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1980年松本スケッチ ~元・信大生の追懐録~  作者: こまくさ
第1章 1980年松本スケッチ
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散髪

 中学や高校の校則について見直し論議が起こっているようだ。

“ブラック校則”という括りで、髪色や髪型の指定が行き過ぎだという論調もある。元々茶系の髪色の子の髪をあえて黒染めさせるというのはさすがにやり過ぎだろうし、単一民族としての同調圧力の強さを垣間見る思いだ。

 男子の頭髪が制限されるのは昔からあることだが、自分の頃は『眉にかからない前髪』や『襟にかからない襟足』がせいぜいで、いわゆる髪型のデザインにまでは言及されていなかった。そもそも男子の頭髪なぞ、丸坊主かスポーツ刈りか短髪か長髪の4種類くらいしか選択肢がなかった。

 中学では男女ともパーマをあてる生徒はいなかったので、天然パーマの子はアイデンティティを保っていたが、高校では天然パーマの子がストレートパーマをあてる是非が問題視されていた。

 

 

 長髪が当たり前だった時代、耳が見えるほどの短い髪の男子学生は少なく、大学生になって3か月も経つと前髪は眉を超えた。

 フォーク・ニューミュージック系のアーティストは、拓郎も陽水もこうせつもまさしも千春も剛もみんな長髪だった。デザイン上は“オオカミ”や“サーファー”などと呼ばれるヘアスタイルだったらしい。専門的にはいろいろなアレンジがあったのだろうが知る由もなく、大学キャンパス内は、伸ばし放題でロクに手入れもしていないぼさぼさの長髪が席巻していた。『僕の髪が肩まで伸びて』とか『就職が決まって髪を切ってきた』とか、まさにそういう時代だった。


 染色はまだ市民権を得てはいなかったが、パーマは男女とも流行っていた。大抵は実家に戻ったときにパーマをあててくるのだが、男子のパーマはひとつ間違うとおばさんパーマだった。その後は、やっぱり、ほったらかしなので2か月もするとだらしなく伸びて、毛先はもじゃもじゃ、根本はストレートという髪型になり、伸びきったころにもじゃもじゃ部分が切り落とされるのが通例だった。

 

 在学中に長野県内で散髪をしたのはほんの数回。格安店という概念すらない時代、数か月に1回とはいえ、伸び放題の髪が当たり前な学生にとって3000円余りの出費は大きかった。帰省したときに、「そのうっとおしい髪を切ってこい」と、昔馴染みの床屋に行かされることで、散髪にかかる経費を抑えていた。髪型については何のビジョンもなかったので、伸びすぎたところを揃えて、軽く梳いてもらうのが常だった。

 松本で散髪したのは1回だけ。夏が始まるころに、元町の理容店に行った。店主のおじさんが1人で、椅子は2席だけの小じんまりしたお店だった。おじさんは髪を切りながら、『太くて、硬くて、変にまっすぐで、いうことを聞かない髪だ』と評してくれた。この評は、初めての床屋に行ったときの自虐ネタとして、このフレーズを使わせてもらっていた。『パーマをあてたらちょっとは扱いやすくなるかな』と提案してもらったが、生まれてこのかたパーマをあてたことはない。

 このフレーズは、40代半ばに行きつけの理容店のご主人に『だんだん髪が細くなってきましたね』と言われて終了した。



 年齢を重ねるにつけ、髪の量は減り、細くハリがなくなり、白いものが増えた。同年代の友人の中には随分寂しくなったヤツもいる。髪型などという概念が希薄になっていく。

 近頃は自宅近くの格安床屋に2か月に1度お世話になる。『どうしましょう?』『あ、短くね』というやりとりだけでオーダーが完了する。髪型には注文はないが、せめてあと5年は育毛トニックに頑張ってもらいたい。

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