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B面上の追憶者  作者: nyone
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追憶5 ラブホテル・ラブ

「誠一くん、私とラブホテルに行きましょう」

 味噌汁を吹き出す下品な音が、朝の大広間に響いた。


 朝食の会場である大広間には、優しい朝の光が射し込んでいた。窓の向こうにはよく手入れされた庭の緑が映え、外から鳥の鳴き声が聞こえる。


 年季の入った飯台の上に並んだ朝食は、まさしくその旅館の永年の佇まいに相応しいものであり、ありふれたものだがそれ故の安心感がある。


 そんな朝食の席で、納豆を混ぜていた僕と、鮭の身を箸でほぐしていた楓は、同時に、件の下品な音の発生源の方を向いた。

 発生源は、大広間で僕等と同じく朝食を取っていたサラリーマン二人組の年配の方だった。先程吹き出した味噌汁を憮然とした表情で片付けている。若い方は、割と興味深々な様子で楓をちらちらと見ている。


「楓、その話は、車の中でちゃんと聞く」

「わかったわ」


 そんなやりとりがあった後、僕と楓は何事もなかった様に食事を再開する。

 先程の問題発言をした同一人物とは思えぬほど、姿勢にしても箸の使い方にしても……楓の食事の仕方は凄く綺麗だ。

 親御さんの躾が相当良いのだろう。

 もしかしたらこの子は、良いとこのお嬢さんなのかもしれない。

 そんな親御さんも、楓の内の歪んだ知的好奇心を矯正する事は出来なかった様である。

 僕は、そんな楓の、ちょっとはだけた浴衣から、白いうなじや太ももをついちらちらと目にしてしまう。昨夜たっぷり温泉に浸かったお陰で肌はさらに磨きがかっている。

 楓の突飛な提案の目的は十中八九、本来ラブホテルに求める類のものではない。分かってはいるが、そこはそれ僕も当時まだ二十代であり、その発言に若干の期待をしてしまった事は容赦願いたい。



 朝食後、自室に戻った僕と楓はチェックアウトまでの時間をゆっくりと過ごしていた。

 僕は窓際の座椅子に腰掛け、茶を飲みながら窓の外の景色を眺める。

 都市部から遠く離れた温泉地。観光地というには若干ひなび過ぎているが、隣県へ移動する際の中継点となるため無名というほど無名でもない。僕達が一泊するため楓が選んだその旅館は、そんな温泉地にあっても決して有名な方ではない。成る程楓の望む様な場所である。

 但し、彼女の選択は外れない。

 思うに、雨宮楓という少女は、ネットという莫大な情報の海の端々から、丁寧に丁寧に、有用な情報を掬い取る。そういう能力を、持っていた。

 実際、昨夜泊まったこの旅館も、値段の割に食事や接客、温泉の質などどれをとっても明らかに高い。一度だけなら幸運だったという言葉で片付くが、楓は絶対に『外さない』。


 その楓は、机の上で手帳を広げ、今日の旅程を練っていた。机の上には旅館や近隣観光地で貰ってきたパンフレットが散乱する。

 楓は旅の計画を朝、この時間帯に、旅館の部屋や、喫茶店でモーニングを食べながら練る事が多かった。スマホと何枚もの観光マップを駆使し、真に自分が行きたい場所を選び出し、それに当て嵌らなければ中心市街地を素通りする事すらある。

 その楓が行きたいというラブホテルである。

 まず、その辺どこにでもある様な場所ではない。


 午前十時。

 車に乗り、エンジンを掛けながら、僕は楓に問うた。

「それで、今日はこれからどこに向かうんだ?」

「今日の最大の目的地はラブホテルよ」

 いきなり切り出してくる。よっぽどだ。


 そもそも、女というのはこうもフランクに、彼氏でもない男をラブホに誘うものだったか。

 目の前のこの雨宮楓という女は、大層な阿婆擦れなのではないか。

「あ、誠一くん、なんか失礼で、しかもえっちな事考えてますね」

「あのさ楓さん、女の子からラブホに誘われてえっちな事考えないのは、逆に駄目だと思うんです」

 朝一番の会話ではないぞ。

 そう思いながら、僕は車を出し、楓が指示する方角へ車を走らせる。



 その日の夜に至るまでは、ごく普通の__少なくとも僕と楓にとっては、ありふれた日常の光景だった。

 温泉地を出て、山間の荒れた旧道を走り、道中、楓の指示で、少し奥まった場所にある神社だの、建築物だの、商店街だの、割とノンジャンルで選ばれる地に車を停め、周囲を散策する。

 道中、密かに有名らしいのだというパン屋で惣菜パンを買い、山の上にあった見晴らしの良い公園で、散りかけの桜を見ながら昼食を摂った。


「あ、誠一くん、こっそり堂こっそり堂」

「もう二度と行かんよ」

「『春のパンツ祭り』だって」

「行かないって」

「因みに、今日の私のパンツは、いつか貰ったしまぱんよ」

「今日に限ってそういう事を言うな!」

 そんな睦まじいやりとり等も交え、車は先へ先へと進む。


「いい加減教えてくれよ。一体どんなけったいなラブホテルがあるってんだ」

「けったいって……まあ、ちょっと変わった場所ではあるらしいんだけれど」

 楓は僕の物言いに少し不満そうに、言葉を続ける。

「誠一くんは、ラブホテルって、どういう印象持ってる?」

「ラブホテル、か……」

 正直、そうやって言われると、明確なイメージなんて殆ど出てこないな、と、僕は思った。

 ラブホテルを真剣に考えた事など、生まれてこのかた一度もない。


「そうだなあ……致すところを致すだけの場所。風呂がでかい。高速道路ICに何故か多い。あとは……そう。『大人の遊園地』ってイメージか」

「『大人の遊園地』!」

 楓が弾んだ声を出す。どうやら、僕の発言は彼女にとり『当たり』だった様である。

 ぽつぽつと、思い出した事を、僕は話し始める。

「地元の校区内にラブホテルが一軒あった。小さい頃の僕は、その場所がどういった場所か分からず、電飾の花火やらお城の様な佇まいやらを見て、遊園地なのだと思っていた。少し経って、その場所がどういう場所なのかが朧げに分かるようになったが、僕が初めてラブホテルに抱いた印象は『大人の遊園地』だったな」

「今は?」

「……今は、正直、当時抱いたようなわくわくは感じないな。実際行ってみれば、内装は至ってシンプルだし、壁紙も安っぽい。非日常感は確かにあるが、特別な感じは、ない。子どもの頃、両親が寝静まった後、深夜枠のメロドラマでこっそり見た様な、でかい貝殻を模したベッドみたいなのには、お目にかかった事もないしな」

 バブルの頃だけだったんだろうな、ああいうのは__。

 僕はそう言って回想を締めくくった。

 楓は、僕のそんな下衆い独白に満足げに頷き、こんな事を言ってきたのだ。

「誠一くん、今日は、『そういうラブホテル』に、行こうという訳よ」

「マジで!」

 さすがにテンションの上がった僕に、楓の笑みは更に加温した。


「以前読んだ本で、ラブホテル研究家の人が書いたものがあるんだけれど」

「ら、ラブホテル研究家!」

 聞いたこともない単語に、僕は心底たじろいだ。

 そんな怪しいジョブが、この世にあるなど夢にも思わなかった。

「その本によると、今日の行先夕方頃着く場所に、回転ベッドが残ってるラブホテルがあるらしいの。ネット上でも殆ど情報拾えなかったから、実際に現地に行って確かめるしかないんだけれど」

「成る程。それでか……」

「そういう訳で、別に私は、いやらしい目的で誠一くんをラブホテルに誘った訳ではないの。さっき私を、何言い出すんだこのビッチみたいな目で見てたけれど、そこは安心してね」

「……確かに安心はしたけれど、それで宙に浮いた僕の純情はどうなるんすかね。言うて僕はまだ若い二十代なんすけどね、楓さん」

 いつもと違う言葉使いに若干の照れ隠しを込め、正面を見たまま僕は返した。

「ふぁ」

 楓はそんな僕の言葉に、顔を少し俯けて、口元に手を当て、十秒程考えたあと、

「えっと……デリヘなんとかを呼ぶなら、私、見て見ぬ振りするわよ」

 そう言った。

「呼ぶか!」

 あと、そこまで言うなら最後まで言えよ。


 そうこうしているうちに日は暮れて、僕と楓は件のラブホテルがある地の近辺に到着していた。夕食をとった後、僕は地元の聞いた事もない名前の酒屋に車を停める(大手のスーパーは楓が嫌がるのだ)。

「お買い物?」

「ああ。折角だから、酒か何か……。ラブホテルなら山奥にあるだろうし、一度入れば一旦会計しないと出られないからな」

「詳しいのね、誠一くん」

「そんなジト目を向けられても……」


 酒屋に入り、僕は少し思案して、ウイスキーの棚に行った。

 そうだ、追憶の途中で、ついでに思い出したから書き留めておくが、当時はユーロが凄く安かった。円が高かったという表現の方が適切なのかもしれないが、それでよく円高還元セールなど行っていたので、ちょいとお高いスコッチにも割と手が出やすかった。

 僕が、今晩の酒をマッカランにするかボウモアにするかで悩んでいると、お菓子コーナーから帰還した楓が、僕の肩口から瓶を覗いてきた。

「美味しいの?それ」

「後で飲んでみる?」

「……ちょっとだけなら」


 いつだったか、僕は楓に、壱色というバーで貴腐ワインを飲ませた事があった。それ以来、楓は少しずつ酒を楽しめるようになっていた。だからといってウイスキーはまだ早いのかもしれないが……。

 僕は思った。

 当時から、円というカネの価値の下落は、あらかたアナリスト達によって予測されていた。そのシナリオは、未曾有の大震災とそれに伴う原発の廃炉、エネルギー輸入による貿易赤字によって想像以上の早足で訪れたが、それならば、世界中の酒を、その価値に見合わぬ安価で買えるのは今だけなのかも知れなかった。

 そうであれば、楓に、今のうちに、色々な酒を教えたい。

 僕は、きっとそういう分野でしか、楓の世界を広げる事は出来ないだろうから。


 酒屋から車を十分程走らせると、楓が件の怪しげな本で見たのだというラブホテル『エレナ』が見えてきた。不幸中の幸いである事に、外観はわりかし落ち着いている。

 僕達を乗せた車は、ホテルのやけに長いビニルのカーテンをくぐり中に入る。

 パーキングは、ラブホテルにはよくある特殊な作りをしていた。

 各客室にひとつの駐車場が充てがわれ、それぞれの駐車場の真上に、該当する部屋の室内を表すパネルが表示されており、それを見た上で好みの部屋に入れるという仕組みだ。

 但し、パネルで見る限りの各部屋は特段の特所なく、これなら普通のラブホと大差ないのではないか。

 ……そう思っていた矢先の事である。

「……っ!誠一くん!あそこ!126号室!」

 楓が暗い駐車場の中でも残念な目敏さを発揮し即座に指差す。 

「あ、あれか……」

 確かに。

 パネルに出ている室内の写真は、見事な白亜の螺旋階段に、丸い回転ベッド。とても数千円で泊まれるとは思えない豪奢さだ。


 そうか……と、僕が合点がいった。このラブホテルにとり、126号室は特別室兼客寄せパンダ。流石に全室そういう部屋にするのはいかなバブル期といえど採算が取れなかったのだろう。幸運な事に、丁度、126号室には車がない。

「誠一くん、早く車を停めなきゃ」

 楓は興奮している。

「一方通行だから、例え次の客が来ても横取りはされないよ、楓」

 そんな楓の様子に苦笑しながら、僕は車を、四苦八苦して狭い駐車場にようやく停めた。


「うわあ、わあー」

 まさしく遊園地に来た子どもの様だ。

 楓は螺旋階段、丸い回転ベッド、鏡の天井、馬鹿でかいバスルーム、決済用のエア・シューター、併設された謎のスロットマシン、冷蔵庫にも似た大人の玩具の自販機それぞれに新鮮な驚きと喜びを見せ、僕は場所が場所じゃなければ、いとけない楓の笑顔につい自分も顔を綻ばせていた所だったのだろうが、生憎場所がラブホテルなのが惜しい限りである。


「それにしても……確かに凄いな」

 早速買ってきた氷を冷凍庫に入れ一掴み、備え付けのコップから殺菌済表示のされたビニルを剥がし、即席でウイスキーのロックを拵えながら、僕は部屋内を見回し、改めて感嘆の声を漏らした。

 回転ベッドは回転しながら二階分の高さを上げ下げ出来る仕組みになっていた。必然、それを置くには部屋全体を二階建にせねばならず、一階部は駐車場なのだから、つまり、ラブホテル『エレナ』は、この126号室のみ三階建なのである。

「誠一くん、お風呂場におっきなマットがあったんだけど、あれは何に使うものなの?」

「マットに書いてなかった?」

「書いてあったけれど、良く分からなかったわ」

「説明すると僕の方がアレだから、今度にしてくれ」

「……良く分からないけど、なんとなく分かったわ」


 それから楓は、ゆうに一時間ほどの時間を掛けて126号室の全てのアトラクション(?)を堪能し、最後に丸い回転ベッドにばふっ、と横たわり、枕元のスイッチを操作した。

 するとどうだ。楓を乗せて、ベッドが回転を始める。

 ウイーン、という機械的な音が割とうるさい。

 寝転んだ楓が、時計回りに回転しているのを眺めながら、僕はウイスキーをちびちびと飲み、摘みにチョコレートを齧る。

「誠一くんは、なぜ、こういう、楽しいラブホテルが作られなくなったのか、その理由、知ってる?」

「……………」

 尻は、あ、いや、知りはしないが、大方想像はついた。

「……多分、建築基準法と、風営法が絡んでるんだろう」

「ご明察」

 楓の尻が遠ざかっていく。そう思えば、また回転してこちらにやってくる。

 それは、状況と酒とに酔った僕の頭に、どこか天体の動きを想起させた。

「風営法が変わって、回転ベッドを、新しいラブホテルに備付ける事は出来なくなったの。そして、今営業を許されてる、日本で数少ないこういうラブホテルも、設備が老朽化した所から次第に潰れて、やがてこの国からなくなるわ。こんなに素敵で、楽しいのに」

 楓が天井を見上げ虚空に手を伸ばす。この位置からでは分からないが、恐らくは、天井一面に広がる鏡の向こうの自分を見ている。

「……それなら」

 ……それなら、と、僕は思う。

 何故だろう、楓のその言葉を受け、今日の神社や、パン屋や、商店街を思い出して、頭の奥の、妙に冴えている部分が、僕に続く言葉を吐き出させる。

「……楓は、いずれ消えていくものに、惹かれてるのかな。だから、そういう場所に、足が向くんじゃないのかな」

 グラスの氷に映る自分の顔を眺める。飲みすぎたか、その顔はどこか浮かない表情をしている。


「違うわ」

 心なし強めに響いたその否定に、僕は無意識的に、肩をびくりと震わせる。

 楓の方を見る。


「消えていく、本当に魅力的なものや人達を、知る必要があるからそうしているの。いつか、自分が面白い人になるために。いつか、自分がきっと、この国にきっと、面白いものを、蘇らせるために」

 楓が寝返りを打ち、僕を見る。

 酒で火照った僕の身体よりも、熱で浮かされているその目で。

「その時は、誠一くんにも手伝って貰うから、覚悟しておいてね」

「……」

 僕は、浮かない自分の顔を映す氷を口に入れ、思い切り噛み砕いた。

「……容赦ないなあ、楓は」

 僕は目を閉じ、ソファに深く腰掛ける。

 はああ、と、酒臭い息を天井に吐き出す。


 その時、僕は。

 楓にそんな楽しい事を手伝わされる未来の僕は。

 きっと、やれやれと肩をすくめ、それでも笑って、助けてやるのだろうな。



「誠一くん、そういえば、ここのテレビ、えっちなビデオがいっぱい入ってたよ。一緒に見ましょう」

 そんな無邪気な楓の言葉に、僕は思わずからからと笑い、残りの酒を一気に煽り、こう答えた。

「もう寝ます」

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