02
この国ヒールニールは、かつて魔王に攻め込まれ、窮地に陥っていた。しかし、勇者とその一行が魔王とその臣下を倒したことで危機を脱し、平和が訪れると思った。
だが、残った魔王軍の残党や魔獣が各地を荒らした。魔王やその臣下に比べれば強くはないものの、その数の多さを憂いた勇者は、国王の元へ戻った際に、国民から志願兵を募り、後始末をするための討伐ギルドを設立することを嘆願したという。
この時、勇者は25歳。彼は戦いと後進の育成に時間を捧げ、10年……。
そうして35歳となった元勇者は、夜の酒場でソロ討伐後の打ち上げをしていた私の隣に座っていた。
「なんでいるんですか……」
「ここに入っていく君を見かけたからだよ」
柔らかい笑みを浮かべながら、さも当然という風に、私が座っていたカウンターの左側の席を陣取り、こちらを向きながら首をかしげる彼の姿に、私は葡萄酒の杯を持ったまま固まった。
「店主、俺にも葡萄酒をくれないか。それとハムステーキにキャベツの酢漬けを」
「はいよ」
店の灯りがギュンターのくすんだ金色の髪を柔らかく照らし、年齢を重ねても端正な顔立ちを際立たせる。いつ見ても無駄に顔が良い。
仕立ての良い黒の上下なのはいつも通りなのだが、姿が良すぎて着ている服も、手に持った安い葡萄酒の杯も、グレードが上がって見えてしまう。
私の方はというと、生成りの前紐のシャツに、体のラインが分かるリーフグリーンの刺繍入りのベスト。下はベストと共布の脛丈スカートとブーツ姿。よくある一般的な女性の日常着、といった姿をしていた。
今日は依頼とその報告を無事終えて、一度、討伐者が多く住む区画の賃貸物件に荷物などを置き、さっぱりと着替えて、気分良く、さあ一人打ち上げを楽しもうとしていたのだが、遭遇してしまった……油断した。
「今日の服、君の髪の色が映える色だね。よく似合ってる」
ギュンターは顔を合わせて、三十秒も経たないうちに甘い言葉を使ってきた。
私は思わず彼と反対側に体を傾けるが、右側に巨漢の客がどっかりと座ってきて、仕方なく体を戻した。なんだよもう……運が悪い。
私と遭遇できたギュンターは、嬉しそうに目元を緩め、こちらを見つめてくる。私は気まずさゆえに、ひきつりながら微笑むと、葡萄酒を口に含んだ。
あれから一月が過ぎ、私は分かりやすくギュンターに迫られる日々を送っていたのだが、追い詰められる前に回避するのが一番と、討伐についてこようとするのを避け、間合いを詰めてきたら高い感覚と素早さを活かしてギリギリでかわし、姿を見かけた瞬間ダッシュで逃げるというのを繰り返している。
別にギュンターは悪人ではないし、お金も地位もあるので、普通の女性からしたら優良物件なんだろうけど、マイペースゆえの強引さに、こちらのペースを乱される感じがして、それがどうも苦手だった私は、とにかく必死で彼を避けていたのだ。
「今日は一人で打ち上げ? 報告書見たけど、魔鳥十羽の群れをソロで片付けられるのは、君の弓の腕が確かだからだね。討伐成功おめでとう」
「うえ、え、どうも……」
なんで知ってるんだ、と一瞬思うけど、この人ギルドマスターだから、今日の討伐完了報告書を読めば分かることだった、と視線をさ迷わせる。
「報告書、夕方に出したのに、もう読んでたんですか……」
「今日の分はその日のうちに読んでるよ。溜めると大変だしね。ああ…一緒に行って、そばで見ていたかったな」
寂しそうな笑みを浮かべながら葡萄酒の杯に口をつける姿を見て、私は前のことを思い出して眉間に皺を寄せ、「ついてこないでください」「結構です」という言葉を葡萄酒と一緒に飲み込んだ。
どう返せばいいんだよ、と内心頭を悩ませるが、店主が私の前に木の皿に入った煮込み料理を置いたので、考えるのをやめる。
「はいよ、羊と野菜の煮込み。熱いうちに食べな」
「あ、どうも。いただきますー」
羊と野菜の煮込みは私の好物だ。一口食べると、ほろほろとした肉と野菜の旨味が口の中いっぱいに広がる。そのおいしさに思わず笑みがこぼれた。
しかし、その時……。隣から息を呑む音と、椅子がガタッと動く音が聞こえた。
はっ、しまった。一瞬、隣の存在を忘れていた。私は恐る恐る左の方を見る。
「………可愛い」
ギュンターは口元を左手で押さえながら、こちらを凝視していた。よく見れば耳が赤いし、目元が妙に潤んでいるのが分かった。なんか感極まってるんですけど、なんで。
「君は……常々可愛いと思っていたけど……今の笑顔はちょっと不意打ちで、心臓に悪かったよ」
私は口の中の羊肉を飲み込んだ。……急に料理の味がしなくなった。そう言うのは垂れ流さないで、胸の内にしまっていて欲しい。
私は煮込みをもそもそと食べ、葡萄酒をお代わりした。
「はいよ、お代わり。お嬢さん、なかなかやるねえ。勇者様はお前さんにご執心かい? よりどりみどりかと思ってたけど、ちっさくて可愛いのが好みだったんだねえ」
店主はニヤニヤしながら、お代わりの葡萄酒を置いた。私は思わず虚無の顔になったが、こちらと反対にギュンターは相好を崩し、葡萄酒の杯をくるくる回しながら照れだした。
「ええ、そうです。彼女に出会って気づかされてね」
「ヒュー、頑張りなよ! はいよ、ハムステーキと酢漬けのキャベツ」
ヒューじゃないよ店主さん、やめてやめて。ただでさえ一目をはばからず口説かれてヒソヒソされてるんだから、焚きつけないでよ!ていうか周りの視線が痛い。隣の巨漢もこっち見んな。
勇者は呑気に葡萄酒を飲みながら、酢漬けのキャベツが添えられたハムステーキに手をつけていた。こんがりと焼けた格子状の切れ目が入ったハムが、鉄板の上でジュージューと音を立てていて、それはそれは美味しそうだった。
ギュンターはナイフで切れ目を入れ、それにフォークを刺して食べようとしたが、そこでハムを見て口を開けていた私と目が合った。
「………」
一瞬の間の後、おもむろにハムが口の中に突っ込まれた。
美味い!ジューシーなハムの味に口元が緩んでしまう。高いだけあって美味いな……。じゃない!なになに、なんなの急に。なにをするんだ、この人は!
「ちょっと、やめてください!」
私はしっかりとハムを飲み込んでから、ギュンターに対して抗議の声を上げる。
それに対して彼は「あ、なるほど」という顔をしたと思ったら、フォークにハムを刺して、二口目を差し出してきた。
「はい、もっと食べてもいいよ」
「いや食べませんから!」
肩を落とし、葡萄酒の杯をカウンターに音がするくらい強めに置く。ツッコミどころが多すぎる!
「『食べる?』って聞いて、皿ごとこっちに寄越せばいいんですよ。口に突っ込もうとしないで!」
「ごめんね。口開けたままこっち見てたから、つい」
「ウッ……」
こうすれば良い、というのを言ったつもりが盛大に墓穴を掘って、私は顔を赤くして言葉に詰まる。ギュンターはそんな私の姿に、笑うのを堪えているのか、肩を震わせながら葡萄酒を飲み切り、店主にお代わりを頼んでいた。
「お代わり? 珍しいね。はいよ」
カウンターに二杯目が置かれ、それに口をつける姿は、目元がほんのり赤くなり、瞳が潤んでいるのが分かる。葡萄酒飲んでるだけなのに色気が凄い。他の席に座っているお姉さんたちの視線が熱くなってきた。しかし、私はギュンターの様子を見て、冷静に、一杯目でそうなるって、もしかしてこの人、お酒弱くないか……?と首を傾げながら、私は二杯目を飲み終わり、三杯目を受け取っていた。
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そして一時間後のことである。
私は積まれた木箱に寄り掛かったギュンターが、道の上に倒れ込まないよう、横で必死に支えていた。
「やっぱ、お酒弱いじゃん!」
私は店主の言葉にも疑問を感じつつ、食事をしながら飲んでいたのだが、向こうは二杯目を口にしてから三十分を過ぎたあたりで様子がおかしくなってきた。動作が遅くなり、食事の手が止まり、店を出るころには足元が少し心許なかった。そして会計を済ませ、店の外に出て少し歩いたところで、急に動けなくなり、今に至る。
「ええと、辻馬車捕まえないと。ていうか家どこよ」
私は通りすがりの馬車を止め、御者の人と一緒にギュンターを中に詰め込み、馬車を走らせてもらった。幸いなことに御者が彼の家の場所を知っていて、そのまま乗せてもらうことに。
馬車の中でも体がぐらんぐらんになるのを隣で支えていたが、重たすぎて支えるのを断念し、途中から上半身を私の膝の上に突っ伏した状態にさせていた。
もうしらん。ため息をつきながら、膝の上で目を閉じているギュンターの頬をつつく。反応がない。爆睡している。元勇者なんだよな……この人……。
私が十二歳のころに彼は魔王を倒し、討伐ギルドを立ち上げた国の英雄なんだけど、なんで今この状態でここにいるんだろう。私は遠い目になる。
憧れが無いと言えば嘘になるけど、恋愛対象かと問われると現状微妙すぎて、どう扱ってよいのか分からない。強引でマイペースなのだが、決して下品ではない。むしろ丁寧だし優しいし、私の実力を認めた上で褒めてくれる。くそ……なんか並べてみると良い人じゃん。
私は腕を組んでしばらく唸る。結局のところ、自分がまだ結婚したくないから、どんなに口説かれても困るだけで、さっぱりその気にならないんだな。という考えに至った。
しばらくして、揺れの少なさに道の状態が良くなっているのに私は気づく。慌てて馬車の窓の外を見て、私は血の気が引いた。ちょっと待て、いつの間に貴族街に入ったの!?
屋敷の敷地と敷地の間がやたらと広い。瀟洒で立派な建物が並ぶ風景に、私は圧倒されながら窓の外を見ていた。御者が「あー、勇者様のお宅ですね。分かります」と言っていたが、ああいった職の人は道をよく知っているし、お任せしたのだけど。貴族街……マジセレブじゃん……。そおかあ……私、一緒に乗らなければよかったなー。と、死んだ目になった。
そうこうしている間に、貴族街の端にある屋敷の門の前に馬車が停車した。
「すみません、私、動けないので屋敷の方を呼んでもらえますか?」
私は膝の上に重たいのが乗っているので立てない。やむなく御者にそう言って、動いてもらうことにする。
「いいですよ。行ってきますので待っててください」
そう言って御者は馬車から降り、屋敷の門から中へと入っていった。
私は窓から屋敷の様子を伺う。窓の明かりはついている。他の屋敷に比べると大きくはないが、白と青を基調とした二階建ての品の良い建物で、建物の前と後ろに庭園があるようだ。国王から賜った屋敷なのだろうか。
十年前に何があったのか、自分は田舎にいたし、なんなら二か月前にここに越してきたばかりで、この王都の人のようにギュンターのことに詳しくはない。
少しして屋敷の玄関のドアが開き、御者と数人の人影が出てくるのが見える。私はそれにホッとした。これで膝の上の酔っ払いを引き渡すことができる……。
「こちらです。中に勇者様とお連れの方がいますので」
馬車の外で御者と、屋敷の使用人の誰かが話す声が聞こえていた。
「大変申し訳ございません。どうかこちらをお受け取りください。料金とご迷惑料が入ってございます」
「こんなに……! かえってすみません。今ドアを開けますので。お嬢さん、お屋敷の方が来られました。開けますよ」
どうやら支払いをしてくれたようで、これにも私はホッとする。善行とは言え、なけなしのお金がここで消えるのは悲しすぎる。
「はい、お願いします」
私が返事をすると御者が扉を開けてくれた。貴族街の清潔さを感じる空気が頬を撫でるのに、私は息を吐く。足が痺れてきていて、正直辛かった。
使用人の中でも身なりのきっちりした初老の男性が、私の膝の上に突っ伏して寝込んでいるギュンターの姿に目を丸くする。それはそうだろう。自分の主人が酔っぱらって正体をなくしているのだから。うん、そうなるわ。
私は溜息をつきながら、事の成り行きを彼に話し、ギュンターを引き取ってもらえるようお願いする。
「……なんと申し訳ございません。旦那様! 旦那様!?」
使用人の人が大きな声を出しても、うーん……とだけ唸って私の太ももに頬をすり寄せただけで動かない。無駄に安らかな顔をしていて腹が立つ。人目がなければ一撃入れていただろう。
「起きませんね……。仕方ありません。エーミル、ヨナス、旦那様をお運びしなさい」
「はい、ハインリヒ様」
「失礼します、お嬢さま」
使用人の人たちが恐縮しつつ馬車の中に入り、ギュンターを二人がかりで引っ張り出した後、屋敷の中に運ばれていくのを、邪魔にならないようにして私は見ていた。やっと膝の上が解放されたことと、家に帰れるという喜びに、口元が緩んだ。
「では私はここで……」
そのまま馬車から降りて辻馬車を見送ってから、おもむろに歩いて帰ろうとしたら、私の前に初老の使用人が立ちふさがった。とんでもないものを見るような目で、こちらを見ている。
「徒歩……!? なりません! もう遅い時間でございます。当家としても恩人であります女性を一人でお帰しするわけに参りません。危のうございます!」
「えっ、私は討伐者ですし、大丈夫で……」
年齢を感じさせない動きで私の前に回り込み、そして動かない。私はそこまで危なくないよ、と思いながら手を前に出し断りを入れるが、彼は引いてくれなかった。
「万が一ということもございます。さあさ、遠慮なさらず、中にお入りくださいませ。お帰りになるのは明日になさいますようお願い致します」
「え、は、はあ……分かりました。そこまで言うのでしたら……」
あまりにも必死に言われるので、私は仕方なく頷いて、彼の後について屋敷の中に入ることになった。
門をくぐると、ハインリヒさんはしっかりと鍵を閉め、私の前を行く。ギュンターが運ばれて行った玄関のドアがまだ開いていて、彼はその脇に立ち、丁寧に「どうぞ」と頭を下げて私を中へ導いたのだった。
ばたん。
――扉が閉まり、そして鍵がかけられた。
屋敷の中は夜も遅いことから人気が少なく静かで、品が良い造りの設えの中、所々に季節の花が飾られている。よく磨かれた石床は、壁の灯りを反射するほどピカピカだった。私は玄関ホールの中を思わず見回してしまう。
「改めまして、お嬢様。この度は主人がご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございませんでした」
そんな中、ハインリヒさんがこちらに向かい、頭を下げてきた。私は慌てて手を前に出し、恐縮する。
「あ、いえ、お気になさらずとも……。まさかお酒に弱いとはつゆ知らず、私の方こそ止められなくてすみませんでした」
「なんと……お心の広い方でしょう。感謝申し上げます。私ですが、この屋敷の執事を務めておりますハインリヒと申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
初老の使用人の男性、もとい執事のハインリヒさんは、目尻の皺が長年培ってきた知性と経験を感じさせる人で、白髪交じりの黒髪を後ろに撫でつけていた。背は高くはないが、きっちりとした執事服に包まれた体は綺麗に背筋が伸びていて、彼の普段の仕事ぶりが分かるようだった。
「ヘンゼル・ウェーバーと申します。討伐者ギルドに登録している者です。ギュンターさんとは……仕事繋がりといいますか……今日はたまたま夕食の時にご一緒させてもらっていたと言いますか……」
私は自己紹介で詰まった。お宅の主人に口説かれて迫られてます、とは言えない。
私が言葉が出ないでいると、ハインリヒさんは目をくわっと見開いて、こっちを見てきた。なに、何か失礼した!?
「あなたがヘンゼル様でございますか。常々旦那様よりお話は伺っております。現在、求婚されている方、と」
常々話してるんかーい!
私は思わず少し仰け反った。
「お顔を見ることができてようございました。どうぞ客間をご用意いたしますので、一旦こちらでお茶をどうぞ」
「アリガトウゴザイマス……」
ツッコミもままならぬまま、私は玄関の隣にある応接間に通される。落ち着いた調度品が並ぶ中、立派な長椅子に座らされ、緊張する。ぎえー、世界が違いすぎるんですけど!
私が固まっていると、すぐに一人のメイドさんがやってきて、蜂蜜を入れたハーブティーを出してくれた。優しい香りが部屋に満ちて、私はカチカチになっていた肩の力を抜くことができた。
応接間の外でメイドさんたちが動く気配を感じる。こんな時間にお邪魔することになってしまい、私はお茶をいただきながら少し申し訳なく思った。
そもそもお宅の主人が酒に弱すぎるのがいけないんだよ。葡萄酒一杯半で潰れるとか、どんだけなのよ、びっくりだよ。
「お待たせいたしました。お部屋のご用意ができましたので、ご案内いたします」
しばらくしてハインリヒさんが部屋に戻ってきて、私は二階の客間に通されると、メイドさんに寄ってたかって体を清められ、寝間着に着替えさせられた。
来客用に準備されていたそれは、柔らかく上質な素材で作られていて、安物暮らしの自分にとっては過ぎた物のように感じる。断るのは失礼なのは分かっているので、引きつり笑顔で仕事を終えたメイドさんたちを見送ると、天蓋付きのベッドにごろりと横になった。
「なんでこうなった……」
遠い目をしながら手足を伸ばし、大の字になる。
酔っぱらったギュンターを送り届けただけなのに、あれよあれよという間に、彼の屋敷の客間で寝転がっているという状況に脳がついていけてない。どういうこと!?
困惑しながらも、ふかふかのベッドの上に転がっていれば自然と瞼が落ちてくる。私は答えが出ないことを考えるのはやめて、布団に潜り込むと大きなあくびをして目を閉じた。どうにでもなあれ~、と思いながら。
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翌朝、目を覚ました私は、一瞬ここはどこだ……と、周囲を見渡した。夢か?んー……いやいや、そういえば昨夜ハインリヒさんに引き留められて泊まったのだ。
上半身を起こして周囲を見渡す。朝日が降り注ぐ部屋は夜とは違い、部屋の調度品もよく見える。どれも派手さは無いが上質なもので揃えられていて、感じが良かった。
「っあー、ギュンターさんの屋敷に泊まってしまった……現実が辛すぎる……」
現状、誰もいないのを良いことに頭を抱える。一刻も早くここを出たいと思うが、着てきた服はメイドさんが持って行ってしまったし、どうしたらいいんだ? と思っていたら、ドアをノックされる音がした。私は肩をビクッとさせる。なに、起きたの分かったの?ちょっと怖いんですけど?
「ヘンゼル様、起きられましたでしょうか。朝のお支度に参りました」
「は、はい、起きてます。お願いします」
私は慌ててベッドから降りてドアを開けようとしたが、メイドさんたちの方が早かった。静々と部屋の中に入ってくると、顔を洗う洗面器と水差しにタオル、ブラシセット、私が昨夜着ていた服などをそれぞれが手に持ち、にっこり微笑んで私を取り囲んだ。
「旦那様より、朝食にヘンゼル様をお呼びするよう言付かっております。お着替えが終わりましたらご案内いたします」
「はい……」
昨日から思っていたんだけど、ここの使用人たちって妙に圧が強くないかな。主人に似ちゃってません!?
私はおとなしく身支度をさせられながら、頭の中でどうやったらさっさとここから出られるのか必死に考えようとした矢先、鏡に映る自分の姿に目を見開く。そこには、昨晩着てきた服ではなく、仕立ての良いフロントタック入りの立ち襟のブラウスに、萌黄色の生地に白い小花の刺繍が散らされたベスト、それに同じ刺繍がされた共布の脛丈スカートを着せられた私が立っていた。
「すみません! この服は私が着てきた服と違いますよ!?」
戸惑いながら声をかけると、メイドさんたちは再びにっこり微笑んで、
「旦那様からのお詫びの品でございます。元の服は綺麗にさせていただきましたので、お持ち帰りしてもらうように、とのことでございます」
と返してきた。いやいやいやいや、なんでサイズぴったりなの?ていうか、いつこの服用意したの?今、朝? でも店は開いてないよね???
私は身震いしながら両手で自分の身体を抱きしめる。この状態に脳が処理しきれなくなり、何度目か分からない遠い目をしていたら、そこへ諸悪の根源がドアを開けて顔を出してきた。
「支度、終わったかな。遅いから迎えに来たよ」
ギュンターがそう言って客間に体を滑り込ませてくる。昨日のお酒は残っているのか、少し精彩に欠ける様子だったが、体を動かすのに支障はなさそうだ。私は少しだけホッとすると、表情を引き締めた。
「この服はお返しします」そう言うつもりだった。
「旦那様、ただ今終わりましたところです。お待たせいたしました」
「ご苦労様。下がっていいよ」
ウワー!下がっていいよじゃないよ、メイドさんたち行かないで、服を返すから!あと二人きりにしないでえ!
私の心の叫びもむなしく、丁寧な礼をしてメイドさんたちは下がっていってしまった。私は冷や汗をかきそうになりながら、じりじりとギュンターから距離を取るが、彼は着替えた私を見ると、ぱあ……っと表情を明るくする。そうしてこちらの方に歩み寄ってくると、ハーフアップにされた髪に手を伸ばし、剣だこがある長い指先で、私の肩にかかっていた髪を背中の方へと流した。背中に鳥肌が立った。
「思ってた通りだ。よく似合ってる」
そう言って、嬉しそうにこちらを見つめながら頷く彼の言葉に、私はハッとなる。
今なんて言った?思っていた通りだ、ですと……?
「街でこの服を見た時、君に似合うと思ってたんだけど、少しサイズが大きかったから、君に合わせて仕立て直してもらったものなんだよね。まさか着てもらえる日が来るとは思ってなかったよ」
………はい?
「つかぬことをお聞きしますが、いつ仕立て直しを」
「先月かな?」
怖い!!私は泣きそうになった。
着てもらえるか分からない服を仕立てさせるとか、ちょっとこの人の正気を疑う。あと、流れに乗せられてまんまと着せられている自分に対しても文句を言いたい。もっと運命に抗えよ!
そんな私の心の葛藤を知らないギュンターは、私の姿に満足そうにしていたが、ハッと顔を上げると、一つ咳払いをして居住まいを正し、こちらに頭を下げてきた。
「ヘンゼル、昨日は無様な所を見せてしまってすまなかった。ハインリヒから昨夜の状況と、君が屋敷まで送ってくれたということを聞いて、顔から火が出る思いだったよ」
彼は気まずそうに口元に左の手をやり、少し顔を赤くした。私はそれに、この人にも羞恥心とか申し訳ないという気持ちはあるんだな、と思いながら、一つ息を吐いて言葉を返すことにする。
「……お酒弱かったの、こっちも知らなかったんで、別にいいです」
私は乾いた笑いを浮かべて視線を逸らす。昨夜のことは忘れたい。辻馬車に乗り込む時も、こちらを見ていた人たちが沢山いたし、街に戻っても噂が広まってて、討伐者仲間にも冷やかされたりするのかと思うと、できれば時間を巻き戻して飲みに行くのをやめて、家で引き籠っていれば良かったとすら思っていた。が、それはギュンターが反省しているのにきつすぎるな、と考えて口に出さなかった。
「そう言ってくれるとありがたいよ。どうも昔から酒には弱くて、古なじみにも『お前は一杯しか飲むな』って釘を刺されていてね……」
そう言いながら彼は腕を組み、昔を思い出しているのか、少し遠い目をしている。過去にどんなやらかしをしたのかは知らないけれど、どうやら彼にとって飲酒は鬼門なのはなんとなく分かる。
「なんで飲んじゃったんですか」
私は溜息をついて彼を見上げた。そんなに弱いって分かっているのに、調子に乗って二杯目を飲んでしまった理由を聞いてしまう。
ギュンターはそんな私の溜息と質問に、組んでいた腕を外すと、ちらりとこちらを見て、恥ずかしそうに伏し目がちになり、それから頬を左手で搔いてからこう言った。
「君と飲むのが楽しかったんだ」
朝日が翡翠のような瞳と、くすんだ金髪を明るく照らす。端正な顔がバツの悪そうな表情で少し印象が若く見えて、私は思わず視線を逸らした。これ以上見てはいけない。本能がそう言っている。
「そ、そうでしたか。次は気を付けて下さ……」
私はギュンターを見ないようにして、咄嗟に気にしなくていい、という意味の返事をしてしまったが、言葉に出してしまってからハッとした。
「……次……次は気を付けるよ!……許してもらえてよかった。嫌われてしまったらどうしようと思っていたんだ」
見ているこちらの胸に陽が差すような笑顔でそう言われ、それをまともに食らった私は言葉に詰まってしまう。
そんなに喜ぶことか。ていうか次はないからな!?あなたを見たら今まで通り逃げるし、結婚とかまだしないんだからね!そう、心の中で叫んだ。
その時、天の助けとばかりにハインリヒさんが、開けたままになっていたドアから姿を現し、こちらに声をかけてくれた。
「旦那様、ここにおられましたか。ヘンゼル様も朝食の準備ができております。食堂へ来てくださいませ」
一瞬だけ、おや、という視線でこちらを見ていたが、すぐににこりと微笑むと、
「よくお似合いでございます。ヘンゼル様」
とだけ言って、その後はギュンターの方へと身体を向けると、姿勢を正し、視線を強くする。
「食堂でお待ちになるということでしたが、時間になっても姿がありませんでしたので探しました。旦那様」
「すまない、ハインリヒ」
「調理の者も準備をして待っておりますので、時間通りに来られるようお願い申し上げます」
「分かった。遅れないようにする」
このやりとりを見る限り、ギュンターはハインリヒさんには頭が上がらないようだ。少し浮世離れをしているところがある人だ。このくらいきっちりしている執事でないと駄目なのだろう。私は怒られている姿を見て、少し口元を緩めた。
「説教はここまでにいたします。食事が冷めてしまいますので」
ひとしきり怒られたギュンターは、ハインリヒのこの言葉にホッとした顔をして、それからこちらへ体を向けてきた。咳払いを一つすると手を差し伸べてくるが、私がさっと両手を後ろに隠してしまったのを見て、それに苦笑する。そして行き場を失った左手で、こちらへ、と指し示してくれる。
「ヘンゼル、食堂はこちらだよ」
私は頷くと、色々と危なかった。と内心冷や汗をかきながら、彼とハインリヒさんの後をついて行ったのだった。
/*/
なお、朝食はものすごく美味しかった。卵や野菜に果物、肉も領地で作られたものが朝に直送されてくると聞いて、毎食美味しいご飯が食べられるということに、どんな言葉よりも心がぐらついたのは秘密である。
私はまだ結婚はしたくないの、食べ物になんかつられたりはしない、しないんだからね!
私は心の中でそう叫んだのだった。




