1.金木犀にさよなら
「ごめん、ルナリア。王女殿下の体調が良くないらしいんだ。今日はここまでで構わないか?」
困ったように眉を下げるグレンに、私は苦笑することしかできなかった。
「構わないわ。でも、王女殿下は大丈夫なの?先日も体調を崩されていたわ」
ねえ、グレン。
あなたは知ってる?
巷では、あなたと王女殿下は【秘められた仲】なんですって。
私はカモフラージュで、あなたの真実の愛は、王女殿下にあるのですって。
私とグレンは、珍しく恋愛婚約だった。
政略での婚約が多い中、これはとても珍しいことだった。
私の家、ローウェル公爵家では時々、石を抱いて子供が生まれる。
その石は【祝石】と言われ、とても特別な効果を発揮するという。
私は、その祝石を持って生まれた子供だった。
だけど両親は、私に政略的な意味合いをもつ婚約を強制することはなかった。
私の自由にさせてくれたのだ。
「きみが好きだよ」
十七歳の秋。
好きと言われて、恋をした。
金木犀が色付く木の下で。
小春日和の柔らかな日差しに包まれて、私は彼の想いに応えた。
ふたりでピクニックに行ったのだ。
その時の私と彼は、友人以上恋人未満という、くすぐったい仲だった。
貴族に生まれたのに、こんなに穏やかで優しい恋ができるとは思っていなかった。
グレンは、ウィンザー公爵家の嫡男で、ウィンザー公爵家は代々騎士を輩出する家柄だった。
彼が十六歳で騎士団に入ってからは、会う時間が減ってしまったけど、手紙のやり取りは欠かさず交わしていた。
金木犀の香りを、覚えている。
抱き締められた時に、金木犀の香りがしたから。
グレンと婚約してすぐ、彼は十九歳という異例の若さで近衛騎士に抜擢された。
「すごいじゃない!おめでとう!」
喜ぶ私に、彼は言った。
照れくさそうに、恥ずかしそうに頬をかきながら。
「ありがとう。これでアルセリアをそばで守れるよ」
「……え?」
アルセリアとは、王女殿下のお名前だったはず。
(グレンは王女殿下付きになったの?ううん、今大事なのはそこじゃないわ……)
「王女殿下とは、お名前を、呼ぶ仲なの?」
どう聞けばいいか分からなくて、結局直球になってしまう。
グレンはなぜか、びっくりした顔になった。
「あれ?ルナリアは知らない?アルセリア……いや、あまり名前で呼んじゃいけないんだったな。王女殿下とは、再従姉なんだ。幼馴染なんだよ」
嬉しそうにはにかむ彼に、気まずそうな色は見えない。
隠していたわけではなかったのだろう。
でも、私の目の前は真っ暗になった。
グレンと出会って四年。
今まで一度も、そんな話は聞いたことがなかった。
どうして言ってくれなかったの?
隠していたわけでないのなら、なぜ?
(近衛騎士を目指していたのは、陛下や王子殿下をお守りしたいからとか、お父上のためとか、そういう理由ではなく……)
王女殿下の、ため……?
彼はさっき、これでそばで守れる、と言った。
(グレンにとって、王女殿下は一体……何?)
ここで、そう聞けばよかったのかもしれない。
だけど、できなかった。物分かりの悪い女と思われたくなかったし、職務だもの。
護衛対象との関係を勘繰られるなんて、グレンからしたら面白くないに決まってる。
(大丈夫よ。だって彼の好きなひとは私だもの)
彼の、王女殿下への想いはきっと家族愛みたいなもの。
だから、大丈夫。
自分に言い聞かせることで、私は自分を納得させた。
彼が王女殿下付きの近衛騎士になってから、変化があった。
以前は、彼がデート中に退席することはなかった。
だけど近衛騎士になってからは度々、席を立つようになる。
「王女殿下の体調が思わしくないらしい」
私は知らなかったけど、王女殿下はお身体が弱いらしい。
日長ベッドで過ごすことも少なくないらしく、グレンはとても心配しているようだった。
今日は、ふたりでアフターヌーンティーに来ていた。
(……とても、楽しみにしていたんだけど、な)
お皿に載せられた、苺を象ったステンドグラスクッキー。
とてもオシャレで、可愛くて、こころが躍るのに。
どうしてこんなにも寂しいのだろう。
「ねえ、ここの苺クッキー、最近とても有名なのよ。お友達から教えてもらったの。何でもね、変わった味付けがされていて……」
返事はない。グレンはぼうっと、何か考え込んでいる。
……王女殿下のことだ。
「ねえ、グレン。そんなに王女殿下が気になる?」
私は首を傾げて彼を見た。
「え……」
グレンは驚いたように私を見る。
やはりそこに気まずさとか、罪悪感とかは、見当たらない。
ただ、気付いてもらえたことが嬉しいのか、歓喜が滲んでいた。
それに、私と彼の気持ちの温度差を知る。
「そんなに心配なら行ってきたらいいわ」
意地悪な気持ちで言った。
だってまだ、お菓子は残っている。
食事の途中だ。いくらなんでも食事途中に退席することは、彼だってしないだろう。
ここで彼が中座したら私はひとりでこの二人用のアフターヌーンセットを食べなければならない。
これは一種の賭けだった。
ここで、グレンに残ってほしかった。
そうするだろうと思ったし、そうして欲しかったのだ。
だけど、グレンはパッと顔を輝かせて私を見た。
「いいの?」
いいの?
それに驚いたのは私だ。
(本当に、行くつもりなの?)
でも、提案したのは私。
今更「本当に行く気なの?」とか「冗談よ」とは言えない。
……みじめだもの。
「いいわよ?行ってらっしゃい」
だから、せめて笑顔で送り出す。
グレンはすぐに席を立って、店を出て行った。
お皿に残された、苺のステンドグラスクッキー。
配膳された時はキラキラと輝いて見えたのに、今では色褪せて見える。
(あんなにも、楽しみにしていたのに……)
『お友達から気になるカフェを聞いたの。よかったら一緒に行かない?』
『カフェ?いいね。次の休みに行こうか』
『本当!?私ね、すっごく楽しみなの!苺のクッキーがね、有名なのよ?』
そう、話していた。
だけど彼はアフタヌーンティーに興味がなさそうだった。
ううん、別のことに気を取られて集中できていなかったのよ。
(……楽しみにしていたのは、私だけみたい)
周囲は楽しそうに、恋人たちや友人たちが話に花を咲かせている。
好奇心を含んだ視線を向けられて、私は席を立った。
まだお菓子は残っていたけど、食欲は失せていた。
いつの間にか、彼と婚約して二年が経過していた。
私は十九歳になったし、グレンは二十一歳になった。
だけど、未だに結婚の話は出ない。
それは、グレンが、王女殿下がご結婚されるまでは、と断っているためだ。
私はもう十九歳。
結婚適齢期だ。このままズルズルと、何年もこの関係が続くのだろうか。
(苦しい……)
あんなに好きだった金木犀。
今はその香りを嗅ぐだけで胸が苦しくなる。
いつまで、この関係が続くのかしら。
☆
あんなにグレンを好きだったのに、今は彼と会うたびに苦しい。
夏になって、王家主催の蛍涼祭が催される。
夜のパーティーは、貴族はよほどの事情がない限り参加するものだ。
ローウェル公爵邸まで迎えに来てくれたグレンは、私を見ると優しく微笑んだ。
「とっても似合ってる。可愛いよ」
「ありがとう。あなたも素敵だわ」
嬉しいのに、素直に喜ぶことはできなくなっていた。
蛍涼祭では、ホールの灯りを落とし、光源代わりに蛍を放つ。
その蛍の光を目で見て楽しむという趣旨の夜会だ。
「……王女殿下はいいの?」
馬車に乗り込んで、開口一番に私は言った。
可愛くない発言だとわかってる。
「アルセリア?今日は別の近衛がついているから大丈夫だよ」
彼は、私とふたりきりの時は王女を名前で呼ぶようになった。
隠さなくていい相手、ということなのかしら。嫌な信頼だ。
(でも、私。今まで言ったことがない……)
グレンが王女殿下の近衛騎士なのは分かっているし、彼女を心配しての言動だとわかっている。
でも、私は嫌なのだ。
それを、私は一回でも伝えたことがあったかしら……?
ふと思って、私は膝の上に視線を固定した。
心臓が、ドキドキ。バクバクと言っていた。
手汗がにじむ。
白のレース編みの手袋がよれてしまう。
「ね、え……グレン。私ね、あなたが王女殿下をお名前で呼ぶの、嫌だわ……」
声が小さくなってしまったけど、言った。
馬車の中は静かだから、彼には聞こえただろう。
返答が怖くて目を瞑る。
私はいつから、こんなに憶病になってしまったのだろう。




