ベルディ【伊那市】
平成の世が始まった1990年前後。日本中がバブル景気に沸いていた時期だ。
20代後半。バブル真っただ中にいたはずではあるが、「24時間戦えますか」のご時世でもあり、独身寮と職場・出張先の往復に明け暮れ、華やかな時代という実感がないままに過ぎ去ってしまった。
バブル経済が崩壊して早30余年。その時代を象徴する光景として『ワンレングスやソバージュの髪に太眉、ボディーコンシャスなスーツに身を包み、羽扇子を振りながらミラーボールの下で踊る女の子』が報じられる。
同時に「アッシー君」「花金」「イタ飯」などという新語も生まれていた。
さて、バブルまであと6、7年の1980年代前半。イタリア料理といえばスパゲッティやピザくらいしか思いつかず、しかもイタリアンレストランで食すことなど思いもよらないことだった。
信州大学農学部は伊那にあると言われるが、農学部の正しい所在地は南箕輪村だ。
とある農学部生から、「村」にある国立大学は信大農学部を除いて他にはないという自慢話を聞かされたことがある。他にも、国立大学の中で最も標高が高いキャンパスだとか、学生のエンジン付移動手段の保有率が一番だとか、農学部にはいろいろなNo.1があるようだった。――しらんけど
「村」だからということではないが、農学部の周辺には飲食店もコンビニエンスストアもスーパーマーケットもなく、外食や買い物をするには天竜川の河岸段丘の坂を下って伊那市街に出るしかなかった。そんな環境だったことからか、農学部生でバイトをしている人をあまり知らなかった。
農学部のY氏は、教養部で留年したため1年間は松本で一緒だった。
Y氏は細身で格好よく見た目は二枚目だが、大阪出身のためか口を開けば饒舌にユーモアを振りまく人だった。
学部に進級したY氏は、羽広にある学生アパートに引っ越し、原付バイク“Racoon”を足にしていた。そのRacoonを駆って、Y氏は伊那市駅近くのレストランで給仕のバイトを始めた。
伊那市には松本時代にはよく遊びに行ったのだが、互いに学部に上がってからはなかなか伊那を訪れる機会はなかった。それでも、伊那に行くたびに『バイト先に食べに来い』と誘ってくれていたので、夏休みに入ったころに別の先輩と連れ立って行くことになった。
店は伊那市駅の東側。イタリアンレストラン“ベルディ”というこじんまりした店だった。
1階が駐車場で入り口は2階。店内は間接照明で適度に薄暗く、テーブルにはキャンドルが灯されていて落ち着いた雰囲気を醸し出していた。先輩がバイトしてなかったらまず来ることのない系統のお店だった。
Y氏は白いワイシャツに蝶ネクタイ、黒いベストに黒いスラックスというフォーマルなスタイルで仕事をしていた。
メニューを貰ったが、『ペスカトーレビアンコ』という魚介類の入ったスパゲッティがお勧めだというので、他の選択肢を検討することもなくそれを注文した。
それまでスパゲッティというには、所謂ナポリタンという範疇のケチャップで炒めたオレンジ色のものにしかであったことがなかったが、提供されたそれは色がなく、説明の通りイカやアサリやエビなどの海産物の具材が見えていた。
当時は単に美味しいと思っただけだったが、思い返せば、オリーブオイル、ニンニクなどが効いた本格的なイタリア料理だったのだろう。
さすがに巷の学生向け格安定食屋とは違い単品で800円ほどだったと思うが、Y氏がバイトしていて敷居が下がったことと、伊那ではそんなに外食屋の選択肢がなかったこともあり、卒業までの間にちょくちょく寄らせてもらい、そのたびに“ペスカトーレビアンコ”を食した。
Y氏は卒業後も信州に留まり塩尻あたりで働いていたそうだが、詳細はよく知らず、交流も途絶えていた。
卒業して数年経ったある日、どこで私の連絡先を聞いたのか、ふいに連絡をもらった。結婚の約束をしている彼女を親に紹介するために帰省するので宿を探して欲しい、との依頼だった。当時はインターネットはまだまだ普及しておらず、旅行社のパック旅行以外で単独で宿を探すことはそうそうなかった。
頼まれた方もよくわからなかったので、時刻表の巻末に掲載されていた宿舎一覧から条件に合いそうなところをピックアップして電話をかけ、詳細を訪ねるという作業を数回繰り返した。
結局、宿の予約をして連絡を返しただけで、Y氏とは卒業以来合ってはいないが、ペスカトーレと訊くと、今でもY氏と“ベルディ”を思い出す。




