第479話「霧深き夜の倉庫街!深海の呪いと気道を拓く列缺」
昼間のドックで見事な往診を行い、船乗りたちに平穏な凪を取り戻した往診チーム。
しかし、夜の帳が下りたマルセイユの港に、さらなる不穏な影が忍び寄ります。
ギルドの残党が持ち出した禁忌の小瓶「深海の呪い」――それは、吸い込んだ者の呼吸器を瞬時に麻痺させ、溺水状態に陥らせる最悪の魔導毒気でした。
突如として夜の港を襲う、息もできないほどの「喘鳴」とパニック。
逃げ場のない夜の倉庫街で、リナの冷徹な狙撃と、聖鍼師・枢先生の白銀の長鍼が、呼吸を奪われゆく人々を絶望の淵から救い上げます。
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「呼吸は命の循環そのものです。利権を失った腹いせに、人々の肺を、気道を塞ごうというのなら、私のこの一鍼が、その邪気(毒気)を速やかに打ち払いましょう! ハクさん、ネネさん、空気を清める調合を! 皆さん、夜間の緊急往診、開始します!」
21時、木曜夜の更新。世界往診紀行編・マルセイユ編中編、第479話!
一日の終わりを迎える夜のひとときに、息詰まる緊迫感とプロフェッショナルの執念が交錯する夜間救命バトルをお届けします!
ガス灯の明かりが濃い海霧に滲む、マルセイユの裏倉庫街。
昼間の活気が嘘のように静まり返ったその一角で、突如、激しい「ゲホゲホッ!」という苦しげな咳込みと、ヒューヒューという奇妙な呼吸音が響き渡った。
「……始まったわ。夜霧に紛れて、何か異質な成分が空気中に散布されている。ガストン、シオン、絶対に口と鼻を塞いで!」
倉庫の屋根の上に伏せていたリナが、愛用の魔導銃を構えながら、通信魔石へ向けて緊迫した声を放った。
「う、うおっ……!? なんだこれ、急に胸が締め付けられて……息が、吸えねえ……っ!」
昼間に枢が治療した船長や、夜間警備に当たっていた若い船乗りたちが、次々と喉を掻きむしりながら石畳の上へと倒れ込んでいく。彼らの唇は瞬く間に紫色に変色し、まるで海の中に無理やり引きずり込まれたかのように窒息しかけていた。
「クソッ、これがさっきの私兵が言ってた『深海の呪い』ってやつか! 卑劣な真似をしやがって……!」
ガストンが自らの服の袖を引きちぎり、濡らして船長たちの口元を覆うが、霧状の毒素は皮膚からもじわじわと肉体を侵食していく。
「あはは……これは酷いな。肺の経絡(肺経)の気が完全に遮断され、肺胞がギチギチに痙攣を起こしている。ネネ、すぐに大樹海の『天生薄荷』の葉をすり潰せ! 私が中和の揮発陣を術式で展開する!」
ハクが片眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、往診鞄から取り出した特殊な青い液体を地面に叩きつけた。
「了解! ウチの特製ハッカ、全力ですり潰すよ! みんな、この香りを思いっきり吸い込んで!」
ネネがすり鉢の棒を猛烈な速度で回転させると、倉庫街にツンと鼻を突く強烈な清涼感が広がり、一時的に毒霧の侵食が食い止められる。
「シオンさん、風の術式でこの清涼な空気を患者たちの肺へ送り込んでください。リナさん、霧の向こうの『発信源』を!」
「了解よ、枢先生。……見つけたわ。あの3番倉庫の影、黒いマントを着て魔導の散布器を握っている男。――私の射線からは逃がさない!」
リナが引き金を引くと、放たれた閃光弾が正確に散布器のノズルを撃ち抜き、毒霧の供給源を完全に破壊した。
「よくやった、リナ! ――残る邪風は、僕の障壁で完全に遮断します!」
シオンが魔導書を掲げ、清浄な空気だけを循環させるドーム状の結界を急造した。
「皆さん、素晴らしい判断です。……これより、塞がれた気道の関門をすべてこじ開けます!」
黄金の陽気を纏った聖鍼師・枢が、息絶え絶えになっている船長たちの元へと音もなく膝をついた。
彼が狙いを定めたのは、両手首の内側、親指の付け根の骨の突起の上、橈骨茎状突起のわずかな窪みに位置する、肺の機能を一瞬で覚醒させるための名穴だった。
「手太陰肺経の絡穴であり、任脈に通じる八脈交会穴――列缺を穿ちます」
チクリ、と一瞬の鋭い刺激とともに、枢の白銀の長鍼が、左右の手首の列缺へと完璧な角度で滑り込んだ。
「列缺は、肺の経絡の滞りを劇的に貫通させ、外から侵入した『風邪』や毒素を体外へと発散させる最高峰の要穴です。さらに任脈を通じて、喉や気管支の痙攣をその場で強力に解除し、塞がれた気道を広げて、肺の『宣発・粛降(空気を出し入れする力)』を極限まで回復させます!」
一鍼が下された瞬間――。
「――ハァァァァァッッ!!!」
船長の口から、ドス黒い紫色の澱んだ空気が激しく吐き出され、次の瞬間、彼の肺が大きな音を立てて新鮮な清涼気を取り込んだ。
喉のヒューヒューという喘鳴が一瞬で消え去り、顔面にかすんでいた死相が、みるみるうちに健やかな血色へと上書きされていく。
「はぁ、はぁ……! た、助かった……! 胸のバネが壊れたみたいに動かなかったのに、先生が手首を突いた瞬間、一気に空気の通り道がドカンと開いたぞ……!」
船長が涙を流しながら、自らの胸を何度も確かめる。
「手首の列缺で肺の関門を拓き、ネネのハッカで気管支を潤す……。ふん、相変わらず無駄のない、鮮やかな大往診だ」
ハクが満足そうに不敵な笑みを浮かべ、アルコール綿を枢へと手渡した。
周囲の船乗りたちも次々と列缺の一刺しによって呼吸を取り戻し、シオンの結界の中で、静かに安堵の息を漏らし始めていく。
「……逃がさないわ」
その時、倉庫の屋根からリナの鋭い声が響いた。
散布器を破壊され、霧の奥へと脱走しようとしていた黒マントの男の足元へ、リナの威嚇射撃が正確に突き刺さる。
「ひっ……! 狂気の大血清も、深海の呪いも通用しないなんて……! 聖鍼師の往診チーム、化け物か……っ!」
ガストンがその男の襟首を後ろからガシッと掴み上げ、まるで小猫のように軽々と持ち上げた。
「おいおい、化け物とは失礼だな。俺たちはただの『往診チーム』だ。お前らの歪んだクスリに泣かされてる患者を、一人残らず救うのが仕事なんだよ!」
捕らえられたギルドの残党の男は、恐怖に震えながら、マルセイユの最奥に眠る最後の真実を吐き出し始めるのだった。
第479話「霧深き夜の倉庫街!深海の呪いと気道を拓く列缺」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
夜の倉庫街を襲う最悪の毒霧に対し、リナさんの正確無比なノズル狙撃、ガストンさんの迅速なケア、シオンさんの清浄結界、そしてハクさんとネネちゃんの「天生薄荷」の空間中和から、枢先生の「列缺」による劇的な気道解放の一刺しという、息詰まる緊迫感に満ちた夜間の救命コンビネーション、お楽しみいただけましたでしょうか!
昼の第478話で描かれた「翳風」による耳のめまい治療に続き、夜は呼吸器の緊急事態に対し、的確な経絡のスイッチを入れて一瞬で救い出すという、枢先生のプロとしての圧倒的な臨床能力が、夜霧の映像美の中で鮮やかに描き出されましたね。
今回は、急激な気管支の痙攣や呼吸困難を劇的に解消し、肺の機能を呼び覚ますために枢先生が用いた、手首の非常に重要な名穴、列缺の効能について解説させていただきます。
東洋医学において「列缺」は、手太陰肺経の絡穴であり、身体の正面を流れる「任脈」とも深く繋がる『八脈交会穴』の一つです。
ここは、喉や肺、気管支といった呼吸器系全体のトラブルを解決するための最大の要所であり、外からの邪気によって塞がれてしまった気道を一気にこじ開け、激しい咳や喘鳴、呼吸困難、さらには偏頭痛や首の強烈な凝りをその場で緩和する劇的な効果を持っています。
現代における気管支喘息の急性発作のケア、風邪による激しい咳込みの更生、喉の痛みの解消などにも臨床で最優先されるこの素晴らしい名穴を、急性毒物の中毒症状からの救命へと応用してみせる枢先生の知識の深さには、改めて感銘を受けましたね。
見事にマルセイユの夜の危機を退け、黒マントの残党を拘束した往診チーム。しかし、男の口から語られたのは、この港町の地下水道に隠された、旧ギルドの膨大な「負の遺産」の存在でした。
次なるマルセイユ編の大クライマックス、第480話は明日【8:00】に更新予定です。
金曜朝の通勤・通学のひとときに、往診チームが地下水道の闇に挑む決死の治療バトルと、マルセイユ編の堂々たる完結を、ぜひお楽しみに!




