第423話:封印された招待状、忘却の島と枢の隠された過去
廃都サンダー・ゴーストを包んでいた夕紅は完全に消え去り、空には冷徹な銀の月が昇っています。
正午の奇跡、そして夕暮れの絶望。
一日のうちに天国と地獄を往復した一行の前に、古びた一通の手紙が姿を現しました。
それは、枢先生が「聖鍼師」という名を名乗る以前の、遠い過去から届いた亡霊のような招待状。
「おやおや。夜の往診は。少しばかり。冷え込みますね。リナさん。震えなくても大丈夫ですよ。この手紙には。毒も。呪いも。かかってはいません。ただ。向き合うのを。後回しにしていた。私自身の。責任が。綴られているだけなのですから」
枢先生の右手は、今や肘の近くまで「黒い錆」に侵食され、その白銀の気は夜の闇に溶け入るほど弱まっています。
しかし、その瞳だけは、手紙に記された「忘却の島」という文字を見つめ、静かに燃えていました。
21時、夜の往診。封印された招待状、忘却の島と枢の隠された過去。
ついに、聖鍼師・枢の「根源」が明かされます。
廃都の静寂は、昼間の喧騒が嘘のように重く、冷たい。
焚き火の爆ぜる音だけが、シオン、リナ、そしてガストンの間に漂う緊張感を辛うじて繋ぎ止めていた。
中心に座る枢の膝の上には、先ほど袖から落ちた一通の封筒が置かれている。
羊皮紙は黄ばみ、封蝋には「双頭の蛇」を象った紋章が刻印されていた。
それは、現存するどの国の紋章でもなく、歴史の闇に葬られた禁忌の象徴であった。
「先生。その手紙。いつから持っていたの。表面に書いてある名前。先生の名前じゃないよね。カナタ。それが、先生の本名なの」
リナの声が、夜の冷気に震えている。
枢は黒い錆に覆われた右手を、左手で静かにさすりながら、遠い地平を見つめた。
その横顔は、焚き火の揺らめく炎に照らされ、いつにも増して深く険しい。
「おやおや。リナさん。隠していたわけでは。ないのですよ。ただ。その名前で。呼ばれる機会が。あまりにも長く。失われていただけなのです。カナタ。東の果て。日の出を待たぬ一族。それが。私の。かつての呼び名です」
枢、否、カナタと呼ばれた男は、意を決したように封蝋を指先で弾いた。
中から現れたのは、真っ黒な紙に銀のインクで記された、奇妙な招待状であった。
そのインクは月光を浴びて、まるで生きているかのように怪しく脈打っている。
『親愛なる出来損ないの聖鍼師へ。
世界を治し、因果の膿を一身に引き受けた感想はいかがかな。
君が守ろうとした人々は、今この瞬間も、君の犠牲など知らずに眠りについている。
黒い錆が、君の魂を炭に変えてしまう前に。
始まりの場所。忘却の島アムネシアへ来たまえ。
君の血の中に眠る、真の治療法の続きを教えよう』
差出人の名はなかった。
しかし、その筆致を見た瞬間、枢の頬を一条の汗が伝わった。
それは恐怖ではなく、あまりにも深すぎる悔恨の現れであった。
幼き日に見た、厳格な師の背中。
万病を癒やすと謳われながら、一つの命も救えずに消えた、悲劇の一族。
その血筋を引く枢にとって、アムネシアという名は、断ち切ったはずの呪縛そのものであった。
「忘却の島。まさか。伝説だと思っていたわ。錬金術の祖たちが、そのあまりに危険な研究成果を隠滅するために、地図から消したとされる島。そこに、枢。君を蝕む錆を消す方法があるというの」
シオンが身を乗り出し、手紙を奪うようにして凝視する。
彼女の膨大な知識をもってしても、アムネシアという島は、禁書の隅に記されたお伽話に過ぎなかった。
「わかりません。シオン。ですが。この筆跡。私が。まだ幼い頃。鍼の持ち方を。気の巡り方を。そして。人の命の。儚さを。教えてくれた。あの人の。ものです。あの方は。私を出来損ないと呼びながらも。唯一。私の中に。可能性を見出してくれました」
「あの人って。先生の師匠。それとも。もっと別の関係の人なの」
ガストンの問いに、枢は答えなかった。
代わりに、彼は震える右手を焚き火の光にかざした。
黒い錆は、火の粉を浴びて不気味に共鳴し、枢の肉体を通して島の方向を指し示しているかのように疼いた。
皮膚の下で蠢く「膿」が、帰郷を求めて泣いているようだった。
「私は。聖鍼師として。多くの命を。救ってきました。ですが。それは。私自身が。かつて犯した。癒えぬ傷を。埋めるための。作業に過ぎなかったのかも。しれません。リナさん。ガストン。シオン。私は。行かなければなりません。この黒い錆が。私を。一人の人間として。終わらせてしまう前に。そして。私が。カナタという名を。捨てた理由を。清算するために」
「行くって。一人で。そんなの許さないわよ。ここまで一緒に来たのよ。神様を診察する時だって。私たちは隣にいた。過去がどうだろうと。名前がなんだろうと。あなたは私たちの枢なんだから」
リナが立ち上がり、枢の肩を強く掴む。
その瞳には、かつて救われたことへの感謝と、それ以上に、彼を一人にさせたくないという純粋な愛着が宿っていた。
彼女の手の温もりは、枢の右手の痛みを、一瞬だけ和らげた気がした。
「おやおや。リナさん。ありがとうございます。そうですね。往診には。助手の皆さんが。不可欠でした。忘却の島。そこは。過去が。現在を。飲み込もうとする場所。私の。最も。醜い部分を。お見せすることに。なるかもしれません。それでも。付いてきて。いただけますか」
「当たり前じゃない。僕の計測器。新しい島でも。バリバリ働かせてみせるよ。先生の過去だろうが。神様の排泄物だろうが。全部数値化して。僕たちが直してあげるんだ」
ガストンが力強く拳を振り上げる。
その無邪気なまでの信頼が、張り詰めた夜の空気を少しだけ和らげた。
「毒食わば皿まで。あなたの病を直すのは。医者であるあなたの仕事。でも。その診察室を。用意するのは。私たちの役目よ。行きましょう。その忘却の島へ。世界の理を変えた君が。たかが自分の過去に負けるなんて。私の美学が許さないわ」
シオンもまた、溜息をつきながらも、魔導書をしっかりと抱え直した。
枢は立ち上がり、夜の闇に向かって深く一礼した。
それは、かつて自分を見捨て、あるいは自分が見捨ててきた、かつての自分への決別と。
これから始まる、真の意味での自己往診への覚悟であった。
月光が、一行の背中を照らす。
廃都の出口へ向かう彼らの足取りは、昼間の疲労を感じさせないほどに、鋭く、確かなものへと変わっていた。
枢の右手の錆は、まるで導き手のように、夜の海、その先に眠る絶海の孤島へと脈動を強めていく。
銀鍼が、袖の中でかすかな音を立てた。
それは警告か。それとも、再会への歓喜か。
一行は廃都を背にし、かつて文明が栄え、今は波音だけが響く港へと向かう。
夜の海は、これから始まる過酷な旅を予見するように、深く、重く、うねっていた。
枢は心の中で、自分を呼ぶあの人の声を聞いた気がした。
「さあ。参りましょう。夜明け前が。最も。暗いものです。ですが。私たちは。光を知っている。……いえ。光を。創り出す術を。知っているのですから」
つづく。
5月14日(木)21:00、封印された招待状、忘却の島。
聖鍼師・枢。過去への往診。
明日、5月15日(金)8時、朝の更新は、第424話「荒れ狂う因果の海、忘却の島への船出とリナの決意」へと突入する。
第423話「封印された招待状、忘却の島と枢の隠された過去」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
物語はいよいよ、枢先生の根源へと踏み出しました。
聖鍼師として万人の病を癒やしてきた彼が、なぜこれほどまでに献身的で、かつどこか自己犠牲的なのか。
その答えは、彼が捨て去った名前「カナタ」と、禁忌の島「アムネシア」に眠っています。
彼を蝕む黒い錆は、単なる世界の毒ではなく、彼の過去そのものが具現化したものなのかもしれません。
リナさん、ガストン、シオン。
枢先生が信頼する仲間たちと共に、彼は自らの魂の最深部へと往診に向かいます。
次回の第424話は、明日【8:00】に更新予定です。
朝の光と共に始まる、決死の航海。
荒れ狂う海を越え、一行を待ち受けるのは、救済か、それともさらなる絶望か。
皆様の熱い応援が、執筆の最大のエネルギーです。
明日の朝、水平線の彼方に浮かぶ忘却の島にて、再び皆様とお会いできることを楽しみにしております。




