2年目の新生活に向けて ~引越し~
新章に切り替えました。
第1章は信州の地方銀行に因んで82部分までで一区切りとしました。
新章は、1981年~1985年頃までの松本を含む各学部の所在地、その他県内各地の思い出に浸りたいと思います。
時系列や地域ごとの括りではありません。
学生の引っ越し、それも1年限定の仮暮らしのような下宿からの引っ越しは簡単だった。
1年間お世話になった8帖の和室には数えられるほどのモノしかなかった。
部屋の真ん中にこたつ。横置きで2段積みにしたカラーボックスとファンシーケースが部屋の隅に陣取り、こたつと同化した万年床の布団の枕元には折り畳み式の卓袱台の上に10型の白黒ポータブルテレビが載っていた。あとは、少々小高く積まれた雑誌類。
あの頃のテレビは標準的なものでも15型サイズで、20型を超えるような大画面は一般家庭では見たことがなかった。今から思えば、タブレットほどの画面のテレビをよく見られていたものだ。
結局のところ、ロッドアンテナしかなかったテレビは映りが悪く、ほとんど見ることがなかった。
押し入れの中には、タンス代わりのダンボール製衣装箱が3箱積んであった以外は、布団袋や引っ越して来た時のダンボールの空き箱などが雑然と放り込んであった。
洗面所ほどの広さの台所は、ワンドアの冷蔵庫とカラーボックスを並べただけでいっぱいいっぱいだった。
引っ越しの日程はアパートの先住人である先輩の引っ越し日の翌日に設定し、生協で赤帽を予約した。嵩張るものを運んでもらうためだが、物が多くなると費用もかさむので、冷蔵庫とこたつと布団の3点だけを依頼した。
前日から準備を始めたが、衣類の入った衣装箱とどこかの店で貰って来たダンボールに本やら雑貨を詰め込んだ。
冷蔵庫にはわずかな調味料くらいしか入ってなかったし、食器も数えるほどしかなかった。
赤帽に依頼したもの以外のダンボール類は先輩が車で運んでくれることになっていたので、カラーボックスとファンシーケースは解体した。
できるだけ減量を試み、雑誌類は紐で括ってゴミと一緒に処分することにした。空き瓶を袋にまとめ、あとは当日の朝に布団類を布団袋に押し込むだけだった。
半日ほどで終わってしまった。
引っ越し荷物を出したところで部屋の様相が大きく変わることもなく、感傷に浸ることもなかった。 畳の拭き掃除などをして、昼過ぎに大家さんに挨拶して鍵を返した。
初めての独り暮らしだったが、大家さん親子に本当によくしてもらった。お礼の言葉を口にすると軽すぎて、語彙のなさを悔やんだ。
鍵を返したが、春に鍵を預かってから何回鍵を閉めただろう。ほぼ無施錠で暮らしていたが、どこの下宿もこんなものだったような気がする(たぶん男子限定)。
昼前に松本を出発した。
もうこの街で暮らすこともないだろうなどと思いながら、新たな生活拠点に向かう。
赤帽から荷物を受け取るのが夕方だったため、昼飯を食ったり、学部の先輩の下宿に寄ったりして時間を潰し、ようやく荷物を運び込むとすぐに日が暮れてしまった。
誤算だったのは、新居となるアパートの蛍光灯は先輩が引っ越し先に持って行ってしまったこと。電灯は台所の流し台についているだけで、室内の電灯は自前だということを確認していなかった。
日暮れると室内は真っ暗になってしまい、荷物を運びこんだだけで先輩と松本に戻ることになった。
留年が杞憂に終わり、引っ越しも一応済ませた。
あとで知ったことだが、カラーボックスは一旦分解すると、ネジ穴がバカになってぐらぐらになってしまった。




