第524話「嵐のあとの無風!潜伏する病邪と次なる一手」
枢先生の『太衝(たい衝)』への的確なアプローチと、哭先生の鮮やかな『降陽破』の連携によって、世界を激しく揺るがしていた「めまい(内風)」の怪異は完全に鎮まりました。
上へと暴走していた熱気が足元へと引き下げられ、ガストンたちも本来の体調を取り戻して魔導船は再び前進を始めます。
しかし、嵐の去った海域に漂うのは、奇妙なほどに静まり返った「無風」の世界。掴みどころのない『風邪』との戦いは、さらに深く、さらに狡猾な次なる局面へと移行していくのです――。
あれほど激しく世界をぐにゃぐにゃと歪め、空間そのものを狂おしいほどに揺るがしていた生温かい突風が、嘘のようにピタリと止んだ。
海面は、まるで一枚の巨大な黒い鏡になったかのように滑らかに広がり、魔導船はその静寂のなかにぽつりと浮かんでいる。先ほどまで強烈なめまいに襲われ、視界を奪われながら舵輪にしがみついていたガストンが、恐る恐る自分の大きな両手を見つめ、それから大きく首を回して周囲の景色を確認した。
「……おお、信じられねえ。さっきまで頭の中が洗濯機みたいにグルグル回ってたのが、完全に消えやがった。足の裏がちゃんと床にくっついてる感覚が、しっかりと戻ってきたぜ」
ガストンが安堵の溜息とともに、力強く舵輪を握り直す。その背中からは、先ほどまでの異常な虚脱感が完全に消え去っていた。
デッキの壁に寄りかかって激しい頭痛と浮遊感に耐えていたリナも、すっきりと冴え渡った顔で立ち上がり、額ににじんでいた冷や汗を手の甲で拭った。
「頭の芯にあった、あの重くて不快な感じが、スーッと足の裏から抜けていったわ……。枢先生、今のは一体どういう治療だったの? 私、一時は本当にこのまま頭が割れて死ぬんじゃないかって思ったわよ」
リナの素朴な、しかし切実な疑問に、枢は往診鞄から太銀鍼を静かに回収し、それを丁寧に清拭しながら、いつもの優しい微笑みを浮かべて答えた。
「今回は、急激な環境の変化によって自然界のバランスが崩れたのが原因です。それによって、本来なら下半身を温めるべき体内の熱がコントロールを失って、一気に頭の方へと突き上がってしまっていたのですよ。人間で言えば、急激なストレスや環境の変化でのぼせ上がり、激しい頭痛やめまいを起こした状態と同じです。ですから、まずは哭先生に上部で暴れる熱の勢いを上から叩いて抑えてもらい、その一瞬の隙に、私が足元にある『太衝』という重要なツボに鍼を打って、上がってしまったエネルギーを本来あるべき正しい場所へと引き下げたのです」
「なるほどね……。上から抑え込んで、同時に下から引っ張る。まさに完璧な挟み撃ちの治療ってわけか。それにしても、あんなにややこしくて緊迫した状況の中で、そんな高度な治療を瞬時に思いつくなんて、本当に大したもんだわ。伊達に往診チームのチーフをやってないわね」
リナが心底感心したように深く頷く。その表情には、改めて枢に対する絶大な信頼が浮かんでいた。
「ふん、口で言うほど簡単な臨床ではない。上と下のエネルギーバランスを完璧に見極め、一寸の狂いもなく鍼を打ち込まなければ、逆に気の巡りを完全に破壊して失調させる危険な博打だ。お前はどこまでも、私に面倒な手間をかけさせる男だな、枢」
哭が腕を組んだまま、フイと横を向いていつものように毒づいた。
言葉こそ相変わらず辛辣でトゲがあったが、その深紅の瞳には、枢の組み立てた高度な根本治療を、世界最高峰の技術で完璧にサポートし切ったという、天才医師としての確かなプライドと充実感が宿っていた。
「天球儀の魔導波形、完全にフラットな正常値に戻ったよ! エンジンが悲鳴を上げていたみたいな異常な高温も、嘘みたいに綺麗に収まってる!」
操舵室の窓からハクが身を乗り出し、計器の数値を指差しながら嬉しそうに報告する。魔導エンジンの不整脈のような高音は完全に消え去り、今は静かで力強い、本来の規則正しい重低音へと落ち着きを取り戻していた。
しかし、全員が最大の危機を脱したことに安堵し、胸をなでおろす中、枢の白銀の瞳だけは、依然として目の前に広がる「静かすぎる海」を鋭く警戒の眼差しで見つめていた。彼の表情には、一切の油断も妥協もなかった。
「……不気味なほど、静かですね」
シオンが枢の隣にそっと並び、魔導書を胸に抱えながら周囲の様子を窺う。
風が全くないのだ。魔導船のメインマストに掲げられた大きな旗は、まるで凍りついたかのように微動だにせず、海面には小さなさざ波一つ立っていなかった。世界から「音」と「動き」が完全に消え去ってしまったかのような、息苦しいほどの静寂が辺りを支配している。
「ええ。風邪という病邪は、動きが速く変化が激しいのが大きな特徴ですが、実はもう一つ、非常に厄介な性質を持っています。それは『他の病邪を体内に引き連れてくる、百病の長である』という点です。これほど急に、しかも不自然に風が消えたということは、風邪が完全に消滅したのではなく――私たちの目に見えない、さらに深い身体の隙間へと潜伏し、次なる大規模な悪さを企んでいる可能性が非常に高いのです」
枢のその冷静な予言が、まるで引き金となったかのように、無風の海に再び不穏な変化が起き始める。
鏡のように滑らかだった海面の遥か向こうから、今度は風ではなく、じわじわと視界を侵食するような『赤黒い、ねっとりとした不気味な霧』が、音もなく、しかし確実にこちらへと這い寄ってきた。それは、大気をじっとりと湿らせ、不快な重さを伴って魔導船を包み込もうとしていく。
風邪がその身を潜め、次に呼び寄せた新たなる五邪の影。世界を蝕む病の深淵は、まだ始まったばかりだった――。
第524話「嵐のあとの無風!潜伏する病邪と次なる一手」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
枢先生と哭先生の完璧な連携によって、世界を揺るがしていた激しいめまいの怪異を脱したものの、不気味な無風状態から次なる異変がこれ以上ない緊迫感で這い寄る展開をお届けいたしました。
今回は、作中で枢先生が話していた「風の病邪が持つ厄介な性質」について詳しく解説いたします。
東洋医学の古い言葉に「風は百病の長なり」というものがあります。これは、風の病邪(風邪)が単独で悪さをするだけでなく、他の様々な病気の原因を身体の奥深くへと引き連れてくるリーダーのような役割を果たすという意味です。作中で急に風が止んだのは、風邪が退散したわけではなく、他の病邪を呼び寄せながら、より深いところへ隠れたサインでした。現れた赤黒い霧が何を意味するのか、往診チームの次なる戦いにご注目ください。
日曜日の夜21時、一週間の締めくくりとなる大切な夜のひとときをお過ごしのことと存じます。
「明日からの仕事のことを考えると、なんだか胃のあたりが重くなる」「休日の終わりに向けて、少しずつ身体が緊張して硬くなってきた気がする」という方は、自律神経の切り替えがうまくいかず、身体の防衛力が揺らぎやすくなっているサインかもしれません。
そんな時は、お布団に入る前に、手首の内側(横ジワから指3本分ほど肘側へ進んだ中央)にある「内関」というツボを、反対側の親指で心地よい強さでじわーっと押してみてください。お腹の緊張や不安を和らげ、深く心地よい眠りへと導いてくれますよ。明日からの新しい一週間を元気に迎えるために、ぜひ今夜のケアとして試してみてくださいね。
めまいを克服した往診チームの前に現れた、赤黒い未知の霧。この霧の奥に潜む、次なる世界の歪みとは一体何なのか――。
明日からの新しい一週間の始まりとなる次なる第525話は、明日月曜日の【12:00】にお昼休みの定期更新を予定しております。赤黒き霧の奥で往診チームを待ち受ける新たな clinical な激闘を、どうぞお楽しみに。




