戦火の西に降り立つ銀の乙女
西の国が牙を剥いたのは、突然のことではなかった。
じわり、じわりと、密偵と兵糧攻めを交えたいやらしい侵攻が、王国の国境を侵食していった。
そして、ついに戦端が開かれてから一年。
西を守護する第三軍は、すでに壊滅的な損耗を被っていた。
団長は戦死、副官も、師団長たちも次々に斃れ、残ったのは寄せ集めの残兵と、焦土と化した村々ばかり。
街は焼かれ、民は蹂躙され、王国の誇りであった西方の豊かな平野は、炎と血で染め上げられた。
それでも敵軍の進撃は止まらなかった。
国境の砦はすでに無力で、王国の大地は削り取られ続けていた。
そして――その空白を埋めるようにして、ひとりの少女が前線への派遣を願い出た。
名はセレン・カリス・レオント。
齢、十六。
だがその名を知らぬ者は王都にはもういなかった。
銀糸のごとき髪と、陽光を閉じ込めたような金の双眸を持ち、気品と威厳を纏った美貌は、
王宮の舞踏会に出席した歴代の画家や彫刻家たちの手をしてもなお表現しきれぬと嘆かせたほど。
「王国の至宝」「氷の姫君」――
誰もがそう呼んで讃えた、王の姪。
王位継承権第一位。
王が跡継ぎを持たぬ今、実質的に“次の王”とされる存在であった。
だが彼女には、もうひとつの顔があった。
剣と魔法を操り、幼少期より学問を好み、十歳にして兵法書を読み解き、十四歳の時には第一軍にて補佐官として実戦の場に立った天才戦略家。
血筋だけではない。
才も、美も、覚悟も、すべてを持ち合わせた少女――それが、セレンだった。
そんな彼女が、第三軍への“志願”を申し出た時、王国中が息を呑んだ。
「姫が、戦場に出ると?」
「いや、第三軍団長に……?」
「なぜ今、そのような危険を……」
反対は当然あった。
高位の貴族たちが席を蹴って立ち、王に詰め寄った。
「姫をそのまま王位につければよいではないか!」
「わざわざ焼け野原へ送るなど狂気の沙汰!」
「西はもう、捨てるしかない――」
だが、王は沈黙を貫いた。
そしてその沈黙の裏にあったのは、かつての幼き姪が口にした言葉――
「私は“王の姪”である前に、王国の民を守る軍人です。
必要とあらば、私の命も、剣も、知も、この国に捧げます」
その言葉に、王は幼子の顔を重ねて瞼を閉じた。
あのとき、すでに彼女は決意していたのだ。
王ではなく“将軍”として、生きることを。
最終的に、王は静かに答えた。
「……よかろう。
セレン・カリス・レオントを、准将とし、第三軍団長代理に任ず。
王命である」
王の宣言は、一部の貴族たちを激昂させ、また別の貴族たちは呆れ、あるいは目を細めた。
だが、それが新たな伝説の始まりになるとは、誰ひとりとしてまだ気づいてはいなかった。
――第三軍団長代理、セレン着任。
それは戦局の転機であり、王国の“反撃”の狼煙だった。
セレンは、その身にすべてを背負って、焼けた西へ向かう。
その瞳に浮かぶのは、誰の命令でもない――
ただ、王国を守るという、己の意志だけだった。