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一、二人の出会い

プロローグ


 フレンチはさながら宝石のようだと思う。もしくは絵画。

 大きな皿に料理を盛り付け、周りをソースで色付けする。その様が絵画のようでもあり、散りばめられた宝石でもある。味は至って重厚。ふんだんに使われるバターや生クリーム。味付けはやや濃い。これは、ワインと一緒に食べることを想定した味付けで、いわゆる『マリアージュ』されることでフレンチは完成する。

 対して、和食を表現するなら、『わびさび』という言葉以外に思いつかない。和食の代表とも言える懐石料理は、季節ごとに器を変える。その中に、空間を意識した盛りつけを施し、季節を表す木の芽や柚の皮をあしらう。

 和食は基本的に素材の味を生かす。色味も、薄口醤油を使って極力色を生かす調理に徹している。ちなみに、薄口醤油というと濃口醤油より塩分が薄いと勘違いされがちだが、実際は濃口醤油の方が塩分が低い。この場合の『薄口』の意味は、色合いが『薄口』なのである。

 中華といえば、ニンニクや香辛料が食欲をそそる料理だ。四千年の歴史を誇り、『医食同源』の言葉通り、食べることにさえ医を求める様は他の料理には無い考え方だ。中華料理は地方により四大中華料理にわかれ、寒さを凌ぐために発達したショウガやニンニクを使った肉料理に秀でた北京料理。夏の暑さ、冬の寒さをしのぐ知恵が詰まった香辛料をふんだんに使った料理である、麻婆豆腐やエビチリが有名な四川料理。海に面した海鮮料理が有名な上海料理。『食は広東にあり』と謳われる、高級食材であるフカヒレやツバメの巣などを使った広東料理。

 いわゆる町中華で出される中華は、日本人の舌に合わせた味付けがされている。豚の角煮を例に取れば、本格中華では八角を始めとした香辛料をふんだんに使い、味付けは日本のものとは違い甘味は少なめ、つまり食べた瞬間一番に感じるのは香辛料の香りだ。

 トルコ料理。あまり知られていないが、フレンチ、中華料理とトルコ料理の三つはいわゆる『世界三大料理』と呼ばれている。トルコ料理の特筆すべきは、アラブ、ギリシア、東ヨーロッパの食文化の融合だ。また、フレンチや中華料理と同じく、宮廷料理として発展したことも大きな要素だ。肉詰めピーマンやロールキャベツのルーツはトルコ料理だと言われており、日本でも馴染みのある料理である。

 そしてイタリア料理。イタリアは南北に長い地形のため、南と北では料理が異なる。南は海に面しているため、魚介料理やオリーブやトマトを使う料理が多い。ピザ、アクアパッツァ、オレキエッテ。パスタは乾燥パスタが主だ。対して北は、肉料理が発達した。また、寒い地方のため体を温める生クリームやバターなどを使った料理が多い。パスタは生麺だ。日本で有名になったイタリア料理は南部のもののため、北イタリアの料理はあまり日本人には知られていない。

 これら五つの料理は、いわゆる『世界五大料理』と呼ばれる。洋食は『味を楽しむ料理』、和食は『目で楽しむ料理』、中華は『香りを楽しむ料理』。

 ならば、この五つをかけあわせれば、世界で一番美味しい料理、が出来上がるのだろうか。






「青野正です。料理歴は十年。出身高校はN高校です。よろしくお願いします」

 春田学園、春田調理師専門学校。本日付で調理師の卵二十七名が入学を迎えた。

 出席番号一番の、青野正は少しだけマウントをとるかのように、料理歴を誇らしげに自己紹介する。身長は平均的な百七十センチ台。なににも染まっていない髪の毛は光に透けるとほのかに茶色く、短く切りそろえられて清潔感があった。

 次いで、正の後ろの席、出席番号二番の女子生徒の自己紹介に、クラス中がしんと静まり返るのが分かった。

「秋田ハルです。出身はR高校です。よろしくお願いいたします」真っ黒な髪は烏の濡れ羽色という表現がぴったりだった。髪の毛と同じく瞳は黒真珠のように輝いており、しかし自己紹介の緊張からか、顔がほのかに桜色にそまっている。

「マジかよ」「あのR高校?」すでに友人を作ったグループが、ひそひそと耳打ちしている。

 正も同じだった。

 R高校と言えばこの県内でもトップの進学校、誰もが知るその高校の進路と言えば、東大京大が排出されるくらいの超がつくほどの進学校で、正直に言えばなぜハルがこの田舎の辺鄙な調理師学校に進学したのか、疑問を持たないほうがおかしいくらいであった。

 正は内心で悔しく思う。こんなことなら、自分ももう少し自己紹介を工夫すべきだった。

 正にはひそかな自慢がある。絶対味覚だ。絶対舌感や神の舌、なんて呼ばれ方をすることもある。

 簡単に言えば、正には食べた料理の材料や調理方法が、すべてわかってしまうのだ。

 一度食べた料理の味は忘れたことはないし、再現だってできる。

 とはいえ、この特技を持っていて得したことなんてほとんどなかった。ここ、調理師専門学校に進学するまでは。

「秋田さんって、なんで調理師になりたいの?」

 自己紹介を終えて、一限目はしょっぱなから調理実習が組み込まれている。

 実習のために男女別にロッカーで着替えるその前、休み時間のほんの隙間に、ハルはふたりのクラスメイトに問いただされていた。

「料理のことを勉強したくて」

「それはわかるよ。けど、正直その頭ならこっちの学校じゃなくて隣にあるつじちょーのほうがよかったんじゃないの?」

 つじちょーというのは、春田調理師専門学校があるこの市から一駅隣、同じ市内にある辻本調理師専門学校のことである。

 通称つじちょーは春田調理師専門学校と違い、制服が用意されているし、カリキュラムだってしっかりしている。招くコックだって一流だったし、入学に際して学力試験がある。

 対してこの春田調理師専門学校は『はるちょー』と呼ばれる。はるちょーは入学時に作文を書かされるだけで、ほぼ誰でも入学できるような、緩い校風はこの市に住んでいれば誰でも知っていることだった。

 進学校から調理師を目指す理由は分かった。だとしても、せめてつじちょーに行ってくれたらよかったのに。というのが、ハルに詰め寄る生徒の言いたいところだろう。

 春田調理師専門学校は、つじちょーに比べて自由な校風だ。だから、こうやってハルのようなまじめな人間が同級生にいるだけで、自分たちに不利になるのだと、彼らはハルをけん制したいらしい。

「あほらし。別に調理師になるのに出身高校なんて関係ないじゃん」

「オマエは……青野、だっけ。だけどさ、秋田に合わせた授業を教師が考えたら、迷惑するのこっちだぞ?」

「ひとりだけ特別扱いもしないだろ。てか、料理は頭じゃないんだよ。腕だよ腕。秋田がどれだけ頭いいのか知らんけど、そんなに気にするなら料理の腕でけん制しなよ。あほらし」

 別に、正はハルの味方をしたいわけではなかったのだが、なんとなく気に入らなかったのでハルに助け舟を出しただけだ。

 ハルに突っかかった生徒ふたりが、顔を見合わせて教室を出ていく。

「ありがとう。えと、青野くん?」

「別に、オマエの為じゃないし」

「うん。わかってる」

 わかってるなら、実技でぎゃふんと言わせてみろ。そう言いかけて、やめた。

 どうせこの秋田ハルという人間は、勉強ばかりで料理の腕なんか磨かずに、なんとなく料理が好き、という理由で入学してきたに違いない。

 ほかの生徒だってそうだ。ぱっと見、社会人が半数、ストレートに進学してきたのが残り半分。そのうち、二年コースが五人。

 正とハルは、一年コースだ。

「さて、俺着替えに行くから。また絡まれたら今度は自分でなんとかしろよ」

「ありがとう。でも、心配無用だよ」

 不敵ともとれるハルの笑みに、正は口を結んで教室を後にした。


 真新しいコック服を洋服の上から着こんで、下は真っ白なズボンに真っ白な靴。

 白は汚れを目立たせやすくするための色だ。料理人の服はたいていがそういった工夫がなされている。

 コック帽もかぶって、調理室に二十七人の生徒がそろう。

「まずは、コック服の袖のまくり方ですね」

 調理実習を教えてくれるのは、この学校の副校長の春田明子先生だ。年齢は既に七十は超えているだろうか。

 化粧はせず、背筋がしゃんと伸びた副校長は、生徒たちから「明子先生」と呼ばれている。二年生がそう呼んでいたのを聞いたと、新一年生の誰かが言っていた。

 明子先生はまず、コック服の袖のまくり方を指導する。一度肘あたりから大きく折り上げてから、半分ほどを手首に向かって折り返す。

 前掛けエプロンは胴を一周させたら、紐の部分を折り返して固定する。

「実習は基本的に、出席番号順で班を振り分けます」

 げ、と正の顔がゆがんだ。ハルと同じ班だったからだ。

「今日は、皆さん専用に名前を入れた包丁を研いで、オムレツ用のフライパンのコーティングをクレンザーで洗い流します」

「え、それだけですか」

「はい、それだけですよ。えーと、高田くん。不満ですか?」

「不満じゃない、ですけど。料理は次回ですか?」

「いいえ、次回も包丁を研ぎます」

 ええ、とクラス中から不満の声が上がった。その中には、正もいる。

 しかし、ハルだけはそういった雰囲気は一切見せず、ただ黙って明子先生の説明に耳を傾けた。

「うちは基礎をみっちりやるよ。応用は社会に出てからでも身につくけれど、基礎はそうはいかないからね」

「でも、つじちょーに行った友達は、一日目から料理したって言ってましたよ」

 誰かが雑音に混じって愚痴った。明子先生が朗らかに笑った。

「それでも、包丁を研がなければ、食材が切れない。料理以前の問題ですよ」

 むっと、生徒が口を結んだ。

 こんなことなら、つじちょーにすればよかった、なんて声もちらほら聞こえた。

 明子先生はいまだに笑っている。毎年のことなのだろう、こうやってブーイングが起こるのは。

 ハルが包丁の入ったケースをじっと見ている。正は、ハルもハルで変わり者に違いないと思った。証拠にクラス中が明子先生にジト目を向けているというのに、ハルだけはそうじゃない。

「では、始めます」

 まずは砥石を水につけるところから。

 そのあと、砥石の下に濡れたぞうきんを置いて、包丁を研ぐ。

 しゃり、しゃり、と金属が削れる音が教室に響く。だけど、それだけだ。

 延々と、延々と。

 ひたすら言われた通りに、包丁を研ぐ。

 包丁は砥石に対して四十五度、上に押すときに力を込めて、手前に引くときは力を抜く。

 和包丁は片面だけだが、洋包丁・牛刀やペティナイフは両刃の為、少しだけ手間だった。

 一日目は、昼休みをはさんで、ずっと、ずっと包丁を研いだ。

「手が痛いよ」

「俺も」

 研いで、明子先生に確認してもらう。ダメ、と言われて、もう一度研ぐ。

 それを何回も繰り返す。何人も繰り返す。


 結局、一日目は包丁研ぎで終わって、二日目は大根の桂剥きをひたすらやらされた。

 その、二日目。二日目にしてほとんどの生徒が振り落とされた。

 桂剥きなんて、誰ひとりできない。分厚くむかれた大根は見るも無惨だ。

 正とハルを除いては。

 しゃき、しゃき、と菜切り包丁を上下に動かして、向こう側が透けるほど薄く大根がむかれていく。大根は体の真ん前に構え、包丁は大根の真ん中に当てる。そこから、右手と左手の親指の感覚を頼りに、包丁を上下にスライドさせながら包丁は左へ、大根は右へ送っていく。

 使う大根は青首でも根でもダメだ。丁度真ん中辺りの大根を十五センチほど切り取って、厚く皮を剥いて上下均等な円柱状に。

 基本に忠実に、ハルの桂剥きの長さは三十センチを超えたくらいだ。先にハルの大根が切れた。

「すげ。頭良くて包丁もうまいとか」

「でも見ろよ、青野まだ切れてない」

 周りには野次馬ができていたが、正の集中力はそれしきではきれない。結局、五十センチを超えたあたりで、正の大根がぶつりと切れた。

「どれどれ」

 明子先生がふたりの桂剥きを見に来る。

「ハルさんはまだ不安定さがありますね。厚さにバラツキがある。けど、初めてでこれなら、一ヶ月あればもっとうまくなりますよ」

「ありがとうございます!」

 ハルの顔が綻んだ。

 次は正の番だ。

「正さんのは……ほとんど言うことはないですね。あえて言うなら、ここからさらに薄さと長さを磨けば完璧ですね。ふたりは、そうですね。これをケンにしてみましょうか」

 ケン、というのは漢字では『剣』と書く。簡単に言うと刺身のつまだ。

 剣には縦剣と横剣がある。繊維に沿って切るのが縦剣、繊維を断ち切るのが横剣。

「縦にします? 横にします?」

 ハルの言葉に、正も明子先生の答えを待った。周りの生徒はハテナ顔だ。剣、の意味が汲み取れていない。

「では、縦にしましょう」

 桂剥きした大根を五センチ幅に切りそろえて重ねる。右側から菜切り包丁で細く、細く切り進める。

 トントン、トントン。

 クラス中がふたりに注目している。

「菜切り包丁は、手前から向こう側に押すように切ります。切り幅は左手の人差し指の第一関節で調整」

 ほんの一ミリにも満たない幅で、ケンが切り増えていく。

 先にハルが切り終えて、次いで正も切り終える。

「これを水にさらすとパリッとしたケンになります。今回は縦剣なので、真っ直ぐ上に立たせる盛り付けができますよ」

 おぉ、と外野から歓声が湧いた。

 正は得意げに鼻を鳴らし、ハルは恥ずかしそうに縮こまった。


 調理実習を終えて、正はまるでヒーローのような扱いだった。

「青野すげぇよ、どこかで習ったの?」

「いや。料理歴は十年だから、できて当然」

 しかし、ハルはどうなのだろうか。正は十年の料理歴があるからわかるが、ハルもまた、家で料理をして来たのだろうか。

 正は後ろの席のハルを振り返った。ハルもまた、女子生徒に囲まれてしどろもどろしていた。

「秋田。って、料理始めて何年? やっぱりずっと家で料理してきたの?」

 正の家は共働きで、いつからか正が家の食事を作るようになった。だからこその、この包丁の腕である。

 だから、ハルも同じような境遇だと思ったのだが、

「私は……十七の頃からだから、一年半くらいかな」

「……は?」

 一年半といったら、正はまだまだ料理に苦戦していた時期だ。正が料理を始めた年齢が幼かったとはいえ、正はあまり器用ではなかった。思い通りに包丁を扱えるようになったのは、中学に上がった頃だと記憶している。

「一年半で桂剥きできるんだ」

 女子生徒が嬉しそうに言った。

「青野もすげえけど、秋田最強じゃん。頭もいいし」

 面目が立たない。悔しい。自分はここに到達するまで十年かかったのに。

「でも、青野くんみたいに私の桂剥きは均等な厚さではできてなかったよ」

 そんな慰め、いらない。

「俺さ、絶対味覚あるんだよね」

 正がハルに対抗するように言った。

 一瞬だけ静まり返り、しかし周りに群がる生徒が正を褒めたたえる。

「え、絶対音感みたいなやつ?」

「そう。食べた料理の材料わかるよ」

「マジかよ! そんなん調理師になるために生まれてきた超エリートじゃん!」

 すごい、すごい、と周りが持て囃す。ハルは悔しがっているだろうか。正がハルを見ると、ハルもまた、正に尊敬の眼差しを向けていた。ざまあみろ。

 正の絶対味覚は、確かにすごい能力だ。しかし、料理の材料や調理方法が分かったところで、それを再現できるとは限らない。本人に調理の腕がなければ、似た料理すら作れないのが現実だ。

 現に、正には絶対味覚が備わっていたが、まったく同じ料理を作れるようになるまでに、五年はかかった。

 火加減、調味のタイミングなど、全く同じ料理を作るには、これらもまったく同じにする必要がある。

 絶対的な舌を持っていても、正には腕がなかった。なかったから、身につけた。

 いつも食べる母の料理は、毎回味が不安定で耐えがたかった。正は、美味しいと思える料理の材料が分かってしまうだけに、なぜ同じ分量で料理ができないのか、不思議でたまらなかった。

「秋田は? 絶対味覚とかあったりするの?」

 早々同じ特技を持つものなんかいるはずがない。

「私は無いかな。青野くんが羨ましい」

 ハルの控えめな言葉が、嫌味にしか聞こえない。

「じゃあ秋田さ」

 正が敵対心むき出しに、

「個人的に料理勝負しない? どこかの惣菜買ってきて、それ再現するやつ」

 どうせ乗ってこないと思っていた。しかし、存外ハルは負けず嫌いのようだ。

「いいよ。なんか青野くん、私が気に入らないみたいだし」

 ここで逃げたら、ずっと正はハルに突っかかるだろう。そんなの面倒だ。ハルの言葉にはそんな意味が見て取れた。

「負けても泣くなよ?」

 俄然、やる気がわいてくる。


 その日の放課後、特別に調理室の使用許可を得て、ふたりは近くのスーパーの惣菜を前に難しい顔をしている。

 公平を期すために、惣菜は別の生徒が買ってきた。

 肉じゃがだった。またベタなものを。

「それじゃ、始めるぞ」

「分かった」

 甘めの肉じゃがだった。味がよく染みている。

 が、これが煮物の難しいところだ。煮物は基本、冷める時に味が染み込む。つまり、出来上がり時点での味と、冷ました後ではまったく別物となってしまう。

 今回は、出来上がってから三十分後に試食をすると取り決めがされた。

 三十分あれば大体味も馴染む。しかし今日は、惣菜と同じ味の再現だ。

 じゃがいもの皮をむき大きめに切る。乱切りだ。人参も皮をむいて乱切りにして、玉ねぎは櫛形に。

 材料の切り方も味に重要な影響を及ぼす。しかし、出来上がりの肉じゃがと同じ大きさに切ってはダメだ。煮込む間に材料の大きさは多少変わる。特にじゃがいもは煮崩れるくらいに煮込まれていたから、気持ち大きめに切った。

 ここまでは、正もハルも同じ手際だった。

 ここからが、ふたりの違うところだ。

 ハルは材料を炒めずに、じゃがいも、人参、玉ねぎ、肉の順に材料を重ねて、最後に砂糖を振りかけるように重ねて、酒、みりんを加えて鍋にぴったりと蓋をして火にかけた。肉をまるで落し蓋にするかのような重ねかただった。

「マジか。なんだよ、あれ」

 呟きながら、正はじゃがいもを炒めている。

 この惣菜は、圧力鍋が使われている。正はすぐさまそれに気づき、頭を抱えた。圧力鍋を使うと調味料も煮込み時間も普通に煮込むのとは違ってくる。

 味付けはやや濃いめにする。冷まし時間を考慮してだ。

 じゃがいも、人参、玉ねぎを炒めたら、肉を炒める。酒、みりん、だし汁と砂糖を加えて落し蓋をして七分煮る。

 その間に、ハルは重ねて煮ていた具材を、鍋を振って上下を返す。そこからさらに、五分煮込む。

 料理の基本は『さしすせそ』。砂糖、塩、酢、せうゆ(しょうゆ)、味噌、の順に味付けをする。

 分子の関係だ。分子が小さいものから最初に入れて、分子が大きいものはあと。それから、香りを残したいものも最後に入れる。味噌汁を作る時、最後に味噌を入れるのもこの基本に則ったものだ。

 甘みのみの煮込みを終えたのはふたり同時くらいだった。

 最後にしょうゆを加えて、さらに煮込む。この時点でふたりともが煮汁の味見をした。

 ハルはみりんを大さじ一ほど付け足して、正はそのままの味付けで、火加減をやや強めの弱火にした。

 煮込む途中に鍋を振って上下を返す。

 煮上がったら蓋をして冷ます。

 ここまでで約一時間。クラスメイトのほとんどが、ふたりの勝負を見守っていた。

「できた」

「私も」

 あんな作り方は初めて見た。肉じゃがの作り方すらまともにできないのか、と正は内心でがっかりさえした。それくらい、ハルの肉じゃがの作り方は異端だった。

 判定するのは、無作為に選ばれたクラスメイトだ。

「じゃあ、どっちが惣菜に近いか、食べてみて」

 正とハルが、同じ器に肉じゃがを盛り付け、どちらがどちらの肉じゃがか分からないようにして、三人の生徒に器を渡す。

「見た目……同じだな」

「うん。においも」

 そもそも、絶対味覚がないクラスメイトに、判断なんてできるのだろうか。

 まずはじゃがいもを屠る。

「うまい。こっちは……あ、れ。同じじゃん。あれ?」

 惣菜、ハルの肉じゃが、正の肉じゃが。三つを行き来して何度も食べて、しかし三人が三人、首を傾げた。

「同じ、だな、全部」

「私もそう思う」

「俺も」

 示し合わせたかのように、クラスメイトが口を揃えた。

「んな馬鹿なことあるか!」

 業を煮やして、正がハルの肉じゃがを口に入れた。

 ぱく。ぱく、ぱくぱく。

 ほぼ同じだった。だが、まったく同じではない。正の肉じゃがとは僅かばかりの違いがあった。最初に炒めていない分、油が材料に馴染まずコクが浅い。しかし、だし汁を加えず落とし蓋もせず、蓋をぴったりして対流を起こして煮たからか、圧力鍋ほどは行かずとも、この短時間で火の通り具合と味の濃さは惣菜の肉じゃがそのものだった。

 ここまで寄せてくるなんて。なぜ、作り方は正の方が正しかったはず。

「秋田。なんでこの味にできたんだ?」

「青野くんは、自分の肉じゃがは食べないんだね。味見もしてない」

 ハルは正の肉じゃがを口に入れ、「ちょっと違うね」と笑った。

「秋田。オマエも絶対味覚が、ある……のか?」

 だとしたら、正がハルに勝てることなんて何一つない。

「ないよ」

 ハルは顔色一つ変えない。

「私は、色んなレシピを見て、書き出して、味の予測を立ててから、自分のレシピに落とし込んだだけ」

「なんで炒めなかった? 野菜を重ねて一番上に肉と砂糖を重ねた理由は?」

「うーん、じっくり甘味を下に行き渡らせたかったから、かな。あとは圧力鍋の再現として、煮汁を少なくしたかったから。砂糖を一番上にすれば、素材の汁気だけで煮ることができるでしょ?」

 ハルには絶対味覚はない。あったのなら、そんな作り方試すはずがない。正の作り方の方が正しい。圧力鍋で煮込んだものを再現するには、やはりオーソドックスな作り方が正解だ。

「試してみたかったんだよね、この作り方」

「いや、今は俺と勝負してるだろ。知らない作り方で思いもしない味になったらどうするつもりだったんだよ」

「大丈夫。その場合、修正するレシピも考えてあったし」

 理論で料理をする、とはこういうことなんだと、正は思った。

 正のそれが天性の才能、だとしたら、ハルの料理は理論の掛け合わせだ。いや、正の料理だって調理の理論は踏襲している。が、ハルのそれは、最初から最後まで理論なのだ。

 様々なレシピを見て、自分の中で味を組み立て、調味料を増減させる。料理中だって、途中で味見をして微調整する。

 正とは違う。なにもかもが。

「秋田、バカにして悪い。オマエの腕は確かだよ」

「ありがとう。私も、青野くんには敵わないって思ったよ」

 ふたりの間に友情が芽生えた瞬間だった。


***


 そもそも男女間に友情は成立しない。それが正の考えだった。それなのに、ハルと過ごす学生生活は、なににも代えがたい時間だった。

「さっきの実習さ。オムレツの。秋田フライパン全然振れてないのな」

「だって重いんだもん。そういう青野くんこそ、火加減少し強かったよね」

 オムレツは基礎にして一番難しい料理だ。

 卵の溶き方一つとっても、勉強になることが多かった。

 オムレツに使う卵は三個。ボウルに割り入れたら、菜箸を垂直に立てて、底に菜箸を当てたまま混ぜ合わせる。よくある、ボウルを斜めにして菜箸で底からかき混ぜるやり方ではない。やり方は人それぞれではあるのだろうが、明子先生はこうやって混ぜることを生徒に教えた。確かに、卵に空気が入ると泡になるし、底に菜箸をつけたまま混ぜるとよく白身のコシを切ることができた。

 フライパンは最初に、多めの油を入れて十分ほど油をなじませる。

 キッチンペーパーでフライパンと油をこすり合わせるようになじませてから、油を捨ててオムレツを焼く。

 火加減は終始強火。

 よく溶いた卵にひとつまみの塩を加えて、それを一気にフライパンに流し込む。じゅっと音がするのが理想だ。

 そして、ここからは時間との勝負だ。卵を外から内側に向かって手早く混ぜる。躊躇するいとまは一秒たりともない。

 半熟の一歩手前、まだ卵が柔いくらいで、フライパンを向こう側に傾けて、卵を向こう側に寄せていく。寄せたらすぐに右手でこぶしを作り、フライパンの柄の根元をトントンと叩く。すると向こう側に寄せた卵の生地が、くるくると回転するのだ。

 こう書くと簡単に見えるかもしれないが、フライパンの柄を叩く力加減が、これが本当に難しい。左右どちらかに力が偏れば、卵は回らないし、逆に強すぎれば、卵はフライパンのヘリを飛び越えてコンロに落ちる。

 くるくる、くるくる、と回して、外側が固まった状態で皿に移す。

 明子先生のオムレツは芸術品だ。外側はつまめるけれど、切ってみると中はとろりと溶け出す半熟で、それだけでとても美味しそうなのだ。

「秋田ってなんで料理始めたの?」

 最初の一か月は包丁研ぎか、フライパンを油になじませる作業が多かった。時折、桂剥きやオムレツの実習が入って、だけどクラスメイトは誰もかれもが辟易している。

 基礎はつまらない。しかしそのつまらない基礎すら、まともにこなせるのはこのクラスにはほぼいなかった。

 ハルは一瞬ためらって、

「料理を学びたくて」

「それは誰も同じだろ」

 しかし、確かに調理師専門学校では学びも多かった。例えば、まな板の前に立つ時は、利き手と同じ足――正の場合は右足だ――を半歩後ろに引く。すると体が右側に開くから、自ずと右手がまな板に垂直に開く。こうすることで、まな板を右から左まで目いっぱい使える。これが、まな板と足を平行に立つと、右手がまな板に対して斜めになる。これではまな板全体を使うには窮屈だ。

「じゃあ、青野くんはなんで調理師に?」

「俺? 俺はさ、世界で一番おいしい料理を作りたいんだよ。料理人ならだれもがそうだろ」

「そう、なのかな」

 少なくとも、ハルは違うことを正だって気づいている。だからこそ、聞いてみたかった。

「で、秋田はなんのためにこの学校に入学したの?」

「うーん。これは明子先生にしか言ってないから、ほかの子には黙っててね」

 言われなくとも、正にはこのクラスにハル以外の友人はいない。

「私、調理師の免許取ったら、栄養士の短大に行く予定なの」

「え、その腕で調理師にならないつもりなの?」

「や、調理師になるか栄養士になるかは決めてないんだけど」

 正は腹が立った。このクラスで正に並ぶことができるのは、ハルただひとりだ。正が認める腕を持つのは、正の隣にいる、この秋田ハルただひとりだというのに。

「それとね、私見栄張ったんだ」

「見栄?」

「本当は、R高校卒業してないの」

 初耳だった。なんでそんな嘘をついたのだろう。だが、あの嘘がなければ正がハルに張り合うことも、勝負を挑むこともなかっただろう。そうなれば、今こうして友達として昼休みを過ごすこともなかった。

「私、中退してるんだ」

「え……でも、専門学校って中退で入学できるんだっけ」

「高認って知ってる?」

 聞いたことがない。正は首を横に振った。

「高校卒業程度認定試験って言って。昔は大学入学資格検定、って言ったんだけど。それを受けると、高校を卒業と同等と認められて、専門学校や大学への入学資格が得られるの」

 難しい試験なんだろうな、と考えたが、そもそもR高校に入学しているだけで、ハルの頭の良さは証明されている。ハルは高認になんなく合格したんだろうなと思うと、正は余計に腹が立った。

 高認の合格率は四十~五十パーセント。

 大検時代の科目は、国語が必須、古典は選択。高認では国語総合として必須科目。

 地理歴史から世界史A・世界史Bのどちらか一科目必須。高認は世界史A・Bから必須科目。日本史A・日本史B・地理A・地理Bのうちどれか一科目選択必須。公民は現代社会・倫理・政治経済のうち、現代社会一科目ないし倫理と政治・経済の二科目のどれか必須。高認では日本史A・日本史B・地理A・地理Bのいずれか一科目必須。さらに公民として、現代社会・倫理・政治経済のなかから現代社会一科目または倫理、政治・経済の二科目のどちらか必須。

 数学は数学二が必須、数学二・数学Aは選択。高認でも同じく数学が必須。

 総合理科・物理A・物理B・化学A・化学B・生物A ・生物B・地学A・地学Bのどれか2科目選択必須。高認では科学と人間生活・物理基礎・化学基礎・生物基礎・地学基礎の中から、「科学と人間生活」と「基礎」が付く科目一科目、または「基礎」が付く科目を三科目、いずれか必須。

 家庭のうち家庭は必須。高認では廃止された。

 保健体育の保健は選択。大検時代はこの科目が穴場だった。高認にはない。

 外国語、英語は選択。これは高認になって必須科目となった。

 工業の工業数理は選択。商業の簿記・会計も選択だ。どちらも高認からは省かれた。職業訓練に関する科目、情報関係基礎も選択。こちらも工業と同じく高認にはない。

 この中から十一ないし十二科目を選択した大検に対して、高認は八から十科目を受験する。

 一回で合格する必要はない。何回にも渡って受験するひともいる。試験は八月と十一月があり、それぞれ二日に渡って行われる。

 ハルは聞いた話によれば、一回で全ての科目に合格したらしい。

「なんで嘘ついたの?」

「だって、中退って言ったら、みんな私を避けるでしょ……友達ができないのだけは、嫌だった、んだよね」

 それに、とハルが続ける。

「実は私、つじちょーも受けてるんだ」

 こちらもまた初めて聞くことだった。

 入学して二か月たつが、正は春のことをこれっぽっちも知らないと思う。

「つじちょーって、入学試験あるじゃない。多分だけど……テストの点は申し分なかったはずなんだ。でも、その。面接で聞かれたの」

 なにを、とは聞かなくてもわかった。なぜ中退したのか。

「それで、私答えられなかったんだよね。責められてるみたいで」

 確かに、中退と聞くと身構えてしまうのは事実だった。正だって、最初にハルが高校を中退していると聞いていたら、先入観でハルへの態度が変わっていたに違いない。

 だが、今は違う。もう正とハルは友達で、同じ志を持つ同士で、だからこそ、正は偏見なしに、聞きたかった。

「どうして中退したの?」

 正の問いに、ハルは顔をうつ向かせた。

「学費を、稼ぐため」

「え?」

 拍子抜けした、というのが本音だった。学費を稼ぐ? なぜ。

「私の家ね、母子家庭なの。それで、奨学金借りるには二年制の専門学校に通う必要があるんだけど。それでも、奨学金って入学後に出る――五月に支給されるのね。それじゃ私、入学できないじゃない。だから、事前にまとまったお金を稼ぐには、中退するしかなくて」

 正は自分がどれだけ恵まれているのかを知った。ハルがそんな事情を抱えていたなんて、これっぽっちも知らなかった。

 だからこそ、ハルはこの学校で誰よりもまじめに勉学に励んでいる。

 とはいえ、この学校の入学者は元社会人も多いから、自分の学費を自分で払っている人間なんてそう珍しくはない。

 世間知らずなのは正のほうだ。

「でも、短大に行ったら奨学金は借りなきゃなんだよね。今もアルバイトして短大の入学金ためてはいるんだけど」

「そっか。そこまでして料理の道にこだわる理由って、なに?」

 ハルがアルバイトをしていることは知っていた。だけど、それが短大に進学したいからだなんて一言も聞いてない。

 正の問いかけに、ハルは言葉を濁した。

「いろいろあるんだよ、私にも」

「なんだよ、水臭い」

「今はまだ言いたくないかな。ごめんね」

「なんだよそれ、信用ないのか、俺って」

 自分が果てしなく子供に思えた。ハルはなにを思って調理師を目指すのだろう。なにを思って、短大への進学を目指すのだろうか。


***


 正がハルが目指すものをはっきりと知ったのは、とある夕方のことである。

 正の趣味はスーパー巡りで、あちこちのお惣菜やお菓子、果物から野菜に至るまで、探して味見するのが日課だった。

 その日は正は、母の荷物持ちでスーパーに来ていて、見知った顔に驚きを隠せなかった。同時に、母と一緒にいる時に出くわさなくてよかったと安堵する。

「秋田」

「あ。青野くん……」

 気まずそうに、ハルが一歩後ずさった。隣にいた少女が、ぱっと顔を明るくした。細い。

「アナタがあの、青野先輩?」

「こら、ナツ」

「いいじゃん。私、秋田ナツといいます」

 秋田、ということは、ハルの妹らしかった。姉妹がいたこともそうだが、それより気になるのは、ナツの細さだ。言うなれば、病的な痩せ方。正は言葉を失っている。

 ハルが小さくため息をつく。そこでハッとして、正は自分が偏見の目を向けていることに気づいた。

「あ、俺。母親と来てるから、いくわ」

「青野くん、また学校で」

「あ、うん」

 ナツは正にひらひらと手を振っている。しかし、正の頭の中には、ナツの折れそうな体つきの理由が、渦巻いて離れなかった。


 翌日、正ははばかることなくハルに言った。前置きもなく、

「秋田。妹さん大丈夫か?」

「……! だから嫌だったのに」

 昨日はたまたま、ハルの住んでいる家の近くのスーパーが特売だった。だから正とブッキングしたのだが、ハルがふうと息を吐き出す。無神経だった、と正が後悔するより早く、ハルが答えた。

「見ての通り……妹は拒食症なんだ、よね」

「やっぱり……俺も気になって調べたんだけど」

 BMI、という体格指数は、正も習ったばかりだった。これが十八未満だと痩せすぎになる。BMIは、体重割る身長割る身長で算出する。おそらくナツは、BMIも十五を切るだろう。

「ナツ、本当になにも食べてくれなくて……だから私、色んな料理を勉強してきたの。でも」

 珍しい料理なら、一口は食べてくれる。だからハルは、毎日毎日、料理本と格闘してきた。しかし、素人には限界がある。だからハルは、

「妹のために、調理師と栄養士の資格取りたくて……青野くんみたいな立派な理由じゃなくて、言い出せなかったの」

 目に薄らと涙を浮かべて、ハルが唇を噛み締めている。正は頭に石を食らった思いだった。最初の頃こそ、正はハルを目の敵にした。料理勝負さえ。しかし、どんな理由であれ、料理に真摯に向き合うハルを、誰が責められようか。

 正のように、世界で一番おいしい料理を作りたい人間もいれば、ハルのように家族のために学ぶ人間もいる。仕事のためと割り切って免許を取るために通う人間も、そのほかのクラスメイトだって、なんら変わりない、同じ志を持つものに違いない。

「秋田。秋田はそれを、悪く思うかも知れないけど。少なくとも俺は、秋田のその意思は、なによりも尊いと思う」

 料理の本質は、他者への思いやりだ。正は『世界で一番おいしい料理』に囚われるあまり、食べる人の顔が見えていなかったことに気づいた。正は両手でパン!と頬を叩く。

「俺も、乗りかかった船だし、協力できることはするよ」

「え?」

 ハルの目から、今度こそ涙がこぼれ落ちた。正は見て見ぬふりをして、しかしハルは、迷いを見せたあと、ゆっくりと口を開く。

「青野くんの料理なら、食べたいって、ナツが」

「本当に?」

 協力したいという気持ちは嘘ではない。しかし、実際正は、昨日ナツに会うまで拒食症なんて無縁に生きてきた。調べてみたものの、正の知識は付け焼き刃だ。それでも、正が目指すものが料理人である以上、みすみすナツを見殺しにするっもりもない。

 乗り気な正に、ハルはホッとしたように表情を緩めた。

「昨日ね、青野くんのことばかり聞かれて。『世界で一番おいしい料理を作りたいんだって』って言ったら、『食べてみたい』って」

「そっか。妹さん、食べたい気持ちはあるんだ」

「うん。私もびっくりした」

 だからこそ、ハルは正にナツのことを正直に話した。一縷の望みにかけて。

 正が頼もしく笑った。

「じゃあ、今度なにか作るよ」

「いいの? え、じゃあ家に来て作って。って、図々しいかな?」

「いや、いいよ。食べられないものとか、教えてよ」

 ハルが怒涛の勢いで正に身を乗り出す。

「肉と一緒に料理したものはダメ。もちろん肉も。あと揚げ物もダメかな。それから、魚は食べるは食べるけど、なるべく避けたいみたい。こんにゃくとか、ゼロカロリーのものと野菜は食べるかな。低脂肪乳は大丈夫。豆製品は好きみたい、納豆とか。あと、低脂肪乳はいいけどヨーグルトはNGらしい。それから」

「ちょ、ストップストップ。メモするからゆっくり!」

 正はハルに気圧されて、から笑いを漏らすのだった。


 翌週の日曜日、ハルのアルバイトが休みのその日に、正はハルの家を訪ねた。親はいないらしく、すんなりと家に上がり込む。

 ナツがにこやかに出迎えた。

「青野先輩、いらっしゃい」

「うん。お邪魔します」

 正はナツに挨拶して、ハルに案内されてキッチンに歩く。綺麗な家だ。

「なに、青野くん。じろじろ」

「や……親御さん、いないんだな。俺来てよかったの?」

 しかし、答えたのはナツである。

「いいんですよ、あんな親」

「こら、ナツ」

 ナツはリビングのテーブルの前に腰掛けて、怠そうに天井を仰いだ。ハルがキッチンで、ナツに聞こえないように正に耳打ちする。

「うちの親……離婚してて」

「あ、ごめん。なんか」

「いいよ。で、今日はなにを作るの?」

 正は買ってきた材料を広げた。大豆ミートに人参、玉ねぎにケチャップ。

「大豆ミートで、酢豚を作ろうかと」

「なるほど。野菜も取れるし、いいね」

「うん。スープはワカメスープがいいかなって。野菜の皮で出汁を取る」

 材料を余すことなく使うメニューだった。つまり、酢豚の人参と玉ねぎの皮から出汁をとるのだ。

 まず、大豆ミートを水で戻したら、何回か水気を絞ってまた水を含ませる。酸化した油を抜くためだ。

「今回の酢豚は、揚げずに茹でる」

「なるほど」

「大豆ミートに小麦粉をはたいて茹でたら、フッ素樹脂加工のフライパンで焼き目をつけて」

 人参と玉ねぎも湯通しして、最後にケチャップと甘酢のタレを絡める。甘酢の甘味は人工甘味料で代用する。

 片栗粉でとろみをつけたら、完成だ。

 並行して、野菜の皮から出汁を取ったスープに、ワカメと玉ねぎ、卵を入れて、塩と醤油で味を整える。

「わ、いいにおい」

 出された皿に、ナツがにこやかに笑っている。盛り付けはハルが担当した。個別盛りだ。

 その、ナツの盛り付けが、少ない。大豆ミートと人参、玉ねぎがそれぞれ一切れずつ。

「さ、召し上がれ?」

 しかし、正は知らぬふりをして、三人で食卓を囲む。

「いただきます!」

 ナツの朗らかな声。しかし、正は見逃さなかった。大豆ミートを食べる手が、一瞬戸惑いを見せたのだ。

 しかし、ナツは意を決したように大豆ミートにかじりつき、小さな一口をもくもくと咀嚼する。

「あ、美味し。これ、肉みたいですね」

「うん。大豆ミートって、もうほぼ肉の食感なんだよな」

 正も大豆ミートを口に入れた。甘酸っぱい餡が美味い。白米も口に入れて、正は上機嫌だった。

「ごちそうさまでした」

 ナツはものの数分で食事を終えて、シンクに食器を運んでいく。足がふらふらなのに、ナツはテーブルに戻るなり、

「青野先輩。食べ終わったら、近所を案内しますよ」

「え、っと。出かけるの?」

「嫌でした? 多分、午後から母親が帰る予定なので……」

 母親、とナツが表現したことが引っかかる。正がハルを見ると、ハルは笑って、

「いいじゃない。行こう、お散歩」

 ナツがぱっと顔を明るくした。家にいたくないらしい。

「じゃあ私、着替えてくる!」

 ナツがパタパタと二階に上がっていく。一軒家は広々して、正のマンションとはまた雰囲気が違う。

 正は残りの酢豚を頬張る。ハルもまた、酢豚を口に入れた。

「あの子、暇さえあれば運動したいの」

「え。でも、せっかく食べたのに、カロリー消費しちまうだろ」

「そこなんだよね」

 いわく、ナツは今でも、太ることが怖いらしい。自分が痩せている自覚はあるらしいが、食べたら食べた分以上に動きたがるのだそうだ。それは、拒食症ならなにも珍しくはない症状でもある。太ることは、毒を食べることに等しい。脂肪という毒が体につくことを、拒食症の患者はなによりも恐れる。

「俺、なんか逆に気を使わせたかな」

「いや。でも、お母さんが帰ってくるのは本当だから……ナツはお母さんと仲良くなくて」

 ナツの拒食症は、両親の離婚が原因らしかった。母の愛情を欲して、体重を落とす、精神が退行する。そうやってナツから出されたSOSを、母親は見て見ぬふりをしているのだ。

「青野先輩、できましたよ」

 ナツがジャージに着替えて降りてくる。正もハルも、食べ終えた食器も洗って、ナツを連れ立って散歩に出かけた。


 ナツの家の近くには公園があって、ナツはよくそこで縄跳びをする。

 あのコンビニには、高校生がたくさんいる。

 あっちのスーパーは魚が美味しくて、こっちはコロッケが美味しい。と、友達になったお客さんに聞いた。

 ナツが嬉々として説明する。表情は朗らかだ。

 ナツは人懐っこい性格ゆえか、ひととの繋がりも多かった。

「最初に会った時から思ってたけど。ナツちゃんの物怖じしないところは、長所だね」

「え、そんなこと初めて言われました」

「よかったね、ナツ」

 三人で楽しく散策する、その途中。

「ナツ? ハル?」

 綺麗な顔立ちの大人の女性が、向こうのスーパーから出てきた。ナツの顔がゆがんだ。あ、と気づいた時には遅かった。ハルにそっくりな女性だ。つまり、ハルとナツの母親なのだろう。

 ナツは母親を無視して踵を返す。しかし、母親がナツの手を取った。

「ご飯食べないのに、家から出ないでって何度言ったら」

「アンタには関係ないじゃん」

「アンタって……そっちの男はなに!? まさかナツ、こいつに騙されて変なダイエットを……」

 いたたまれなくなって、正は慌てて頭を下げた。

「秋田ハルさんの同級生の、青野正です!」

 しかし、母親は怪訝な目を向け続ける。ナツが母親の手を跳ね除けた。ハルはなにも言えず呆然と立ち尽くしている。

「アンタたち、男なんて皆クズよ! ふしだらな!」

「お父さんと青野先輩は違うしっ!」

 ナツが母親を突き押した。しかし、母親も引かない。ナツの手を今一度つかんで、家の方向に引っ張り歩く。拒食症のナツは、力では母親にかなわない。

 ハルは母親と正を交互に見て、

「ご、ごめん。うちの母親、お父さんにひどくされて……過保護になってるだけだから。私も帰るね。今日はありがとう」

 なにも言わせてもらえなかった。ハルは足早に母親を追いかけ、ナツを庇うように肩を抱いた。ひとり取り残された正は、自分がいかに甘い世界で生きてきたのかを、まざまざと感じざるを得なかった。


***


 梅雨に入り、集団調理実習の準備が始まった。

 調理師専門学校では、ある程度国が定めたカリキュラムがある。その一つが集団調理実習だ。

 これとあとは、秋には校外実習に二週間いかなければならない。校外実習は二回だ。

 正はこの二大イベントを、心待ちにしていた。

 あの日のハルの母親のことは、正とハルの間で話題になることはなかった。正にはかける言葉がないのだ。ハルもハルで話したがらないから、この件は有耶無耶になった。

「俺たちの班は、マグロを使った料理が課題だから、無難にマグロ丼でどうだろう」

「賛成。でも、普通のマグロ丼じゃつまらないよね」

 正の提案に、同じ班のハルが意見する。正の班は、正のほかにハルと、神尾、それから小野寺と上田、井上が一緒だ。六人で五十人分の食事を作る集団調理実習は、この専門学校があるビルの二階にある、食堂を模した実習室で行われる。

 この六人で、月曜から水曜日まで、日替わりで食堂の料理を提供する。

 六人を二人一組に分けて、各々が一つの献立を立てる。正は出席番号の都合でハルとペアになった。

「じゃあ、づけ丼にするのはどう?」

 ハルの提案だ。

「いいね。ただのづけ丼じゃなくて、すりごま入れたらどうだ? 栄養価も上がる」

「だね。栄養価で言えば、あとは付け合わせはほうれんそうのお浸しとかぼちゃの煮つけ、みそ汁があれば栄養価は満たせそうだよ」

 この集団調理実習では、栄養価計算も組み込まれている。

 本来なら、調理師の専門外であるのだが、明子先生があえてこの集団調理実習では、栄養価計算も含めて献立を作成するように課題を出している。

 むろん、栄養価だけでなく、原価も大事だ。

 給食の原価率は基本的に三割と言われている。ここの食堂の一食分の値段は四百円だから、原価は百二十円を超えてはならない。

「原価計算どうなった?」正の確認。

「うーん、二百円は切ったんだけど」ハルが答える。

「難しいな。マグロは削れないから、付け合わせ変える?」正が考える。

「でも、栄養価が振り出しに戻るよ」ハルが頭を抱える。

 正たちの班は、集団調理実習の一番最初の班である。そのため、前の班を参考にすることもできない。なにもかも手探りだった。

「じゃあ、付け合わせのほうれんそうのお浸しの上に乗せる鰹節を削って、ほうれんそうとかぼちゃの量を減らそう。それならぎりぎり栄養価もキープできるはず」

 栄養計算においてハル以上に頼りになる人間はいない。この班の誰もが思っていることだろう。

 ハルたちを横目に、同じ班の残り二組は、すでに行き詰まっているようだった。神尾や小野寺、上田に井上は、ハルと組める正をうらやましがった。そもそも、ハルだけでなく正にも実力が備わっていることは、すでにクラス中が知るところである。なぜよりによってスタートダッシュがこの二人なのか。憂鬱なクラスメイトなどつゆ知らず、ハルと正は献立作成に精を出す。

 ハルが栄養士の学校を目指していることは、正以外は誰も知らない。ほかの班員は、単にハルが頭の良さで栄養価計算をしているのだと思っているのだろうが、それは違う。

 ハルはそうならざるを得なかったのだ。ハルの妹は拒食症だ。だからハルは、必然、食材を買うときは真っ先に原材料とカロリーに目が行くし、自分が作る料理のカロリーを無意識に計算してしまう。

 それらは全部、ナツのためだ。ナツはカロリーがわからない料理には手を付けないのだと聞いた。だからハルは、ナツに作る料理は面倒でも一つ一つ材料を計量して、栄養価を計算してメモしたものを料理と一緒に出す。

 そうまでしても、ナツが料理に箸をつけるかは別の話だ。

「あ、原価収まった……ぽい?」

「うっし。栄養価は?」

「待ってね。……まあ、ちょっと足りないのもあるけど、おおむね満たしてる」

 やったー! と二人で万歳して、献立表を指定の箱に入れに行く。

「青野くん。実習楽しみだね」

「おう、一等賞とろうな」

 この調理実習は、一番最後に投票が行われる。そこで、どの班が、どのペアの料理が一番おいしかったかを決めるのだ。

 めでたく選ばれたペアは、一年の終わりに表彰される。

 クラスメイトは、どうせ正とハルのペアがその表彰に選ばれるのだと半ばあきらめているが、二人にはそんなことは関係ない。

 どんな状況だろうと、誰かのためにおいしい料理を作る。それが二人がこの学校に入学してきた理由なのだ。

 少なくとも、正はそう、思っていた。


***


 集団調理実習には、講師陣も食堂で生徒の献立を食べにくる。それで、毎日日替わりで先生が生徒の作った献立を評価していくのだ。

 正とハルの献立は初日も初日、集団調理実習の一番最初の班で、一番最初の献立だ。

 この日の実食の先生は栄養学の先生だった。

 この講師は外部から呼んだ講師で、近くの短大で栄養学と食品学を教えている。

 大学の教授なだけあって、教え方はうまい。が、授業内容を覚えているかと聞かれたら、正には危うかった。

 正は勉強が苦手だ。反して、ハルはこの講師の授業はわかりやすいと、この講師に特別目をかけられていた。

 今日の献立は、ハルと正の自信作だ。

 味付けもそうだが、一番気を使ったのは塩分量だ。

 マグロ丼となれば、普通はしょうゆを各々がかける。だが、それでは献立作成で塩分の算出ができない。そこですりごまを加えたづけ丼にすることで、塩分の量を把握することにしたのだ。

「お、青野。やってるな」

「おう、食べてって」

 厨房はてんやわんやだ。

 五十人分の食事を作るのは、そう簡単な話ではなかった。

 まず、調味料の計算の難しさを思い知らされる。

 普段の数人分の調味料を、そのまま五十倍すると、それがまあ、調味料が多すぎて、やむなく様子を見ながら調味料を再計算し、使用量を減らしたほどだ。

 そして衛生管理。とにかく、まめな消毒と使い終わった容器の洗浄が忙しい。

 洗い物をためると使える機材が減ってしまうため、いかにして作業を分担するかが試される。

 集団調理実習の厨房には、もちろん講師も指導、兼評価のために同席する。が、基本的に助言はしない。

 正とハルの献立は、おおむね問題はなかった。はずだった。

 かぼちゃの煮つけの煮汁が、思ったより多いことに気づいたのは、正ではなくハルだった。

「秋田さん、どうする?」

 かぼちゃ担当の小野寺が、ハルに一応の確認をする。正もその場に居合わせたが、ここで調味料を減らして、出来上がりの味が変わることを危惧した正と、瞬時に煮汁の量を減らし、なおかつ味付けが変わらないように計算しなおしたハルとでは、なるほど適性が違うのだと正は思った。

 ハルは根っからの栄養士気質だ。

 こういうところで、ハルの元来の頭の良さは発揮されると思う。正は即断できなかったことを、ハルは即断できる。

「でも、煮汁減らしたら味が」

「大丈夫。味見はした。これでいける」

 煮汁を減らして、小野寺は回転釜に材料を投入した。

 回転釜というのは、煮物などに使う大量調理用の釜で、蓋をして密閉した後、ハンドルを回して釜を回転させながら加熱することができる。

 それに、今日は使わないがスチコン――スチームコンベクションオーブンと呼ばれる、ここいらじゃ最先端の設備も備わっている。

 つじちょーほどではないにしろ、春田調理師専門学校には、最先端の設備が整う。

 全部明子先生の采配だ。

「そろそろ盛り付けの時間。あと、デザートも出してください!」

 調理場を仕切るハルに、正は言葉にならない悔しさを感じるのだった。


 今日の献立について、実食の先生から辛辣なコメント。

『ほうれんそうのお浸しとかぼちゃの煮物、それからづけ丼。一つ一つはおいしかったです。ですが献立全体として見たとき、どれも味付けが濃い料理だったので、全体のバランスを考えたらよりよくなると思います』

 正はもちろん、これにはハルもやや落ち込んだようだった。

「栄養価と原価ばかりで、食べ合わせを考えてなかったのは次の課題だと思いました」

 昼食が終わってある程度洗い物を片付けて、班員と実習担当の講師の先生を交えての反省会。

 ハルは自分の反省点を即座にとらえて、さらりと反省文をまとめ上げた。

 正はハルの言葉を受けて、無難に同じような反省点を述べた。どうも正は、集団調理実習には向いていないようだ。

「では、明日の班長は、明日の実習の下準備の指示を出してください」

 反省会を終えたら、もう次の献立の準備だ。

 基本的にデザートは前日に仕込んで、あと野菜も前日に切っておく。

 生ものは当日に届くから、前日にどれだけ下ごしらえできるかが、実習をスムーズに進めるポイントだった。

「でもさ、やっぱり秋田さんはすごいね」

 小野寺が言う。

「なんで?」

「だって、先生に褒められてたじゃん。今日の班長は応用力があってよかったって。あれって、かぼちゃの煮汁のことだよね」

 だけど、実習が終わったら煮汁を計算しなおして、原価も栄養価も計算しなおす必要がある。正直面倒だと正は思う。

 応用力は大事だが、ハルのあの決断のせいで、かぼちゃの煮物は正が理想とするものよりも若干味が薄くなった。

「私なんてまだまだだよ。煮汁のことだって、今日はたまたまうまくいっただけで、本当は献立作成の時点で気づけたらよかったんだけど」

 謙遜はよしてほしい。

 正は不機嫌に大根を切った。

「てかさ、青野もすげえよ。あの盛り付け」

 正は今日、マグロのづけ丼の盛り付けを担当した。

 正は和食の志望ではない。フレンチの道に進みたいと思っている。

 だからこそ、盛り付けには人一倍こだわりがある。

 ただのづけ丼じゃ味気ない。盛り付けは華やかに。ただでさえ、原価計算のせいでマグロの量を減らしたのだから、少ないマグロでも多く見えて、なおかつ華やかになるように、薔薇の花びらを模した盛り付けにしたのだ。

「別に。今日活躍したのほとんど秋田だろ」

「またまた。献立作成だって秋田さんひとりってわけじゃないんだからさ」

「……そりゃそうだけど」

 デザートに抹茶淡雪を提案したのは正だった。

 抹茶の寒天の上に、メレンゲを固めて乗せた和風のデザートだ。普通の淡雪は抹茶を入れないが、抹茶を入れることを提案したのも、淡雪を提案したのも正だった。

 料理は味だけじゃない。見た目の時点から始まっている。正の持論だ。

「抹茶淡雪、きれいだったしおいしかったなあ」

「だろ? 原価も低いし、あれはいろいろ生かせると思う」

 とはいえ、集団調理実習は一年コースではこの一回限りだ。二年コースの生徒は、また来年もあるらしいが。

「秋田。一年コースの実習が終わったら二年コースの集団調理実習、一緒に食いに行こうぜ」

「うん。私も誘おうと思ってたんだ」

 ハルがにこやかに答えた。


***


 はじめのころ、クラスメイトは正とハルと、どうかかわっていいのか様子をうかがっているようだった。

 それはそうだ、正がハルに、あんな勝負を持ち掛けて、なまじふたりともレベルの違いをほかに見せつけたのだから、関わりたくないと思うのは自然なことだろう。

「青野と秋田って、もっととっつきにくいやつかと思ってたけど、案外いいやつだよ」

 集団調理実習を終えて、同じ班だった小野寺や上田が、そんなことを友達と話していた。

 そんな風に見られていたとは。

 正は苦笑するも、別にいいかとも思う。

 現状、ハルという友人がいれば、学校生活は退屈しない。

「青野くん。相談なんだけど」

 ハルがかしこまった相談を持ち掛けるときは、たいていろくな話じゃない。

 正は少し身構えつつ、

「なんだよ」

「あのね。ナツが、夏休みに遊園地行きたいって……しかも青野くん誘いたいって」

「……そう、なんだ」

 どう答えるのが正解なのか、わからなかった。少なくとも、ナツは正に特別な感情を抱いていることは嫌でもわかる。わかるから、どう接したらいいのかわからない。

「ごめん、忘れて」

 しかし、外に出たいという前向きな気持ちを、このまま放っておく手はないだろう。ハルによれば、ナツは体力の関係で学校を休みがちなのだとか。日がな一日家にいたら、出かけたくもなるだろう。

「ま、まあ……秋田が一緒なら、いいかな」

「いいの? でも、倒れるかも」

「その時はその時、だろ。なにより、ナツちゃんが前向きになったんだから、俺としても力になりたい」

 それは、偽善だったかもしれない。ハルが泣きそうな顔で、笑った。

「今まで、ナツのこと話せる人がいなかったから、青野くんには頼っちゃうなあ」

「ま、友達じゃん」

「……うん、うん!」

 ハルが何度も頷いている。傍ら、正は遊園地についてスマホで検索をかける、その途中で、遊園地よりも博物館がいいのではと思いついた。

「秋田、博物館じゃ、ダメかな?」

「博物館?」

「うん。夏場の遊園地は、体力使うし。だったら、博物館なら大丈夫かなって。車も出せるし」

「車? 青野くんが出してくれるの?」

「あ、いや。親から借りられると思う」

「そっかぁ、私は免許とってないからさ、ナツのこと連れ出したくても連れ出せなくて。車なら、ナツの体力の心配もないし」

 ありがとう。とハルが笑った。そうして正とハルは、ナツを連れて遊園地改め、博物館に行くことになったのだった。


***



 博物館が決まって、しかし正には心配事があった。一月末の試験である。実質、復習する時間は冬休みが最後で、正はアルバイトの休憩時間に、試験勉強を始めたのだった。

「ほら、また間違ってる」

「だって、公衆衛生の定義って、これ調理師に必要?」

「必要でしょ。青野くん、フレンチの道に進むんでしょ?」

「そうだけど。それと公衆衛生って関係ある?」

「将来的にレストラン開くなら必須だよ。公衆衛生の定義とは?」

 公衆衛生とは、組織的な地域社会の努力を通じて疾病を予防し、寿命を延伸し、身体的および精神的健康と、能率(efficiency)の増進を図る科学であり、技術である。

「わかんねー」

「はい、きゅうりの苦み成分は?」

「……きゅうりアルコール?」

「それはきゅりの香気成分。正解はククルビタシン。じゃあ、ショ糖、麦芽糖、乳糖、果糖、ブドウ糖を甘みの強い順に並べて」

 正解は、果糖、ショ糖、ブドウ糖、麦芽糖、乳糖。

「必須アミノ酸を答えよ」

「バリン……ひすち……?」

「ヒントは『メスロバふとりヒイ(ヒイ)』」

「め……メチオニン、す……すれお……ヒスチジン……」

 メチオニン、スレオニン、ロイシン、バリン、フェニルアラニン、トリプトファン、リジン、ヒスチジン、イソロイシン。

 いずれも、人間の体内では合成できず、食物から摂取する必要がある。

「では、精白米の第一制限アミノ酸は?」

 第一制限アミノ酸とは、その食物に含まれるアミノ酸のうち、もっとも含有量の少ないアミノ酸のことだ。

「リジン?」

「正解」

「あ、あってたんだ」

「あてずっぽう?」

 九種の必須アミノ酸のうち、ひとつでもアミノ酸スコアが低いものがあれば、全体のアミノ酸はそのアミノ酸スコアの値となる。

 例えば、第一制限アミノ酸以外のアミノ酸スコアが一〇〇でも、一つでもアミノ酸スコアが低いもの――例として五〇とすると、その食品のアミノ酸スコアは五〇となる。

「糖尿病食の計算に使われる一単位はなんキロカロリー?」

「……五〇?」

「ぶー。答えは八〇」

「八〇って中途半端じゃね?」

「でも、身の回りの食物って、八〇キロカロリーのものが多いんだって。卵一個とか、炊いたご飯五十グラム、ジャガイモ一個、油大さじ一」

「へー、なるほど。それは覚えられるかも」

 糖尿病食はこの一単位を基本として、一日十八~二十二単位で計算する。そこからさらに、炭水化物、たんぱく質、脂質のカロリーを割り当てる。

「PFC比率の理想値は?」

「PFC比率……?」

 先ほどの糖尿病食とつながっている。Pはたんぱく質、Fは脂質、Cは炭水化物を指している。

 総摂取カロリーをそれぞれ、P 十五パーセント(十三~二十パーセント):F 二十五パーセント(二十~三十パーセント):C 六十パーセント(五十~六十五パーセント)にすることが、望ましい割合とされている。

「それでは、炭水化物、脂質、たんぱく質のそれぞれの一グラム当たりのカロリーは?」

「それ本当に苦手なんだけど」

 炭水化物とたんぱく質は一グラム当たり四キロカロリー、脂質は九キロカロリー。ちなみにアルコールは七キロカロリーだ。

「O一五七の正式名称」

「あ、それならわかる。腸管出血性大腸菌O一五七」

「正解。これは有名だもんね」

 ならば、難易度をあげる。

「手指の傷が原因で起こる食中毒と言えば?」

「手指の傷……えーと、なんだったか」

 黄色ブドウ球菌。この菌は、食物中で増殖するときに『エンテロトキシン』という毒素を排出する。そのため、この菌におかされた食品は、加熱して黄色ブドウ球菌が死んでも、毒素であるエンテロトキシンは消えないため、そもそも食中毒の対策として、菌を『付着させない』ことがかなめとなる。

「食肉を加熱するとき、中央の温度を何度以上で、何分以上の加熱で食中毒を防げるとされているか」

「えーと。七十五度で一分」

「やるね。やっぱり調理に関係すると青野くんは強くなるね。じゃあ、大さじ一、小さじ一、一カップはそれぞれなんミリリットル?」

「十五、五、二百」

「さすが。じゃあ、米を炊く時の水加減は?」

「体積比一・二倍、重量比一・五倍」

 米一カップ(二百ミリリットル)なら水は二百四十、米一カップは約百六十グラムのため、重量比なら一・五倍の二百四十となる計算だ。ちなみに一カップと一合は容積が違う。一合は約百八十ミリリットルだ。

「大根の辛味成分は?」

「えーと、あれだよな。わさびと一緒、ってのは覚えてる」

「うん、イソチオシアネート」

 ううう、と正がうなる。

 ここまで、ハルは一切教科書もノートも開いていない。

「てかさ、秋田ほんとに勉強の鬼だよな。全部暗記してんだろ?」

 正は先ほどハルから出題された問題を頭の中で反芻する。しかし、半分以上は既に頭から抜け落ちていた。先が思いやられる。

「ほんと、調理師になったら忘れるのに、なんでこんなに覚えなきゃなんないんだよ。もういっそ、補講受けたほうがテストより楽……」

 ダメだよ!とハルがいさめる。

「補講になったら、博物館行けないじゃない」

 しかし、正は浮かない顔だ。

「あーもう、秋田にはわかんないんだよ!」

 ばん! と大げさにノートを閉じて、正は大きく息を吐いた。

 そもそも、頭のつくりが違うのだ。どうせハルは、一度聞いた講義はすぐに覚えられるし、テストだって危なげなく満点をとれるのだろう。

「青野くん。私だって、努力してる」

「でも、言って、R高校だもん。頭が違う」

「……私、高校で零点とったこと、あるんだよ」

「え……?」

 神妙な面持ちのハルに、正は顔を上げた。見たこともない、ハルの顔。ハルはいつも明るく、時に辛辣で、なのにどこか自信なさげな雰囲気があった。その原因を垣間見た気持ちになる。正はかける言葉が見つからなかった。

「高校の授業が、全然わからなくて。私は逃げたんだよ。学費稼ぐために中退したって、誤魔化して」

 顔をうつむかせたハルの表情は、正からは見えない。夕日が逆光になっているからかもしれない。

「秋田、悪い。そういう意味で言ったんじゃなくて」

「それに私だって、勉強、してるの。アルバイトの合間とか、寝る前とか。何度も何度も習った部分をノートに書き写して、暗記できるまで何回も書いてるの」

 そんなこと、知らなかった。知らなかったから、正は自分を恥じる。

 なにが、頭の出来が違う、だ。好きなことなのに、努力すらしない自分は、どの口で「世界で一番おいしい料理が作りたい」なんて言えるのだろうか。

 調理師になるには、二つの道がある。一つは正の様に、専門学校に通うこと。

 もう一つは、働きながら実務経験を二年積んで、学科試験を受けて合格すれば調理師免許を受け取ることができるのだ。

 正は前者を選んだ。後者では自分は試験に受からないと思ったからだ。

 甘い。

 本当に自分に厳しい人間ならば、専門学校なんて行かずに、高校を出てすぐに実務を積むだろう。専門学校に通う一年の時さえ惜しんで、自分が魅入られたレストランで修行を積むだろう。

 調理師免許がなくたって、調理場の仕事はできる。

 だが、あえて専門学校に通うのはなぜか。それは、専門学校に通えば試験なしに免許を授与されるから。多くの人間の目的はここだろう。

「ごめん。ちゃんと頑張るから、泣くなって」

「泣いてないし」

「泣いてんじゃん」

 泣いたり笑ったり、それこそが青春なのだと、正もハルも気づかない。真っ只中にいる人間に、青春のなんたるかを知る術は、ない。


***


 期末試験がいよいよさし迫り、正は最後の追い込みに正の家で勉強会を開いていた。ハルだけを呼んだのだが、ナツまでついてくる始末だった。

「お邪魔しまーす」

「なんでナツちゃん?」

「いいじゃないですか。あ、おばさん、お邪魔します!」

 正の後ろから顔を出した母親に、ナツはにこりと頭を下げた。正は母親をまるでごみを履き出すかのように追い出して、自室にハルとナツを案内した。

 正たちが部屋に入ってしばらくして、正の母親が茶菓子を持ってくる。

「母さん! 茶菓子はいらないし」

「でも、せっかく作ったんだし」

 正の母が、ローテーブルにお菓子とお茶を並べていく。正の顔が真っ赤だ。

 母親が出ていってから、ナツが興味深そうに茶菓子のクッキーを手に取った。絞り出しのクッキーだった。

「てか。青野先輩って家でも料理するんですね」

 ナツがハク、とクッキーを口に入れた。ハルが驚き目を見開いている。ナツが自らお菓子を食べたのは、いつぶりかもわからない。正の手作りのクッキーだからだろうか。

「ああ。まあ……俺ん家は共働きだから、八歳の頃から食事は俺の担当」

「八歳!? その頃私なんて友達と遊んでばかりでしたよ」

 うん、まあ。と正が言葉を濁す。

「あれだな。俺はさ、絶対味覚があるからさ。ある日は母親のご飯が美味いのに、ある日はあまり……ってのが耐えられなかったっていうか」

 正の絶対味覚はいいことばかりではない。美味い料理と不味い料理をはっきり判別できるが故に、他者の料理が前回と少しでも違えば、それがダイレクトに舌に伝わる。正の中での理想の味がはっきりと存在するため、母親の料理の味付けが日によって変わることは耐えがたかった。

「そっか。青野くんも苦労してきたんだ」

「いや……まあ……小さい頃は絶対味覚のこと分からなかったから……やな子供だったよ。母さんの料理に不味いとか前の方がよかったとか。文句ばかりで」

「でも、青野先輩もわざとじゃないですし」

「そうだけど。まあ、そんな感じで自分で料理を始めたら、難しさもあったけど、なにより楽しくて。あと母さんが毎日ご飯作ってくれてた苦労もわかったし」

 正がはは、と照れ隠しに頬をかいた。

 ナツがなにかを思いついたように手を叩く。

「お姉ちゃん、今度青野先輩に料理作ってあげたら?」

「ナツ? それは気まずいよ」

「え、俺は俄然気になるけど」

 しかし、ハルは首を縦に振らなかった。

「てか、あれ?」

 正がナツの手元にある紙切れを指さした。ハルが困っている。正は乗り気だったが、ハルは乗り気ではないようだ。ならば、どうにか話題を変えなねば。

「それ、漫画のキャラ……の、イラスト?」

 ハルが広げたノートの端に、ナツが描いたらしかった。

「わ、わ。ごめんなさい!」

 慌ててナツはノートを隠す。しかし、正にはばっちり見えていたため、

「隠すことないじゃん。ナツちゃんが描いたんでしょ? めちゃくちゃ上手い! 見せてよ」

 話題転換は成功したようだ。

「え。えー、恥ずかしいもん」

「ナツ、私にはいつも見せてくれるじゃない」

「お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん。青野先輩に見せるのは恥ずかしい」

 そういうもんなのか、と正は食い下がることをやめることにした。

 しかし、ナツはそわそわと正を見ている。どうやら、褒められたことはまんざらでもないようだった。

「ナツ、見せてあげてもいいじゃない」

 ハルのダメ押し。「仕方ない、なあ」

 ナツが正に紙切れを渡した。

「え、うま! うまいな、これほんと漫画そのままじゃん!」

「でしょ? ナツってすごく絵がうまいの。いつも絵画コンクールで賞もらってて」

「へー! すごいな。これ本当に才能あるよ、ナツちゃん」

 ほめられ慣れてないのか、ナツがもじもじと手を膝の上でからませている。「本当に?」小さくつぶやいて、

「私、漫画家に……なりたいの」

 消え入りそうな声で言った。

「なれるよ! お世辞ではなく、本当に!」

 語気強めに正が身を乗り出した。ナツは驚き目を見開いて、だけれど嬉しそうに笑うのだった。

「うれしい、です」

 ナツと正のやり取りを、ハルはほほえましく見守っていた。

「でも、青野先輩」

「なに?」

「お姉ちゃんは、甘酒もカレーも、ジンジャーエールも手作りできますからね!」

 ハルはどうやら、正が家で料理をすることに対抗したいらしかった。しかし、正は生粋の料理馬鹿である。

「なんだよそれ! 食べてみたい! え、秋田。今度食べさせてくれよ」

 突然話題を振られ、ハルがしどろもどろに頷いた。

「今度ね、今度」

 その約束は、翌日に果たされる。ハルが正に弁当を作ってきたのだ。ナツとハルと正は、試験勉強にいそしむのだった。


 翌日、ハルは水筒に甘酒とジンジャーエールを作ってきた。てっきりあの話題はあの場切りだと思ったのだが、思いのほかハルも料理への熱があるらしい。

「マジで作ってくれたんだ」

「……うん。昨日は家にあげてもらったし」

 そんなものは照れ隠しに違いない。正は水筒に入った甘酒を、口に含む。

「あま! 米麹の甘酒だな」

「うん。酒粕だと、ナツが気にするから」

「気にする?」

「未成年飲酒なんだって」

 そんなことを言ったら、酒入りのお菓子なんて食べられないだろう。どうやらナツは、ハルよりも『固い』考えの持ち主らしかった。

「にしても、甘いなこれ」

「うん。こたつで作るの、私は」

「なるほど、甘酒って言ったら、炊飯器に入れて蓋に菜箸かませて保温する、ってのは知識ではあったけど。個人で作ってここまで甘くなるのか~」

 甘酒などの発酵食品は温度管理が難しい。甘酒の発酵温度は六十度。高すぎれば麹菌が死滅するし、低ければ麹菌が働かず甘くならない代わりに酸っぱくなる。

「うちは、掘りごたつだからよく作るんだ」

「俺ん家はマンションだから無理だよなぁ」

 しみじみと、温かな甘酒を舌の上で転がした。砂糖とは違ってまろみのある甘み。塩も加えているのか、甘みが際立って美味い。

 正は次に、ジンジャーエールを水筒から注ぎ、口に入れた。しゅわ、と炭酸が弾けて、辛い。

「わ、ジンジャー強いな」

「あ、苦手だった?」

「いや。これ美味いよ。ジンジャーエールの名前に相応しく、ジンジャーの味が濃くて」

 ハルのジンジャーエールは、材料の生姜の半分をすりおろす。辛味の強いジンジャーエールは、ナツの気に入りだ。

「普段は人工甘味料なんだけど、青野くんのは、砂糖にしたの」

「うん。生姜、砂糖、レモンのバランスがいい」

「やっぱり、わかっちゃうんだ、材料」

 ハルが笑った。正はもう一口、ジンジャーエールを飲み込む。カッと辛味が広がって、体がぽかぽかと温まる。

「確かにこれなら、ナツちゃんも飲むよな。生姜はダイエットにいいって聞くし」

「うん。そうだね。まあ一口が限界だけど」

 正は余計なことを言ったと口を結んだ。ハルが正に、

「これ。一日で飲むには多いから、持ち帰っていいよ」

「本当に? や、マジで嬉しい。俺、誰かに料理してもらったことほぼないからさ。こんなに嬉しいもんなんだな、作ってもらうのって」

 にぱっと笑う正に、赤面したのはハルである。正は料理のことになると素直だ。その言葉に他意がないとわかっていても、ハルは正のこういうところは好ましく思う。

「じゃあ今日も、勉強の追い込み頑張ろうね!」

「なんだよ、せっかく幸せ感じてたのに、現実に引き戻されたよ」

 平穏な日々が、愛おしい。正とハルの、日常がめぐる。


***


 夏休みが始まる。

 赤点ぎりぎりで補講を回避した正は、待ち合わせのコンビニに車を走らせた。

 今日は天気も良く、夏晴れだった。

「おっす、秋田。と、ナツちゃん!?」

 待ち合わせに現れたナツは、大人びた服に化粧を施し、正直言えば、綺麗だった。ハルが咳払いする。

「秋田は……いつも通りだな」

「ごめんなさいね、化粧っけがなくて」

 軽口を叩きあって、車に乗って博物館へと車を走らせる。心做しか、ナツの顔色がいい。

「ナツちゃん、今日は顔が明るいね」

「だって、今朝はおにぎり食べてきましたし」

「へえ。一口?」

「一個です」

 偉い!と正が褒めると、満更でもないようにナツが笑った。穏やかに車が走っていく。

「秋田、今日の博物館調べた?」

「あ、うん。大体は」

 ふたりの会話に、ナツが口を挟む。

「先輩、その、『秋田』って呼び方、紛らわしいのでやめません?」

「え?」

「だって、私も『秋田』なんですもん。まあ、ナツちゃんって呼んでくれるからわかることはわかるんですけど。でも、私もつられて返事しそうになるっていうか」

 それもそうだ。だが、だからって、いまさらハルを名前で呼べと?

「え、いや。でも」

「ふたりは親友。なんでしょ? お姉ちゃん」

「いや、私に振る?」

「えーなに、名前で呼べない理由でもあるの?」

 ナツがにやにやとハルを見る。

「だって、名前で呼ばせるなんて申し訳ないじゃない」

 ハルが反論する。

 正は平静を装って、車を運転している。

「右曲がるかなら?」

「えー、青野先輩、はぐらかさないでくださいよ」

「はぐらかすもなにも。秋田は秋田で、ナツちゃんはナツちゃん。それでよくない?」

「えー」

 ぶうん、と車が走っていく。妙に気まずい空気が流れた。


「わ、博物館とか幼稚園ぶりかも」

「私も小学生ぶりかな」

 夏の陽射しを浴びて、ナツは博物館の入口に歩く。が、その足取りは心もとない。すでに疲労しているらしく、正はどうしたものかと頭を悩ませる。

「青野先輩?」

「や。ナツちゃん、先に休んでく?」

「大丈夫ですって。お姉ちゃんといい、心配しすぎ!」

 これ以上はしつこいか、と正は言及することをやめた。最悪は、喫茶店かどこかで休めばいい。

 入館券を買って、三人で意気揚々と博物館に入館する。

 真夏の日差しは、駐車場か

「はー、生き返る~」

 ナツがクーラーにきいた館内に声を漏らす。

 正が笑い、ハルも笑った。ナツが目を輝かせて、博物館の展示物に目を向けている。

 目玉は大きなクジラの標本だ。

「すごい、大きいね」

「うん。大きい」

「これ、人間も食べるのかな」

「間違えて食べることはあるらしいけど」

 ナツとハルが朗らかに話している。

 ナツはなにを思って拒食症になってしまったのだろうか。なぜ食べられないのだろうか。

 あんな風に笑えるのに、ナツは病気なのだ。この博物館でそれを知るのは正とハルの二人だけだけれど。

「青野先輩、楽しくなかったですか?」

 ナツの心配そうな声に、正はハッとする。

「いや。あの、そう。ここの喫茶店のワッフル。再現しようかなって」

「再現?」

「言ってなかったっけ? 青野くんには、絶対味覚があるんだよ」

「なにそれ! 青野先輩ってお姉ちゃんが言ってた通り、すごいんですね。料理馬鹿って聞いてたのに」

「あっ、ナツ!」

 ハルが注意するも、正はハルにジト目を向けている。

「秋田。オマエ俺のことそういうふうに思ってたわけ?」

「や、や。違うの。違うんだって。こらナツ、笑ってないで謝りなさい」

「なんで私が謝るの」

「もう、もう、この子は!」

 本当に仲のいい姉妹なんだと思う。はたから見たら、なんの問題もない姉妹。拒食症のナツだって、今日は元気そうに足を運んでいる。

 正は拒食症のことをわかっていない。わかったつもりでいた。

 動物は本来、空腹であっても動けるように本能が備わっている。例えば狩りに失敗したライオンが、空腹で動けなくなってしまったら、獲物を捕らえることができない。

 だから動物は、空腹のときほど活発に動けるものなのだ。

 この本能は人間にも残っている。拒食症の患者は時として、驚くほどアクティブに動き回る。

 それが空腹ゆえの本能だとしても、周りの人間も、本人でさえも、気づけることは稀なのだ。


 思春期やせ症。拒食症。正式名は摂食障害。しかし、摂食障害には過食型と拒食型が存在するため、拒食症、の方が世間に浸透している。

 多くは真面目な性格の人間がなりやすく、実生活でなんらかの挫折を味わった人間が、ダイエットで成功体験を得ることで、拒食症になるものが多い。さらに言えば、母子関係が関与するとの文献もあり、特に母親の愛情の過不足が原因とも言われる。ナツは恐らく母子関係が原因だ。

 ダイエットに成功する人間はごく少数だ。食欲は人間の三大欲求、だとすれば、その食を抑え込むダイエットとは、本能に逆らうこと、だからこそ、ほとんどの人間が挫折する。

 その、誰もが挫折するダイエットにおいて、成功体験を得てしまうとどうなるか。ダイエットに自分の存在意義を見出してしまうのだ。痩せている自分は有能だ、ダイエットに成功した自分は他より優れている。

 だからこそ、太れない。太ることになによりも恐怖を感じる。たった一口の白米でさえも、脂肪に、贅肉になるのではと死と同等の恐怖を抱く。

 体重が減ると、自身の精神年齢も減っていく。幼児退行というものだ。これは母の愛情の過不足に関係する問題で、しばしば拒食症では、『育て直し』の作業が必要になる。簡単に言えば、幼児期に満たされなかった母への愛情を、一から得直す作業である。

 しかし、ナツの母親はナツを見ていない。拒食症のことだって受け入れていないし、ナツやハルの父親のことだって乗り越えられていない。

 正は拒食症のことなんて、なにひとつ理解できていなかった。


 博物館には、標本のほかにはく製や、鉱物の展示など、一日では回り切れないほどの催しがあった。

「ナツ、疲れてない?」

「平気平気。次あそこ行きたい」

 あそこ、と指さしたのは、とあるハンコ屋の前だった。

 どうやら撮った写真でハンコを作ってもらえるらしく、ナツは乗り気でそこに足を向けた。

「ねえ、三人までなら同時彫りオッケーだって」

「え、私やだよ」

「俺も一緒なの?」

 二人が渋るも、末っ子のナツには誰もかなわない。半ば強引にカメラの前まで連れてこられて、三人で肩を組んで写真を撮った。

「一時間後には出来上がってますよ」

 店番のおじさんが言った。「仲のいい兄弟ですね」

「いや、俺は友人で」

「私が彼女です」

「ナツちゃん!?」

「冗談ですって。そんなに嫌がることないのに」

 むむっと口をとがらせて、ナツは上機嫌に歩き出す。

「次は体験コーナー行きたいです」

「あの目がぐるぐる回るやつ?」

「私はパス。青野くんとふたりで行ってきて」

「えー三人じゃなきゃつまんないよ。お姉ちゃん、ね?」

 ハルはナツに甘いところがある。こうやって頼まれるとハルはどうしても断れないのだ。

 小さいころからずっと一緒だったかわいい妹。自分が守らなければ。自分がしっかりしなければ。

 優しい姉と、ちょっとお調子者の妹。だけどそこに、母親はいない。

「なあ、ナツちゃんってさ」

「はい?」

「……世界で一番おいしい料理、って、なんだと思う?」

 正には、ナツがわからない。ナツはなぜ、ご飯を食べないのか。ナツがなぜ、正に懐いているのか。

「うーん。なにかな。あ! 青野先輩が作ってくれた大豆ミートの酢豚。あれが世界で一番おいしかったです」

 そんなもの、と言いかけてやめた。

 この世界においしいものなんて山ほどある。さっき食べたワッフルだってそうだ。正が実習で作ったマグロ丼だってそうだ。

 正だけじゃない。誰かが作ってくれた料理、高級レストランのコース料理。

 これからたくさんの、たくさんのおいしい料理を、ナツだって食べられるはずだ。そういう未来が来るはずだ。

 いつまでもこのままのはずがない。ナツだって、いつかはきっと、普通にご飯を食べられる日が来るはずだ。

 その時はきっと、正の作った大豆ミートの酢豚の味なんか忘れるくらい、おいしいものをたくさん食べて、たくさん幸せを感じて、たくさんの友達に囲まれて、充実した毎日を過ごすべきだ。

「青野先輩? 怖い顔してどうしました?」

「いや、なんでもない」

 自分で質問しておいて、正にはわからない。

 世界で一番おいしい料理ってなんだ。少なくとも、正が目指しているものは、あんな家庭料理じゃない。

 正はたくさんの人に、自分の料理を食べさせたい。専門学校を卒業したら、就職したいフレンチのレストランだって決めている。

 雇ってもらえるかはわからないけれど、正が思う世界で一番おいしい料理は、少なくともナツがおいしいと言ってくれた、あんな酢豚なんかでは決してないない。



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