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第二十一話 君に感情はありません。

 空間の時間が、一瞬止まった気さえした。もしくは、私の願望がこの一瞬で見せた夢。

 同じだけ、ラーナ様も衝撃を受けたのだろう。啜り泣く声は聞こえない。


「ニア?どこか怪我したの?」


 ラファエルの声が届く。気遣う、優しい声。

 望んでいた物ではあったけれど、この場ではどこまでも違和感を連れてくる物でしかなかった。

 今、ラファエルが気遣うべきは私ではない。


「ラ、ラファエル……さん?」


 私の困惑を代弁する様に、さっきとは違う意味で震えた声が信じられないという様にラファエルの名を呼ぶ。

 言葉にせずとも問うていた、何故……と。

 何故、その心配の先が自分ではないのだと。


「……申し訳ありませんが、離して頂けますか?」


「なん、何で……っ」


 私に対する気遣う様な声色が一気に氷河期を向かえる。あまりの変わり身に思わず振り返ってしまった。

 客観的加害者であるはずの私の方が優しくされている現状が理解出来ないのか、尚も追い縋るラーナ様を、身長差のあるラファエルの視線が降り注ぐ。


「先ほど、レオ様からご命令を頂きました」


 堪えきれないと言わんばかりに、ラファエルの口角が上がっていく。楽しそうに、嬉しそうに、まるで解放された様に。


「もう、貴方のお守りは必要ない、と」


「え……?」


 ラーナ様の時間が止まったのが、分かった。固まったまま、ラファエルに伸ばした手も中途半端に止まって。引き吊った笑顔から血色が消えていく。

 まるで言い聞かせる様にゆっくりと語ったラファエルの言葉を飲み込めずにいるのだと。


「何を、言っているんですか……?だって、まだ怪我、それに私……、ラファエルさんだって」


 最早何を言っているのか、本人も分かっていないんだろう。整理出来ていない思考で、脳内に浮かんだ言葉をそのまま口にしているのが見てとれた。

 信じられない。信じたくない。いや、それ以前にあり得ない。

 文章になり損なった言葉の羅列の中、読み取れたのはそんな感情だけだった。


「──初めて会った時から、何を勘違いされているのか分からないのですが」


 宝石の様な碧眼が、血の気が引いて真っ青になったラーナ様を写す。その中にどんな感情があるのか、私よりも近い距離にいる彼女にははっきりと分かったはずだ。


 無感情──嫌悪でも、軽蔑でも、好意でもない。何も、無い。

 ラファエルは自分に、何の感情も抱いていないのだと。


「俺が貴方の世話をしていたのは、レオ様からのご命令があったからです。それ以上でもそれ以下でもない。もし、俺個人の感想を聞きたいのであればお教えしますけれど」


 いつもと変わらぬ、完璧な執事。笑顔も立ち居振舞いも、全てが仕事の責任感で構成されていたラファエルが、一瞬崩れた瞬間。

 貼り付けられた笑顔は無表情よりもずっと恐ろしい。


「──俺、あんたに興味無いんだよね」


「っ……」


 興味が無い、その言葉自体が本心な事は、さっきの目で分かっているのだろう。ただ今の笑顔にあったのは、無感情とはほど遠い苛立ちだった様に思う。


「では、早く授業にお戻りになってくださいね?」


 するりと、砂が指の隙間から溢れる様に。

 ラーナ様の縋る手をすり抜けて、ラファエルが近付いてくる。

 さっきまでの覚悟はラーナ様の一件ですっかりどこかに飛んでいってしまった。ちゃんと向き合うと決めたばかりなのに、今すぐにでも逃げ出したい。


「大丈夫?怪我してない?」


「ぁ……、」


 ゆっくりと伸びてきた手が、さっきまで捕まれていた手首に触れて。ピリッとした痛みに袖を捲ると、爪の痕にわずかながら血が滲んでいた。

 衝撃的な事が起きすぎて気が付いていなかったけど、傷口を見たら余計に痛みが増したように思う。骨に異常があるとは思わないけど、肌が赤くなっている所を見ると何かしらの筋は痛めていそうだ。

 ぐるりと手首を動かして見ると、予想通り途中で痛みが強まった。それが表情に出てしまったらしい。


「戻ろう。執事室に救急箱あったよね」


「あった、けど……でも」


「ほら、行くよ」


 手首に響かない力で、指先を絡める様に引っ張られる。拘束なんて大袈裟な物ではなく足取りだって軽いのに、逃れたいとは思わなかった。何となくむず痒い、落ち着かない感じがするだけで、決して嫌な感じはしなかった、けど。

 唯一の心に引っ掛かった、氷の様に固まるラーナ様を振り返る。


 彼女はそこに佇んだまま、追い掛けては来なかった。

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