36.魔法使いと帰省(2/4)
ガツン!
「いっ――!」
眉間に衝撃が走り、思わず飛び起きた。
その正体はすぐに分かった。
マリカの裏拳だ。
マリカは寝起きが良くないのだけれど、それ以上に、寝相が良くない。
いや、悪い。とても悪い。
何度やられたか分からない。
そして、それはマリカも知っている。
「私と寝るなんて、本当にいいの……?」
寝入り前、マリカは心配そうに言った。
「こんなにいっぱい枕があるんだから、壁を作っておけば大丈夫だよ!」
そう言って築いた枕の砦は、見るも無残に決壊している……。
眉間の痛みが引いてきたころ、ふと気付いた。
辺りは暗く、到着にはほど遠い時間のはず。
それなのに、馬車が止まっている。
マリカを起こさないように――まあ絶対起きないけれど、カーテンの脇から窓の外を覗き見ると、うっすらと明るかった。
太陽の光ではなく、照明魔法のオレンジ色の光だ。
その光の下で、ツバキ先輩や御者さんたちが何やら作業をしていた。
おそらく、馬を交代しているのだ。
その作業を眺めていたら、ふと顔を上げたツバキ先輩と目が合った。
なんとなく会釈をすると、ツバキ先輩がこちらに駆け寄ってきた。
慌てて窓を顔ひとつ分だけ開ける。
「すみません、物音で起こしてしまいましたか?」
「いえ、たまたま目が覚めてしまって」
ひゅう、とひんやりした風が頬を打つ。
魔装置の空調が効いた馬車の中より外のほうが涼しい。
夜とはいえ、真夏なのに。
「すごく涼しいですね」
「ええ、この辺りは水田が多い地域ですから」
そうか、田んぼか。
春花州に来てから涼しいのは、きっと田んぼのお陰でもあるんだろう。
涼風には土の匂いのようなものが混じっていて、なんだか安心する。
「春花の水田はとてもきれいなんですよね!」
どこかで聞いたことがあった。
春花の広大な水田は、水面が鏡面のようになって幻想的なのだ、と。
どんな風景なんだろう。
馬車からでも見えるかな。
「よろしければ坊ちゃんと一緒に御者台に乗られてはどうです?」
ツバキ先輩の後ろからおどけるような声がして顔を上げる。
声をかけてくださったのは、御者として紹介を受けた、魔法使いの男性だった。
第一印象は、『お洒落な方』。
外套もズボンも靴も、仕立ての良いものを着こなしていたから。
お名前は確か、レイさんだ。
ツバキ先輩から紹介を受けて「レイ様」と呼んだら「そんな大層なものではないですよ」と言われ、レイさんと呼ぶことになった。
「ですがレイさん……」
ツバキ先輩が困った顔で何か言おうとしたのを、レイさんが遮る。
「いいではないですか。何事も社会勉強ですよ。肌で春花を感じていただける良い機会でしょう。決して、私がサボりたいわけではないんですよ?」
そう言ったそばから、レイさんは「ふわぁ」っと大あくびをした。
すごく眠たそう……。
「あの、ツバキ先輩さえよろしければ、私、ご一緒してよろしいですか?」
レイさんに休息を取ってほしいという気持ちが半分。
もう半分は、春花州の水田を見てみたい、ただの好奇心だ。
ツバキ先輩は一瞬迷って、けれども頷いてくださった。
「分かりました。少しでも眠気を感じたら仰ってくださいね」
そうして御者台に上がると――視界が開けた。
二頭の魔馬の背中は堂々としていて、月夜に煌めくたてがみは魔馬たちがどれほど大事にされてきたかが分かる。
ツバキ先輩が手綱を引くと、魔馬たちはゆっくりと動き出した。
厩舎を出て、だんだんと民家がまばらになってくる。
「ツバキ先輩、すみません。ご迷惑でしたか?」
「いいえ、とんでもない! 疲れが残らなければいいのですが」
「私は明日からめいっぱい休みますから大丈夫です!」
私がそう言うと、ツバキ先輩は笑ってくださった。
「さあ、そろそろです」
そうして水田に差し掛かり、景色を見ると――稲がぼうぼうに生い茂っていて、水面は見えない。
……ちょっと、想像と違う。
「この時期はすでに稲の背丈が伸びていまして、期待ほどのものではないかと……」
「そ、そうですか……」
残念に思いながらも……自然と水田に目を奪われる。
向こうの山々から流れる山風で稲穂が揺れ、一枚の水田がまるで布のようにうねる。
押し寄せてくる風が目に見えるようだった。
さあっという葉擦れの音が心地いい。
乾いた地面を蹄鉄が踏みしめる音、馬車の軋みと車輪が小石を弾く音、虫の声――と、それ以上にやかましいカエルの大合唱。
頭上に真ん丸のお月さまがいて、橙色の照明魔法が前方を淡く照らし、無数の星屑が瞬いている。
遥か遠くで星空を切り取っているのは、隣国『白国』の霊峰だ。
その闇色に、吸い込まれそう――。
びゅう、っと一際強い風が吹く。
思わず身震いしたそのときだ。
「少し冷えますね」
私の肩に魔法でふわりと外套が掛けられた。
外套に刺繍されているのは、春花侯爵家のツツジを模した紋様――ツバキ先輩のものだ。
振り向くとツバキ先輩は上衣だけになっていた。
「す、すみません!」
「いえ、私は慣れていますから」
よく見てみればツバキ先輩は、夏場にしてはやや厚手の、七分袖の上衣を着ていた。
冷えると分かっていたんだろう。
それでも寒そうなのですぐに返そうとして……、仄かな温もりが残る外套を心強く感じてしまって、やっぱりご厚意に甘えることにした。
「ありがとうございます。でも、寒くなったらお返ししますから、仰ってくださいね?」
「ええ、ありがとうございます」
ツバキ先輩は穏やかな笑みを一層深くして、前へと向き直り――剣呑に引き締まる。
手綱を鋭く引き、馬を止める。
その表情はクラス対抗戦のとき以来で、思わず息を呑む。
「魔物ですね」
そう呟いたツバキ先輩の視線の先を見ると、闇に浮かぶ目玉もまた、こちらをギロリと睨んでいた。
気付けば、虫もカエルもひっそりと静まり返っていた。
次話投稿は 2026/5/13 21:00 です。




