阿以
裏町に井戸がある。
春先は新歓イベントが多く、裏町でサークルのコンパが何度も開催された。1次会のお店は“まつば”、2次会は“阿以”と決まっていて、他の選択肢はなかった。
“阿以”は,親しみを込めて“あいちゃん”と呼ばれる60才前後の女性が一人で経営していた小料理屋で、たぶん2階が住居だった。“鯛萬”という有名な日本料理屋の隣でこじんまりと営業されていて、我らのサークルの2次会が開催されるとき以外は落ち着いた雰囲気のお店だった。
井戸は“阿以”の店のすぐ目の前にあった。
8席ほどのカウンターと、通路を挟んだ1卓だけの小上がりはせいぜい6人掛けだ。通路の正面の襖を開けると細長いお座敷で、詰めれば15、6人。ぎっしり詰めれば店全体で30人ほどのキャパシティーのお店だった。
飲み物はお酒、瓶ビール、ウイスキー。ウイスキーは角瓶かオールドでボトルキープもできた。ソフトドリンクはオレンジジュースやコーラの定番に加えて、当時は珍しかった烏龍茶も出されていた。
当日のメニューは短冊に書かれてカウンターに貼られている。煮物や和え物が多く、時に揚げ物なんかもラインナップに加わる。一人で切り盛りされているので、昼に仕込んで夜は出すだけという感じだったんだろう。
サークルの2次会では、程よく酔いが回った若造が10人ほどで奥のお座敷を占領する。
はじめに1人あたりの予算を言っておくとお任せで料理を出してくれた。ある意味在庫処理も兼ねていたかもしれないが、学生の経済力を慮ってよくしてもらっていた。ポテトチップスなどの乾き物をサービスしてくれることがあったり、女子学生がカウンターに入って手伝うこともあったり、ざっくばらんに付き合っていただいた。
“あいちゃん”は手相を見ることができて、気分が乗ると見てくれる。
前途有望あるいは前途多難な学生にとっては、この上ない指針の一つだった。
“阿以”での出会いを思い出すと、感慨深い。
サークルのコンパ以外では、誰かの下宿で何人かで飲むのが通例だったが、“阿以”は独りで訪れる数少ないお店だった。
はじめは上土や緑町でパチンコで小銭を稼いだ後とか、バイトで日当をもらった帰り途とか、ふらりと寄って行くことがあった。他に知っている店がなかったから選択肢はなかったのだが、そもそも独りで呑みに行く学生はそんなに多くはなかったろう。
そのうちに常連さんの知り合いが増え、学生コミュニティとは異なる話題でいろんな勉強をさせてもらった。政治、経済、文化、社会、福祉、夜の話などなど。
―― 定年退職して数年になるというKさんは、戦時中と戦後の混乱期の話をよくしてくれた。茅野で農家だったKさんのところには東京方面から多くの人が食料を求めてやってきたという。多摩、山梨での争奪戦が激化し、食べ物を入手できなかった人達が茅野まで流れてくるので、ますます売り手市場になって、芋や大根が着物や指輪や掛け軸に化けたそうだ。ドラマで描かれていたのは本当の話だと実感できた。
―― 埋橋に個人事務所を持っているNさんからは、会社勤めを5年ほどやったら起業しろとよく言われた。一国一城がモットーで、会社勤めや宮仕えではやりたいことができないとの持論だった。高度経済成長やオイルショックなど浮き沈みを経験した裏話は面白かった。20代後半の息子は会社勤めで起業はしていないが、自分の事業を世襲させる気はさらさらないと、頑固なまでのこだわりを語っておられた。
―― 市役所近くで働いている20代半ばのお姉さま2人組とも仲良くなった。2人とも都会暮らしに憧れる高卒OLで、大学の様子や学生生活、それから、大阪の繁華街の話もよく聞かれた。“阿以”では話を聞く方が多い立場だったのが、話をする側になれることが嬉しくて、聞かれるたびに嬉々としてしゃべっていた。ある日、下宿の大家さんが電話を取り次いでくれた。“阿以”にいるから来いという2人組からのお呼び出しだった。交換した連絡先の住所から大家さんの電話番号を調べたらしい。当時は電話帳でたいていの家の電話番号を調べることができた。個人情報などという概念は乏しい時代だった。
―― 30代のWさんは遠距離婚約中で、遠距離恋愛のあれこれをレクチャーされた。半分は愚痴を聞かされたようなものだったが、結婚観や人生観について考えるきっかけを作ってくれたと思っている。結婚式は4月だったが、松本を離れる前の2月頃には披露宴の招待状をもらっていた。親族以外の披露宴は初参加だった。礼服もなかったので、入学式のときに買ったスーツで出かけた。祝儀はいらないと言ってくれたので本当に手ぶらで出席したが、よかったのだろうか。
卒業して8年ほど、1993年に同窓会があり松本を訪れた。あいちゃんとも10年振りに再会した。突然の訪問にびっくりしながらも「久しぶりだね」と満面の笑みで迎えてくれたが、随分と老いられたことは表情からも動作からも感じられた。
お店は細々と続けていらっしゃるようだったが、壁も傷み、食器もくすんでいるものがあって、空いた時間以上の変化になんともいえない哀愁を感じた。
そのときが“阿以”を訪れた最後だった。
いつの間にか“鯛萬”も“阿以”もなくなって、井戸の周りは公園として整備されていた。




