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完全な無重力を手に入れた紬は、空中でくるりと身を翻し、教室の方を振り返った。クラスメイトたちは全員が席を立ち、紬の安否を確認しようと窓辺に鈴なりになっていた。
「紬!」
奏汰が窓から身を乗り出し、必死に手を差し伸べている。
紬は彼に向かって、空気を掻くようにゆっくりと泳いでみた。体は柔らかく上昇を始め、やがて教室の窓際までたどり着いた。
「……できた」
紬はぽつりと呟いた。
いくら夢の中とはいえ、言葉にできないほどの恍惚感が全身を包み込む。この高揚感を自分一人で独占するのはもったいない。
紬は奏汰が差し出していた手を力強く握り、そのまま外へと誘うように引っ張った。
奏汰は一瞬たじろいだが、意を決したように窓枠に足をかけ、空中へとジャンプした。紬は繋いだ手をさらにぎゅっと握りしめる。一時は二人の体重で高度が下がったが、すぐにコツを掴み、奏汰ごと宙に浮かせることに成功した。
クラスメイトたちの驚嘆の声を背に、紬は奏汰を連れて本格的に空高く舞い上がった。学校が小さくなり、やがて町全体が一望できるほどの高度まで上がり続ける。
空から俯瞰すると、ここが夢の世界であることが如実に見て取れた。学校を中心に再現されているのはほんの一区画に過ぎず、その周囲にはただ広大な空白が、どこまでも延々と横たわっていた。
非現実の極致。
痺れるような虚無感に、紬はしばらく圧倒された。
「……まるで、無限に広がるキャンバスみたい」
紬はゆったりと思考を巡らせ、夢の世界を描き込み始めた。
まずは空を鮮やかな青に染め上げ、手近なところに綿雲を散らす。それだけではただの静止画のようだったので、大気に動きを与えてみた。すると、どこからか心地よいそよ風が吹き抜け、紬の髪を優しく撫でていった。
ふいに頭上に強い熱気を感じて見上げると、太陽が中天に掛かっていた。眩しさに目を細め、今度は足元に広がる景色に視線を落とす。
そこには、一つの街どころか、巨大な都市圏が造り上げられていた。
「……すごい」
奏汰が眼下の情景を眺め、我を忘れたように呟いた。
「すごすぎるよ、紬。飛行機から見る景色そのものだ。見て、道路を車が走ってる!」
紬もまた、自分の成し遂げた光景に言葉を失っていた。
「もっと近くで見てみよう」
二人は高度を下げ、街並みをなぞるように飛行し始めた。
あまりにも精緻に描かれた世界に、再び現実と混同しそうになる。空を飛んでいるという事実だけが、辛うじてここが夢であることを繋ぎ止めていた。
横をかすめていく鳥たちのさえずり、道路を走る車の走行音、遠くで響く電車の音。日常的な喧騒が、何の違和感もなく耳に流れ込んでくる。
太陽の光を反射するビル群の窓が宝石のように輝き、オフィスの中で働いている人々が、窓の外の紬たちを呆然と見つめている姿まで見えた。
さらに高度を下げ、道を歩く人々を観察する。
彼らは空を飛ぶ二人を見上げると、次々にスマホを取り出して撮影に夢中になった。紬は彼らに向かって笑顔でピースサインを送ってみせた。
そうして時間の経つのも忘れて空の旅を楽しんでいるうちに、やがて海が見える地の果てに辿り着いた。紬はどこまでも続くエメラルドグリーンの海を見下ろしながら、ゆっくりと地上へ降りていく。
二人は防波堤の端に並んで腰を下ろし、しばらく羽を休めた。
潮風が心地よく、波の音は清々しい。
のんびりとした気分になり、このまま横になれば二重の夢でも見られそうだった。そんなことをぼんやりと考えていると、不意に奏汰が声をかけてきた。
「紬。キス、してもいい?」
紬は顔を向け、彼を見つめた。奏汰は夢の中で告白の練習をしていたときのような、ひどく緊張した表情を浮かべていた。
「まだ、現実でもしてないのに?」
紬が少し意地悪く返すと、奏汰は真っ直ぐに頷いた。
「だからだよ。夢の中でのファーストキス。特別だと思わないか?」
「……」
紬は返事の代わりにくすりと笑い、ゆっくりと目を閉じた。
そして、奏汰の唇が、彼女の唇にそっと重なった。
その後、二人は夢から覚めた。
辺りを見回すと、教室は相変わらず授業の最中だった。けれどすぐにチャイムが鳴り、休み時間がやってきた。
「……なんでだろう」奏汰が時計を見ながら呟いた。「俺たちが眠りについてから、十分くらいしか経ってない」
「十分?」紬は首を傾げた。「嘘でしょ。私たち、少なくとも二時間はあそこにいたよね? 体感的にはそれくらい長く感じたんだけど」
「マジか……」奏汰が舌を巻いた。「紬、もしかして空間だけじゃなくて、時間まで操作したのか?」
「え、そうなの? 分からない。私はただ、もう少し長く一緒にいたいと思っただけで……」
「ざっと計算すると、夢の中の時間は現実より十倍は遅く流れていたみたいだ」
「そうなんだ……」
現実の状況を把握すると、二人の間に自然と沈黙が訪れた。
先ほどまで見ていた夢の余韻が、あまりに鮮烈に残っていたからだ。キスをしながら聞いた穏やかな波の音が、現実までついてきて耳元で微かに響いているような気がした。
紬は天井を見上げながら、囁くように呟いた。
「……最高の十分間だった。一生忘れないと思う」
奏汰も同じ場所を見上げながら答えた。「俺もだよ」
しばらくして、紬は席を立とうとした。
そのまま歩き出そうとした瞬間、不意に足の力が抜けてよろけてしまう。抗う間もなく前へ倒れそうになったが、奏汰が素早く駆け寄り、彼女の腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「あ、うん。ありがとう」
紬は奏汰に支えられながら、ゆっくりと立ち直った。奏汰が心配そうに覗き込むと、紬は何事もなかったかのように笑ってみせた。
「大丈夫。ちょっと目眩がしただけ。ずっと同じ姿勢で座っていたからかな」
「それか、さっきの夢のせいかもしれない」
奏汰が言った。
「夢の中でも言ったけど、明晰夢は実質的に半覚醒状態だから、脳に疲労が溜まりやすいんだ。素敵な体験だったけど、次からはあんまり無理しないようにしよう」
紬は苦笑しながら頷いた。
「うん。そうする」




