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プロローグ




「申し訳ございません、ただいま確認いたしますので、少々お待ちいただけますでしょうか」


この言葉を一日に何回言ったか数えていた時期が、私にもあった。


最初の頃は正の字をメモ帳の端に書いていた。十回を超えるとちょっと笑えて、三十回を超えると仕事をしている感が出て、五十回を超えると謎の達成感すらあった。


八十回を超えたあたりで、私は数えるのをやめた。


理由は簡単で、数えたところで給料は増えないし、怒鳴り声は小さくならないし、上司は助けに来ないし、電話の向こうの誰かが「あなた個人に怒ってるんじゃないんですよ」と言いながら、ものすごく個人的な勢いで私を詰めてくる事実に変わりはなかったからだ。


私の名前は、相沢玲奈。


二十九歳。


都内の中堅企業で、お客様相談窓口という名の感情処理場に勤務している。


名刺に書かれた部署名は「カスタマーリレーション推進部 顧客満足向上課」で、字面だけ見ると爽やかな若手社員が観葉植物のあるオフィスで笑顔を振りまいていそうだけれど、実態は、朝から晩まで鳴り止まない電話、未読が積もり続ける問い合わせメール、怒号で震えるヘッドセット、誰が書いたのか分からない古いマニュアル、微妙に責任を取りたがらない関連部署、そして「お客様のお気持ちに寄り添って」とだけ言い残して定時に消える管理職によって構成された、現代社会の煮こごりみたいな場所だった。


本日の一件目は、午前八時五十七分。


始業前だった。


始業前の電話は取らなくていいというルールは一応ある。あるにはあるけれど、鳴っている電話を放置すると、あとで「電話がつながらなかった」という別件のクレームに育つので、結局誰かが取る。


その誰かは、大体私だった。


「はい、お電話ありがとうございます。カスタマーリレーション推進部、相沢でございます」


言い終わる前に、相手はすでに怒っていた。


「おたくの商品を使ったら、うちの棚が傾いたんだけど!」


棚。


商品。


傾いた。


三つの単語が頭の中で手をつないで輪になり、盆踊りを始めた。


弊社の商品は、家庭用の収納ラベルである。


棚を支える機能はない。


というより、粘着式の小さなラベルに棚を傾けるほどの力があったら、それはもう収納用品ではなく建築兵器である。


私は声に出さず、深く息を吸った。


「ご不便をおかけしており、申し訳ございません。恐れ入りますが、どちらの商品をご使用いただいたか確認させていただけますでしょうか」


「白いやつ!」


白いやつ。


弊社商品の六割が白い。


「白いラベルタイプの商品でございますね。パッケージや型番など、お手元でご確認いただけるものはございますでしょうか」


「そんなもの捨てたよ! 普通取っておかないでしょ!」


普通。


この言葉は便利だ。


自分の行動が世界標準であることを、証明書なしで宣言できる。


「失礼いたしました。では、商品の大きさや形状を――」


「だから白いやつだって言ってるでしょ! 話聞いてるの?」


聞いている。


聞きすぎている。


耳から相手の生活背景まで流れ込んできそうなほど聞いている。


このあと私は二十三分かけて、白いラベルが棚に貼られ、その棚の上に重さ十七キロの観葉植物が置かれ、棚板が湿気で反っていた可能性が高く、弊社商品が直接棚を傾けたとは考えにくいことを、相手の怒りを刺激しないように結論を遠回りさせながら、まるで壊れかけの橋を渡るように説明した。


最後に相手はこう言った。


「じゃあ何? うちが悪いって言うの?」


来た。


伝統芸能。


私は背筋を伸ばし、顔も見えない相手に向かって、なぜか軽く頭を下げた。


「お客様が悪いということではございません。現時点で確認できる内容として、棚の状態や設置環境も影響している可能性がございますので、まずは安全のため棚のご使用をお控えいただき、必要であれば施工業者様や家具メーカー様にもご確認いただくのがよろしいかと存じます」


「つまり、そっちでは何もしないってこと?」


「弊社商品についてご不安がございましたら、現品をご送付いただき、状態を確認することは可能でございます」


「送料は?」


「恐れ入りますが、初期確認の段階ではお客様ご負担をお願いしております」


「誠意ないね」


はい。


出ました。


誠意。


姿形は見えないのに、なぜか請求書には乗りがちな概念。


私はもう一度、申し訳ございませんを口にした。


電話を切ったあと、通話記録に対応内容を入力していると、隣の席の後輩、三浦さんが目を丸くしてこちらを見ていた。


「相沢さん、今の棚が傾いた原因がラベルって話ですか?」


「そう」


「ラベルって、あの、貼るだけの?」


「貼るだけの」


「すごいですね」


「ね。弊社もついに重力に干渉するところまで来た」


冗談めかして言うと、三浦さんは笑いながらも、ちょっと泣きそうな顔をした。


入社二年目の彼女は、まだ怒鳴り声に慣れていない。慣れなくていいと思う。怒鳴られて平気になった顔で昼食のサンドイッチを食べるようになると、何か大切な部分がゆっくり冷えていく。


私は、自分のマグカップに入っていたコーヒーを飲んだ。


ぬるい。


昨日の夜に淹れて、飲みきれずにデスクへ置いたままだった気がする。


まあ、カフェインが入っていれば水質は問わない。


午前十時を過ぎるころには、電話とメールとチャットが同時に鳴り、部署全体が小さな戦場になった。


「昨日問い合わせた件、まだ返事が来ていないんですけど」というメールには、昨日の十八時四十七分に送信された問い合わせ番号がついていた。


弊社の回答目安は三営業日以内である。


十八時四十七分は、昨日というより、ほぼ今日の入り口だ。


「至急」と件名に入ったメールを開くと、「特に急ぎではないのですが」と一行目に書いてあった。


急ぎとは。


昼前には、関連部署から内線が来た。


商品企画部の佐伯さんだった。


「相沢さん、例の新商品の件なんですけど、お客様から問い合わせ来てます?」


「来てます。かなり来てます」


「やっぱり?」


やっぱりじゃない。


「説明書の三ページ目にある使用方法なんですが、実物と違うというお問い合わせが複数あります」


「あー、あれ、撮影用の試作品なんですよ」


「試作品?」


「量産版とちょっと仕様変わっちゃって」


「説明書の写真は試作品で、実物は量産版なんですね」


「そうですそうです」


「その情報、発売前にこちらへ共有されていますか?」


「いや、してないかもです」


してないかも、ではなく、していない。


私の手元にある共有フォルダには何もない。


「お客様へどうご案内すればよろしいでしょうか」


「えーっと、仕様変更です、でいいんじゃないですかね」


「仕様変更の理由と、使用上問題がない根拠をいただけますか」


「根拠?」


根拠。


とても大事。


とても嫌われる。


「お客様へ説明するために必要です」


「確認しますね」


この「確認しますね」は、だいたい返ってこない。


確認という名の大海原へ小舟が漕ぎ出し、そのまま水平線へ消える。


私は内線を切り、通話メモに「商品企画部へ確認依頼中」と入力した。こう書いておかないと、あとで私が確認していないことになる。確認した証拠を残すために、確認している時間より長く記録を書く。おかしな話だけれど、このおかしな話をちゃんとやらないと自分が燃えるからだ。


正午、社内チャットに上司からメッセージが来た。


【本日中に未処理案件をゼロにしてください】


私は画面を見た。


未処理案件、百四十六件。


本日中。


ゼロ。


数字が喧嘩している。


続けてもう一通。


【なお、十六時から顧客満足向上施策会議があります。相沢さんは資料作成と議事進行をお願いします】


顧客満足。


向上。


施策。


この三つを並べると、現場の疲労が魔法みたいに消えると信じている人が社内には一定数いる。


私は昼食用に買っていたおにぎりを取り出した。具は鮭。コンビニで一番無難なやつ。包装を開けようとしたところで電話が鳴った。


「はい、お電話ありがとうございます。カスタマーリレーション推進部、相沢でございます」


「責任者を出せ!」


おにぎりは、開封されることなく机の右端へ移動した。


責任者。


私の部署では、責任者はよく不在になる。


会議中、外出中、別件対応中、打ち合わせ中、席を外しております、確認して折り返します。責任者というものは、求められた瞬間に姿を消す習性でもあるのかと思うくらい、いつも絶妙にいない。


「恐れ入ります。まずはご用件を確認させていただき、必要に応じて担当者よりご案内いたします」


「必要に応じてじゃない! 今すぐ責任者を出せって言ってるんだ!」


怒号がヘッドセットを貫いて、頭蓋骨の内側で反響した。


隣の三浦さんが肩を跳ねさせる。


私は左手で「大丈夫」と小さく合図した。


大丈夫ではない。


けれど、大丈夫という顔をしていないと、電話の向こうの怒りはさらに育つ。


「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。責任者への引き継ぎ可否を確認するためにも、まずはお問い合わせ内容を確認させていただけますでしょうか」


「そっちが売った商品で、うちの犬が怒ったんだよ!」


犬。


怒った。


弊社商品は収納ラベルと生活雑貨である。


犬の感情制御機能はない。


そこからの説明は長かった。


新商品の香り付き収納シートを棚に敷いたところ、飼い犬がその棚に向かって吠え続けた。犬がストレスを受けた。これは動物虐待にあたるのではないか。慰謝料を払え。ネットに書くぞ。責任者を出せ。


私は香料成分、使用場所、ペットの個体差、換気、使用中止、返品対応の可否を順に確認し、相手が「慰謝料」という言葉を出すたびに、医師または獣医師の診断記録が必要になることを、できるだけ柔らかく伝えた。


相手は最後に言った。


「じゃあ、犬の気持ちはどうなるんだよ!」


申し訳ございません。


犬のお気持ちについては、弊社窓口では判断いたしかねます。


とは言えない。


言ったら終わる。


「大切なご家族であるわんちゃんにご不安な様子があったとのこと、ご心配なお気持ちはもっともかと存じます。まずは商品のご使用を中止いただき、体調面で気になる点がございましたら、獣医師様へご相談いただくことをおすすめいたします」


電話を切ったあと、私はおにぎりを見た。


海苔がしっとりを通り越して、すべてを諦めた質感になっていた。


十六時の会議では、部長が笑顔で言った。


「クレームって、実はチャンスなんですよ」


出た。


クレームはチャンス。


その言葉を聞くたびに、私は心の中で小さな椅子を投げている。


たしかに、苦情の中に改善の種があることは分かる。お客様の声から問題が見つかることもある。現場の気づきが商品やサービスを良くすることもある。


それは分かる。


分かるけれど、毎日電話口で怒鳴られ、人格を薄く削られ、関係部署からは面倒な話を持ってくる人扱いされ、最後に上から「チャンス」と言われると、こちらとしてはそのチャンスを一回そちらで直に浴びてからおっしゃっていただけますか、という気持ちになる。


会議資料の画面には、私が昨日の深夜に作ったグラフが映っていた。


苦情件数、前月比一八%増。


対応人員、前月比一名減。


平均対応時間、前月比二二%増。


未処理案件、過去最高。


それを見た部長は、腕を組んでうなずいた。


「やっぱり、お客様との接点を増やせているということですね」


違う。


違うと思う。


ものすごく違う。


私は議事録に、「顧客接点増加に伴う対応体制の見直しが必要」と書いた。


本当は、「人を増やせ」と書きたかった。


会議が終わったのは十八時二十分。


定時は十八時。


もちろん、ここからが本番だった。


昼間に取れなかったメールを返し、商品企画部から来ない回答を催促し、三浦さんが対応中に泣きそうになった案件を引き取り、上司から投げられた「これ、相沢さん分かる?」という雑なボールを拾い、二十二時を回ったころ、フロアの照明が半分落ちた。


残っているのは、私と三浦さんと、別部署の誰か二人。


「相沢さん、先に帰ってください。私、これだけ入力したら帰ります」


三浦さんがそう言った。


目の下に薄い影ができている。


「だめ。もう帰って。入力は私が見る」


「でも」


「明日、電話取れなくなるよ」


「……相沢さんは?」


「私はもうだいぶ前から取れてないようなものだから」


三浦さんは笑った。


笑ったあと、申し訳なさそうに頭を下げて、帰り支度をした。


若い子を帰せた。


本日の成果。


私は椅子に座り直し、未処理フォルダを開いた。


百四十六件だった未処理は、百十七件になっていた。


全然減っていない。


それでもゼロにしろと言われている。


ゼロ。


ゼロとは、何もないこと。


今の私には睡眠も食欲も判断力もほぼないので、ある意味ゼロに近い。


午前零時を過ぎると、社内の空調が弱くなり、フロアの空気がぬるく重たくなった。キーボードを打つ指が遅くなる。画面の文字が少しにじむ。頭の奥で、ずっと電話の呼び出し音が鳴っている気がする。


帰ろう。


さすがに帰ろう。


そう思った瞬間、共有メールボックスに新着が入った。


件名:【至急】本日中に回答希望


本文を開く。


「御社の商品により精神的苦痛を受けました。誠意ある対応をお願いします。明日の朝までに返答がない場合、しかるべき対応を取ります」


本日中。


送信時刻、午前零時十三分。


明日の朝まで。


私は笑った。


声は出なかった。


口だけが笑った。


何がおかしいのか分からないけれど、もう笑うしかなかった。


私は返信文の下書きを作り始めた。


「このたびは弊社商品に関し、ご不快な思いをおかけし申し訳ございません。詳細を確認のうえご案内いたしますので、恐れ入りますが、該当商品名、ご購入日、ご使用状況について――」


そこまで打って、指が止まった。


画面の白が、妙に明るい。


蛍光灯の音が遠い。


胸のあたりが、きゅっと縮むように痛んだ。


あれ。


これは、まずいかもしれない。


そう思ったのに、私の手は勝手にキーボードを打とうとした。


返さなきゃ。


未処理を減らさなきゃ。


明日の朝、また怒られる。


お客様を待たせてはいけない。


関連部署へ確認しなきゃ。


三浦さんの案件も見なきゃ。


議事録も送らなきゃ。


部長に報告しなきゃ。


息を吸おうとして、うまく吸えなかった。


椅子の背もたれが遠くなり、机の角が視界の端で斜めになり、床が近づいてくるのが分かった。


最後に見えたのは、未送信のメール画面だった。


「申し訳ございません」


私の人生を要約するなら、多分その八文字で足りる。


目が覚めたとき、最初に感じたのは床の硬さだった。


会社の床ではない。


会社の床はもっと薄汚れたカーペットで、コーヒーとコピー機の熱と古い空調の匂いが混ざっている。


今、私の頬に触れているのは、冷たい石だった。


石。


オフィスに石畳はない。


少なくとも、うちの会社の福利厚生に石畳リラクゼーションスペースは存在しない。


私はゆっくり目を開けた。


視界に入ったのは、高い天井、古びた梁、壁にかかった大きな紋章、並んだ木製の長椅子、羽根ペンを走らせる人々、そして、耳の尖った女性だった。


耳。


尖っている。


コスプレ。


いや、会社で倒れて病院に運ばれたとして、病院にエルフ風コスプレの看護師がいる可能性は低い。


低いというより、あったら別の意味で問題になる。


私は起き上がろうとして、自分の服を見た。


白いブラウスでも、黒いタイトスカートでもない。


生成りのシャツに、茶色いベスト、膝下丈の地味なスカート。腰には革紐で小さな帳面と羽根ペンらしきものが吊られている。


さらに、手が少し若い。


いや、若いというか、傷がない。


いつも右手中指にできていたペンだこが薄い。


爪も割れていない。


私は手のひらを見つめながら、頭の中で状況整理を始めた。


一、会社で倒れた。


二、目覚めたら石造りの謎施設。


三、周囲に耳の尖った人がいる。


四、自分の服が変わっている。


五、床が冷たい。


六、誰も救急車を呼んでいない。


結論。


夢。


過労による夢。


そう判断するのが最も社会的に穏当で、私のメンタルにも優しい。


夢なら少し寝直したい。


床でもいい。


石でもいい。


怒鳴り声が聞こえないなら、もうそれだけで高級寝具である。


そう思って目を閉じかけたところで、頭上から雷みたいな声が降ってきた。


「おい! いつまで寝ておる! こちらは三刻も待たされているのだぞ!」


私は反射で起き上がった。


声の主は、巨大な男だった。


巨大というか、横幅が扉。


赤茶色の髭を三つ編みにし、分厚い腕を組み、腰には斧、背中には工具箱。身長は私より低いのに、圧が高い。地面から怒りが生えてきたみたいな迫力がある。


ドワーフ。


その単語がなぜか自然に浮かんだ。


夢、すごい。


解像度が高い。


男は私の顔を覗き込み、鼻息を荒くした。


「担当者を呼べと言うておる! この街の水晶冷却箱はどうなっておるのだ! 買って三日で中のエールが凍ったぞ! 冷やす箱が凍らせてどうする! これは冷却ではない、虐待だ!」


エールへの虐待。


初めて聞く概念だった。


周囲を見ると、私の近くには木製の受付台があり、その上には何枚もの羊皮紙、黒いインク壺、番号札のような木片、そして「王立生活保障局 第三受付」と書かれた札が置かれていた。


王立。


生活保障局。


第三受付。


私は、夢にしては嫌な単語が並んでいるなと思った。


男はさらに詰め寄る。


「わしはな、冷えたエールが飲みたかったのだ! 仕事終わりに、ちょうどよく冷えた一杯をな! それが何だ、蓋を開けたら氷塊だ! ジョッキに注げぬ! 飲めぬ! 舐めろというのか! わしにエールを舐めろと!」


情報量が多い。


水晶冷却箱。


エールが凍った。


冷却性能が強すぎる。


商品不良、または使用方法違い。


購入三日。


現品確認必要。


保証範囲確認必要。


私は寝起きの頭で、勝手に分類を始めていた。


いや、待って。


何をしている。


ここは夢。


私は倒れた。


目の前にドワーフがいる。


普通なら叫ぶか、逃げるか、頬をつねるかするべき場面だ。


それなのに私の口は、前世の筋肉記憶によって勝手に動いた。


「このたびはご購入いただいた水晶冷却箱により、ご期待に沿う状態でエールをお楽しみいただけなかったとのこと、ご不便をおかけし申し訳ございません」


言った。


謝った。


異世界らしき場所で、第一声が謝罪だった。


男は一瞬、目を見開いた。


周囲の職員らしき人たちも、こちらを見た。


静かになった。


私は自分の口を押さえたくなった。


何をしているの、私。


最初の発言がそれでいいの。


もっとあるでしょう。


「ここはどこですか」とか。


「私は誰ですか」とか。


「救急車を呼んでください」とか。


そもそも救急車あるのか知らないけど。


男は少しだけ腕組みを緩めた。


「……ふん。分かればよい。いや、よくはない。わしのエールは戻らん」


怒りの炎が、微妙に弱まった。


経験上、最初の謝罪で相手の怒りが三割落ちる場合がある。もちろん謝ればいいというものではない。非を認めすぎると補償要求が膨らむし、謝り方が軽いと油を注ぐ。それでも、相手が求めている第一段階が「自分の不満を認識させたい」である場合、まずそこを言語化すると会話が始まる。


私は受付台の前に座り直した。


腰が勝手に仕事の姿勢を取った。


背筋を伸ばし、相手の目を見る。見すぎない。斜めに置かれた羊皮紙へ視線を落とし、記録を取る姿勢を見せる。


「恐れ入ります。状況を正確に確認させていただきたいので、いくつか順にお伺いしてもよろしいでしょうか」


「順に?」


「はい。ご購入日、購入店舗、商品名または型式、設置場所、ご使用時の設定、凍結が確認された時刻を確認いたします。そのうえで、商品側の不具合か、設定または設置環境によるものかを切り分けさせていただきます」


言いながら、私は頭の片隅で悲鳴を上げていた。


何で分かるの。


水晶冷却箱の設定って何。


型式ってあるの。


羊皮紙に書けるの。


羽根ペン使ったことないんだけど。


けれど言葉は止まらない。


前世の窓口魂が、異世界の常識不足を勢いで埋めている。


男は鼻を鳴らした。


「購入日は三日前、店は銀槌通りのモルガン魔法具店、品は氷精石入り水晶冷却箱、型は……知らん。設置場所は工房奥の休憩部屋、設定は最強だ」


最強。


原因候補が立った。


「恐れ入ります。設定を最強にされた理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」


「早く冷えると思ったからだ!」


分かる。


とても分かる。


電子レンジのワット数を上げれば早い、みたいな発想。


「ご使用説明には、エールや果実水など凍結の恐れがある飲料について、最強設定での長時間保管を避けるよう記載がございましたでしょうか」


男の眉が動いた。


「説明書など読んでおらん」


正直。


ありがたい。


「ありがとうございます。では、説明書の記載確認が必要になります。現品または説明書はお持ちでしょうか」


「箱ごと持ってきた」


男は背後を顎で示した。


そこには、台車に乗った木箱があった。


大きい。


受付に持ってくるサイズではない。


冷蔵庫を相談窓口に直搬入する胆力、見習いたくない。


近くの職員が青い顔をしている。


私は木箱を見て、羊皮紙に何かを書こうとした。


羽根ペンを握る。


インクをつける。


紙に触れる。


線が太い。


にじむ。


難しい。


ボールペンって偉大だったんだな。


そう思いながら、どうにか文字を書いた。


読める。


不思議なことに、私はこの世界の文字を書けた。


夢なら便利。


夢じゃないなら怖い。


「現品確認が必要となりますので、魔法具担当部署へおつなぎいたします。現時点では、設定条件による凍結の可能性と、商品説明不足の可能性の両方がございます。確認前に補償可否のお約束はできかねますが、受付記録を作成し、担当検査へ回付いたします」


男はじっと私を見た。


「……つまり?」


「現品を確認します。説明書の記載も確認します。お客様の使用状況も記録します。そのうえで、商品不良か、説明不足か、使用条件によるものかを判断します」


「エールは?」


「凍結したエールの補償につきましても、購入状況と保管条件を確認したうえで、あわせて申請可能か確認いたします」


「ふむ」


男は腕を組み直した。


怒ってはいる。


けれど爆発はしていない。


クレーム対応において、この「爆発していない」は勝利に近い。


男は少しだけ顎を引き、言った。


「最初からそう言えばよいのだ。前の受付は、冷やしすぎだと言って笑いおった」


私は周囲を見た。


少し離れた若い職員が、びくっと肩を震わせた。


ああ。


なるほど。


この人は、エールが凍ったことそのものより、笑われたことに怒っている。


商品不満に、侮辱された感情が乗っている。


前世で何度も見た構図だった。


壊れた商品より、「ちゃんと扱われなかった」が火種になる。


私は男に向き直った。


「ご不快なお気持ちにさせてしまった点についても、受付記録に残します」


男の目が少し丸くなった。


「それも残すのか」


「はい。商品状態だけでなく、窓口でのご案内に不足があった可能性も含めて確認いたします」


「……そうか」


男は、少しだけ満足そうにうなずいた。


私の背後から、誰かの息をのむ音がした。


そして、銀髪の女性が近づいてきた。


すらりと背が高く、耳が尖り、淡い青の制服を着ている。胸元には王冠と天秤の紋章。顔立ちはきれいなのに、目の下には働きすぎの影がある。


同業者の顔だ。


世界が違っても分かる。


この人、窓口でかなり削られている。


女性は私の横に立ち、小声で言った。


「レナ、あなた、頭を打ったのではありませんか」


レナ。


今、レナって言った。


相沢玲奈の玲奈と同じ。


偶然か。


いや、夢なら雑な名前設定もあり得る。


「ええと」


私は言葉を選んだ。


「少々、状況確認中です」


「床に倒れていたのですよ」


「承知しております」


承知しておりますじゃない。


床に倒れていた本人の返答ではない。


女性はさらに眉をひそめた。


「本当に大丈夫ですか。先ほどまで、あなたは第三受付の見習いとして、苦情を聞くたびに半泣きになっていたはずです」


半泣き。


見習い。


第三受付。


私の中で、嫌な予感が柱を立てた。


私は小声で尋ねた。


「すみません、私は今、どこの所属でしょうか」


女性の眉間のしわが深くなった。


「王立生活保障局、受付統括本部、初期受付課、第三受付見習官です」


夢にしては、肩書きが具体的すぎる。


しかも窓口。


転生先でも窓口。


もう少し選択肢がなかったのか。


剣聖とか、聖女とか、公爵令嬢とか、薬師とか、せめて森の奥でパンを焼く村娘とか。


なぜ受付見習官。


なぜ苦情局。


前世であれだけ謝ったのに、来世の初期配置も謝罪カウンターなのか。


私は頭を抱えたかった。


けれど目の前には、エールを凍らされたドワーフがまだいる。


仕事中である。


異世界でも。


たぶん。


私は女性にそっと確認した。


「魔法具担当部署へ回付する場合、どちらへおつなぎすればよろしいでしょうか」


女性は一瞬固まったあと、信じられないものを見る目で私を見た。


「……魔法具検査課です。黒線の案内札を出して、証拠品搬入口へ誘導します」


「ありがとうございます」


私は受付台の端に置かれた黒い木札を取り、ドワーフの男へ差し出した。


「こちらの黒い案内札をお持ちいただき、床の黒線に沿って証拠品搬入口へお進みください。魔法具検査課にて現品確認を行います。受付番号はこちらに記載しておりますので、担当者へお渡しください」


男は札を受け取り、じっと見つめた。


「おぬし、名は」


「相沢……いえ、レナです」


「レナか。さっきまでの半泣き娘とは別人のようだな」


「よく言われます」


前世では、主に繁忙期明けに。


男はふんと鼻を鳴らし、台車を押して黒線の先へ進んでいった。


木箱がごろごろと音を立てる。


周囲の職員たちは、なぜか私を見ている。


受付広間のざわめきが少し戻る。


私は椅子に座ったまま、ようやく自分の膝の上で手を握った。


震えていた。


そりゃそうだ。


倒れて、起きたら異世界で、即クレーム対応。


普通なら泣く。


見習いレナさんも半泣きだったらしいし、今から私が泣いても引き継ぎとして自然だと思う。


銀髪の女性が、私の前にかがんだ。


「本当に大丈夫ですか。医務室へ行きますか」


行きたいと言われれば行きたいかも。


…うん、猛烈に行きたい。


というか、まずこの世界の医務室で何をされるのか知りたい。


薬草を塗られるのか、聖水を飲まされるのか、魔法で頭の中を覗かれるのか。


私は返事をしようとした。


その時、受付広間の入口から甲高い声が響いた。


「ちょっと! 責任者はどこなの! この店で買った幸運の指輪をつけてから、三回連続でくじに外れたんだけど!」


私はゆっくり顔を上げた。


入口には、派手な帽子をかぶった女性が立っていた。


指には大きな宝石のついた指輪。


後ろには気まずそうな商人。


受付係たちは一斉に視線をそらした。


銀髪の女性がこめかみを押さえた。


「幸運保証の案件ですね……」


幸運保証。


何その地獄みたいな保証。


女性は私を見た。


「レナ、医務室は――」


「いえ」


私は立ち上がった。


立ち上がってしまった。


体は疲れているのに、口はもう準備を始めている。


前世から染みついた窓口の業が、異世界の空気を吸っても死んでいない。


私は帽子の女性に向かって、営業スマイルを浮かべた。


たぶん、少し引きつっていた。


「お待たせいたしました。まずはご購入状況と、幸運の効果範囲について確認させていただきます」


女性が目を吊り上げる。


「効果範囲?」


「はい。くじ全般に対する当選を保証する商品なのか、日常生活における小さな幸運を補助する商品なのか、販売時の説明内容を確認する必要がございます」


「そんなの、幸運って言ったら当たるってことでしょう!」


出た。


期待と契約の差。


異世界にもある。


むしろ魔法がある分、悪化している。


私は深く息を吸った。


石造りの広間、羽根ペン、王冠の紋章、耳の尖った同僚、凍ったエール、幸運の指輪。


理解が追いつかない。


けれど、目の前のクレームは追いつくのを待ってくれない。


私は前世で覚えた言葉を、異世界の受付台で口にした。


「お客様のお申し出内容を、順に確認いたします」


その瞬間、私は悟った。


ここが夢でも、夢じゃなくても。


私はまた、窓口にいる。


そしてどうやらこの世界にも、理不尽は山ほどあるらしい。



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