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夢の子  作者: 真好


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20

 奏汰は怪訝そうに目をしばたたかせた。


「え? ああ、家にあるけど。急にどうしたんだよ」


「乗ってみたい。あっちの世界と乗り心地がどう違うか、確かめたくて」


 奏汰は少し考え込む素振りを見せたが、やがて踵を返し、駅とは反対の方角を指差した。


「……分かった。家まで歩いてすぐだから、取りに行くか」


「うん!」


 二人は奏汰の家へと向かった。


 もどかしさに駆られて今すぐ駆け出したい気分だったが、幻ははやる気持ちを抑え、奏汰の歩調に合わせて歩いた。


 期待が大きすぎれば、裏切られたときの反動も大きい。浮き立つ心を、無理やり冷静に引き戻す。




 奏汰の家に着き、二人は庭へと入った。


 そこには二台の自転車が並んでいた。


 一台はありふれたママチャリで、もう一台は——幻がよく知っているモデルのBMXだった。


 幻はそれを指差して尋ねた。「これ、親父の?」


「お前さ……」諦めて答えてくれる。「ああ、俺のだよ」


「……」


 幻は吸い寄せられるように歩み寄り、その車体を凝視した。


 フレームの曲線、サイズ、色、プリントされたロゴに至るまで。


 紬から誕生日プレゼントとしてもらったものと、寸分違わず同じだった。


 奏汰が訪ねてくる。「なんだ。それが気に入ったのか?」


「うん」幻はどこか懐かしむような響きを込めて言った。「ずっと、欲しかったやつなんだ」


「……じゃ、それに乗るか?」


「いいの?」


「ああ、構わないよ」


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 幻はBMXのサドルに跨り、奏汰はママチャリに跨った。


 幻が先頭を切り、二人は夕暮れの住宅街へ走り出した。




 最初は、周辺を散策するようにゆったりとしたペースで回った。


 幻はサドルから腰を浮かせたり座り直したりしながら、慎重にペダルを漕いだ。全身の感覚を研ぎ澄ませ、これまでと何が違うのかを探り続けた。


 確かに心地よさはあったが、パフェを食べたときほどの衝撃はない。


 背後から奏汰の声が飛ぶ。


「どうだ? 何か違うか?」


「うーん、まあまあかな。……一度、思いっきり飛ばしてみたいんだけど」


 幻がそう提案すると、奏汰がハンドルの向きを変えた。


「なら、河川敷に行こう。あそこなら道も広いし、人通りもほとんどないからな」




 まもなく二人は河川敷に到着した。


 幻は舗装された道の上で辺りを見回す。


 遠くの水際で遊ぶ子供たちの影がいくつか見えるだけで、目の前の道は果てしなく空っぽだった。


 幻は直線の先を見据え、一気に速度を上げた。


 重いギアの入ったペダルを無理やり踏み込むと、足に鋭い痛みが走った。


 母の身体になって初めて感じる、確かな筋肉の軋み。


 自然と吐息が荒くなる。


「おい、無理するなよ!」


 背後で奏汰が叫んでいる。


 だがその声は、幻の背中をさらに押し出す合図にしか聞こえなかった。


 幻はさらに深く身を屈め、全力でペダルを回した。


 空気が耳元を切り裂くような鋭い音を立て始めると、一瞬だけ恐怖が首筋を掠めた。


 転んで母の身体を傷つけてしまう心配よりも、このまま世界の境界を飛び越え、知らない場所へ吸い込まれてしまうのではないかという、根源的な恐怖。


 だが、その不安もすぐに消えた。


 筋肉の痛みが快感へと変わり、現実の重みが全身を支配していく。


 道は依然として静まり返っていた。世界を独占したかのような万能感に包まれ、幻は風を切り裂いて走った。


 噴き出した汗が、肌をなでる風の感覚をよりいっそう鮮烈なものに変えていく。


 ふと気づくと、幻の唇には満面の笑みが浮かんでいた。



「……気持ちいい」



 幻は夜の風を口いっぱいに含みながら呟いた。


「これが現実感ってやつか。……現実って、こんなに素敵なんだな」


「幻!」


 後ろから追いついてきた奏汰が、必死の形相で叫んだ。


「速度を落とせ! 速すぎる!」


 その声に我に返り、幻は大人しくブレーキをかけた。


 奏汰が横に並ぶなり、声を荒らげて叱りつける。


「危ないだろ! 転んだらどうするんだ。何度も言うけど、今その身体は君の身体じゃなくて……」


 けれど不意に、奏汰の言葉が途切れた。


 幻が不思議に思って見ると、奏汰はどこか射抜かれたような顔で、幻の横顔を凝視していた。


「……何? 俺の顔に何かついてるのか?」


 尋ねても、彼は無言のまま動かない。


 何が不満なのかは分からなかったが、かといって不快な視線でもなかった。彼が視線を逸らす気配を見せないので、幻はもう一度呼びかけた。


「……親父?」


「あ、……うん」


 奏汰はハッと現実に引き戻されたような顔をして、狼狽気味に答えた。


「……いや、なんでもない。ただ、紬の笑顔……久しぶりに見たから」


「……そうか」


 幻は、照れを隠せない奏汰の横顔を見て、ニヤリと口角を上げた。


「親父、本当に母さんのことが大好きなんだな」


「う、うるさい。……とにかく、楽しそうでよかったよ」


「……」


 その言葉に嘘はないことが、彼の表情から伝わってきた。


 幻は少し気まずくなり、視線を逸らして言った。


「……言っとくけど、中身はまだ俺だからな。スキンシップとか、絶対無理だぞ」


「こっちだって無理だよ!」


 奏汰が心底驚いたように声を上げた。


「お前とできるわけないだろ。そんな心配、しなくていい」


「そうか。ならいいけど」


「ただ、俺は……」奏汰はまた何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。「いや、なんでもない」


「なんだよ。最後まで言えよ。俺が何だ?」


 奏汰はどこか物憂げな表情で沈黙した後、気分を変えるように明るい声で言った。


「それより、自転車以外にもやりたいことはあるか?」


 幻はもっと追求しようかとも思ったが、それも面倒になり、質問に答えることにした。


「ああ。やりたいこと、たくさんできた」


 幻はリストアップしていたやりたいことを、次々と口にした。


 病院にいた頃は指一本動かすのも億劫だったが、現実の素晴らしさに気づいてからは一変した。目に見えるもの、思いつくもの、そのすべてが幻にとっての渇望の対象となっていた。


 一通り話し終えると、奏汰がぽつりと呟いた。


「……それ、全部やるとなると結構お金がかかりそうだな」


「だろうな。バイトでもしようかな」


「校則でバイトの許可をもらうのは、なかなかハードルが高いよ」


「そうなのか?」


「ああ。……リストを削るか? こんなこと言うのは悪いけど、紬の体でいつまでいられるか、正直分からないだろ」


「だからこそ、全部やらなきゃいけないんだ。母さんが戻ってくる前に、俺はこの現実を思い切り使い果たしたい」


「……」


 いつの間にか二人は河川敷を離れ、太陽も沈みかけていた。


 帰路につこうと自転車を止めた時、幻はふと前方に目を奪われた。


 視界いっぱいに、見事な夕焼けが広がる。


 二人は言葉を失い、ただその景色を眺めた。空はパステル調のグラデーションに染まり、筆で掃いたような薄雲が淡い紫に濡れている。


 こんなにも鮮やかで、絵画のように美しい空を、幻はかつて見たことがなかった。


「わかったよ」奏汰が言った。「じゃあ、俺も出資する」


 幻は夕焼けから目を離し、奏汰を振り返った。


「何を?」


「君の『現実満喫プラン』の費用だよ。俺も出す」


「え? なんで?」


「なんでって……」奏汰は少し躊躇いながら言った。「一応、俺は君の父親って設定だったわけだしな。まあ、それくらいはしてやってもいいかなって。貯めてた小遣いも結構あるんだ。……嫌か?」


 下心があるようには聞こえなかった。


 幻は小さく微笑んで答えた。


「いや。助かるよ。ありがとう、親父」


 幻は再び夕焼けに視線を戻した。


 そして空が深い藍色に沈むまで、その場に立ち尽くしたまま、景色を瞳に焼き付け続けた。


 奏汰はそんな幻を、静かに待ち続けていた。


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