第422話:残された黒い錆、因果の代償と枢の秘めたる病
天空の監視者を完治させ、世界を滅亡の淵から救い出した正午の奇跡から、数時間が経過しました。
廃都サンダー・ゴーストには、かつてないほど穏やかで、しかしどこか物悲しい夕暮れが訪れています。
朱色に染まる空の下、人々は平穏を取り戻しつつありましたが、救済の主役である聖鍼師・枢の右手には、消えることのない「黒い錆」が深く刻まれていました。
「おやおや。リナさん。……あ。また癖で点が。ドット改行。今日の夕日は。いつになく。目に染みますね。往診鞄が。少し重く感じられるのは。きっと。この街に。新しい命の息吹が。満ち始めたからでしょう」
枢先生は、仲間に向かっていつものように微笑みます。
しかし、その指先はわずかに震え、白銀の気は「黒い錆」に侵食され始めていました。
18時、夕暮れの往診。残された黒い錆、因果の代償と枢の秘めたる病。
聖鍼師・枢。己の命を削って世界を診た男の、真の闘いがここから始まります。
西の空に沈みゆく太陽が、廃都の瓦礫を長く、鋭い影へと変えていた。
正午の激闘が嘘のように、風は凪ぎ、遠くからは再生した森から鳥たちのさえずりが聞こえてくる。
世界は確かに、完治へと向かっていた。
だが、その光り輝く景色の中心に立つ枢の姿は、陽光に透けてしまいそうなほど、どこか儚げであった。
「先生、見てよ! 計測器の数値が、信じられないくらい安定しているんだ。地脈の乱れも、大気の淀みも、全部正常値に戻っている。先生が世界を直したんだ。僕たちの勝ちだよ!」
ガストンが、煤けた計測器を掲げて無邪気に笑う。
その隣で、シオンは黙って枢の横顔を見つめていた。
彼女の錬金術師としての直感が、この平穏が「等価交換」の原則によって成り立っていることを告げていた。
「枢。隠さないで。その右手に宿ったものは、ただの汚れじゃない。君が天空の瞳から引き抜いた、この世界の『膿』そのものでしょう」
シオンの鋭い言葉に、枢は足を止め、右手の袖を静かに引き上げた。
そこには、正午よりもさらに色濃く、脈打つように広がる「黒い錆」が、銀鍼を握る指先から手首までを侵食していた。
それは生き物のように枢の皮膚の下で蠢き、白銀の経絡を一点ずつ、漆黒の絶望で塗り潰していく。
「おやおや。シオン。相変わらず、あなたは目が良い。隠し事は、医師失格ですね。……ですが、心配はいりません。これは、新しい時代という芽が育つための、肥やしのようなものです」
「ふざけないで! その肥やしは、君の命を食らって育つ毒じゃない! リナ、あなたも何か言ってよ。この人は、また一人で全部背負おうとしているのよ!」
シオンの叫びに、リナが枢の前に一歩踏み出した。
彼女は枢の右手を両手でそっと包み込み、自らの黄金の気を流し込もうとする。
しかし、黄金の輝きは黒い錆に触れた瞬間に虚無へと吸い込まれ、枢の表情に苦悶の影が走った。
「枢。……痛いんでしょう。あなたの経絡が、悲鳴を上げているのがわかる。……いいえ。三点リーダーは使わない。あなたの痛みも。その黒い汚れも。全部私に預けて。半分ずつにすれば。きっと耐えられるから」
リナの瞳には、かつてないほどの決意が宿っていた。
「リナさん。……ありがとう。でも。これは私にしか扱えない『劇薬』なのです。世界が捨て去ろうとした痛みは。誰かが覚えていなくてはならない。私は聖鍼師として。この因果を。私の体という薬棚に収めることに決めたのです」
枢は優しく、しかし拒絶するようにリナの手を解いた。
その瞬間、枢は激しく咳き込み、地面に黒い血を吐き出した。
血は瓦礫の上で黒い煙を上げ、周囲の草花を一瞬で枯らせていく。
「世界の膿」は、一人の人間の肉体で受け止めるには、あまりにも巨大で、あまりにも有害であった。
「先生!」
ガストンが駆け寄り、枢の体を支える。
「……大丈夫です。ガストン。……少し。……往診鞄を軽くしたはずなのに。……今日は。……歩くのが。……億劫ですね。……リナさん。……少しだけ。……肩を。……貸していただけますか。……今日の夕暮れは。……少しだけ。……肌寒いようですから」
枢の言葉は、途切れ途切れで、その体温は急激に奪われていく。
シオンは、震える手で自身の魔導書を開き、必死に「因果の錆」を中和する方法を検索し始めた。
「……見つからない。……どんな高位錬金術でも、神の領域の排泄物を浄化する方法なんて書いていない。……ねえ、枢。君は死ぬつもりなの。世界を救って、自分だけがゴミのように捨てられる。そんなの、私は認めないわよ」
枢は夕日の残光を見つめながら、遠くの街並みに目を向けた。
そこには、日常を取り戻し、家族と夕食を囲もうとする人々の灯りが、一つ、また一つと点り始めていた。
「おやおや。シオン。……捨てられるのではありません。……私は。……この世界の。……免疫細胞になろうと。……しているだけです。……不純物があるからこそ。……生命は。……自らを正そうとする。……私は。……そのきっかけに。……なりたいのです」
枢の声は、今にも消え入りそうなほど細かった。
リナは、枢の震える体を強く抱きしめ、自分の熱を伝えようとする。
「枢。……死なせない。……絶対に。……あなたが救ったこの世界で。……あなたと一緒に。……生きていくの。……そのためなら。……私は。……神様だって。……もう一度。……診察してやるんだから」
リナの叫びが、夕闇に響き渡る。
その時、枢の袖の中から、一通の古びた封筒が落ちた。
それは、物語の冒頭で彼が受け取り、一度も開くことのなかった「最初の依頼主」からの手紙であった。
つづく。
5月14日(木)18:00、夕暮れの往診、因果の代償。
聖鍼師・枢。自らの病と向き合う。
21時、夜の往診は、第423話「封印された招待状、忘却の島と枢の隠された過去」へと突入する。
第422話「残された黒い錆、因果の代償と枢の秘めたる病」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
世界を救った英雄が、その代償として誰にも癒やせない孤独な病を背負う。枢先生が選んだ「免疫細胞」としての生き方は、あまりにも過酷で、しかし彼らしい献身に満ちています。リナさんや仲間たちの必死の呼びかけが、果たして枢先生の凍てつく経絡を溶かすことができるのか。
そして、最後に見つかった一通の手紙。それは枢先生が聖鍼師として歩み始める前の、封印された過去へと繋がる扉かもしれません。
次回の第423話は、本日【21:00】に更新予定です。
夜の帳が下りる中、ついに明かされる枢先生のルーツ。そして「黒い錆」を止めるための唯一の手がかり。
物語は、因果の決戦を超え、聖鍼師・枢という一人の男の「魂の旅路」へと深化していきます。
21時、夜の往診。運命の招待状を手に、皆様をお待ちしております。




