15
紬はゆっくりと目を開けた。
最初に視界に入ったのは、見慣れない白い天井だった。
周囲の光に目が慣れるのを待ってから視線を動かすと、傍らに奏汰の姿があった。
「紬!」
奏汰は紬の覚醒を確認すると、顔を輝かせて彼女の手を握った。
紬は視線を落とし、自分の手を眺めた。見る影もなく痩せ細り、感覚は麻痺したように鈍い。
動かそうとしても指一本持ち上げられず、それが自分の体であるという実感さえ湧かなかった。
現実感が、何ひとつとしてない。
「……幻は?」
紬は尋ねた。喉が焼けるように渇き、何度か言葉を絞り出してようやく、奏汰に聞き取れるほどの声になった。
その問いを聞いた瞬間、奏汰の表情から笑みが消えた。
「……紬。ここはもう、現実だよ」
紬は首を振ろうとしたが、体が強張っていて叶わなかった。その微かな拒絶を察したのか、奏汰がすぐに言葉を重ねた。
「無理をしないで、そのまま横になってて。一ヶ月もの間ずっと眠り続けていたんだ。体が自由に動くようになるまで、まだ時間がかかる」
「……」
たった一ヶ月。
それだけの時間しか経っていないというのか。
そして、ここが現実だというのか。
紬は否定したかったが、それもやめた。どうせ奏汰の説得が始まるに決まっているし、何より、言葉を交わす気力も残っていなかった。
このまま目を閉じればすぐにでも意識を失いそうだったが、紬は必死に耐えた。彼女が今切望しているのは、この現実から覚めて、あの子のいる夢へと戻ることだった。
「起こして」
紬がそう告げると、奏汰は心配そうに顔を覗き込んだ。
「……大丈夫そうか?」
「うん」
奏汰は少し躊躇いながらも、紬が背もたれに寄りかかれるよう、その身体を優しく抱き起こした。
視界が開けた紬は、ゆっくりと周囲を見回す。
静かな個室。
そこには自分と奏汰、二人きりだった。
「ちょっと先生を呼んでくる。あ、それから紬のお母さんも……ちょうど病院にいらしてるんだ。すぐ戻るから、少し待ってて」
奏汰が病室を後にした。
一人残された紬は、先ほどまで奏汰が握っていた自分の手をぼんやりと見下ろしてから、力を込めてみた。
人差し指が、わずかにピクリと動く。
完全ではないが、少しずつ指の開閉ができるようになってきた。
続いて足にも意識を向ける。最初は石のように重かったが、次第に感覚が戻り、やがて布団の外へと足を投げ出すことができた。
紬はベッドの縁に腰をかけた。
それだけで息が切れるほどの重労働だった。足に触れてみると、痛ましいほどに痩せ細っている。
この足で立つのは到底無理だ。
車椅子を探したが、それは部屋の隅で折り畳まれており、今の彼女には遠すぎた。代わりに、近くに立てかけられていた松葉杖に目が留まる。
紬はまず、腕の点滴針を自ら引き抜いた。それからベッドを降りようとしたが、降りたというよりは「転げ落ちた」に近かった。
硬い床に膝と肘を強く打ち付け、電流のような激痛が全身を駆け巡る。
涙が滲むほどの痛みだったが、そのおかげで意識は鮮明になった。
紬は苦痛を足場にするようにして身体を支え、何とか松葉杖を頼りに立ち上がった。
病室を出る間際、ふと鏡の中の自分と目が合った。
目の下の隈が頬まで伸び、幽霊のように憔悴した顔がこちらを凝視している。
「早く……夢から覚めないと……」
紬はドアを開け、松葉杖に縋るようにして外へと這い出した。
奏汰はナースステーションに紬の覚醒を伝え、屋外で電話をしていた彼女の母親にも知らせた。
二人で足早に病室へと戻ると、そこには一足早く到着した医師と看護師がいた。
だが、紬が横たわっているはずのベッドは空だった。
「患者さんはどこですか?」
医師が厳しい声を上げる。
「許可もなく勝手に連れ出しては困ります」
「えっ?」奏汰は呆然と立ち尽くした。「連れ出してなんていません」
「では、彼女はどこへ行ったんです?」
医師は深刻な表情で看護師たちに捜索を指示し、病室を飛び出していった。奏汰と紬の母親も、焦燥に駆られて後を追う。
病室を離れてから、まだ五分も経っていない。遠くへは行けないはずだった。
しかし、同じ階の廊下や待合室をどれだけ探しても、紬の姿はない。
エレベーターで別の階へ移動したのか。
病棟全体に、患者失踪を知らせる緊急アナウンスが流れ始めた。
奏汰はエレベーターのボタンを連打したが、階数表示パネルを見上げた瞬間、ある直感が閃いた。
彼はエレベーターを諦め、非常階段を駆け上がった。
最上階。
案の定、屋上への重いドアが半開きになっていた。奏汰は荒い息を吐きながら屋上へと飛び出す。
紬がいた。
松葉杖を突き、一歩、また一歩と、苦しそうに手摺の方へ進んでいる。
吹き抜ける風が強かった。
屋外休憩所として整備された屋上には、紬と、追いついた奏汰以外には誰もいない。
「紬!」
奏汰は駆け寄り、彼女の身体を確保した。紬はさらに足を速めようとしたが、衰弱した身体では逃げ切れるはずもなかった。
「離して……」紬は弱々しく抵抗する。「お願い……離してよ」
奏汰は紬の両腕をしっかりと掴み、その身体を激しく揺さぶった。
「紬、しっかりしてくれ。ここは現実なんだ!」
紬は焦点の定まらない瞳で奏汰をじっと見つめ、力なく首を振った。
「違う……。幻がいないじゃない」
「……」
「だから、ここは夢なの。死んで、目覚めなきゃ……」
「お願いだから……紬、目を覚ましてくれ。何度も言っただろう、ここは――」
「私が生きちゃいけないんだよ!」
紬が突然、絶叫した。
どこからそんな力が湧いたのか、屋上の静寂を切り裂くような悲鳴。
奏汰は言葉を失い、ただ彼女を見つめる。
全力で叫んだためか、彼女の瞳に微かな生気が宿り始めていた。
「……言われてしまったのよ。結局、あの子に」
「何を?」
「なんで自分を産んだのかって……いっそ生まれてこなければよかったって……。私、あの子に申し訳なくて……。ねえ、私、どうすればいいの?」
風前の灯火だった生気が消えると同時に、紬はその場に崩れ落ちた。
松葉杖は虚しく転がり、奏汰が彼女を抱きしめるようにして支えた。背負おうとしたが、衰弱しきった彼女の体は力なく滑り落ち、うまくいかない。
奏汰は結局、その場に座り込んで彼女の体を腕に抱え、横たわらせた。何度も彼女の名を呼んでみたが、返事はなかった。
紬はそのまま力尽きたように目を閉じ、身動き一つしなくなった。
やがて、紬の母と数人の看護師が屋上に駆け上がってきた。
紬の母が震える声で状況を尋ねると、奏汰はかすかに漏れる紬の吐息を呆然と聞きながら、静かに答えた。
「……また、眠ってしまいました」




