19
紬として生きるようになってから約一ヶ月が経ったある日。
幻は奏汰に誘われ、放課後のファミリーレストランに立ち寄った。
二人は窓際のテーブルに座り、軽い飲み物を注文した。店員が去った後、二人はしばらく無言で窓の外を眺めていた。
呼び出しておきながら何も言い出さない奏汰に痺れを切らし、結局、幻が先に口を開いた。
「それで? 話したいことって何?」
「……最近、体の具合はどうだ?」
「心配しないで。母さんの体だ、健康には気をつけてる」
「……その割には、特大サイズのパフェなんて注文したんだな」
幻は一瞬言葉に詰まったが、すぐに反論した。
「いいじゃないか、パフェくらい」
「甘いものが好きなのは、やっぱり紬と一緒なんだな」
「……で、話って? 用件だけ手短に言えよ」
「わかったよ」
奏汰は待っていたとばかりに、本題を切り出した。
「紬はどうした。もう一ヶ月経つけど、まだ出てこないのか?」
「うん。全然。夢さえ見られないんだ」
「そうか……」
会話が途切れる。
幻は不審そうに奏汰を睨んだ。
まさかこんな確認のためだけに呼び出したわけではないだろう。ましてや、放課後の穏やかなひとときを楽しもうという仲でもない。
奏汰の顔には、隠しきれない疑念が浮かんでいた。
「……お前、まさか嘘をついてるんじゃないだろうな?」
幻は苛立ちを抑えながら問い返した。「どういう意味だよ」
「本当は、紬の居場所を知ってるんじゃないのか?」
「知らないって言ってるだろ!」
幻はついに声を荒らげた。
「こんなことで嘘をつくわけないだろ。俺だって、自分がここに居座っちゃいけないことくらい分かってる。戻れるなら今すぐにでも戻りたいよ。でも、どうすればいいか分からないんだ。お前だって、休み時間に何度も明晰夢を試して、結局入れなかったじゃないか」
「さあな」
奏汰は肩をすくめ、吐き捨てるように言った。
「君が、俺を入れないように邪魔してるのかもしれないだろ」
「……っ」
幻は絶句した。
奏汰は最初から、幻を信じるつもりなどなかったのだ。
幻が呆れて黙り込むと、奏汰はそれを好機と見たのか、さらに畳みかけた。
「幻。もう……紬の体から去ってくれ」
幻は下唇を噛んだ。
痛いほど強く噛み締めたが、ふとこれが母の体であることを思い出し、力を抜く。そして奏汰と真っ向から視線を合わせる。
彼の瞳には、紬を案じる色だけが溢れていた。
最初は嘘でもついて彼を安心させようかとも思ったが、その表情を見て、幻は急に考えを変えた。
「嫌だ」
「……何?」
「俺は生きる。このまま消えたくない。きっと母さんがそう望んで、俺をこの現実に送り出したんだ」
「……」
「だから俺は、生きることに決めた」
奏汰はしばらく呆然と幻を見つめていたが、やがて視線をテーブルへと落とした。
後悔しているのか、あるいは諦めたのか。
その沈んだ仕草を見て、幻の胸がチクリと痛んだ。
「ところでさ」幻はあえて言葉を継いだ。「あんたの理屈で言えば、あんたは俺の父親だろ? なのに自分の子供に消えろだなんて、酷いよ」
『父親』という言葉に、奏汰が弾かれたように顔を上げた。
「そ、それは……例え話だろ。あくまで夢の中での出来事だし、確かなことじゃない」
「なんで? 母さんと、やったんだろ?」
「お、おい!」
奏汰は慌てて周囲を見回し、声を潜めた。
「俺がいつそんなこと言った!」
「じゃあ、やってないの?」
「……キスしかしてない。それも、夢の中だけで」
「夢でもやったことには変わりないじゃん」
「だから、キス以外は何もなかったって言ってるだろ!」
奏汰は再び辺りを気にしながら、咳払いで動揺を誤魔化した。
「……とにかく、その話はやめよう。今重要なのはそこじゃないからな」
奏汰は必死に冷静さを取り戻そうとしていたが、顔は赤らむ一方だった。その様子がどうにも癪に障り、幻はわざといたずらっぽく口にした。
「親父」
途端、赤かった奏汰の顔が、今度は一気に青ざめる。
「やめろ」
「なんで? 俺は呼びやすいけどな。これから二人きりの時は、親父って呼ぶことにするよ」
「マジでやめろって!た、頼むから……」
幻は奏汰の慌てぶりを見て満足げに微笑むと、追い打ちをかけるように言った。
「とにかく、そういうことだから。俺は嘘なんてついてない。母さんが勝手に引きこもっちゃっただけなんだよ。これ以上俺を問い詰めないでくれ」
奏汰が反論しようと口を開きかけた時、ちょうど「お待たせいたしました」という店員の声が割り込んできた。
奏汰は溜息とともに口を閉じ、店員は手際よく注文の品を並べていく。
奏汰はブラックコーヒー、幻の前には特大サイズのチョコパフェが置かれた。
店員が去った後、しばし沈黙が流れる。
奏汰が一人で物思いに耽っているようだったので、幻は構わずスプーンを持ち上げた。そして一番上のアイスクリームを掬い、口に運ぶ。
「……?」
チョコの香りが口の中でとろけた瞬間、幻は目を見開いた。
何かが、決定的に違った。
彼はスプーンを口に咥えたまま、石像のように固まった。その異変に気づいた奏汰が、コーヒーカップを持ち上げながら怪訝そうに尋ねた。
「どうした?」
幻はパフェから視線を外し、奏汰を凝視して言った。
「……これ、なんでこんなに美味しいんだ?」
「は?」
「信じられないくらい旨い。え、何ここ? パフェが超有名な店なの?」
「……そんなにか?」
幻は奏汰の前にパフェを突き出した。
「食べてみてよ、ほら」
幻のあまりの剣幕に興味を引かれたのか、奏汰もスプーンを取って一口口にした。二口、三口と確かめるように味わった後、彼は眉を寄せて言った。
「……普通だけどな」
「嘘!全然違うよ?この一ヶ月で食べた中で、間違いなく一番美味しいよ!」
「まあ、甘いのは確かだけど……。本当、甘党なんだな。糖尿になるぞ」
「旨い……旨すぎる……」
幻は感激に震えながら、あっという間に器を空にした。
それどころか、すぐに物足りなさが襲ってきた。高カロリーを摂取したはずなのに、むしろ胃袋が刺激され、空腹感が増していくようだった。
奏汰が呆れ顔で見ていたが、幻は無視してティッシュで口を拭うと、すぐに店員を呼んだ。
「ちょっと待て」奏汰が止める。「まだ食うつもりか?」
「……甘いものを食べたら、今度はしょっぱいのが食べたくなった」
幻はメニューを手に取り、熱心に品定めを始めた。
かつてないほど食欲が滾っていた。写真を見るたびに、あれもこれもと欲求が膨らみ、どうしても一つに絞ることができない。
結局、幻は五つの料理を一度に注文した。
「そんなに頼んで大丈夫か? 無茶すんなよ」
「平気だよ。ちょうど夕食の時間だし。親父も一緒に食べればいいだろ」
「……俺は家で食べるから。あと、その呼び方やめろって」
しばらくして、注文した料理が次々と運ばれてきた。
まるで誕生日パーティーでも始まったかのようにテーブルが埋め尽くされ、立ち上る湯気とともに香ばしい匂いが漂う。
「いい匂い……! めちゃくちゃいい匂いがする!」
幻はしばらく目を閉じ、鼻を近づけて料理の芳香を堪能した後、夢中で食べ始めた。
やはり、美味しかった。
どれもこれも、飛び上がるほどに。
「旨い……」幻は泣き出しそうな心地で言った。「ここ、本当に普通のファミレス? こんなにレベルの高い料理が味わえるなんて……」
奏汰は疑わしげに料理を見下ろし、スプーンでオムライスを一口掠め取って自分の口へ運んだ。
「わからないな」彼は首を傾げた。「味の好みはあるだろうけど、どう考えても普通のオムライスだぞ。他の店と大差ない」
「俺にも分からないけど、とにかく俺の口には最高に合う。ここ、行きつけにするわ。あ……でも、お金がないか……」
幻は財布を開き、残金を確認した。とりあえず今頼んだ分を払う余裕はあったが、その後は無一文になる計算だ。
幻は溜息を吐き、食事に戻った。これが最後のご馳走かもしれないと思いながら堪能していると、奏汰がふと尋ねた。
「……もしかして君、味覚が戻り始めてるんじゃないか?」
幻は動かしていた口を一瞬止め、再びゆっくりと咀嚼した。
確かに、その可能性には思い至っていなかった。
最初に紬の体に入った時は、あらゆる五感が膜を張ったようにぼんやりとしていたが、一ヶ月も経つとその不自由さに慣れ、忘れてしまっていたのだ。
幻は食べ物を飲み込むと、答えた。
「そうかな。でも、なんで急に?」
「分からないけど、現実で目覚めてから、かなりの時間が経ったしな。味覚だけじゃなくて、他の感覚も少しずつ同期し始めてるんじゃないか?」
「……本当かな」
「俺には判断できない。……君自身はどう感じる?」
幻は少し興奮しながら、全身の感覚に意識を集中させた。
瞑想でもするかのような静寂の中でしばらく待ってみたが、やがて小さく首を横に振った。
「……まだ、よく分からない」
確かに今日は何かが違う気がしたが、単なる気のせいかもしれない。
とにかく店内に座っているだけでは、確かめる術がなかった。
幻は急いで食事を終え、外に出ることにした。
いくら美味しくても、一人で五人前を平らげるのは物理的に無理があったが、残すのは忍びなく、途中からは奏汰の助けを借りてなんとか完食した。
店を出て外へ一歩踏み出した瞬間、夜のそよ風が幻の頬をなでるように通り過ぎる。
幻はその風の行方を追いかけるように空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。
「……風が、涼しい」
肌に触れる瑞々しい感触が、いつもより鮮明に、長く残る。
もっと強く吹いてほしいと願ったが、あいにく空は穏やかだった。
幻は胸の奥を突き上げるような言いようのない高揚感に突き動かされ、隣を歩く奏汰に尋ねた。
「自転車。……自転車、持ってる?」




