追憶2 こっそり堂にて
良く晴れた日だった。
雲ひとつない爽やかな空の下、僕と楓を乗せた古い軽自動車は、快調に国道を走っていた。
市街地を抜けると、車外に見える風景は次第に緑の割合を増した。まだ春の始めだというのにもう水を張っている田も見受けられる。
初夏といっても差し障りない陽気だった。全開にした車の窓から春の風がごうごうと吹き付け、そのせいで、安物のカー・オーディオから流れてくるラジオの音は全くと言っていいほど聞こえない。
運転席の僕はシャツのボタンを全て外し、それでもたまに浮き出る汗をタオルで拭い、その度ボトルの水を飲んだ。
「いい天気だなぁ」
「そうねえ」
助手席に座る楓は、僕にそう生返事を返す。先程からずっと、ダッシュボードに無造作に置いてあった現金の札束を数えるのに夢中だ。
「楓、いい加減それ、やめないか?」
「なぜ?」
「若い女の子がにやにやしながら札束数えてる図なんて、ろくなものじゃないよ」
札束はこの旅の軍資金であるとともに、僕の五年間の社会人人生の全てであるとも言えた。
その札束をばっさばっさと揺らしながら、楓が僕に返事を寄越す。
「だってこんな大金、生で見るのは初めてだもの。どんな悪いことすれば、こんなにお金が集まるの?」
子供っぽい言い方に、僕は少し苦笑した。たかだか数百万円のお金で、僕は大層悪人にされてしまっている様である。
「何もしなかったから、そんなにお金が集まったんだよ。日曜も祝日もなく働いて、日が変わる頃に帰って、帰れば寝るだけ。たまに真っ当に眠れる時間があったとしても、気付くと夢の中でも仕事してる……そういう生活してれば、自然とそんなに溜まっていたよ」
札束は、まさしく、自分の人生をすり潰して手にした金だった。そんな自分の血とでもいうべき金を、楓と連日湯水の様に使い込む事に、僕は倒錯的な開放感を覚えていた。
道は次第に山間部へさしかかり、緩やかな上り坂が針葉樹の間を蛇行するように続いていた。
未来ある大学生である楓に、話すべき話ではなかっただろうか……
そんな事を思い楓の方を向いた瞬間
「ああーっ!」
突然、楓が大声を上げた。
「うおっ、ど、どうしたんだよ?」
「あ!あそこ!誠一くん!あそこ!あそこ停まって!」
いつになく興奮した面持ちの楓が、前面を指差し、もう片方の手に握った札束で僕の頬をぺちぺち叩き出した。
「ひ、人の札束で頬を叩くな!」
「その怒り方はどうなの?」
一体全体何があるっていうんだ?
僕は、興奮した女子大生に札束で頬を叩かれるという辱めを受けながらも、彼女の指差す前方に目を凝らした。
果たして、楓の指差す先には確かに一軒の建物があった。
それは針葉樹の山道に何かの間違いの様に建っており、一見、山作業で使う様な道具が格納されている様に見えるがそうではない。
青色に塗られた、トタン屋根の粗末なほったて小屋。
壁には大きくはっきり『こっそり堂』と書いてある。
「こ、こっそり堂……あそこに行きたいのか?」
何かの間違いであって欲しい気持ちを交えそう訊くと、
「うん。小さい頃からずっと!」
若干食い気味に楓が答える。
僕は弛緩した。
「小さい頃からかぁ」
たまげた幼女が居たもんだ。
こっそり堂は右車線側にあった。
僕が右折しようとしたとき、それまでがらがらだった向かいの車線にタイミング悪く対向車が現れ、こっそり堂に入るため右折しようとしている僕をガン見して走って行った。
車はほどなく、こっそり堂の裏に併設された空き地の様な空間に収まった。
僕は、(ああ、そうか……この建物と駐車場の配置は、奥に車を停める事によって、建物が僕たちと車のブラインドとして機能する訳か……)等と、こっそり堂の妙な気遣いに気付き、そうした現実逃避的な思考をする事で、女連れでこっそり堂に入ろうと右折している所を見られたショックから立ち直ろうとしていた。
「は、早く、早く行きましょう」
楓はそんな僕に一切気遣わず、肩をゆさゆさ摩ってくる。
「あわてなくても、こっそり堂は逃げないよ」
楓に急かされ車を降り、改めて拝むこっそり堂は、改めてひどいものだった。
『毎週入荷中』
『雑貨・おみやげ・玩具・まんが・映像・日用品・㊙︎』
そんなゴシック体の売り文句を始め、アニメっぽい絵柄の少女が描かれたポスターや、明らかに某有名人の似顔絵と思しきもの(本当にこれは大丈夫なのか?)が所狭しと貼られている。
「誠一くん、誠一くん、この『あったか〜い お○ん あります…』って、あの○、一体何が入るのかしら」
「僕に聞かれてもなあ」
こんなに堂々とこっそり堂に入る女性客もそう居るまい。
そんな事を考えながら、僕は楓に続いて小屋の中に入った。
初めて入るこっそり堂の店内は、予想以上に暗い。
恐る恐る入ると、突然、ぶうん、と、何かのセンサーが反応し、僕と楓の両側に並ぶ何台もの自動販売機が一斉に稼働を始めた。
「うおっ」
僕はもうそれだけで戦々恐々としていたが、楓は肝の据わったもので、わあ、わあ言いながら目を輝かせ、自販機の向こうに並ぶアダルトグッズに夢中になっていた。
楓はいつも楽しそうにしている子ではあるが、こんなに楽しそうにしている楓は初めてだった。
遣る瀬ない気持ちを抱いたまま、僕と楓はしばし品物を物色した。
こっそり堂店内に並ぶ自販機は、通常街中で見かけるものと明らかに規格が違う。
何よりの特徴は、ガラスと商品の間に入った鉄格子だ。
防犯上の理由なのかどうか知らないが、この鉄格子と、蛍光灯を反射するガラスの所為で、その向こうにあるアダルトグッズはかなり見にくい。
「誠一くん、何か買ってみましょうよ」
『ど変態店長オススメ』と大きく書かれたバイブを見ていた僕の反対側で色とりどりのローションを眺めていた楓が、また反応に困る事を提案し出した。
「やだよ。僕、エロ本嫌いなんだよ」
「強がらないで」
少し優しい感じで言われた事に、僕は若干の苛立ちを覚えた。
「こんな場所に来ておいて強がるも何もないよ……思うんだけどさ、こういうエロ本って、なんか今売り出し中のAVの広告ばっかり載ってるんだよな。付録のDVDもそのサンプルばっかりで……広告金出して買ってる気分だよ。それが嫌なんだよ」
表紙詐欺も多いし。
「エロ本なんて買わないわ。そんなの、コンビニで幾らでも買えるじゃない」
「まあ、確かに」
「話は変わるけれど、私コンビニのエロ本コーナーを見るの好きなのよね」
「やめなさいそんな趣味」
「以前どこかで聞いたんだけれど……コンビニに並んでる本ってその店毎にマーケティングされて並んでるらしいのよね。という事は、そのコンビニで本買う人の嗜好が反映されている訳じゃない。ロリ系のエロ本ばっかり並んでるコンビニ見つけた時はちょっと武者震いしたわ」
「楓、気付いてないかもしれないけれど、僕は早くここを出たいんだよ」
「仕方ないわ。じゃあ、名残惜しいけれど、急いで品物を選びましょう」
買うというシナリオに変更はなさそうである。
「再度言うけど、エロ本は買わないわ。買うのはこう……もっと……どうしようもないものよ」
楓の手がろくろを回すように、名状しがたい『何か』を表現しようとする。
どうしようもないものであるという自覚はあったのか。
「気が進まんよ。アダルトグッズって……本当に処分に困るんだよ。男だけの忘年会の景品とか、友人から洒落で貰ったジョークグッズとかで、否応なしに押し付けられる時があるんだけどさ……扱いにも処分にも困ってどうしようもない」
「車の中には、私たちしか居ないんだからいいじゃない」
「車を降りても、人生は続くんだよ」
そんな馬鹿なやりとりをしているうちに、各自販機を物色していた楓の目がひとところで止まった。
「決めた。これを買いましょう」
目線の先には『謎のボックス』なる謎の商品が配列されている。
何が出るかはおたのしみ、という趣旨のものである。
楓の目は本気だった。
冗談抜きで何かを買わないと帰れない雰囲気だった。何故自分が金を、等という疑問も埒外である。必要経費と諦めて、僕は自販機に千円(高い!)を投入して、謎のボックスを購入した。
ボタンを押して少し時間が経ってから、取り出し口に何かが落ちる音がした。
取り出しても、それが何かは分からないかった。業務スーパーで買えるような無機的な白い小さな箱。サイズと重さから、扱いに困る玩具類ではなさそうである事に若干の安堵を覚えつつ、僕はおもむろに箱を開けた。
果たして、中に入っていたのは、白と水色のストライプ柄の、女物のパンツだった。
「しまぱんという奴ね」
となりで楓がふむふむ頷く。
僕は小さく首を振り、楓にパンツを差し出した。
「あげる」
同日。
数時間後、山間部を抜けた僕と楓は、コインランドリーの店内で備え付けられていた漫画を読んでいた。
乾燥機に入った僕と楓の洗濯物が、ごうんごうんと音を立てて回っている。
僕と楓は終日車で旅をしていた。
ランドリーの併設されていない宿に泊まる事もあったので、必然、定期的にコインランドリーに立ち寄る必要があった。
「私、男の人からパンツ貰ったの初めて」
楓が、目が顔の面積の半分を占める女の絵が表紙の少女漫画を読みながら、そんな事を言ってきたので、
「僕も、女の子にパンツあげるの初めてだし、それがまさかあんな場所でだなんて思わなかったよ」
僕は、かなり古い号のコロコロコミックを読みながら、そう返した。
漫画本を閉じ、壁に掛かった時計を見る。
時刻は三時を回ったところだったが、二日分の精神力を消耗した気分だった。
「千円は、高いよ」
ボロい商売だな、あれ。
コインランドリーの安物のベンチにもたれたまま、独り言のように呟くと、
「じゃあ、代わりに私のパンツあげましょうか?」
楓がそういう。
生まれて初めてのこっそり堂に、想像以上にご満悦の様子だった。
「いらんよ」
「洗っちゃったから?」
楓が、乾燥機の中で、僕のものと一緒になって回っている自分の下着を見る。
僕はふうっと息を吐き、苦笑いしてこう言った。
「いい加減にしろ」




