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夢の子  作者: 真好


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1

 授業中、つむぎは隣の席でうつ伏せに寝ている奏汰かなたの横顔を眺めていた。


 数学の教師は寝ている生徒に注意しようともしない。そのため、奏汰以外にも数人の生徒たちが机に突っ伏して眠りの中にいた。


 紬は奏汰を起こそうか迷ったが、結局はやめて、代わりに自分も頬杖をついた。奏汰は紬の方を向いて寝ていたので、その顔がよく見えた。おかげで、邪魔されることなく彼を間近で観察することができた。


 幼なじみとはいえ、面と向かってまじまじと顔を見る機会などそうそうない。


 紬はこの機に乗じて、彼の目鼻立ちをなぞるように、その姿をそっと目に焼き付けた。


 紬にしか聞こえないほどかすかな呼吸音が、奏汰の口元から漏れている。その音に耳を傾けているうちに、紬自身もだんだんと眠気に誘われた。


 彼女は奏汰と向き合うような格好でうつ伏せになり、そのまま意識を手放した。




 しばらくして、紬はまどろみの中で目を開けた。


 隣にいるはずの奏汰の姿がない。トイレにでも行ったのだろうか。


 紬はそのまま目を閉じて二度寝しようとしたが、不意に、何かがおかしいと直感して跳ね起きた。上半身を起こし、慌てて周囲を見回す。



 教室には、誰もいなかった。



 奏汰だけでなく、他の生徒も教師も、誰一人として見当たらない。


 広い教室に、紬だけが取り残されていた。急いで席を立つと、椅子が床を引く音が、静まり返った室内で不気味なほど大きく響き渡った。


 休み時間になったのかと思い、紬は壁の時計を確認した。眠りに落ちてから、まだ一分も経っていない。授業終了までは、あと五分ほど残っている。


 たとえ早めに授業が終わったとしても、納得がいかなかった。移動教室でもないのに、まるで蒸発でもしたかのように全員が消えてしまうなんて。


 それに、それほど深く眠り込んでいたわけでもないのに、三十人近い人間が教室を出ていく気配すら感じなかったのは、どう考えても異常だった。


 しかし、何よりも恐ろしいのは別のことだった。


「……静かすぎる」


 自分の声が、空虚に響いた。


 教室だけでなく、学校全体が静まり返っているのだ。


 紬は窓辺に駆け寄り、外を眺めた。運動場にも校庭にも、人影は一つもなかった。


 寝る前までは体育の授業を受ける生徒たちの声が届いていたはずなのに、今はまるで休日……いや、それ以上に空っぽだった。


 学校の外も同様だ。人、自転車、車、あるいは野良猫の一匹に至るまで、動くものは何一つ目に入らない。


 世界にミュートをかけたかのように、一切の騒音が消えていた。


 この町全体が丸ごと止まってしまったかのように、躍動感というものが塵一つ残らず消え失せている。非常識を通り越して、非現実的な光景だった。


 そのとき、教室の外から足音が聞こえ始めた。


 廊下を通って、だんだんとこちらへ近づいてくる。


 紬は恐怖に襲われた。後ずさりしてみるが、そんなものが無意味なことは分かっていた。怯えて動けずにいるうちに、足音の主が教室の入り口に姿を現した。


 奏汰だった。


 紬は緊張の糸を解き、大きくため息をついた。


「なんだ、奏汰かよ……」


「……紬?」


 奏汰は心底驚いたような顔で尋ねてきた。


「なんでここにいるの? もしかして、成功した?」


「は? 何言ってるのよ。それより、みんなは? 先生はどこに行ったの?」


 奏汰は答えず、考え込むように眉をひそめた。やがて、何かに気づいたように目を見開く。


「まさか、『本物』の紬なの? だとしたら一体……どうやってここに入ってきたんだ?」


「……はあ?」


 わけのわからない質問に、紬も同じように眉をひそめた。だが、奏汰が真剣に返答を待っているようだったので、一応答えてやることにした。


「どうやってって、最初から教室にいたじゃん」


「……」


「それよりみんなはどこなのよ。ねえ奏汰、一体どういうこと? 学校も町もおかしなくらい静かだし……私、夢でも見てるの?」


 しかし、奏汰は返事をしなかった。ただ口を呆けたように少し開け、紬をぼんやりと見つめている。焦れた紬は、声を張り上げた。


「奏汰ってば!」


 すると、奏汰は肩をびくっと震わせ、ようやく正気に戻ったように「あ、うん……」と口を開いた。そして紬を真っ直ぐに見つめ、頷いた。


「うん。ここ、夢の中だよ」


「冗談言わないで!」


 紬はついに怒り出した。


「私、マジでビビってるんだから! ちゃんと答えてよ、何がどうなってるの?」


「冗談じゃないよ」


 奏汰は、これ以上ないほど真剣なトーンで言った。


「ここは本当に夢の中なんだ。明晰夢ってやつ」


「……明晰夢?」


「そう、明晰夢。夢だって自覚しながら見る夢のこと。聞いたことない?」


「聞いたことはあるけど……」


 紬は目を細めた。


「見たことなんてない。そんなの作り話じゃないの?」


「いや、実在する現象だよ。金縛りに近いけど……金縛りは経験したことある?」


「……ない」


 紬は再び窓の外に視線を向けた。


 確かに、夢以外には説明のつかない非現実的な情景だった。だが、そう自覚したところで意識は驚くほどはっきりとしており、少しも夢見心地ではない。


「明晰夢か……」紬は呟いた。「本当に?」


「うん。本当だよ」


「じゃあ、ここから目覚めるにはどうすればいいの?」


「まずは、眠りに落ちた場所に戻って、現実の体と同じ姿勢をとるんだ。それからゆっくりと体の感覚を意識し直せば、そのうち自然に目が覚める」


「そうなんだ。……いまいちピンとこないけど」


「自分でやってみるのが一番早いと思うけど、どうする? もう戻るか?」


「うーん……」


 紬は少し悩んだ末、首を横に振った。


「いや、もう少しここにいたい」


 紬は自分の手を見つめ、何度か握ったり開いたりしてみた。最初は半信半疑だったが、意識して観察してみると、なるほど夢らしい違和感がしなくもない。


 体に力が入りにくく、五感のすべてに薄い膜が張ったような、どこか遠い感覚がある。


 奏汰のおかげで恐怖心はすっかり薄れていた。そうして徐々にこの非現実的な空間に慣れていく中、ふとある疑問が浮かんだ。


「じゃ、何? だとしたら、あんたは本物じゃなくて、私の想像が作り出した幻ってわけ?」


「違うよ。俺は本物の奏汰だ」


「えっ、それじゃどういうこと? 奏汰も今、同じ夢を見てるってこと?」


「うん」奏汰は頷いた。「俺はよく明晰夢を見るから、ここが夢の中だってことは確信できる」


「じゃあ、私たち、夢の中で出会ったってこと?」


「たぶん、そうだと思うけど……」


 奏汰は自信なさげな口調で答えると、肩をすくめた。


「俺にも何が起きているのか正確にはわからない。俺からすれば、そっちこそ俺の想像が作り上げた紬なんじゃないかと思えるんだけど」


「それは……」


 紬は即座に否定しようとしたが、思いとどまって考え込んだ。ふと、頭の中で悪戯な閃きが灯ったからだ。


 紬はにやけそうになる口元を引き締め、真剣な顔を作って言った。


「……うん。実はその通り。私、奏汰の想像が作り上げた紬だよ」


「えっ、やっぱり? そうか……やっぱりそうだったのか」


 奏汰の肩が目に見えてがっくりと落ちた。どこか拍子抜けしたような様子だ。


「まあ、そうだよな」奏汰は独り言のように言った。「夢を共有するなんてあり得ないよ。それこそ漫画や映画の中だけの話だ」


 半分冗談のつもりだった。だが、こうもあっさりと信じられてしまうと、かえって紬の方が戸惑ってしまう。


 今からでも訂正しようかと思ったが、彼の反応が面白かったので、もう少しだけ様子を見ることにした。


 奏汰は続けて言った。


「でも、やっと成功したんだな」


「何を?」


「紬を作ること」


「……え?」紬は不意を突かれ、面食らった。「それってつまり、今日だけじゃなくて、今まで何度も夢の中で私を作ろうとしたってこと?」


「うん。でも、いつも失敗してたんだ。いくら自由が利く夢の中でも、動く人間を具現化するのはすごく難しいんだよ。成功したのは今回が初めて」


「初めて……。じゃあ、これまでに何回くらい試したの?」


 奏汰は少し気まずそうな、恥ずかしそうな表情で答えた。


「数え切れないほど」


「……」


 どこか薄ら寒さを感じつつも、一方で、くすぐったいような悦びが紬の心を掠めた。


「とりあえず……」紬は言葉を選んで返した。「成功おめでとう」


「あ、うん。ありがとう」奏汰は後頭部を掻きながら苦笑した。「というか、何だこれ。結局自画自賛か」


「それで?」


 紬は意地悪な笑みを浮かべながら、さらに畳みかけた。


「夢の中で私を作って、私に何をさせようとしたの?」


 聞くまでもなく、年相応に不純な答えが返ってくるだろうと予想した。もし実際にそんな頼みをされたら、今回だけは承諾してあげてもいいとさえ思っていた。どうせ夢なのだし、目の前の彼こそが自分の作り出した幻影かもしれないのだから。


 だが、奏汰の答えは予想外のものだった。


「紬に告白する練習」


「……告白? 何の?」


「何って、もちろん『付き合ってくれ』っていう告白だよ」


「……」


 照れくさそうに足元を見つめながら、奏汰は言い訳をするように早口で説明した。


「いや、普通に話すだけならいいんだけど、告白となるとさ……。幼なじみだからこそ、余計にハードルが高いっていうか。そもそも、誰かに想いを伝えるなんて初めてだし……。だから、練習しておけば少しはマシになるかなと思って」


「……」


「聞いてる? まあ、どうでもいいか。どうせ独り言だしな。……それじゃ、これから練習させてもらうよ」


「……っ」


 奏汰が紬の目の前まで歩み寄り、正面から向き合った。


 四、五歩ほどの適切な距離。けれど今の状況では、その距離がやけに近く感じられた。


 心臓が、激しく鼓動し始める。


「紬」


 奏汰は言った。


「俺たち、小学生の頃からの幼馴染だから、こういうのは不快に思うかもしれないけど……。俺、高校生になってから紬のことを女の子として意識し始めて、二年生になってからは、もう、好きになってた。だからさ、紬。もしよかったら、俺と……」


 奏汰の顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。


「俺と……。あの、その、つまり、俺と……」


 とにかく、もどかしかった。奏汰が煮え切らない態度で口ごもっているうちに、呆然としていた紬もようやく余裕を取り戻した。


「だからさ、俺と……。俺と……っ。ああ、もう無理だ、言えない!」


 奏汰は結局、深くうなだれてしまった。そして、のけぞるように顔を仰向けて両手で覆い、長い溜息を吐く。


 こんなに緊張している奏汰を見るのは、紬も初めてのことだった。


「夢の中でさえ言えないのかよ。俺ってこんなに臆病だったのか。自分が嫌になるわ……」


「……」


「だめだ。やっぱり諦めた方がいい。そもそも無謀なんだよ。紬は俺のことをただの幼馴染としか思ってないだろうし、下手に告白なんかして、友達でさえいられなくなったら……」


 その言葉を遮るように、紬は彼の胸ぐらを掴んで引き寄せ、口づけをした。


 彼の姿があまりに情けなくて、衝動的になってしまった。自分でも驚き、すぐに唇を離して胸ぐらを放した。


 夢の中のはずなのに、顔が爆発しそうなほど熱くなる。


「奏汰」


 紬は言った。


「私、本物の紬だよ」


「……」


 返す言葉が見つからないのか、あるいは絶句しているのか。奏汰からは何の返事もない。紬は構わずに続けた。


「それでね。どう考えても、今私の目の前にいる奏汰こそが、私の妄想だと思うの」


「……」


「だから、もしあんたが本物の奏汰なら、目が覚めた後に証拠を見せて。ここで起きたことが妄想じゃなかったっていう、証拠。そうしたら、私も私が本物だったっていう証拠を見せてあげるから」


 奏汰はしばらく呆気に取られていたが、やがて紬を真っ直ぐに見つめ、力強く頷いた。


「……分かった。そうする」


 二人はそれぞれの席に戻って座った。そして眠りに落ちたときと同じように机に伏せ、目を閉じた。




 ゆっくりと目を開ける。


 見ると、奏汰もちょうど目を開けたところだった。


 二人はうつ伏せのまま、しばらくじっと見つめ合った。かつてない角度で向き合う奏汰の瞳は、これまでとは全く違う輝きを放っていた。


 紬はその宇宙のように深い瞳に惹き込まれながらも、不安でならなかった。眼差しだけでは確信が持てなかったのだ。どこかぼんやりとしていて、ただ寝ぼけているだけのように見えなくもない。


 結局、声をかけることもできないまま見つめ合っているうちに、授業終了のチャイムが鳴った。


 号令に合わせて礼を終え、教師が教室を去ると、奏汰が立ったままの姿勢で声をかけてきた。


「紬」


 終礼の直後で、教室はまだ静かなままだった。そのせいか、低く重みのある奏汰の声に、近くの席にいたクラスメイトたちの視線が一斉に集まった。


「俺と、付き合ってくれ」


 奏汰がそう口にすると、教室全体が一瞬、水に沈んだかのような静寂に包まれた。そして次の瞬間、浮力で水面に弾け飛ぶかのように「えええええ!?」という悲鳴が、一斉に沸き起こった。


 その猛烈な反応が収まるのを少し待ってから、紬は頷いた。


「うん」


 すると、教室は再び騒乱の渦に包まれた。


 紬は奏汰を見つめたまま、沈黙の中にいた。周りがあまりに騒がしすぎて、もはや何も聞こえない。


 奏汰以外、誰も目に入らなかった。


 奏汰も同じ気持ちなのだろうか。ただ強い眼差しで見つめ返している。


 紬にはさっきの夢よりも、今この瞬間の方が、ずっと夢心地だった。


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