第271話:子守唄の防波堤、神の猟犬を「静止の鍼」で屠る
静まり返った王都。そこは、大人のいない「迷子の楽園」へと変わり果てていました。
第四章:忘却の聖者と翡翠の巡礼、第32話(通算第271話)。
『時逆の甘露』によって幼子となった民衆。彼らは無邪気に眠りについていますが、その甘い「時間の香気」は、次元の狭間で飢えていた神の猟犬たちを呼び寄せてしまいました。
月明かりの下、鋭い爪を研ぎ、子供たちの「未来の芽」を喰らおうとする異形の獣たち。
立っていることさえ奇跡のような枢は、自身の折れた右腕を、一本の「巨大な鍼」として大地に突き立てます。
「……子供たちの……夢を……邪魔する……者は、……。……たとえ……神の……使いであっても、……私が……往診して……差し上げましょう」
21時、本日最後の更新。沈黙の守護、子守唄の外科往診。
聖鍼師・枢、その命を灯火に変えて。どうぞ最後までお読みください。
王都の広場は、銀色の月光に照らされ、不気味なほどに静まり返っていた。
そこら中に、眠りについた子供たちが転がっている。かつてこの街を守っていた騎士も、パンを焼いていた主も、今はみな、無垢な寝息を立てる幼子となっていた。
彼らが放つのは、濃密な「若さ」という名の魔力。
それは、次元の境界線に潜む捕食者たちにとって、何よりも芳醇な獲物の香りに他ならなかった。
――グゥゥ、……。
王都の門、その影から這い出してきたのは、全身が黒い体毛ではなく「記述の染み」で構成された異形の獣――神の猟犬。
彼らには実体がない。ただ、獲物の「時間」を噛み砕き、その存在を過去から現在まで根こそぎ喰らい尽くす、神アルキメスが放った「処刑人」の残滓。
「……来ました……ね。……。……お静かに。……。……子供たちが……起きて……しまいます……」
広場の中心で、枢は杖を横に置き、地面に深く腰を下ろしていた。
彼の右腕は真っ黒に焼け、左手は震えが止まらない。
だが、その背後で眠る十歳のミナを守るように広げられた彼の「気」は、王都全体を覆う、巨大な翡翠色のドーム(結界)を形成していた。
枢は、自身の左手で、自身の胸にある**『神蔵』**を、自身の自身の残り少ない生命力を、すべて「子守唄の共鳴」へと変換するために、指先で抉るように強く圧迫した。
猟犬たちが、一斉に枢へと飛びかかる。
その牙は、物理的な肉体ではなく、枢の「寿命」を直接引き裂こうと迫る。
枢は、懐から十本の、透明な「硝子の鍼」を取り出した。
それは、自身の存在を希薄化させ、敵と同じ「記述の次元」で戦うための、自己犠牲の鍼――『透明な往診』。
「……あなたたちに……、……明日の……味は……教えられません。……。……代わりに……、……永遠の……夜を……処方しましょう」
枢は、自身の左指を、自身の額にある**『印堂』**へと、自身の全意識を「神の記述」の裏側へと滑り込ませるために、深く、深く突き立てた。
一斉に放たれた十本の硝子鍼。
それは空中で翡翠の光の筋となり、猟犬たちの「記述の心臓」を、正確無比に射抜いていく。
――キィィィィィィィィンッ!!
悲鳴さえ上げられず、猟犬たちが文字通り「文字」となって分解され、夜風にさらわれていく。
だが、敵の数は数千。
一本の鍼を打つたびに、枢の髪は白く染まり、その肌からは潤いが失われていく。
枢は、自身の左手で、自身の腰にある**『志室』**を、自身の自身の肉体が崩壊するのを無理やり繋ぎ止め、最後の「一滴」まで気を絞り出すために、逆手に持った鍼筒で激しく殴りつけた。
――ドォォォォォォォンッ!!
枢の全身から、鮮血ではなく、翡翠色の「霧」が噴き出した。
彼は、地面に倒れ伏したミナの髪を、自身の動かない右手で、自身の優しく撫でる。
「……大丈夫……ですよ。……。……もう少し……、……あと少し……だけ、……。……私が……、……盾に……なります……」
三本目の極太鍼。自身の全因果を賭した、最終防衛鍼。
枢は、自身の左指を、自身の首の付け根にある**『風府』**へと、自身の自身の脳を「世界の記述の消しゴム」へと変質させるために突き立てた。
――カァァァァァァァァァッ!!
王都を包む翡翠のドームが、白銀の光へと反転した。
その光に触れた猟犬たちは、存在そのものを「なかったこと」にされ、虚空へと還っていく。
それは、聖鍼師による「世界の修正」。
夜明けが、近づいていた。
最後の猟犬が消えた時、枢の瞳からは、ついに翡翠の光さえ失われていた。
彼は、自身の左手で、自身の腹部にある**『関元』**を、自身の自身の自身の役目が終わったことを確認し、静かに経絡を閉じるために、掌で包み込むように押さえた。
第271話。
聖鍼師・枢は、たった一人で「神の猟犬」の群れを屠り、子供たちの眠りと、王都の未来を、自身の生命を担保にして守り抜いた。
東の空が、白み始める。
枢は、眠る子供たちの中に静かに横たわり、自身の自身の自身の安らかな溜息と共に、ゆっくりと目蓋を閉じた。
その顔には、一人の患者を救い切った後のような、この上なく満足げな微笑みが浮かんでいた。
本日も、日曜日・全6回更新という、文字通り死闘のような連載合宿を、最後まで見守ってくださり、本当に、本当にありがとうございました。
第四章の第32話(通算第271話)。
大人を失い、無防備になった王都。そこに忍び寄る「神の猟犬」という絶対的な脅威。
ボロボロの身体で、それでも「医者の本分」として、眠る子供たちの夢を守り抜いた枢の姿を描きました。
自身の存在を削り、記述を消去してまで敵を退ける。それは鍼を打つという行為を超えた、究極の「自己犠牲による往診」でした。
今回、枢が神の猟犬を消滅させ、王都に静寂を取り戻すために駆使したツボの技術を解説します。
まず、自身の生命力を「波」に変え、周囲を包み込む結界へと昇華させた**『神蔵』**。胸にあるこのツボは、魂の居所とも言われ、枢はここを震わせることで、自身を一本の「音叉」に変え、猟犬たちの攻撃を無効化する聖域を作り出しました。
そして、肉体の限界を超えて、最後のエネルギーを強制的に汲み上げるために用いた**『志室』。腰にあるこのツボを激しく刺激することで、枢は自身の細胞が蓄えていた「未来の寿命」を前借りし、猟犬たちと対等に渡り合うための莫大な気を手に入れたのです。
最後に、自身の脳そのものを「世界の記述の演算器」へと直結させ、敵を存在ごと消し去るために突いた『風府』**。首の後ろにあるこのツボは、神の意思が流れ込む門とも言われます。枢はここを自ら穿つことで、神アルキメスが残した「消去」の権限を一時的に奪い取り、猟犬たちを虚無へと還したのでした。
次回の第272話(第四章 第33話)は、明日月曜日**【08:00】**に更新予定です。
夜が明け、目覚める人々。
しかし、そこには、真っ白な髪になり、ピクリとも動かなくなった枢の姿がありました。
「……おじいちゃん、……。……どうして、……寝てるの……?」
かつてミナだった少女が、冷たくなった枢の手を握ったその時、王都の空から、神亡き後の世界を導く「新しい光」が降り注ぎます。
月曜日の朝、蘇生と変革。
聖鍼師・枢、自身の「葬儀」を自身で往診する。どうぞお見逃しなく!




