Notte profonda di mezza luna.
「随分とこっ酷くやられたみたいね、アル」
つい十分ほど前の騒ぎが幻だったかのように静まり返った、大型コンテナが無数に立ち並ぶ港の貨物集積地帯。そこのとある連絡道路のひしゃげたガードレールにもたれ掛かるアルに降りかかったのは、聞き慣れた女の声だった。
「……アリー」
「あらあら。中々の色男になったんじゃない?」
彼がアリーと呼ぶ女――アリーエルファス・メンディーネは言うと、腰骨あたりまで伸ばした長いストレートの金髪を手で軽く振り払う。翻る長い髪が、彼女の着るスーツジャケットの肩に触れた。宙を舞い踊り、街灯の光を淡く反射するそれは、まるで金糸のように透き通っている。
「それにしたって、ここまでの損傷は流石の私も想定外ね」
うなだれるアルの全身を見下ろしながらアリーの言う通り、彼が負った損傷は決して軽いとは言いにくかった。
脊椎が強化フレームで保護されたアルの背中の塗装はガードレールとの摩擦で完全に剥がれ、表面に塗布されていた特殊なコーティング材も全て剥離して金属の地が見えてしまっている。胸部も背中と似たような具合で、通常行動に支障のないレベルではあるものの、度重なる車からの体当たりで胸板辺りの装甲版が軽く凹んでしまっていた。そして今も顔面を覆い隠している耐弾ガラスのバイザーは至近から.357マグナム弾の直撃を数発喰らってしまったせいで完全にひび割れていて、新品との交換が必要と思える。頸部を保護する装甲も弾痕が刻まれていた。
加えて、高価な高周波ブレードをボウイ・ナイフ型の一本――M-01HF-2が喪失と、受けた損害は中々に深刻だ。彼の損傷状況を見る限り、アルは向こう二週間を修理行きが確定だろうと思える。
だが、当のアリーは口振りこそ辟易したような感じではあるものの表情は心なしか明るい。少なくとも、アルが義眼越しに見たアリーエルファス・メンディーネの顔色はそんな風に見えていた。
「そう気を落とすことないわよ。どのみち今日は挨拶程度のつもりだったしね。相手は貴方の同類を既に二体……。いえ、厳密には三体だったかしら? 兎に角、貴方のような機械化兵士に対する戦い方を心得ていた相手よ。寧ろ善戦した方じゃないかしら?」
「……すまない」
「気にしないの。それより次のリベンジ・マッチに期待しましょう――あっと失礼、電話ね。誰かしら全く……」
ポケットの中でバイブレーションを震わせていたスライド式の携帯電話を取り出して、通話ボタンを押すとアリーは自身の耳にスピーカー部分を宛がう。
『――メンディーネ……ッ! 一体何のつもりですか貴女は!!』
「あら、これはこれはミスター・麻生。こんな夜更けにどうされたので?」
通話を開始した途端に、携帯電話のスピーカーが割れんばかりの勢いで怒声を響かせる通話相手へと、しかしアリーは平常通りの冷静さを崩さぬ声色で言葉を返す。声だけを聞けばまだ若い、十代のようにも聞こえる通話相手の男は麻生 隆二。アリーと同じく”方舟”に属する人間だ。声色に似つかわしく少年のような麻生の風貌を頭に思い浮かべ、少しだけアリーは口角を緩めてしまう。
『とぼけたことを……! アルフォンスを独断で動かすなど、何を考えているのですか貴女はッ』
「あら。私は彼の相棒として必要と判断される行動を取ったまでですが、何か問題でもおありなので? あるのなら遠慮なさらず仰ってください、ミスター・麻生』
アルフォンス、というのはそこで未だうな垂れている機械化兵士、つまりアルのことだ。アルは単なる愛称で、正式な彼の名前はアルフォンス・クルーガー。それが機械化兵士として身体を弄ばれる前の名前なのか、はたまた個体の区別の為に名付けられた仮の名なのかはアリーの知る所ではない。
『ええありますとも。機械化兵士の無断運用に不用意な介入行動! 加えて相手も相手です……ッ! 貴女は貴重な機械化兵士、それも組織の金を莫大に上乗せしたMod.2個体をむざむざと失う気ですか、えぇ!? 気でも狂ったのですか、アリーエルファス・メンディーネ!』
「ではこちらからも言わせて頂きますがミスター・麻生。貴方ならばあの男に勝てるとでも?」
『……ッ』
アリーの返した言葉に、電話の向こうで麻生が口ごもる。そこへ彼女は間髪入れずに次の一言を放った。
「ハッキリ言わせて頂きますと、貴方如きでは不可能です」
『メンディーネ、貴女という人は……!』
「あくまで私としては、事実を言わせて頂いたまでですよミスター・麻生。なんでも随分とあの男にご執心だとか。お気持ちは重々お察し致しますが、幾ら貴方が薬物投与で身体に鞭を打たれようが何をされようが、アルフォンスにスペック面で絶対的に劣るサイバネティクス兵士。それも第一世代の貴方があの男を打倒するなぞ不可能でしょう。
事前に資料を拝見させて頂きましたが、あの男――”黒の執行者”でしたか。ボスのお気に入り、あのミスター・浅倉を一度は打倒したそうじゃないですか。加えてあの判断力。並の人間では到底出来ることではありません。ミスター・麻生のようなサイバネティクス兵士、そして機械化兵士相手に培った豊富な経験は脅威です。――現に、私もアルが居なければ、こうして貴方と言葉を交わすことも無かったでしょう。
あのミスター・浅倉を倒したというのも納得出来ます。Mod.2のアルですら苦戦を強いられた相手にミスター・麻生。貴方が勝てるなどと、そんな至極楽観的な考えを私は持てませんがね。貴方の自信は結構なことですが、身の程というのもいい加減弁えた方が宜しいのではないでしょうか」
機関銃のようにまくし立てるアリーの言葉の雨に、遂に電話口の麻生は押し黙った。強いて言うなれば、明らかに怒気を孕んだ荒い鼻息がスピーカー越しに聞こえてくるぐらい。はぁ、とアリーは少々辟易気味に小さな溜息を吐くと、「それでは、この辺りで失礼します」といった風に告げて、通話を一方的に切ってしまう。
スマートフォン全盛の今となっては少々古臭くも感じるスライド式の携帯を片手で閉じ、ポケットに戻すアリーの横顔が疲れているようにアルは感じたが、彼へと向き直る頃にはいつもの飄々としたクールな目付きに戻っていた。
「待たせて悪かったわね。アレは話が長いから」
「いや……。それより、本当に大丈夫なのか」
「アルが気にすることじゃ無いわ。これは私の仕事。貴方はただ、目の前の敵にだけ集中していればいいの」
そう言ったアリーの顔色は普段通りではあったが、しかしアルは彼女が酷く遠くに居るように感じてしまう。何故だかは分からない。だが、手が届きそうで届かない所に立っているような、そんな風に……。
「――帰りましょうか。向こうも終わったみたいだし」
自らへと差し出された、細く華奢な彼女の掌。アルはそれを、生気の無い冷えた金属の手で握り返す以外の選択肢を初めから持ってなどいない。何故なら彼女が自分のマスターであり、そして自分は彼女の相棒であるのだから。
「また一方的に……! クソッ、あの女はッ!!」
一方、都内某所にあるホテルの一室、その窓際で麻生はスマートフォンを床に叩き付け、怒りに打ち震えていた。絨毯敷きの床の上をスマートフォンが二、三度跳ねて、彼の足元に転がる。
「随分とコケにされたようではないか。流石はメンディーネ殿だ」
「山田ァ……!」
「おっと、そう気を荒げずともよいではないか」
そんな麻生の背に立ち、左手に丈の長い刀を携えた山田は空いている右手で麻生の肩を叩く。しかし頭に血が登り切った麻生はそれを強引に振り払うと、客室備え付けの椅子へと不機嫌さを露わに腰を落とした。
「やはり、あ奴が現れよったか」
「分かっていた、とでもいう気ですかァ……?」
「先刻も申したであろう。我が明鏡止水に、並々ならぬ乱れを感じておると……。どうやら見事に的中したようだが」
「――チッ。ええそうですとも。貴方の言う通り、K.W.T.S.の会合現場に奴が現れたらしいです」
「”黒の執行者”か」
「癪ですが、その通りです。お陰でATトレーダーズの送り込んだ兵隊は文字通りの全滅。K.W.T.S.の兵力を甘く見積もり過ぎたのもありますが、何よりも奴の存在が誤算だった」
声の節々に怒りと苛立ちが織り混ざる麻生の言葉に、山田はただただ頷いてやる。二人の外見や体格差もあってか、傍から見ればまるで山田がドラ息子の愚痴を黙って聞いてやる親父のようにも見えてしまう光景だ。尤も、この一室に彼ら二人以外の人間が存在するはずもなく、そもそもが第三者的視点で彼らを見据える者など初めから居やしないのだが。
「随分と災難であったことよ。お主も、ATトレーダーズの社長とやらも」
「ええ、とてもね――ですが、本来の目的は果たせました。アレックス・ライノには気の毒ですが、彼にはこの辺りで退場して頂きましょう」
「ほう。此度の戦に裏の狙いがあったと。面白い、一度某にも聞かせてはくれぬか。のう隆二よ」
言われずとも、元より貴方にはいずれ話すつもりでした――そう前置きを告げてから、少し機嫌を直したようにも見える横顔の麻生は語り始めた。
「西園寺のご令嬢と、K.W.T.S.の殲滅は単なる副次目標。確かに我々にとっても利はありますが、あくまで彼らへの見返りでしかない。僕はね山田。彼らに取引を求めたのですよ」
「取引」
「ええ、取引。正確には僕からというより、僕を通して組織が彼らATトレーダーズと、ですが。山田、アルスメニア王国を知っていますね」
「……うむ。東欧の小国とは聞いているが、それ以上は」
「名前の通り、アルスメニアは未だに王制を貫く国家の一つ。ですがここ十年ほどになりますか。共和主義の革命派と、あくまでアルスメニア王族の元での統治を求める保守派との間で小競り合いが続いています。年々規模を増す彼らの争いは、一時期に至っては内戦の一歩手前まで発展していました。……尤も、第一王女サリア・ディヴァイン・アルスメニアが表に出て以降、その勢いは徐々に衰えていると聞きます。相当なカリスマ性を秘めているのでしょうね、あの娘は」
「なんと。そのような話、某は初耳ぞ」
「貴方が知らないのも無理はありません。所詮は地球の裏側、それも小国でのお話ですから。この国で大した報道をされていないのも仕方のないことです。
――話を戻しましょう。サリア・ディヴァイン・アルスメニアの登場で再び王制存続の機運が高まっていた王国ですが、此処に来て新たな火種が生まれました。山田、もう分かっているのではありませんか?」
「……例の、誘拐か」
「ご名答です。王室としても対応が早く、既に来日中の段階で影武者を仕立て上げていた。彼らとしても、折角静まりかけた争いの芽を、再び芽生えさせたくは無かったのでしょうね。影武者を用意したのは賢明な判断です。サリア本人ほどの求心力を持たぬ者といえ、外見さえ同じならば急ごしらえの看板にはなる。後は稼いだ時間の内で、本物を見つけ出せれば良い」
「だが、そう上手くコトは運ばない」
「その通り。相変わらず察しが良いですね、貴方は――ええ、そうです。遠く離れた極東の島国で起きた前代未聞の王族誘拐事件は秘密裏に処理されている筈でしたが、それを革命派が何処からか聞きつけた。サリア・ディヴァイン・アルスメニアが不在となったのは彼らにとっては棚から.44マグナム。保守派と政府にとっては折角収まりかけていた火に油……いいえ、山火事にナパームぐらいのことでした。革命派は火のない所に煙は立たぬの理論でまくし立て、再び国民感情を煽ろうと画策を始めています。アルスメニア国家憲兵隊が総力を挙げた必死の努力で、今のところの騒ぎは水面下に留まっていますが……。燻った火種へ炎が宿るのに、そう時間はかからないでしょう。現段階ですら、既にアルスメニア王国の内部は大混乱です」
「成程、相分かった。しかし隆二、アルスメニアの内政と我らの謀に一体何の関係があるというのだ」
「――アルスメニアの内部には、例の研究の遺物が存在していると言ったら?」
芝居がかった大振りな手振りで告げられた麻生の一言で、漸く頭の中で全ての合点がいった山田は思わず息を呑む。欠けていたパズルのラスト・ピースが漸く揃ったような感覚だ。
「やっと理解出来ましたか。恐らくは貴方の想像通りのことですよ」
「……つまり、王国の混乱に乗じてその遺物とやらを横から掻っ攫う算段と。そう言いたいのだな? 隆二よ」
「掻っ攫うだなんて人聞きの悪いなあ。返してもらうだけですよ、元の所有者にね」
「その為にATトレーダーズを利用すると」
「ええ。アルスメニアの内部には既に我々の手の者が幾らか潜り込んではいますが、所詮は諜報人員です。彼らに奪取させることも考えましたが、生憎その施設には王国陸軍が常に駐留しています。当然と言えば当然の話ですがね。その研究施設は我らが『遺産』の研究が放棄されて以降も、彼の国の技研が継続して利用しているのですから。でなければとうの昔に遺産は奪い返していますよ。当然でしょう?
我々としても他に取れる方法が無く、中々に困窮していた状況でしたが……」
「そこに、ATトレーダーズの一件を聞きつけたと」
「なりふり構わずにそこら中のPMSCsを雇い入れようとしていましたからね。勿論K.W.T.S.相手ともなればリスクが大きすぎると断られていたようですが――。だから我々が取引を持ちかけたのです。彼らに見返りとして幾ばくかの兵と武器弾薬を提供する代わりに、組織の実働部隊と武器をアルスメニア国内に潜り込ませるように」
「たかだか一つの武器商人程度がそのような所業、某には可能と思えぬのだが」
「本来ならば、ね。ですが幸運なことに、彼らは反政府側――革命派へ頻繁に武器を売りつけている。その密輸ルートを利用させて貰ったってことです」
「成程。国内の混乱に乗じて我らの兵を潜り込ませ、力技で『遺産』を頂戴する――。つまりはこういうことであろう? 隆二よ」
「身も蓋もない言い方を言い方をしてしまえば、ですがね。ですが彼らへの芝居もここまでです。副次目標といえヘマを踏んだ以上、CEOのアレックス・ライノには愛するATトレーダーズと運命を共にして頂く他に無い」
「殺すのか」
山田は当然そうなるだろうと思い口走ったのだが、意外にも麻生は首を横に振って否定した。「では、どうするのだ」と訊いてみれば、彼は言う。
「我々が直接手を下さずとも、既に彼らはK.W.T.S.の怒りを買った。部下を殺された恨みは恐ろしいと聞きます。特にあのイリーナ・クズネツォフに関してはね。過去にもあの女の部下を殺した人間が数人居たようですが、何れも酷い末路を辿ったようです。アレックス・ライノには気の毒ですが、彼にはお似合いでしょう。狂犬の牙に噛まれて死に往くのは、ね――。
兎に角、これで賽は投げられました。”黒の執行者”がこの地にいることと、メンディーネの独断は想定外でしたが……。特に計画に支障が出ることはありません。もっと上手くコトが運び、本物のサリア・ディヴァイン・アルスメニアさえ始末出来れば……。革命の歯車を喰い止めていた楔が錆崩れさえすれば、漸くアルスメニアは戦火の炎に焼かれる。その果てに政権を掌握するのは、ほぼ間違いなく革命派の連中でしょう――その時こそが、我々の動き出す時です」
「……そこまで上手く運べばよいのだがな」
「運ばずとも、最低限の目的は果たせます。あくまで我々が欲するのは『遺産』そのものなのですから」
「明鏡止水の乱れが収まらぬ。慢心をせぬよう十分に気を付けることだ、隆二」
何やら意味深な一言を告げて、麻生に背を向けた山田は客室のドアの方へと歩いていく。
「こんな夜更けに何処へ行くつもりですか、山田」
見慣れた和服に陣羽織を羽織る背中を見送りながら、椅子に深く背中を預ける麻生は彼に言う。
「なに、そう心配せずともよいではないか。ただの散歩だ、散歩。何故だか無性に、この夜風に吹かれたくなったのでな」
いつもの平静とした口ぶりでそれだけを告げて、山田は部屋を退出していった。
夜は更けていく。天の闇の中で半月が見下ろす東方の都に訪れることであろう夜明けは未だ遠く、冬の足音を響かせる肌寒い風が吹き付ける夜の闇は、未だに深かった。




