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夢の子  作者: 真好


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3/18

3

 完全な無重力を手に入れた紬は、空中でくるりと身を翻し、教室の方を振り返った。クラスメイトたちは全員が席を立ち、紬の安否を確認しようと窓辺に鈴なりになっていた。


「紬!」


 奏汰が窓から身を乗り出し、必死に手を差し伸べている。


 紬は彼に向かって、空気を掻くようにゆっくりと泳いでみた。体は柔らかく上昇を始め、やがて教室の窓際までたどり着いた。


「……できた」


 紬はぽつりと呟いた。


 いくら夢の中とはいえ、言葉にできないほどの恍惚感が全身を包み込む。この高揚感を自分一人で独占するのはもったいない。


 紬は奏汰が差し出していた手を力強く握り、そのまま外へと誘うように引っ張った。


 奏汰は一瞬たじろいだが、意を決したように窓枠に足をかけ、空中へとジャンプした。紬は繋いだ手をさらにぎゅっと握りしめる。一時は二人の体重で高度が下がったが、すぐにコツを掴み、奏汰ごと宙に浮かせることに成功した。


 クラスメイトたちの驚嘆の声を背に、紬は奏汰を連れて本格的に空高く舞い上がった。学校が小さくなり、やがて町全体が一望できるほどの高度まで上がり続ける。


 空から俯瞰すると、ここが夢の世界であることが如実に見て取れた。学校を中心に再現されているのはほんの一区画に過ぎず、その周囲にはただ広大な空白が、どこまでも延々と横たわっていた。


 非現実の極致。


 痺れるような虚無感に、紬はしばらく圧倒された。


「……まるで、無限に広がるキャンバスみたい」


 紬はゆったりと思考を巡らせ、夢の世界を描き込み始めた。


 まずは空を鮮やかな青に染め上げ、手近なところに綿雲を散らす。それだけではただの静止画のようだったので、大気に動きを与えてみた。すると、どこからか心地よいそよ風が吹き抜け、紬の髪を優しく撫でていった。


 ふいに頭上に強い熱気を感じて見上げると、太陽が中天に掛かっていた。眩しさに目を細め、今度は足元に広がる景色に視線を落とす。


 そこには、一つの街どころか、巨大な都市圏が造り上げられていた。


「……すごい」


 奏汰が眼下の情景を眺め、我を忘れたように呟いた。


「すごすぎるよ、紬。飛行機から見る景色そのものだ。見て、道路を車が走ってる!」


 紬もまた、自分の成し遂げた光景に言葉を失っていた。


「もっと近くで見てみよう」


 二人は高度を下げ、街並みをなぞるように飛行し始めた。


 あまりにも精緻に描かれた世界に、再び現実と混同しそうになる。空を飛んでいるという事実だけが、辛うじてここが夢であることを繋ぎ止めていた。


 横をかすめていく鳥たちのさえずり、道路を走る車の走行音、遠くで響く電車の音。日常的な喧騒が、何の違和感もなく耳に流れ込んでくる。


 太陽の光を反射するビル群の窓が宝石のように輝き、オフィスの中で働いている人々が、窓の外の紬たちを呆然と見つめている姿まで見えた。


 さらに高度を下げ、道を歩く人々を観察する。


 彼らは空を飛ぶ二人を見上げると、次々にスマホを取り出して撮影に夢中になった。紬は彼らに向かって笑顔でピースサインを送ってみせた。


 そうして時間の経つのも忘れて空の旅を楽しんでいるうちに、やがて海が見える地の果てに辿り着いた。紬はどこまでも続くエメラルドグリーンの海を見下ろしながら、ゆっくりと地上へ降りていく。


 二人は防波堤の端に並んで腰を下ろし、しばらく羽を休めた。


 潮風が心地よく、波の音は清々しい。


 のんびりとした気分になり、このまま横になれば二重の夢でも見られそうだった。そんなことをぼんやりと考えていると、不意に奏汰が声をかけてきた。


「紬。キス、してもいい?」


 紬は顔を向け、彼を見つめた。奏汰は夢の中で告白の練習をしていたときのような、ひどく緊張した表情を浮かべていた。


「まだ、現実でもしてないのに?」


 紬が少し意地悪く返すと、奏汰は真っ直ぐに頷いた。


「だからだよ。夢の中でのファーストキス。特別だと思わないか?」


「……」


 紬は返事の代わりにくすりと笑い、ゆっくりと目を閉じた。


 そして、奏汰の唇が、彼女の唇にそっと重なった。




 その後、二人は夢から覚めた。


 辺りを見回すと、教室は相変わらず授業の最中だった。けれどすぐにチャイムが鳴り、休み時間がやってきた。


「……なんでだろう」奏汰が時計を見ながら呟いた。「俺たちが眠りについてから、十分くらいしか経ってない」


「十分?」紬は首を傾げた。「嘘でしょ。私たち、少なくとも二時間はあそこにいたよね? 体感的にはそれくらい長く感じたんだけど」


「マジか……」奏汰が舌を巻いた。「紬、もしかして空間だけじゃなくて、時間まで操作したのか?」


「え、そうなの? 分からない。私はただ、もう少し長く一緒にいたいと思っただけで……」


「ざっと計算すると、夢の中の時間は現実より十倍は遅く流れていたみたいだ」


「そうなんだ……」


 現実の状況を把握すると、二人の間に自然と沈黙が訪れた。


 先ほどまで見ていた夢の余韻が、あまりに鮮烈に残っていたからだ。キスをしながら聞いた穏やかな波の音が、現実までついてきて耳元で微かに響いているような気がした。


 紬は天井を見上げながら、囁くように呟いた。


「……最高の十分間だった。一生忘れないと思う」


 奏汰も同じ場所を見上げながら答えた。「俺もだよ」


 しばらくして、紬は席を立とうとした。


 そのまま歩き出そうとした瞬間、不意に足の力が抜けてよろけてしまう。抗う間もなく前へ倒れそうになったが、奏汰が素早く駆け寄り、彼女の腕を掴んだ。


「大丈夫?」


「あ、うん。ありがとう」


 紬は奏汰に支えられながら、ゆっくりと立ち直った。奏汰が心配そうに覗き込むと、紬は何事もなかったかのように笑ってみせた。


「大丈夫。ちょっと目眩がしただけ。ずっと同じ姿勢で座っていたからかな」


「それか、さっきの夢のせいかもしれない」


 奏汰が言った。


「夢の中でも言ったけど、明晰夢は実質的に半覚醒状態だから、脳に疲労が溜まりやすいんだ。素敵な体験だったけど、次からはあんまり無理しないようにしよう」


 紬は苦笑しながら頷いた。


「うん。そうする」


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