のかかったそこから中が確認できる。また、見回るために、窓の反対側には通路があって、その通路にも鉄格子がはめられている。

 この病棟は、恐ろしい。窓には全部柵が嵌めてあるし、出入りするドアはどこも二重、鍵は自動で閉まる。

 徘徊する人たちはうつろな目をして、わけのわからないことで話しかけられる。

「はいはい、夕食づくり始めますよ」

「あ、はい!」

 調理場に入ったのは昼食が配り終わったころで、実習生五人で調理場の隅で食事をとった。

 ここは選ぶべきではなかった。正をはじめ誰もが同じことを思っているに違いない。ただひとり、ハルだけをのぞいては。


 思えば、ハルはナツをどうにか病院に連れていくために、試行錯誤しているようだった。

 ハルは折に触れてナツに心療内科の存在を話していたし、校外実習を共にした感想としては、ハルだけが精神科病棟になんの動揺もしなかった。

 事前にこういう場所だと知識があったからだろう。

 だからこそ、正は思う。こんな場所、誰が好き好んで家族を入院させるのだろう。こんな窮屈で、恐ろしい場所。

「秋田ってさ、頭よすぎるのも困りもんだよな」

「なにそれ。そんな嫌味初めて言われたよ」

「いや、だってさ」

 校外実習一日目の終わり、疲れた様子で正が言った。

「だってさ、秋田、精神科がこういうところだって知っててなお、実習先に選んだのって、実情を知っておきたかったからでしょ? その、ナツちゃんの……」

 じと、とした目を向けられて、正は最後まで言えなかった。

 正たちは電車を乗り継いで、地元の最寄り駅まで揺れに身をゆだねる。

 ガタンゴトン、揺れる電車が子守唄のようで、うとうと、うとうと、正が船をこぎ始める。正だけじゃない、ほかの三人もまた、うつらうつらしている。

 それなのに、ハルだけは眠気を感じる様子すらない、ただまっすぐと、電車の向こう側の窓から、紅葉の景色を眺めるのだった。


 実習二日目。

 さすがに学生を朝四時から働かせることはなく、朝食後の片づけから実習生の朝が始まる。

「入院生活で唯一の楽しみがご飯だからね。私たち栄養士と調理師は、入院患者さんが楽しくおいしくご飯を食べられるように、日夜励んでるってわけ」

 調理場のチーフの綿引さんが誇らしげに語る。

「綿引さんは、もう長いんですか?」

 正が問う。

「かれこれ二十年は勤めてるかな。そういえば、この病棟も、もうすぐ改装されるんだって。調理場も、最新の道具をそろえてもらえるって話だけど」

「最新の」

 確かに、この建物はかなり古い。

 正は昨日、家に帰ってから父親のパソコンを借りて、精神科病棟について調べてみた。

 すると、ほかの精神科病棟は思っているよりも開放的で、重くじめじめした雰囲気はなさそうなのだ。

「今は鍵式のドアだけど。新しい病棟はパスワード入力式で、ドアも透明なものに変わるらしい。ちょうど、老人福祉施設みたいな感じに」

 なるほど、それならばだいぶクリーンで明るいイメージに変わる。

 しかし、現状のこの病院では、重苦しい二重ドアに変わりはないので、正は喜ぶべきか悲しむべきかよくわからない気持ちになった。

 患者のことを思えば喜ばしいのだが、正たち実習生は二週間だけお世話になる予定のため、「よかったですね」でこの会話を終わらせることにした。

「でも、最初はびっくりしたでしょ? 精神科って怖いイメージだから」

 五人全員が苦笑する。

「でもね、精神疾患って、珍しい病気じゃないんだ。誰でもかかりうる、脳の病気」

「脳」

 反応したのはハルだった。

「そう、脳。『精神』疾患、なんて名前のせいで勘違いするひとが多いんだけど、精神疾患はれっきとした病気。心が病んで、なんて言葉が先行しがちだけど、脳内の神経伝達物質の過不足が原因で起こる、脳の病気なんだよ。だから、患者さんのこと、怖いと思わずに、同じ人間として見てあげて、ね?」

 鬱は心の風邪、なんてフレーズがちまたで流行っている。鬱は壮年期の男性の病気だと。

 しかし実際、鬱は風邪のように薬を飲んで体を休めれば完治するものではなく、精神疾患ではよく『寛解』という言葉が使われる。完治ではないが、薬やカウンセリングなどで病状が消失した状態を指す。

 調理場の人間ですら、教育が行き届いている。だというのに、世間の精神疾患への風当たりは今も強い。

 隣で話を聞いているハルを横目で見ると、目を瞑って涙をこらえているようにも見えた。


 実習三日目。

 調理場の手伝いに慣れてきた正たちは、今日は食事をとる患者さんへのアンケートを任されていた。

「今日のご飯はどうでしたか?」

 正は恐る恐る患者さんに話しかける。傍ら、ハルはなんら臆することなくにこやかだった。

「調理師の卵さんだっけ? ここの病院のご飯が一番美味しいよ」

「ここの?」

「ええ。僕は入院五回目なんだけど、前のところは味気なくて。朝なんて、ご飯に味付け海苔、笹かまだけって日もありましたよ」

 対して、この病院では朝はご飯かパンが選べる。

 パンにはバターとジャムをつけて、ご飯はなるべく炊きたてを。おかずは目玉焼きや卵焼き、それから納豆にウィンナーやハムなど、毎日食べても飽きないように工夫がなされている。

 今日の昼ごはんはすき煮だった。塩分を一日十グラム未満に抑えながらも、ちゃんとおかずとして成り立つような味付け。牛肉と玉ねぎ、糸こんにゃく、焼き豆腐は味が染みていて美味しい。副菜には生野菜たっぷりのサラダ。揚げた枝豆をトッピングして、栄養価と味のアクセントにしてある。ドレッシングも手作りだ。それに豆腐と油揚げ、ネギの味噌汁。それから果物がついた。

「調理師さんには、いつも感謝してます。調理師の卵さんも、頑張ってくださいね」

「あ。ありがとうございます」

 存外ふうつの会話が成り立ったことに戸惑い、しかし正は自分がどれだけ偏見に満ちていたかを思い知る。

 この病院に入院しているひとたちは、少し疲れているだけなのだ。

「秋田。俺って人間として度量が狭いかもしれない」

「それは私も同じ思いだよ」

 お昼ご飯のアンケートを取り終え、調理室に戻る。

 今日は管理栄養士が正たちの指導をする日で、ハルが待ってましたと言わんばかりに質問攻めだった。

「管理栄養士さんは、拒食症の患者さんに、どう対応しますか?」

 正以外の同級生は分からないだろうが、ハルはナツの病気を治す手だてを探すために、この実習先を選んだのかもしれない。

 管理栄養士は考えるまでもなく、しかし真剣な面持ちで答えた。

「『なになら』食べられるか、一緒に探します」

「なになら?」

「そう。例えば、卵と言っても生、茹で、目玉焼き、白身だけ黄身だけ。色んな食べ方があるでしょう?」

「……でも、あの手この手で食べられそうなものを作っても、食べてもらえなかったら?」

「秋田さん。だっけ。そうですね、拒食症はとても難しい。本当は、病院でカウンセリングをするのが一番いいんだけど」

 ハルはナツを思い出しているのだろう、渋い顔をした。

「拒食症の方たちってね。心が繊細で溜め込む方が多いんです。だから、カウンセリングはとても有効というか。カウンセラーさんのところでなくても、管理栄養士のところに話しに来てくれたら、大分心が軽くなることがあるみたいで」

 ただ、やはり拒食症は他の精神疾患と違って命に関わる病気だ。なにより先に、医療機関に繋ぐことが大事だ。

「答えになっていなくてすみませんね」

「いえ……管理栄養士さんがどれだけ真摯に仕事をしているのか、よく分かりました」

 実際、管理栄養士と言ったって全部が全部、先のように拒食症に理解を示すわけではない。ある人は、「拒食症の人って栄養指導に来ても、自分の話ばかりしてなにがしたいのか分からない」と言っていたり、ある人は「ああ、拒食症……精神疾患だからちょっと……依存体質なところがありますよね」と、あまりいい印象は抱かない。


 実習五日目。

「はい、じゃあ、今日の課題を渡しますね」

 病院の管理栄養士は実際の栄養指導を見せるだけでなく、正たちに課題を渡した。実際は、正たちは栄養士ではないのだから、栄養指導はできない。しかし、勉強の一環にと、管理栄養士が栄養指導について教えてくれたのだ。

 渡された紙に書いてあったのは、とある事例である。実習生は全部で六人。二人ずつ、同じ症状の紙が渡されて、正の紙には、肝硬変のひとの実例が記載されていた。

「肝硬変の男性、四十歳、男性の栄養指導方針を定めよ」

「あ、秋田俺のと同じだ」

 ハルは正と同じ症例だったらしく、正が、実習が終わったら一緒に考えようと提案した。

「一緒に考えたら早いもんね」

「うん。でも、ほかの人たちのって、どんな症例なんだろな」

 正は興味本位でほかの子たちの症例を見せてもらった。

 肥満度一の女性、ニ十歳の運動療法を含めた栄養指導方針。この女性は仕事の都合上、夕飯が九時以降になることに留意すること。

 糖尿病の男性、三十歳の食事療法、および栄養指導方針。ただしこの患者は喫煙と甘いものをやめられないため、代替案を提案すること。

「へえ、なんか難しいな」

 正がうんうんとうなった。ハルは自分に渡された紙を見て、首をひねる。

「でも、これ、調理師には関係ないよね」

「まあ……もしかして、秋田が栄養士志望だから、とか?」

 実際のところなんてわからない。わからないが、なんとなく、正はハルがいるから管理栄養士がハルに期待しているのではと思った。


 正とハルは、実習後に喫茶店に向かって、課題に取り組んだ。

「肝硬変だから、エネルギーやたんぱく質は少な目にするでしょ」

「教科書には……未精製のものを献立に入れる。玄米ご飯、ライ麦パン。でも、食物繊維が不足するから、海藻も入れて。ミネラルも摂れる。と、難しいな」

 正とハルは、習った通りの栄養指導方針を固めていく。正が教科書頼りなのに対し、ハルはなにも見ずにすらすらと方針を固めた。食後一時間のお風呂は避けること。食事は原則三回に分け、特にアンモニアが生成されないように注意する。

 翌日、管理栄養士さんに課題を提出する。

「うん。肥満の患者さんには野菜を中心に、たんぱく質、炭水化物、脂質のpfc比率を守りながら、一日の摂取カロリーを減らしていく。体重一キロを落とすには七千キロカロリー必要だから、それを三十日で割って、一か月に体重の五パーセントまでを限度に減量を目指す。夜の食事が九時以降になるから、夜は軽めの和食など。いいわね」

 運動として、エスカレーターやエレベーターは避けて階段を利用する。

 管理栄養士さんが花丸をつける。次は、糖尿病の男性だ。

「一日当たりの単位を決め、決まった単位の炭水化物、たんぱく質、脂質を献立に盛り込む。この患者の場合、糖尿病食ニ十単位を目安に献立を配分する。じゃあ、一単位は何キロカロリーか覚えてる?」

「八十です」神尾が答えた。

「よろしい。甘いものが辞められないから、果物で代用すれば、食物繊維やビタミンが摂れる。果物以外ならば和菓子を推奨ね。うん、よくできました」

 煙草はビタミンCを破壊するから、多めに摂ること。こちらも花丸だ。

「最後に、なるほど、この症例に当たったのは、アナタたちね」

 校外実習に際しても、ハルは先生伝手にハルの妹が元拒食症であることは病院の管理栄養士に伝えておいた。だからか、管理栄養士さんがことさらハルに注目している。

「うん、そうね。正解」

「よかっ、た~」

 正の間の抜けた声。ハルは真剣に耳を傾けた。

「じゃあ、今日は実際に、栄養指導に行きます。その前に、秋田さん? 秋田さんは話があります」

 ハルの目がらんらんと輝いている。正はハルを横目で見た。ハルはやっぱり、栄養士に向いているのだ。あんな難しい栄養指導を、すらすらと書けるのだから。

 管理栄養士がハルを一人だけ別室に連れていく。管理栄養士さんが栄養計算をするパソコンのある部屋は、実習生の誰もが入ることを許されなかった。

 ハルたち調理師の卵は、学校の課題でも栄養計算ソフトを使わない。全部手で計算するように指導される。けれど、隠れて栄養計算ソフトを使う子がいるのは暗黙の了解だった。あいにく、ハルは馬鹿正直に手で計算しているけれど。

「今日の栄養指導に、その」

「はい?」

「過食症の子が、いるの。秋田さんを同席させるのはよくないかなって、思って」

 別にハルは拒食症ではない。妹のナツが拒食症なだけで。だからハルは、そんな気遣いは不要だと笑った。

「大丈夫です」

「でも、身内の病気となると、感情移入して体調が悪くなるかも」

「……でも、私は知りたいです。摂食障害を」

 ハルは今日の給食のカロリーを無意味に頭の中で計算する。ご飯茶碗一杯が二百、焼き魚は百六十。サラダはドレッシング込みで百、デザートのフルーツヨーグルトは百六十。合計で六百二十。平均的な食事だ。

 肝硬変の患者さんの食事も見てきたし、糖尿病の患者さんの食事も見た。どれも彩りよく光り輝くように美しかった。料理は見た目も大事だ。見た目は最初に入ってくる情報だ。どんなに栄養バランスの取れた食事だって、見た目が悪ければ食べてもらえない。

「じゃあ、大丈夫なのね」

「はい、大丈夫です」

 ハルは普段通りに答えた。つもりだった。妙な胸騒ぎがしてしまうのはなぜだろうか。

 ハルは、入院している過食症の患者さんの部屋へと、班員を連れ立って歩いていく。

「秋田、今回の実習、辛くないか?」

 しまいには、正にまで心配されてしまった。

「青野くんまで。私は大丈夫だよ」

 それが強がりだと気づくのに、そう時間はかからなかった。


 過食症だと聞いていたから、太っているものだとばかり思っていたのに、その患者さんは普通体型の、かわいらしい女の子だった。女の子であることは予想通りだ。摂食障害は特に、美しくありたい女性に多いイメージだった。実際には男性も摂食障害になるのだから、この偏見は拭い去らねばならない。

「こんにちは。今日は昨日言った通り、実習生も一緒です」

「わあ、私と同じくらい?」

「そうね。この子たちは専門学校の一年生。ひとつ下かな」

 管理栄養士が過食症の患者さんの食事内容をチェックしている。ベッドに、『田中美穂子』と書いてあった。美穂子さんは体調不良でこの病院に検査入院している。過食症だから精神科の入院経験も何回かあるらしかった。

「美穂子さん。また隠れて吐いてましたね」

「なんだ、ばれたか」

 なんら悪びれる様子なく、美穂子さんがベッドの下から大量のお菓子を取り出した。菓子パンが十種類、お饅頭が五個、二個入りのケーキが三パック、売店のお弁当が三個とサンドイッチが二パック。それらを美穂子さんはベッドの上に広げて笑った。

「これ、食べちゃダメですか?」

「ダメって言って取り上げても、買ってきたものを溜めてから一気に食べますよね。いいですか、吐くと電解質のバランスが崩れるから、心臓に負担がかかるんです。命に関わるんですよ」

 管理栄養士さんが、美穂子さんの右手の指の付け根の骨を撫でつける。そこにはいわゆる吐きだこができていて、ハルはこの人はナツなのだと錯覚した。美穂子さんは、これらを一気に胃の中に詰め込んで、時間をあけずに全て吐き出す。食べると言うより無機質に胃という箱にものを詰め込む感覚に近い。飲み込み胃がパンパンになると満足して、今度は太る恐怖にかられて全てを吐き出す。吐き出すとストレスも一緒に体外に出て、スッキリするという話を聞いたことがあった。

 ナツはいつか、過食に移行するかもしれない。その危険は、一生消えない。摂食障害はおおよそ、一生かけて治療していかねばならないこともままある。ナツの様に、肉が食べられないまま死ぬ人間もいるだろう。

 未来のナツを見ているようで、ハルは胸の苦しさを感じた。ナツは違う、ハルは管理栄養士として、ちゃんと勉強をして、正しいダイエットの知識も身に着けた。だからきっと、この知識をもってしてナツはこの病気を克服できる。

「大丈夫ですか? 調理師の卵さん?」

「え、私?」

「うん、顔が真っ青」

 もしかして、と美穂子さんの顔が曇った。バレただろうか、ハルが同類で、ハルの妹もまた、肉が食べられない異端者だと。

「もしかして、過食嘔吐って気持ち悪かった?」

「え?」

「だってそうじゃん、食べたもの全部吐き出して。私、こんな自分が嫌い。だから死にたい」

 息苦しさは窒息に変わった。ハルがしたかったこととは、まぎれもなくこれなのに、ハルの精神が美穂子さんに引っ張られる。ナツはこの子となにも違わない。正も、ナツをそんな風に見ていたのかもしれない。

「私、も。妹が拒食症だから、そんなことは思わない、です」

「え! だから調理師に? 妹さんのために?」

 ワクワクした表情で、美穂子さんがハルに聞いた。ハルはうん、と頷いて、美穂子さんはすごいなあ、と感嘆の声を上げていた。

 息苦しさを心配して、正がハルの背中をさすってくれた。

「大丈夫だよ、秋田」

「え?」

「大丈夫。俺もみんなも、田中さんも。みんなおんなじ人間なんだ。拒食とか過食とか、そんなこと関係ないんだ。俺たちはみんな、他者を幸せにするために調理師になるんだよ」

 正の言葉がうれしかったのか、ハルの目から思わずしずくがこぼれた。美穂子さんはなにも思わないのか、「友情って感じだね」なんて他人事に笑っていた。

 ハルは、調理師になって栄養士になって、たくさんのひとを救いたかった。一番は拒食症の妹のためだったけれど、ハルはこれを、乗り越えねばならない。

「田中さんは、過食症が辛いんですね」

「そんなこと、初めて言われたなぁ」

 管理栄養士が、ハルたちのやり取りを見守っている。ハルはよろける体を正に支えてもらいながら、美穂子さんに真剣なまなざしを向けた。

「でも、生きていてもいいことないって、調理師の卵さんならわかるでしょう?」

 痛いほどに。だけれど、この子は本当に死ぬことを望んでいるのだろうか。美穂子さんがいつから摂食障害なのかはわからないけれど、きっとこの先、生きていてよかったと思える日が、来るはずだ。それこそがハルの驕りに他ならない。ハルは安易にその言葉を口にしてはならない。

「美穂子さん。時間だし、今日はもう、休んでください」

 管理栄養士が区切った。これ以上はハルが感情移入しすぎると判断したのだろう。

「はあい。ねえ、調理師の卵さん」

「なんです」

「頑張ってね。アナタは私と違って、たくさんの人を救うんだから」

 その言葉に嘘はなかった。だからこそ、ハルも正も悲しかった。美穂子さんは本当に死にたがっているのだろうか。望んでいるから、管理栄養士の栄養指導を真摯に受け止めず、今も過食をやめないのだろうか。

「秋田さん……実習生は、午後はノートをまとめる時間にしましょうか」

「はい」

 正たちは調理場の休憩室に通されて、実習ノートをみんなで広げた。実習生たちの話題はもっぱら、あの過食症の美穂子さんのことだった。

「田中さん。どうやったら過食を思いとどまるかな」

「とめる権利なんて、私たちにはないじゃない」

「でも、すごく元気そうだった」

 習った通りの回答に、ハルはなにも言えなかった。あの絶望は、ハルのものだ。人生に希望なんてものがないのに、生きながらえるように促すのは、無理矢理殺すのも同然だった。

 ハルたちの実習は二週間で終わる。たった一週間の付き合いのハルたちが、無責任に「生きろ」なんて言えるはずがない。過食を乗り越えろなんて言えない。

 それらは管理栄養士の仕事で、でもじゃあ、管理栄養士は美穂子さんに、どんな栄養指導をしているのだろうか。

「管理栄養士さん、質問です」

 その日の反省会、正たちが言及をとどまったのに対し、ハルは臆面もなく、聞いていた。

「美穂子さんの栄養指導って、どうすればいいんですか?」

「うん、そうね」

 管理栄養士が慎重に言葉を選ぶ。

「カウンセリングには通っているみたいだし。あとは、生きる意味を見出してくれたらいんだけど」

「生きる意味」

「うん。摂食障害って、死にたがりに見えるかも知れないけれど。でもそれは、精一杯のSOSだと私は思ってます」

 ハルが歯噛みしている。ナツを想起しているのかもしれない。

「秋田さんは、少しつらい一日だったかもしれないけれど。いい勉強にもなったと思います」

「はい、そうですね。ますますわからなくなりました」

 ハルたちはその日を最後に、美穂子さんの栄養指導には行っていない。あのあと美穂子さんがどうしたのか、退院したのか、正もハルも管理栄養士に聞くことができなかった。

 病院では日々誰かが死んでいく。それが病気の時もあれば、自然死の時もある。ハルは自分の信念がわからなくなっていった。ハルは確かに、信念をもってこの専門学校に進学した。けれど学べば学ぶほど、ハルの信念がぐらぐらと揺らいで、形をなくして崩れていく。きっと、実習に行った正も同じなのだろう。正は無言でハルを見つめていた。正も頭の中では、ナツのことを考えているに違いない。


 有意義だった二週間の校外実習を終えて、正たちは校外実習ノートをまとめている。

 本来なら、一日が終わるごとに書くものなのだが、ノートをまとめる余力すら残らなかったのが現実だ。

 毎日朝昼晩と入院患者のご飯を作るのは、校内の集団調理実習の何倍も気を遣うし、忙しかった。

 家に帰る頃にはくたくたで、あのハルでさえも校外実習ノートを最終日にまとめて書く始末である。

「秋田もこういうことするんだってなんか安心したよ」

「こういうこと?」

「最終日にまとめて報告日誌を書くってズル」

「ズルじゃないでしょ。ちゃんと覚えてるもん」

「はいはい、そういうことにしといてやるよ」

 二週間ぶりの学校に足を踏み入れると、正はなんだかものすごい懐かしさを感じた。同時に、自分が大人になったようにも感じた。

 たった二週間なのに。

「皆さん、校外実習はどうでしたか」

 ホームルームで、明子先生が朗らかに語りかける。クラスメイトはみな、一皮もふた皮もむけたような、すがすがしい顔つきをしているのだった。


***


 食欲の秋、読書の秋。

 朝晩は少し冷えるくらいだが、日中は過ごしやすくて秋は好きだ。

 正は今日も、女の子ふたりを車に乗せて、高速道路を走っていた。

「青野先輩って運転うまいですよね」

「ナツちゃん、高速では話かけないで」

「あら、緊張してるんですね」

 んべ、と舌を出して、ナツが深く助手席に腰かけた。

 今日はかねてからナツが要望していた、遊園地に行くことになった。

 夏休みぶりに会うナツは、数か月前よりもやせたように見えた。

「ナツちゃん、くれぐれも体調だけは気を付けてね」

「大丈夫ですって。今朝はおにぎり食べてきたんですよ」

「一口だけ?」

「一個です」

 前と同じやり取りに、三人が三人、笑った。偉いな、とつぶやきながら正はアクセルを緩めた。

「あ、次の分岐点で高速降りるみたいです」

「お、おう。降りる、降りる……」

 東京の高速道路は迷路みたいで苦手だ。正はウィンカーを出して車を左に寄せていく。

「左、左」

「あ、高速出口の後は右折です!」

「え、右? え?」

 あわあわとしていると、正は左折レーンに入ってしまう。

「青野くん、ここ右だよ!?」

「わかってるって。秋田、次の信号どっち?」

「左ですよ、左、青野先輩」

「左だって、青野くん!」

 東京は怖い。道一本間違っただけで、到着時刻が一時間もずれ込んでしまうのだから。


 広い駐車場は、開園一時間たっても混雑していて、駐車待ちだけで三十分もかかてしまった。

 ワンコキャラの目印がたつ駐車場に車を止めて、三人は秋晴れの空の下に繰り出した。

「今日は動きやすいようにリュックで来ました」

「ああ、秋田もそういえばリュックだよな」

「そういう青野くんも、ボディバッグだよね」

 三人とも、知らずのうちに歩きやすいカバンを選んでいたようだ。

 チケット売り場で三人分のチケットを買う。

「私ワンコがいい」

「入場券なんてどれでも一緒じゃない」

「じゃあお姉ちゃんはネコにしなよ」

「嫌だよ。私リス派だもん」

 残ったネコは正に渡された。

「ネコかわいそうだろ」

「そう? かわいいから青野くんに似合ってるよ」「うんうん。お姉ちゃんの言う通り」

 入場前なのに、すでに三人は浮足立っている。

 遊園地は夢の国だ。駐車場に入った時点で、三人は魔法にかけられた。

 入り口に近づくと、館内から陽気な音楽が聞こえてくる。今はお姫さまと王子さまだ。

「えー、私ルル大好き。広間にいないかな」

「どうだろう。いたら一緒に写真撮ってあげる」

「やった。ねえ、三人で記念写真撮ろうよ」

 ナツがリュックサックからデジカメを取り出した。

「いつの間に……それお父さんのでしょ?」

「うん。部屋探してたら見つけたの。もう私のものじゃん?」

「……お父さんのものなんて、捨てればいいのに」

 小さくつぶやいて、ハッとしたように青野のほうを見る。「ごめん、水差すつもりはなくて」「いや、別に俺はなにも」

 ハルはあまり、父親のことを話したがらない。なにか訳ありなのは確かなのだが、ここはハルから話してくれるまで待とうと思った。


 入場して、まずホラー系アトラクションのファストパスをとる。

「あ、俺このチュロス食べたい」

 まだなんのアトラクションにも乗っていないが、ホラー系アトラクションの近くにワゴンを見つけた正が指さす。

「俺三人分買ってくるから、そこのベンチで待ってて」

「了解。さ、ナツ、行こう」

「うん」

 ナツの顔色があまりすぐれない。ここに来る間に気力も体力も使い果たしたのだろう。果たして、本当に今日、遊園地なんて来てもよかったのだろうか。

 以前にもまして細くなったナツを見て、正は自分がどうすべきか悩みに悩んだ。

 チュロスを三本買って、ベンチに向かう。

「はい、これ」

 ハルとナツに一本ずつチュロスを渡して、正もベンチに腰掛けた。

「甘! うーん、中力粉百、卵一・五個、バター三十グラム、牛乳八十、揚げたらグラニュー糖とシナモンをまぶす、って感じか」

「カロリーだと百五十くらいかな」

 百五十か、とナツがつぶやく。

「食べられる分だけでいいよ。残ったら私が食べる」

「うん。大丈夫」

 はく、サク、とチュロスにかじりつくナツ。モクモクと咀嚼して、ごくんと飲み下す。

「甘い! 美味しい!」

 揚げたてホカホカ、外はサクッと中はもっちりした生地と、シナモンシュガーの相性は抜群だ。

「お、ナツちゃんチュロス好きな感じ?」

 負けじと正もバクバクとチュロスにかじりつく。「はい、懐かしい味です。子供のころ家族四人で来て、食べたときのまま――」

 ハッとしたように、ナツはハルの顔色をうかがう。案の定渋い顔をしているのを見て、「この話は終わり!」

 そう言って最後のひと口を口に入れた。

 糖分が体を巡ったからか、ナツの顔に血色が戻る。

「少し食休みしてから行けばいいのに」

「いいの。時間がもったいないもん」

 チュロスを食べ終えて、まずは絶叫系コースターだ。ハルとしては、そんな激しいものではなく、ショーなどの体に負担がないものを楽しんでほしいのだが、ナツは大の絶叫好きだ。

「わー、きゃー!」

「マジかよ、え、マジでこわ!」

「……ひっ、ひぃっ!」

 楽しむナツ、恐怖に染まる正、声にならないハル。三者三様に絶叫マシーンを楽しんで、すでに時刻が一時を回っていることに気づいた。高速を降りるときに道順を間違えたのと、絶叫系コースターの待ち時間三十分のせいで、なかなかスケジュール通りには回れないようだ。

「ホラー系アトラクションが二時からだから。お昼ごはん食べちゃおうか」

「了解」

「えー、私チュロス食べたからおなかすかないんだけど」

「今食べないと次夕方になるから、少しでも食べとこう、ね?」

 実際ハルとしては、今日のナツは多少無理はしているのかもしれないが、いつもに比べて『普通の』食事ができているため、この機会を逃す手はないと思っている。


 近くのレストランに三人で並ぶ。イタリアンのお店だった。

「お肉食べられないもん。食べられるメニューないよ」

「ごめん、違うお店行く?」

「いいよ。時間ないもん。私が我慢すれば済む話だし」

 うー、とうなりながら、ナツがやや機嫌を損ねたようだった。

「あ、あのハンバーガー魚だな」

「ほんとだ! ナツ、あれならどう?」

「……揚げ物、かあ……」渋い顔をするナツに、ハルが「大丈夫だよ」と声をかける。

「無理そうなら、ホラーアトラクションのあとに和食の店もあるっぽいよ。蕎麦とかうどんとか」正がマップの載ったパンフレットを取り出す。

「え、遊園地なのにそんなのあるんですか?」

 意外にも、ナツはそれに食いついた。

「じゃあ、そこにする?」「うん!」

 今泣いたカラスがもう笑った。ナツは表情がころころ変わるし、とても分かりやすいと正は思った。


 ホラーアトラクションに三人で乗り込んで、きゃーだのいやーだのと叫んで笑って、和食のレストランに三人で入る。

「三名様ですね。こちらへどうぞ」

 遊園地はどこまで行っても夢の国らしい。

 大抵、こういう場所にある和食は子供だましで、インスタントな味がするものがほとんどだが、このレストランは違った。ちゃんと蕎麦だし、うどんだし、寿司なのだ。

 値段が割高であることは欠点だが。

「ナツちゃん、蕎麦好きなんだ」

「はい、蕎麦大好きです」

「へえ。知ってた? うちの県の常陸秋そば。これ結構有名なんだよ」

 初耳です、とナツが笑う。傍ら、ハルはほっと一息、出された緑茶をすすっている。

「なんか、こういうのもいいね。遊園地の和食、癒される」

「なんだよ秋田。なんかババ臭い」

「はは、お姉ちゃんくつろぎすぎー! ね、青野先輩!」

 ナツはことさら正になついてきたと思う。家にいるときも、「今日は青野先輩となに話したの?」と、ハルを質問攻めにするばかりだった。

 正の話をすると、とたんにナツは元気になる。「私も専門学校行こうかな」「青野先輩と同じ職場でアルバイトしたい」

 そんな夢まで語るようになっていた。

 ハルとしては、あわよくばこのまま拒食症から回復して、少しでもご飯の量が増えればと願わずにはいられなかった。


 レストランを堪能した後は、プリンセスのショーを楽しんだ。

「やっぱりルルが一番好きだな」

「そう? 私はオーソドックスにシルキーが好き」

「青野先輩は?」

「え? 俺?」

 急に話題を振られ、正はしばし逡巡する。

「俺は、あれ。白銀姫?」

「あーアジア系が好きなんですね」

 ナツが嬉しそうに体を跳ねた。「次、どこ行きます?」

 ちょうど広間の真ん中にカヌーが見えた。

「あのカヌーに乗らない?」

「いいですね。景色がきれいそう」

 ナツが肯定すれば、ハルが断る理由もない。三人はカヌーに乗り込んだ。

「お兄さん、両手に花ですね」

 カヌーの運転手のお兄さんがにかっと白い歯を見せて笑った。

「いや、あの」

「そうでしょう? 私とお姉ちゃん、両手に花で、青野先輩は幸せ者です」

「こらナツ、青野くん困ってるじゃない」

「だって本当のことだもん」ふくっと頬を膨らませる。

「出発しまーす!」

 お兄さんの掛け声。カヌーがゆっくりと動き出す。

 川には機械仕掛けの動物たちが本物さながらに鳴き、動く。

「右手に見えますあの鳥は――」「今度は左手にかばさんが見えますよ」

「どこ? え、お姉ちゃん鳥見つかった?」

「見つからない。あ、あれ隠れワンコじゃない?」

「どれ?」

 女の子はおしゃべりが好きだ。それに、なんでも楽しむ天才だと思う。キャッキャとはしゃぐハルとナツ姉妹を見ながら、自分に兄弟がいたらどんな感じだったのだろうと、正は想像を巡らせた。


 カヌーから降りて、今度はビックリタウンに向かうことになった。「ナツ?」

 しかし、その途中、ナツが息苦しそうに体を前傾させていることに気づいた。

「大丈夫……ではなさそうだな。救護室行くか?」

 正がしゃがみ込んで、背中を向ける。

「乗って」

「や、私重いです」

「大丈夫。こう見えて俺、男なんだぜ?」

「知ってます」力なく笑って、ナツが正の背中に乗った。軽い。軽い、羽の様に、軽い。

 正の祖母は、農家だった。だから、いつも米を一袋三十キロを送ってもらって、それを運ぶのは正の役割だ。

 その、米一袋、三十キロと、今背負っているナツの体重、下手をしたら、ナツのほうが軽いのではと思わされるほどに、彼女には体重というものがない。

 体も冷え切って、正はたかをくくっていた自分を責めた。

「ナツちゃん、救護室行くから、少し我慢して」

 返事は、なかった。


 救護室ではハルが状況を説明して、ナツはブドウ糖を点滴してもらうことになった。もちろんそれは気休めにしかならないのだが、救護スタッフに、「この痩せ方は心配です。すぐに病院に行かないと……事情があるなら、大人に相談するのも手段ですよ」

「いえ、家庭の問題なので」

 ハルは丁重に断った。家庭所問題ってなんだ。正は言いたくても言えなかった。このままではナツは衰弱しきって、やがて本当に死んでしまうだろう。それだけは避けねばならない、なんとしても。

 ハルが正の隣に腰かけた。

「この前、お母さんに、ナツを入院させてって頼んだの。でも、入院するなら親子の縁切るって……つまり、入院させたまま一生そこで暮らさせる、ってこと、らしくて」

「……は? そんなこと、」

 そんなこと言う親、いるのか?

「それでも、お腹痛めて産んだ子でしょ、って食い下がったの。そしたら今度は『じゃあ、アンタもハルも、ふたりともこの家を出て、児童福祉施設でバラバラに暮らす?』って。もう、私、お母さんが怖くて怖くて……」

 だからこそ、ハルは専門学校の学費を自分でねん出しなければならなかったし、ナツのことだって、独りで背負って生きている。

 大事な妹だ。バラバラになって暮らすなんて考えたくないのだろう。

 病院に入院させて、そのまま放置、なんて、本当にできるのだろうか。……できるのだろう。賢いハルのことだ、その辺を調べずに、ただやみくもに母親に恐怖心を抱くはずもない。

 カタカタと、ハルの手が震えている。正はその手に自分の手を重ねる。

「大丈夫。大丈夫だから」

 なにひとつ大丈夫なんかではない。なのに正は、そうやって言葉だけでも慰めるほかにできることなんてなかった。

 秋の夜は肌寒く、ナツの体温を奪っていく。

 結局、ナツの点滴が終わるのと同時に、三人は遊園地を後にして、帰路の車中ではみんながみんな黙り込んでいた。


***


 季節が巡る。秋が終わろうとしている。

 この日一年コースと二年コースのクラスメイトは、慣れないスーツに四苦八苦しながら、とあるレストランに向かっていた。

 クラス貸し切りのバスの中、正はかちこちに体をこわばらせて真ん前を向いてフリーズしている。

「青野くん、大丈夫?」

「大丈夫。でも、吐きそう」

「吐きそうって。今からフレンチ食べに行くのに本当に平気?」

 今日は校外実習と称して、フレンチの実食会があった。そのレストランに向かうバスの中、正は緊張に飲み込まれていた。

 無理もない。今から正が行くのは、正のあこがれの店、ボナペティなのだ。

 予約は三か月待ち、しかも学校の一クラス全部で赴くとなれば、付き合いがあってもなかなか受け入れないのが実情だろう。

 それを、クラス二十七人全員での実食実習を受け入れてくれただけでもありがたいのに、その実食先がボナペティだとは、さしもの正も緊張を隠せない。

 対して、ハルはそれほどでもなく、正の介抱を買って出るくらいだった。ハルのこういう、肝のすわったところはうらやましく思う。心臓に毛が生えてるのではとも思う。

 ぐう、とか、ぐあ、とか、声にならない声を発し、バスは目的地であるボナペティへと到着する。


 上品な店内は、暗めの照明でシックな雰囲気で落ち着く。

 出席番号順にテーブルに座り、正は背筋をしゃんと伸ばして料理を待った。

 まずは前菜。サーモンのテリーヌだ。きれいな台形のテリーヌに、野菜が美しく添えられている。テリーヌとは、台形の型に流し込んだ料理すべてを指す。今日のものはサーモンの刺身を攪拌し、生クリームを混ぜ、ゼラチンで固めてある。

 舌の上でとろけるようなテリーヌは、塩加減も程よく、ふわふわの食感も楽しい。

 次いで、スープ。寒くなってきたので、甘くなったャガイモのスープ、ヴィシソワーズだ。ヴィシソワーズとは、冷たいポロネギ風のジャガイモのスープのことを指す。

 ジャガイモには二度の旬がある。一度目は新じゃがの季節。二度目は冬。冬の寒さに当たるとジャガイモは甘味を増す。見た目はシワシワでよくないが、冬のジャガイモは甘くておいしい。

 ポロネギとジャガイモを炒めてブイヨンで煮込み、裏ごししたら生クリームや牛乳を加える。ポロネギは、日本のネギに比べて太く、甘みが強いのが特徴だ。

 基本的に、冷たいスープは温かいスープより味付けを濃くする。食材を冷たくすると舌が味を感じにくくなるからだ。

 ボナペティのヴィシソワーズは味付けも完璧だった。じゃがいもは甘く、ポロネギの風味も抜群だ。

 メインは仔牛のローストに赤ワインソースを添えて。これは、あの日学校の調理実習で作ったものと同じものだった。きっと境は、あえてメインにこの料理を据えたのだと、正はすぐさま理解した。

 一緒に出されたパンは、程よく温められていてとてもおいしい。パンくずはテーブルの上に落とすのがマナーだ。デザートの前にウェイターさんが専用の道具・クランプとブラシで片付けてくれた(これをダストパンという)。

 最後に出されたデザートは、宝石を散りばめたかのような美しさだった。

 デザートのおともにはコーヒーか紅茶を選ばせてもらった。正はコーヒーを選んだ。ひどく苦くて、大人な味だと思った。


「夢みたいだったな~」

「青野くん、緊張してたのに料理目の前にしたら目の色変わるんだもん」

「だって、こんな機会がなきゃボナペティだぞ? 滅多に食べられないし」

 それはほかのクラスメイトも同じようだった。夢見心地な表情で、あの料理がおいしかったとか、お酒との相性が抜群だったとか。

「あーもう、早く二十歳になりたい」

「なんで」

「だって、ボナペティと言えば本格フレンチだろ? ワインと合わせて食べることを前提にした味付けだもん。あーもう、成人してるクラスメイトをこれほどうらやましいと思ったことはない!」

 バスの中は少しだけアルコール臭い。正は平気だったようだが、ハルはあからさまに嫌な顔をした。

「でも、アルコールなくても十分おいしいじゃない」

「わかってないな。フレンチはワインがあってこそ完成するんだよ」

「そうなんだ。なら、私の中でフレンチは一生完成しないかな」

 ふいっと顔をそらされて、正はなにも言えなくなる。

 折角あんなにおいしいものを食べたのに、ハルはなぜ不機嫌なのだろうか。

 うかんだ疑問は一瞬で、正はバスの窓の外を上機嫌に眺めた。


***


 調理師の専門学校には、様々な人間が入学してくる。ハルはその日、門田という女の子に話しかけられた。ブラウンのボブヘアが可愛らしかった。

「秋田さんと青野くんって、ヴィーガンに興味があるの?」

 どこから聞きつけたのか、ハルの妹が肉を食べられないと聞いて、ハルに興味を持ったらしかった。ついでに、クラスで一番腕のたつ正にも興味があったようだった。門田は昼休みに、ハルと青野一緒に昼食をとることになった。


 学食にはいろんなメニューがあるけれど、門田は山菜のお蕎麦を頼んでいた。ハルは持参したおにぎりに小さくかぶりついた。人と食事をするのはいささか緊張して、おにぎりが上手く呑み込めなかった。正は傍ら、学食の生姜焼きを食べている。門田がそんな正に白い目を向けていた。

「げほっ」

「大丈夫? お水持ってくるね」

 門田さは席を立ち、学食の無料のお水を持って来てくれた。それを少しだけ喉に入れて、ハルは蕎麦をすする門田に話しかけた。

「私はヴィーガンじゃないよ。妹がきょ……肉が食べられなくて」

「でも結局、ご家族はお肉は食べてないんでしょ? 青野くんも、小耳に挟んだんだけど、大豆ミート使った料理が上手いって」

「まあ、この三年は食べてないけど」

「いや、俺は肉も食べるし、大豆ミートだって使わずにすむからそうしたい」

 ナツが肉を食べなくなったのが十六のときで、今はもう、高校三年生なった。時の流れは思ったよりも早い。

「そうなんだ。今度ヴィーガン同士の集まりがあるから、一緒にどう?」

「いや、私はいつか、妹にお肉を食べられるようになってほしいなって思ってて」

「ダメだよ!」

 門田が立ち上がる。食堂の椅子ががたんと倒れた。周りはみな、ハルたちなんて気にせずに、好き勝手に友達とおしゃべりしながらご飯を食べていた。

「動物を食べるなんて、必要ある? 命を殺す必要ある? 肉を食べなくても生きていけるって、秋田さんの妹さん自身が証明してるじゃない。なのに、動物を殺すの?」

 少し面倒くさい話になってきた。当たり障りなく断るにはどうしたらいいのだろうか。

「放課後に、ヴィーガンの先輩と会わせてあげる」

「いや、私は」

「じゃあ、放課後は帰らないで待っていてね」

 ハルも正も承諾もしていないのに、そのヴィーガンの先輩に会いに行かされることになった。


 会いに行った先輩は、ごく普通の人だった。なんら特異な点のない、どこにでもいるような。

 正とハルは挨拶して、喫茶店の椅子に座る。ふかふかのソファは座り心地がよく、体が吸い込まれるようだった。

「ヴィーガンはね、動物愛護と地球環境への配慮を目的としているんだ」

「そう、ですか」

 有機珈琲のみを扱う喫茶店では、卵や牛乳を使わないメニューが並んでいる。ハルは、食べる気が失せつつ豆乳のパンケーキを頼んで、正はタルトを、門田は紅茶と果物のパルフェ、先輩はコーヒーとあんみつを頼んでいた。

「あの、私はヴィーガンじゃなくて」

「聞いてるよ。でも、妹さんが肉は食べてないんだって?」

「いや、でもゆくゆくは食べて欲しくて」

「なぜ。動物を殺して食べるなんて、知的生物のすることじゃないって、わかってるでしょう?」

 確かにハルも動物は好きだ。肉を食べなくてもなんともないのも事実だ。だけどハルは、この専門学校に入って強く思うようになった。やはり、ナツには肉を食べることはいつか克服してもらわなければならない。

 人間の体には必須アミノ酸というものが存在する。バリン、ロイシン、イソロイシン、リジン、ヒスチジン、スレオニン、メチオニン、フェニルアラニン、トリプトファン。これらは体内で合成できないから、食事から補う必要がある。特に肉に含まれる成分だった。

「門田も、調理師目指してるんなら肉が必要ってわかるだろ?」

 正がタルトを切りながら聞くと、門田は首を横に振った。タルトがばらばらに切り刻まれる。正はそれを、食べることはできなかった。

「必要ないことを証明するために、資格を取って、ヴィーガンの啓もう活動をするんだよ」

「そうなのか?」

「うん。だって、命をいただくって行為が、信じられない。だから、調理師の資格を持っていれば、ヴィーガンでも健康に生きられる献立もたてられるし」

 少し違うな、と正は思った。調理師だって、ハルが目指す栄養士だって、栄養バランスのいい食事を提案し、提供するのが生業だ。それを、啓もう活動の一環で資格を取って、間違った食事を指導する人が、調理師になっていいはずがない。

「私は違うと思うけれど。門田さんはそう思うんだね」

「え、なにそれ。私たちが間違ってるっていうの?」

「ごめん、そうじゃなくて。なにを信じて信じないかは、私の自由だし、門田さんの自由だよ」

 がたん! 門田が立ち上がる。先輩も立ち上がって、ハルを見下ろしてすごんでいる。テーブルのコーヒーがこぼれて、茶色いシミを作っていた。

「地球上の人間みんながヴィーガンになれば、それが正しいことだったんだってわかるようになるんだから!」

「落ち着けって」正がいさめる。

「あーもう、信じられない。妹さんが肉を食べないから話しかけたら。ただの病気じゃん。じゃあなんで、秋田さんは調理師になりたいの?」

「私……私はただ」

 拒食症の子を救いたいだけだった。食べられない子に、どうしたら食べられるのか、一緒に考えてあげたかった。そうやって、生きることも悪くないんだよって伝えたかった。

 門田が鼻で笑った。

「なんだ、傷の舐めあいをしたいんだ」

「違うよ。私は私の経験を、誰かの役にたてたいだけで」

「そう。先輩、行きましょう。この子はヴィーガンにはなれない。この子はこれからも、命を粗末にするんです」

 先輩がハルを見下ろしてにらんでいる。こぼれたコーヒーは水溜まりを作り、ハルの顔を映し出す。

「命を粗末にする人間は嫌い。人間であれ動物であれ。死なせない道があるのに、死なせることは殺すことと同じなんだよ」

 先輩の信条はよくわかった。わかったけれど納得はいかない。ならなぜ、調理師を目指すのだろう。門田は聞いた話、調理実習でも肉は食べない。食べられないのではなく、食べない。

「私の妹は、食べたくても食べられないだけだよ。命を粗末になんて、してない」

「アンタになにがわかる!」

 先輩がハルを怒鳴りつけた。ハルは肩を震わせて、その場に固まった。

「お父さんは末期のがんだった。だから私は気づいた。私が肉を食べたから、動物を殺したからお父さんは死んだ。だから私はこうして悩んで、ヴィーガンになる決心をしたんだ。それを笑うことは、誰も許さない」

「それなら、私が拒食症の子たちを救うことにだって、意義はあるでしょう!?」

 ハルも立ち上がり、言い返す。先輩と門田がハルを責め立てる。正はなにもできない、どうせ正たちは無力だ。拒食症の子たちはいずれ、多かれ早かれ自殺もするだろう、衰弱して死ぬことだって。そうやって命を落とすこととヴィーガンの、なにが違うのだろう。

「私は……拒食症は、生きるための行為だと思う」

「死にたがりの間違いじゃなく?」

 そんなはずない。確かにナツは、この日々を懸命に生き抜いている。

「先輩のお父さんがガンになったのは、本当に動物を殺したせいですか?」

「当たり前だよ! お母さんは気に病んで、一日中泣いて過ごすようになった。おじいちゃんもおばあちゃんも。みんなみんな、人生を狂わされたんだよ!」

 他人事だ、と思った。先輩は拒食症の当事者ではない。お父さんの死だって。

「がんの闘病を送らせるくらいなら。介護をするくらいなら。だったら死なせてくれって。父親に言われた子供の気持ち、わかる?」

「わからない。けど」

「けど?」

「お父さんが生きたかった気持ちは、よくわかる」

 はっと先輩が笑った。

「アンタはそっち側なのね」

「そうですね、私の妹は、命を削られてますから」

 ハルは先輩に頭を下げて、喫茶店を後にする。ハルに続いて、正も喫茶店を出ていった。正たちの後ろで、先輩が涙を流していた。あれはナツのなり得た未来だ。そして、ナツを救わんとするハルの未来。ハルはナツのためならはひとを殺したし、ひとに殺されることだってあった。動物を殺し食べることは、ナツが食べものを拒むことと、なにひとつ変わらないのかもしれない。


 二回目の校外実習が始まる。

 今回の校外実習では付属の幼稚園に行かされた。園児たちはみんな元気で、ハルたちのことも『せんせい』と呼んで、食事する様子を見守った。とてもかわいくて、ハルは調理師のやりがいを感じていた。ハルと正は出席番号が前と後ろだから、実習の日にちもおんなじだ。

 その、実習初日。

 出来上がった料理は一斗食缶バケツに入れて、最初に重さを計っておく。残渣率を計ることは授業で習っていたはずなのに、正はその日、大量の残渣を見て、面食らってしまった。

「こんなに……」

 それは正だけじゃなく、おなじ班の同期のクラスメイトも同じようだった。バケツ一杯の食品残渣を見て、正たちは自分がなぜ、ご飯を作るのかを再確認する。

「調理残渣は食料廃棄率のうち三十三パーセント、のこりが食品廃棄。でもこれは」

 ハルは習ったことを反芻した。正はそれらの数字を算出するのに手間取ったのに。

 子供たちは、当然食べ残しがある。そして子供故に、食べきれないことはそう珍しいことではない。まだまだ発達途中の子供に、無理矢理完食を指導する学校は今はもうない。とはいえ、今日の残渣は五十パーセントに及び、正の心はくじけてしまいそうだった。地球の裏側では食べられずに死んでいく子が大勢いるのよ、だから完食しなさい、というのは乱暴な理論だ。子供たちや、そしてナツが肉も含めて料理を残さず食べれば、地球の裏側の子たちの腹は満たされるのだろうか? 答えは否だ。正たちがすべきは完食ではなく寄付で、ナツが肉を残しても食べても、世界はなんら変わらない。

「明日の出汁をこの袋に入れて、調味料を計ります」

 実習初日の午後、正たちは子供たちと同じ給食を食べて、お皿を洗いながら明日の準備をする。

 麻の袋に、煮干しとカツオ節をパンパンに詰め込んで、砂糖や醤油、みりんを計量する。冷やすデザートは前日のうちの作ることもあるが、この幼稚園では当日に作るようにしているらしい。明日のデザートはカスタードプリンだった。

「じゃあ、秋田さんは今日はプリンで。青野くんはホットドッグを」

「はい」

「わかりました」

「あと。たくやくんは、卵が食べられないからお饅頭なので。パンも卵なしのがあります、そこだけは注意してください」

 アレルギーの子に、代替品を出すのは素晴らしいことだなと正は思う。食べられない子供に、代替品をあげるかは、その管理栄養士の采配によって決まる。お饅頭とホットドッグのパンがひとつずつ、給食の材料の中にぽつんとたたずんでいる。たくやくんの名前を忘れないように、正はメモ帳にメモした。

「今日もまた、残渣出るんだろうね」

「そうだな。なんだか、びっくりしたよな」

 学校で習ったとはいえ、大量の調理残渣をいざ目の前にして、正もハルも、食事を見守る目線が変わった。昨日まではかわいい園児たちに癒されていたが、今日はハラハラと落ち着かない。ある意味園児は素直だ。おいしくなければ残すし、おいしければ残渣も減る。

「なるほど、やっぱりプリンはみんな好きか」

「そうだな。逆に、野菜料理の残渣が多い」

 バケツにぐちゃぐちゃになった料理を見る。今日の残渣率はそこそこで、昨日の残渣に比べればだいぶ少なかった。正たちは残渣の量を計って、校外実習ノートに記入する。

 本来この保育園では、調理残渣は計らない。残渣は計量せずにすぐに捨てて、また管理栄養士さんは明日の献立の準備をする。

 けれど、正たち実習生が来る時期だけは、調理残渣をひとつひとつ計らせるのだ。勉強の為であるとはいえ、管理栄養士は食品廃棄に慣れきって、ひとの心なんてもうとっくにないのかもしれない。

「秋田さんって、どの子?」

「あ、はい。私です」

 園児の給食が始まると、正たちの食事も少し遅れて始まる。

 管理栄養士がハルを手招きする。

「栄養士目指してるって?」

「はい……妹の病気が……」

「うん、聞いてるよ。妹さん本人が一番つらいことも、わかっているよ。私も病院の経験はあるし」

 そのうえで、管理栄養士が、続けた。

「きっかけなんて、些細なことなの。秋田さんの妹さんにとって、肉は恐怖そのものであるのだろうけれど、聞いたところ妹さんは食べられない自分に自覚的だし、努力もしている。だから、大丈夫。今はただ、焦らないで。自分を責めることだけは、しないように見守ってあげて」

 ハルに小さく話して、管理栄養士は管理栄養士室で来月の献立を立てている。保育園に務めているからか、まるでハルを子供の様に扱っていた。実際ハルはまだまだ子供なのだけれど、なんだかむず痒い。

 ナツの拒食症がいつかは克服できると言ったって、それがいつになるのか確証はない。おばあちゃんになってからかもしれないし、明日、急にそうなるかもしれない。

「さて、残渣調査行かなきゃ」

 ハルは大量の残渣を見ても、なにも思わなくなった。いつか残渣の様に、ナツにとってお肉は単なる食べ物で、食べるときに勇気も緊張も必要なく、ただ自然な流れでそうすることができるようになるのだろうか。そんな妹を思い描こうとしても、なにも浮かんでこなかった。

「管理栄養士さん、なんて?」

 先に給食を食べていた正が聞いた。

「うん。ナツのこと」

「あ、うん。悪い」

 なぜ謝るのか、ハルにはわからない。他者にとって拒食症は、やはり腫れ物なのだろう。


 大量調理は普通の調理とは違った難しさがある。調味料が最たる例だ。調味料は、一人前を五十倍にするのでは余るので、大量調理の際の調味料の計算は普段とはまた別の計算式になる。

「私たち管理栄養士は献立を立てて、現場の衛生確認をします。皆さんには、調理師さんのお手伝いをしてもらいます」

「はい」

 保育園実習では、食品廃棄率の計算もあった。

 野菜の皮をむくとき、厚く剥いてしまうと可食部がだいぶ減る。ひとつひとつは大した量ではないのだが、それが何十個にもなると、皮をむくのにも気を使った。

「私、残渣って慣れそうにないな」

 ハルが反省会でつぶやくと、正もうんうんと頷いた。

「管理栄養士さんは、残渣を見て悲しくなることはないんですか?」

「そりゃあ、今でも悲しい。慣れることはないかな。でも、次はもっとおいしいものを作ろうって、思うかな」

「そうなんですね」

 ハルが調理師にも聞いてみると、

「わたしたちは、残渣よりも食中毒がなかったことに、毎日安堵しているよ。食中毒は私たち調理者にとっては一番の懸念点だからね。残渣はもう、慣れたかな。だれでも好き嫌いはあるわけだし。ただ、この残渣を肥料かなにかに活用できたらとは思うけれど」

 大量の残渣を有効活用できれば、罪悪感も多少は減るだろう。

 ハルは校外実習ノートに書き込んでいく。一般家庭では生ごみ処理機に入れれば肥料になるが、学校給食の残渣は家庭の比にはならない。

 調理員はだいぶ歳のいった女性で、この調理場を仕切っている。対して管理栄養士さんはまだ若く、だいぶ物腰の柔らかな人だった。

 有意義な二週間を終えて、正はまた、自分が世界でいちばん美味しい料理に近づいたような、そんな気が、した。


***


 秋の実習が終わり季節が変わっていく。

 冬の始まり、唐突に正はハルに言った。

「来週の日曜、空いてない?」

「え……?」

 まるで、デートの誘い文句のようだとハルは思った。ゆえにしどろもどろに答えられず、顔をうつむかせて頬を染めるハルに、正はハッとしてことの顛末を話し出した。

「昨日父さんがさ。中華街で使えるギフトカードもらったんだけど。その……ナツちゃんはそういうのダメだろうから誘えなくなっちゃうんだけど、俺と秋田のふたりで、どう?」

「いや……まあ」

 ハルはいまだ、はっきりとした答えを出さない。目を上に泳がせるのは、人間が考え事をするときの特徴的なしぐさだ。ハルもまた、目を上に向けて行ったり来たりさせて、なにかを考えている。あまり乗り気ではないらしい。

「ごめん。急だったよな。いいよ、俺ひとりで行く――」

「行く! 行くよ。ちょっとナツには申し訳ないから迷っていただけ……で。私も中華街には興味があるし」

「そう? だよな~。あそこは日本にいながら本格中華が食べられる楽園だもん。秋田なら興味あると思ってた」

「でも、ギフトカード使わせるのは忍びないから、自分の分は自分で払うし」

 正が大きく首を横に振った。そんな気を遣わせるつもりで誘ったわけじゃない。そもそもハルは、短大の入学資金を貯めるのに、アルバイトに忙しいのは正がよく知っている。

「ギフトカードさ。本当に俺ひとりじゃ使い切れない額なんだよ」

「……本当に?」

「疑ってるな。本当に」

 ガサゴソと正が自分のリュックをあさる。準備のいい。それで、白いケースから取り出したギフトカードを、まるでババ抜きをするように扇状に広げた。

「すごい……こんな束になってるギフトカード初めて見た」

 一枚が千円のギフトカードで、それが五十枚。

「だろ? うちの父さん少し抜けてるところあるからさ。会社で毎年もらっていたのを、昨日になって一気に何年分もまとめて出してさ」

「ふふ、なんか青野くんのお父さんらしいね」

「ええ、俺って秋田の中ではどういうイメージなんだよ」

 最近ハルは、授業中でもぼうっとしていることが増えた。とはいえ、それしきのことでハルの成績が落ちることはないのだが。相変わらず、授業で指名されるとなんら迷うことなく正解を述べるし、実習の授業だって正といい勝負だ。

 最近の実習は外部のレストランから講師を招いて、クラスメイトもやっと調理師学校らしくなったと喜んでいる。ことさら、初期の授業で包丁研ぎやオムレツ、玉ねぎのみじん切りの基礎ばかりだったから、余計に楽しいようだ。

「じゃあ、日曜日に駅で待ち合わせな」

「……うん。わかった」

 少しばかりの違和感を感じたものの、さして気にも留めずに、正は日曜に向けて準備を進める。


 当日。

 ハルが化粧をしてきたことに、正は正直面食らった。

「え、秋田がおしゃれするとか思わなかった」

「いや……私だって都会に行くときはそれなりの身支度はするよ? 特に誰かと一緒に出掛けるときは、隣を歩くひとに恥かかせないように――」

 言ってて恥ずかしくなったのか、ハルは言葉途中で駅の改札へと向かってしまう。

 これは、ハルがおしゃれをするのは正のため、と取っていいのだろうか。

 瞬間、ぶわっと汗が噴き出した。初冬の駅の構内がさほど寒くなかったからかもしれない。

「待てよ、秋田」

「もう、乗り遅れちゃうよ」

 ハルが笑って、正も笑う。

 本当はここにナツも誘いたかったのだが、何分今日の目的は食べ歩きだ。食べることもそうだが、中華街を歩き通しにさせるには、ナツはいささか危うさがあった。


 電車を乗り継いで中華街につく。正は中華街の門の前で大きく息を吸い込んだ。

「おお、これが中国の匂い」

「もう、大げさ。早く行こう。最初はどこに行くか決めてるの?」

 せかされ、正は中華街のガイド本をボディバッグから取り出した。

「まずは、焼き小籠包」

「わ、これってさ、すごく肉汁が飛ぶやつだ」

「わかってるじゃん。ここ最近で一番注目の中華だな。あとはベタだけど肉まんあんまんも食べたいし、麻婆豆腐に胡麻団子、豚の角煮に上海ガニ……」

 言いながら、正のお腹がきゅるると鳴いた。

「青野くん食い意地」

「仕方ないだろ。朝飯抜いてきたんだから」

「え、そこまで? 私少な目にして食べてきちゃったよ」

 ハルが正の持つガイド本を覗き込む。瞬間、中華街とはほどとおい、甘いにおいが鼻をかすめた。

 ばっとハルから距離を取る。

 どっどっどっど。

 普段ハルは、化粧をしない。専門学校でそう教育されているからだ。明子先生自身も、化粧をしていない。特に口紅は料理の味を邪魔するからと、明子先生は女子生徒に極力化粧をしないように教育していた。

 それに、化粧は異物でもある。調理中にファンデーションの粉などが混入することは避けたい。だから、はるちょーでは化粧をしている女子生徒はほとんどいない。

「なに、青野くん」

「いや。別に」

 気を取り直して、正は再びハルに近づく。小さい。小さい身体が、揺れている。

 これいいね、これもたべよう。そう言いながら正に向かって笑みを向けるハルに、正は得も言われぬ気持ちを抱いた。

 今までは、外出するときはいつもナツが一緒だったから気づかなかった。ハルはれっきとした女の子なのだ。

 専門学校でも、いつも化粧をしないからか、あるいはいつも料理の話ばかりしていたからか、こうして休日に、特別な用事を作ってふたりきりで出かけると、なにか悪いことをしている気分になった。

「青野くん?」

「あ。ああ。そうだ。ナツちゃんには、お土産買っていくの?」

 話をそらした。ハルが一瞬硬直して、正のガイド本から顔を離して、

「ナツには今日私が中華街に出かけることは言ってないから」

「あ、ごめん」

 そうだ、正とハルのふたりだけで楽しいことをしているなんて、ナツに言えるわけがなかった。

 ハルの表情をうかがうように、正は少しだけ膝を曲げた。ハルが一歩前に進み、正を振り返る。

「行こっか」

「あ、うん。だな、行列ができる前に」

 いつも通りのハルの声音にほっとして、正とハルはまず、焼き小籠包を食べに行った。


 すでに行列ができた最後尾に並んで、小籠包を焼いている大きな鉄なべに目を向けた。

「すごいね。ここの焼き小籠包、冷凍で持ち帰り用のあるらしいけど、家で完全に再現するのは無理だろうね」

「だな。やっぱりああいう店用の道具と火力にはかなわないもんな。てか、持ち帰りあるんだ?」

「うん。さっきガイド本に書いてあった」

 へえ、母さんに持ち帰ってやろう。正は心の中で声にした。実際の声にしなかったのは、ハルを気遣ってだ。ハルには持ち帰ってあげるような家族がいない。母とは仲が良くないし、ナツにも負担になるだけなのだろう。

 十分ほどして、ようやく正たちの順番が来た。

 この後もたくさんの店を食べ歩きする予定のため、今回はふたりで一皿の注文にすることにした。

 それが、間違いだった。

 箸を二膳もらったものの、ふたりでひとつの器しかないと、この小籠包の場合かなり食べるのが難しい。

 正はハルに器を使わせて、自分は手皿で小籠包にかぶりついた。

 事前情報として、この小籠包は肉汁が売りで、かじりついた瞬間ぴゅっと飛び散ることは正も知っていた。

 だから、肉汁が飛び散らないように小さくかじりついたのだが、

「んむっ!?」

 見事に肉汁が飛散して、しかも正の服にシミを作った。

 かたらわ、ハルが笑い転げている。

「ほらもう、だから言ったじゃない。交換でお皿使って食べようって」

 ハルが自然な様子でハンカチを取り出し、正の服の汚れをぬぐっている。その間、正は熱々の小籠包にかぶりつき、肉汁をズズ、とすすっている。

 まったくかっこ悪い姿を見せてしまって、穴があったら入りたかった。

「ごめん。ハンカチ汚して」

「いいよ。じゃあ、青野くんが先に食べていいよ」

 正の洋服にはいまだ肉汁のシミが残っている。ハルの花柄のハンカチも、肉の油でべとべとだった。

「ハンカチ、買って返すよ」

「いいって。ハンカチは汚れを拭くためにあるんだし。それに、今日の中華街だって青野くんの奢りなんだもん。それでチャラ」

「うーん、そういうことなら。じゃあ秋田も、俺に遠慮せずに食べたいもの言えよ?」

「りょーうかい」

 ふふ、と笑ってハルは正が小籠包を食べ終わるのを見ている。

 こんな風に笑うひとだったのか。こんな風に女の子みたいに。

「青野くん、私になにかついてる?」

「あ、いや」

「もう、なに」

 なるべく熱々のうちにハルに小籠包を渡すために急いで食べて、正はハルに小籠包の皿を渡した。

「秋田はよく肉汁こぼれなかったな」

「……実は、こぼしてコートの袖が汚れました」

 へへ、とまた、ハルが笑った。見れば、コートの袖が少しだけくすんでいて、正は小籠包を選んだことを少しだけ後悔した。

「やっぱ、クリーニング代……」

「もう、青野くん気にしすぎだよ。これもあわせていい思い出。私今ね、すっごく楽しい」

 ハルが大きな口を開けて、小籠包にかじりつく。ぴゅっと肉汁がこぼれ出て、ハルは笑うのと食べるので忙しそうだった。


 次は甘いものをということで、胡麻団子を食べた。

 正直、先ほどの小籠包は、気が気じゃなかった。ハルに申し訳ない気持ちと、ハルを妙に意識してしまう自分。

 ハルにとって、自分はどんな存在なのだろう。自分にとって、ハルはどういう存在なのだろう。

「わ、甘くておいしいね。私胡麻団子って好き」

「うん、甘くてうまいよな。この皮のもちもち感も」

「そうそう。中華って揚げ物多いけどさ、でも食べられちゃうよね」

「そうだよな。煮込み料理とかもすげえ楽しみ」

 歩きながら胡麻団子を食べて、混む前に昼食にしようという話になった。

 中華街のレストランのうち、全部の地方の料理が頼める店をピックアップして、正とハルは腰を据えた。

「なんか……素朴な店構えだね」

「だよな。日本にはない雰囲気」

 田舎の食堂のような雰囲気だった。客層は、正たちと同じ観光客と、中国語を話しているおじさんたちが、昼間から酒盛りをしている。

「紹興酒飲みたかったんだけど……さすがに未成年だし、外だしなあ」

「なにそれ、家だったら飲むみたいな言い方じゃない」

「え。普通に飲むだろ。え、秋田は飲んだことないの?」

 未成年の飲酒は法律で固く禁止されている。しかし、それを二十歳まで律義に守る人間もいないだろう。少なくとも正は、何回か親と一緒に少しだけ酒を飲んだことがある。

「最低だね。青野くん。見損なった」

「え。待って。え、俺が普通で、秋田が優等生なだけだからな?」

「ふん」

 ふいっと顔をそらされてしまう。どうやら機嫌を損ねたようだ。ハルはたまに、不機嫌になる。そういえば、ボナペティに行った帰り道でも同じようなことがあった。

 ハルは酒を人一倍嫌っている。きっと理由があるのだろうが、それは聞いてはいけない気がした。

「オマチドサマ」

「あ、ありがとうございます」

「わあ……!」

 料理が運ばれてくると、ハルの表情は一変、満面の笑みになった。

「秋田だって、食い意地……」

「もう、いいじゃない。上海ガニって初めて。麻婆豆腐も角煮もおいしそう」

 テーブルに備え付けの割り箸を一膳取って、ハルと正は「いただきます」ふたりで声をそろえ、まずは上海ガニに箸を伸ばした。

「ん……! 甘い! 濃厚! 日本の蟹とはまた違ったうまみがあるよな……!」

「うん、これをあんかけにしているのもいいね。蟹のうまみが凝縮されてる!」

 次に麻婆豆腐。取り分け皿にハルが取り分けていく。

 取り分け用のレンゲは、日本のものと同じはずなのに、中華街というだけでなんだかとても新鮮に見えた。

「うん、ホワジャオのいい香りとピリッとしたうまみ……本場の豆板醤の深み……うまいね」

「うん。豆腐もしっかり水切りして、一気に中華鍋で作るから、とろみの加減も絶妙」

 しかし、いかんせん辛い。

 ホワジャオは辛味というよりは痛みだ。そもそも、唐辛子などの『辛味』は正確には味覚ではなく痛覚なのだと授業で習った。

 その辛味。ホワジャオの辛味は舌をしんしんピリピリさせる、今までに経験したことのない種類の辛味だった。

「私水お代わり。青野くんは?」

「俺も」

 ハルが自然な流れでウェイターさんを呼び、水のお代わりを頼む。

 水を待つ間は、豚の角煮を食べることにした。

 箸でつまむと、日本の角煮ほどの『ほろほろ感』はない。

 そのまま口に入れて咀嚼する。

「わ、香りいいな。八角」

「うん。ほかにはなんだろう」

「クローブと……あと甘み付けは普通の砂糖のほかに三温糖だな」

 正が味の分析をする。ハルは正の楽しそうな様子をにこやかに見ているのだった。


 昼食を終えて、少しだけ食休みに歩くことにした。

 中華街の近くにある赤レンガ倉庫に向かう。

「わ、海軍カレーだって」

「あー、なるほど。そういうのもあるのか」

 赤レンガ倉庫に着いて、ふたりは景色を楽しむより先に、お土産コーナーに足を向けた。横浜名物の数々に、荷物が重くなることを気にする様子もなく、正がカゴに商品を入れていく。かたわら、ハルはお土産を買わないらしい。

「秋田。あれは?」

 食べ物はすすめられないため、文房具を指さす。しかしハルは首を振るだけで、

「私、外で待ってるから。青野くんはゆっくり買い物してて」

 気を使わせてしまった。

 正はいそいそと会計を済ませて、外で待つハルのもとへと向かった。


「お待たせ」

 初冬の外は、やや肌寒い。中華街は海が近いため、余計に。

 正は気持ちばかりの温かい缶コーヒーをハルに買って渡した。

「ありがとう。青野くんってそういうとこあるよね」

「そういうとこ?」

 ぷしゅっと缶コーヒーのプルタブを開けて、ハルが一口、コーヒーを飲んだ。

「無意識なやさしさ」

「なにそれ。初めて言われたんだけど」

 正もまた、赤レンガ倉庫を遠めに眺めながら、缶コーヒーのプルタブを開けた。けれど、飲むことはしない。

 隣に立つハルを覗き見て、妙に胸が騒いだからだ。

 ハルは友人だ。同士だ。同じ味を共有できる、料理仲間だ。

 それ以上でも以下でもない。

「じゃあ、そろそろ中華街戻ろっか」

「あ、うん。秋田、はさ」

「うん?」

 今、楽しい? なんて、聞けるはずがなかった。

 手放しに楽しんでいるかと言ったら、きっとそうじゃない。ハルはナツに内緒で中華街に来たと言っていた。

 だからハルは、お土産を買うこともしないし、時折なにかを考えこむ。

「次、なに食べたい?」

 結局正は、そんな無難な言葉しかかけられない。

 ハルが笑う。「エビせんべいと、ふかひれと北京ダック。今日のメインディッシュ」

「はは、まだまだ腹は余裕ってか?」

「青野くんこそ、まだまだいけるでしょ?」

 ふたりで顔を見合わせて、笑った。この時間が永遠に続けばと、ハルがそう思っていたことを、正は知らない。


 ギフトカードの残額を何度も確認する。三万円。

 少しだけ雰囲気のあるお店に入り、正は背筋を正した。さすが北京ダックやフカヒレスープが供される店とあって、その雰囲気は昼食を食べた中華店とはだいぶ違った。

 回転テーブルに、まずはフカヒレスープが運ばれてくる。

「わ、大きいね」

「だな。香りも」

 透き通った黄金色のスープに、手のひらより大きいフカヒレが鎮座している。フカヒレは大型のサメのヒレを干したもので、世界三大スープと呼ばれている。残りは、タイのトムヤムクン、フランスのブイヤベース、ロシアのボルシチだ。四種類あるが、この四つが主な世界三大スープと言われる。

 丁寧に取られたであろう鶏ガラスープに本場中国の調味料で絶妙に味付けされている。酒、オイスターソース、醤油、うま味調味料。

 正とハルは、大きなフカヒレをレンゲですくい、口に入れた。

 繊維がホロホロと崩れて、コリコリした食感。スープの味が染み込んでいて、黄金の旨みの塊だった。

「うまいな。俺、フカヒレって繊維がバラバラになってるやつしか食べたことない」

「私も。缶詰のやつとか。どこにフカヒレが? ってものしか食べたことないから、たぶんちゃんとフカヒレと認識して食べるのは初めて」

 そのあとは、無言。スープを飲んで、フカヒレを食べて。

 フカヒレスープだけでもかなりのボリュームだ。

「ふぅ。さて」

 しかし、ここからが本番だ。

 メインである北京ダックが運ばれてきて、ハルが声にならない悲鳴をあげた。

 アヒルを丸ごと炉で焼く料理である北京ダックは、アヒルの形がそのまま残っていたからだ。それが命をいただくということだとしても、ハルには少しだけショッキングだった。

「すごいな、あれ。皮だけ薄く削ぐ技術」

「うん」

 ハルの声はやや上ずっている。

 北京ダックは、コース料理になるとそれは凄い。なにしろ、アヒルのすべてを余すところなく食べるのだ。皮を削いだあと、残った肉は肉料理にし、骨は出汁を取るのに使う。この骨で取った出汁は白濁した鴨湯ヤータンとなる。このヤータンにはアヒルの舌を入れることもあり、アヒルは残すところのない食材なのだ。

 今日は正とハルのふたりのため、アヒルは一匹で頼み、前菜とスープ、揚げ物がついた。それらはすべて、アヒルを用いた料理で、正もハルも、この『余すところなく使う』精神に感嘆していた。日本でも大阪に『始末の料理』という言葉がある。

 北京ダックの皮がすべて削がれ、いよいよ実食だ。

 薄餅バオピンと呼ばれる、小麦粉を薄く焼いた皮に、ネギ、キュウリ、甜麺醤と北京ダックを乗せて巻いて、正は大きな口でかぶりついた。

 ハルも同じくかぶりついたが、反対側からキュウリが飛び出していた。

「んっま! パリパリの北京ダック、ネギとキュウリがいいアクセントになってる。甜麺醤も甘くてうまい!」

「うん! これは間違いないね!」

 正はばくばくばく、と三口で食べて、傍らハルは、小さな口で苦戦している。

 北京ダック単体でも食べてみる。アヒルの独特のクセはあるが、炉という窯で焼くからか、うまみが凝縮されている。

 甜麺醤のコクも深い。甜麺醤はそら豆を発酵させた甘味噌だ。やはり、日本のそら豆で日本で作るものとは味が違う。食材もそうだが、特に発酵食品はその国の気候に大きく左右される。日本の味噌と中国の甜麺醤、どちらも味噌だが、こんなにも味が違う。材料も、作り方も。

「ふー、うまかった」

「ね。もうお腹いっぱい」

 レストランを出て、正とハルはまた歩き出す。

「でさ、次はなに食べる?」

「青野くんまだいけるの?」

「秋田だって、まだいけるだろ?」

 ふっと笑いあって、ふたりはまた、中華街を散策する。ギフトカードも残り少なかったため、主に出店の料理を楽しむことにした。

 ふたりで味のレシピを確認し合いながら食べる本格中華は、なによりも美味しかった。


 有名どころの中華をすべて食べ終えて、お腹がはちきれんばかりに苦しかった。

 帰りの電車では、正はさっそく持ってきたノートに今日食べた中華料理のレシピを書き留めている。

「てかさ、すげえ身もふたもないこと言うけど」

「なに?」

「俺、今日の料理で一番印象的だったの、シュウマイなんだわ」

「本当に!? 私も実はそうだった!」

 なんの変哲もない、シュウマイだった。

 出店に蒸かしたての大きなシュウマイが並んでいた。そのそばを通り過ぎるとき、なんとなくそれが気になって仕方がなかった。

 胃に余裕なんてなかったはずなのに、ひとつずつそのシュウマイを買ってしまっていた。

「あれさ、日本のシュウマイと同じと思ったら大間違いだよな」

「そうそう! あれ、干し貝柱入ってたよね」

「うん。乾物でうまみを引き出してた。味付けもオイスターソースとか色々入って、玉ねぎじゃなく長ネギだし。あれはほんっとうにうまかった」

 干した貝柱などは、干すことで何倍にもうまみが凝縮される。そのうまみに、ふたりは魅せられてしまったようだ。

「でも、こんなに腹いっぱい食べたの初めてだわ。気を抜いたら出そう」

「青野くんったら」

 ハルがおかしそうに笑う。

「でも、今日の中華料理、世界で一番おいしかったなあ」

「秋田って、中華が一番好きなの?」

「もう、青野くんって世界で一番おいしい料理の話になると、ほかは目に入らなくなるよね」

 ハルは、「そうだよ」とにこやかに言った。

 確かに、中華料理は世界的にも有名だし、高級料理も多い。ならば、この料理がハルにとって世界で一番おいしい料理でもおかしくはない。

「でも、俺はまだまだ、決められないな」

 正にとって世界で一番おいしい料理は、きっともっと、別にある。


 最寄りの駅について、別れ際、正はボディバッグから包みを取り出した。

「え。え?」

「お土産……迷惑かもとは思ったんだけど」

 文房具だった。勉強が好きなハルのために、かわいらしいノートを買ったのだ。

「いらなかったら捨てていいし」

「いや。ええ、うれしい。うれしい、なあ。もう」

 ノートを胸に抱いて破顔するハルを見て、正はまた、胸の動悸を感じた。きっとこれは。

「俺、秋田が――」

「青野くん。私ね」

 言葉を遮られたような気がする。気のせいかもしれないが。

「青野くんとは、いいお友達だと思ってる。話は合うし、料理のことも。だから、青野くんとは、きっと一生、いいお友達でいられると思うんだ」

 このタイミングでそう言われて、正は返す言葉が見つからなかった。

 正は笑って「だな!」と答える。

 今じゃなくていい。正とハルは、専門学校を卒業しても、きっとずっと友達なのだ。友達からでいい。友達のままだっていい。

 ハルと出会えたことが、正はなによりもうれしかった。


***


 ハルが進学をやめたと聞いて、誰よりも憤慨したのは正だった。

「は? 秋田、栄養士の短大行くって言ってたじゃん。なんで就職?」

「別に。私には料理の才能ないって気づいただけ」

 聞いた話、ハルは短大の試験に合格して、入学の準備だって進めていたはずだった。

 期末試験が終わった二月のことだった。

 先月ようやく正は粘りに粘って、ボナペティへの就職をもぎ取った。

 まず、明子先生に取り次ぎを頼んで、一度目のボナペティのコック長境との面接では、だいぶ厳しく断られた。

「うちは小さなレストランだから、今は人手は足りてるんだ」

「でも! 下積みでもなんでもします。俺にとってボナペティのフレンチは、世界で一番おいしい料理で」

「なるほど。世界で一番」

 境が含みを持った笑みを浮かべた。正は間髪入れずに、

「ボナペティの食材。まずそこがどれも一級品だと分かるくらい、ほかの店とは違います。味だって、俺の理想とする味そのものなんです。こんな料理を作りたいと、小さい頃にボナペティに家族で食事に訪れた時から決めていました」

「ならなおさら、うちではない店の味も勉強すべきだ」

 正の熱意は伝わったに違いない。だからこそ、境は正に別の店をすすめた。正の絶対味覚を知っているからこそ、もっとたくさんの味を知って欲しい。

 境の気持ちを受けてなお、正は諦めなかった。

 不採用の通知を受けて、一応明子先生に報告する。そのあとは、正個人で面接の約束を取り付けた。

 あまり褒められた話ではないが、正は境の店に直接赴いて頭を下げ、自分がどれだけボナペティの料理が好きかを熱弁した。

 そのかいあって、正は二度目の面接を取り付けた。今度は調理場のすべてのコックたちも同席していた。

「うちは上下関係が厳しい職場だし、めったに空きがでないから、青野くんの下積みが何年続くかもわからないよ」

 コックたちは正をあまりよく思っていないのか、じっと睨むように正を見ている。

 居心地が悪いが、ここで諦めるような正ではない。

 何年かかってもいい、下積みでもいい。ここで働きたい。自分にとってボナペティの味は思い出の味、世界で一番おいしい料理に最も近い料理なのだ。

「参ったよ。青野くんの熱意には負けた。わかった。卒業したら、うちに来なさい」

 合格を電話で告げられて、だけれど境はこうも続けた。

「辞めたくなったらいつでも辞めていい。うちの店はあまり……上下関係が芳しくない」

「大丈夫です、頑張ります! 嬉しいです! 精一杯頑張ります!」

 ここまで来るのに、約二ヶ月の時間を要した。

 正はボナペティへの採用が決まっていの一番に、意気揚々とハルに報告しに行った。ハルは「よかったね! ほんとによかった!」と自分事の様に喜んでくれた。それが先月、今年の一月のことだ。

 なのに、今更になってハルはなぜ、就職するなんて言い出したのだろうか。しかも就職先は飲食店ではない。全く無関係な事務職だった。

「秋田。オマエの腕で調理師以外の就職って、なんでだよ」

「青野くんには関係ないじゃない。私はただ、みんなにおいしいって言ってほしいわけじゃなかったって気づいたんだよね」

「なんだよそれ。じゃあなんで」

 この学校に入学したんだ。

 そんなの正が一番よく知っている。ハルはただ、妹のナツのためにこの学校に入学したのだ。

「なんなんだよ、なんなんだよ、なんなんだよ!」

 同じ志を持っていると思っていたのは、自分だけだったのだろうか。

 卒業までの一か月、正とハルの関係は、ぎくしゃくしたものに変わっていた。


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