キッチン南海
松本駅前にはめったに行くことがなかった。
普段の生活は大学周辺で事足りたし、友人や先輩が駅前に住んでいることもなく、よっぽどのことがない限りは駅前まで足を延ばすことはなかった。
よっぽどのことというのは、列車に乗るために駅に行くほかは、日用雑貨を買いにイトーヨーカ堂へ行くことと、ギターの弦を買うのに“アルハンブラ楽器”に行くこと。そして、“キッチン南海”のカツカレーを食べること。
駅前の通りは、東に伸びて県の森に向かうメインの道路と、北に伸びて蟻ケ崎方面に向かう道路に挟まれるように、何本かの放射状にのびる商店街がある。
商店街の最前面は広い間口の土産物屋で、地方の観光都市の標準仕様だった。駅ビルはセルヴァンと呼ばれていたが、さほど充実していた記憶がない。喫茶店や食堂やロッテリアやスナックフードの店が入っていたのはセルヴァンだったんだろうか? それとも一つ隣のビルだったんだろうか?
松本はアルプス登山の玄関口という性質も持ち合わせていたこともあって、商店街の飲食店には山男御用達といった感じのお店もある。
その一つが“喫茶 山小屋”。喫茶というわりに定食も充実していた。“やまなみ”ってスパゲッティの店もあった。
そんな中、緑色の看板が目印の“キッチン南海”。
ちょっと薄暗いカウンターの店内で、メニューはさほど多くはなかったと思う。カツカレーしか注文したことがなかったので知らなかっただけかもだが…。
銀色のステンレス製のカレー皿に盛られたカツカレー。
カラっと揚がったトンカツは細めにカットされてカレーライスの上に載せられ、千切りキャベツと福神漬が添えられている。
お値段400円。大盛りは+50円だったかな?
カレーソースはちょっと焦げ感がある香ばしい辛さが特長で、ふつうの喫茶店でよく出てくるとろみと甘みのあるカレーライスとは違っていて、唯一無二の風味だった。
さらに、卓上においてある「カエンペッパー」の缶。カツの上にふりかけられたスパイスの毒々しい赤色や、「カエン」=「火焔」という脳内語彙変換が、視覚的にも、意識的にも辛さを引きたてた。
今でこそ辛味を足すのにカイエンペッパーを使うのが常套手段になり、スーパーのスパイス棚でもカイエンペッパーが普通に売られているが、当時はそんなスパイスは珍しかった。
スパイスの名前は、今でも脳内で「カエンペッパー」に変換されている。
南海のカレーに魅了され、南海のカレーを食べるためだけに、わざわざ駅前に足を運んだことが幾度となくあった。
因みに、“喫茶 山小屋”と“やまなみ”はずいぶん前に閉店してしまっている。
駅前の商店街は、大きな間口の土産物屋がマクドナルドになり、通りには居酒屋やパブレストランがひしめいて、雰囲気が全く変わってしまった。そもそも道幅自体も広くなってしまったんじゃないかと感じる。
“キッチン南海”は現在は移転して、県の森近くのイオンモールの南側で営業されている。
新しいお店には2回ほど行って懐かしい味を堪能した。
ただ、ステンレスの皿ではなくなっているのは仕方のないことか。