第428話:新たなる朝、聖鍼師の休日とリナの隠された願い
忘却の島アムネシアを覆っていた禍々しい因果の霧は完全に晴れ渡り、水平線からは、この数千年間で最も清々しい朝日が昇っています。
昨夜、枢先生が命を懸けて行った「島全体の往診」により、死の島は生命の息吹が萌え出ずる聖域へと生まれ変わりました。
「おやおや。リナさん。おはようございます。今日の空気は。いつになく。透き通っていますね。往診鞄の中の。銀鍼たちも。心なしか。満足そうに。眠っていますよ。……いえ。眠っているのは。私の方かも。しれませんね。これほど。深く。穏やかな眠りは。カナタと呼ばれていた。あの頃以来。初めてのことですから」
枢先生の右腕からは黒い錆が消え、朝日に照らされたその肌は、白銀の気と相まって神々しく輝いています。
8時、朝の往診。新たなる朝、聖鍼師の休日とリナの隠された願い。
戦いを終えた一行に、束の間の、しかし何よりも尊い休息の時間が訪れます。
アムネシアの黒かった砂浜は、浄化の余波によって、雪のように白い輝きを放つ美しい浜辺へと変貌を遂げていた。
波の音はもはや死者の溜息ではなく、世界の鼓動そのもののように、リズミカルで力強い。
枢は、大講堂の入り口近くに置かれた古びたベンチに深く腰掛け、水平線から溢れ出す光の粒を見つめていた。
彼の傍らには、いつも片時も離さなかった往診鞄が、今は静かに口を閉じて置かれている。
「先生、まだ寝ててよかったのに。昨日の今日なんだから。計測器がね。壊れちゃったかと思うくらい、この島の生体エネルギーが跳ね上がっているんだ。見てよ、この数値。昨日の地獄が嘘みたいだ。先生。本当にお疲れ様。……でも、もう無茶はしないでよ」
ガストンが、機能を回復し、もはや黄金色に発光し始めた計測器を誇らしげに見せながら、枢の隣に座り込んだ。
彼の顔には、一晩中島の調査を続けていたであろう疲れが見えるが、その瞳はかつてないほど明るい。
枢は、再生したばかりの右手をゆっくりと握り締め、その感触を確かめるように微笑んだ。
「おやおや。ガストン。……無茶をしたのは。私だけでは。ありませんよ。……あなたの。計測器が。……そして。シオンの。知恵が。……リナさんの。勇気が。……この島を。……完治させたのです。……私は。ただ。最後に。鍼を。一刺し。したに。過ぎません」
「またそんなこと言って。……でも、まあいいや。今日は休みだ。先生。今日は僕が、この島で採れた不思議な果実で、特製のジュースを作ってあげるよ。毒性チェックは完璧さ」
ガストンが元気よく走り去るのを見送り、枢は再び目を閉じた。
風が、枢の銀髪を優しく揺らす。
その風の中に、シオンが静かに歩み寄ってきた。
彼女の魔導書は、因果の浄化を記録し終えたのか、今は穏やかな青い光を宿している。
「枢。……信じられないわ。……因果の法則を根底から書き換えるなんて。……でも、おかげで私の研究は、最初からやり直しよ。……世界のゴミ捨て場を、楽園に変える医学なんて、どの禁書にも載っていなかった。……あなたは、一族の歴史どころか、錬金術の歴史まで変えてしまったのよ。……カナタ。……いいえ。……聖鍼師・枢。……あなたは。……これから。……どこへ向かうつもり」
シオンの問いに、枢はしばらく沈黙を守った。
その沈黙は、かつてのような迷いではなく、未来を診据えるための、深い思考の時間であった。
「シオン。……私は。……これからも。……往診を。……続けるだけです。……この島は。……救われました。……ですが。……世界には。……まだ。……自分の痛みを。……言葉にできない。……多くの。……患者さんが。……待っています。……私は。……彼らの。……心の。……脈拍を。……診てあげたい。……ただ。……それだけなのです」
「そう。……あなたらしいわね。……でも、少しは自分を労りなさい。……リナが、さっきからあなたの様子をずっと伺っているわ。……彼女の願い、あなたは気づいているはずでしょう。……鈍感な医者は、患者の心を殺すこともあるわよ」
シオンは茶化すように笑うと、風のように去っていった。
入れ替わるように、背後からリナがゆっくりと姿を現した。
彼女は、黄金の気を纏っていた昨日までの凛々しい姿とは打って変わり、どこか所在なさげに、自身の指先を弄んでいた。
「枢。……起きてる。……起こしちゃったかな」
「おやおや。リナさん。……おはようございます。……起きていますよ。……潮騒が。……心地よくて。……少し。……微睡んで。……いただけです」
リナは枢の隣に座り、しばらくの間、二人で海を見つめていた。
昨夜の激闘の中で、二人の気は融合し、魂の深淵で触れ合った。
言葉にする必要がないほど、二人の絆は強固なものになっていたが、だからこそ、リナには伝えなければならない願いがあった。
「枢。……私、決めたの。……昨日、あなたの錆を見た時、私、本当に怖かった。……あなたがどこか遠くへ、私の手の届かない場所へ行ってしまうんじゃないかって。……だから。……お願いがあるの」
リナの声は、波の音に紛れてしまいそうなほど、小さく、しかし真っ直ぐだった。
「願い、ですか。……リナさん。……私に。……できることなら。……何でも。……言ってください。……あなたの。……救ってくれた。……この命。……使い道は。……あなたが。……決めて。……良いのですよ」
「そんな大げさなことじゃない。……でも、私にとっては、世界を救うより大事なこと。……枢。……これからの往診、私もずっと隣にいていいかな。……助手としてだけじゃなくて。……一人の、リナという人間として。……あなたの隣で。……笑っていたい。……あなたの。……心の往診は。……私が。……担当させてほしいの」
リナの頬が、朝焼けよりも赤く染まる。
枢は驚いたように目を見開いたが、やがて、その表情は慈愛に満ちた、柔らかなものへと変わっていった。
彼は再生した右手を伸ばし、リナの震える手を、優しく包み込んだ。
「おやおや。……それは。……大変な。……重労働に。……なりますよ。……私の。……心は。……案外。……頑固で。……偏屈ですから。……リナ先生。……診察料は。……高く。……つきますよ」
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「……いいわよ。……一生かけて。……払ってあげる。……だから。……約束して。……もう一人で、因果を飲み込まないって」
二人の間に、柔らかな笑い声が溢れた。
数千年の呪縛を解き、アムネシアに訪れた初めての休日は、最高に贅沢で、穏やかな時間として流れていく。
だが。
港の方から、ガストンの慌てた叫び声が聞こえてきた。
「先生! 大変だ! 島の外から、見たこともない紋章の船が、こっちに向かってる! しかも、一隻じゃない。艦隊だ!」
枢とリナは、同時に立ち上がった。
平和な休日は、早くも終わりを告げようとしていた。
水平線の向こう側、霧を切り裂いて現れたのは、世界の中心を統べる『聖府軍』の白銀の艦隊であった。
神を診、世界を書き換えた男を、世界が放っておくはずはなかったのである。
つづく。
5月16日(土)08:00、聖鍼師の休日とリナの願い。
束の間の休息、そして新たなる脅威。
10時、土曜の特別更新は、第429話「聖府軍の来襲、秩序の守護者と枢の新たな決意」へと突入する。
第428話「新たなる朝、聖鍼師の休日とリナの隠された願い」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
因果の激闘を終え、アムネシアに訪れた美しい朝。
枢先生とリナさんの間にある、言葉を超えた絆。
そしてリナさんが勇気を持って伝えた「隣にいたい」という願い。
聖鍼師としてではなく、一人の男としての枢先生が、その願いを優しく受け止めるシーンは、これまでの過酷な旅路を象徴するような、温かな時間となりました。
しかし、平穏は長くは続きません。
世界の理を変えた枢先生の力を恐れ、あるいは利用しようとする『聖府軍』の影。
一難去ってまた一難。
枢先生たちの往診の旅は、ここからさらに大きな、世界のうねりへと巻き込まれていくことになります。
次回の第429話は、本日【10:00】に更新予定です。
聖府軍の圧倒的な武力に対し、枢先生はどう立ち向かうのか。
皆様の応援が、執筆の最大の気となります。
10時、不穏な影が迫るアムネシアの港にて、再び皆様とお会いできることを楽しみにしております。




